屋敷の一番高い階層にある部屋の窓を大きく開き、外の景色を見渡す。
ただでさえ広い屋敷はその何倍もある巨大な敷地の中にあり、敷地の中には誰が手入れしているのか綺麗な庭やプロムナードがある。
そして広大な敷地を囲む塀の向こうには鬱蒼とした森林がどこまでも広がっていた。部屋の窓からでは深い森の果ては見えない。見たことはないがシュバルツバルトというのはこのような景色なのではないだろうか。
そんなことを考えるジークフリードの暁のような色の前髪を、窓から次々と入ってくる涼しい風がくるりと翻らせた。
風を受けて軽く細めた瞳にどこまでも広がる翠の森を映しながら彼は軽く腕を組み、考え込むように自身の顎のあたりを指で撫でた。
「ふーむ」
「……なにをしている、ジークフリード」
そんな彼の背中に投げられた声。
いつものように部屋にやってきたかと思えば、読書中の主人のことなど一切気にせず勝手に窓を開け放って部屋へ強風を誘い入れた使用人へ、ユーハバッハは呆れたような声音で問いかける。
柔らかくうねりのある彼の黒髪は吹き込む風に乱され、読んでいた本は少し指先を放した途端に何ページも前に戻ってしまった。
ジークフリードは窓辺に手をついたまま、ユーハバッハのほうへ振り返るとにんまりと笑った。
「そりゃあ決まってんだろ、この屋敷からの逃げ道を探してんだよ」
「屋敷の敷地を抜け、森を越えるしかないぞ。森は野犬が出るがな」
「そうだよなあ、んー、どーすっかなー」
果てしない森を眺めては窓辺に肘をつくジークフリード。
仮にもこの屋敷の主人とも呼ぶべき存在に対して脱走の意思を口にするあたりに性根と頭の甘さが感じられて仕方ない。そんなことを思いながらユーハバッハは本を閉じた。
「お前1人ならば抜け出せるだろう」
「……1人で抜け出しても意味ねえだろうが」
「ふ、メリダか」
「だから人の母親をファーストネームで呼ぶんじゃねえって!」
キッと眉を吊り上げてユーハバッハを睨むが、怖がるどころかむしろ面白がるような顔をされる。
どうにもこの子供はジークフリードが怒ったり気分を悪くして感情を昂らせるほど面白がるようなところがあるらしい。内心の苛立ちを無理やりに押さえつけ、ユーハバッハから顔を背けると再び窓の外の景色を眺める。
とはいえ、ユーハバッハの言葉の通りではあった。
ジークフリードとしては自分だけでなく母も共に連れて気味の悪い邪教の本拠地から故郷に帰りたい。
しかし悲しきかな、その母が邪教の信者となってしまっているのである。例え息子である彼が説得してここから連れ出そうとしても母親はそれを拒否するだろう。まずは母にかけられた洗脳をどうにかしたいのだが、今のところジークフリードに打つ手は無かった。
ここに連れてこられて数週間、ユーハバッハの付き人となったために機会は減っているもののジークフリードは何度か母と二人きりで顔を合わせている。しかし、彼女と向かい合い、言葉を交わす度にジークフリードはなにも言えなくなっていた。
母が酷く幸せそうだったからだ。
自分にとっては悍ましく、気味の悪い邪教の中であっても、脚を失くしたことに苦しんでいた母にとっては救いを与えてくれた幸福な場所なのだ。今はただその不理解の壁が哀しい。
落ち込み、沈みそうになる心を振り払うようにジークフリードは顔を上げた。そして窓の外の景色に焦点を当てた、その時だった。
それを見たのは。
遠く、上空を緩やかに飛ぶ翼の生えた白いナニカ。
骨のような仮面を被った白く悍ましい異形の化け物を見つけて、彼は咄嗟に息を呑む。
幼い頃から彼には見えていた、けれど他の人たちには見えない存在。それが恐ろしいものだと知っていた。
反射的に背後に意識が向く。自分より小さな子供の存在。
ジークフリードは素早く窓を閉めると鍵を掛ける。
あの化け物に、こちらが気がついていることに気がつかれてはならないと、素早く窓に背を向けてなにも見なかったことにする。
「なにかあったか?」
急に慌てた様子で窓を閉じたジークフリードの様子は誰から見てもおかしく見えただろう。
問いかけるユーハバッハの言葉に、彼は小さく息を吐くと首を横に振った。
「別に。風が強くなってきたから閉めただけだ」
「……そうか」
ジークフリードはなんでもない顔でユーハバッハのそばまで来ると荒れる気持ちを抑えるように、先ほどの風で乱れて目元にかかったユーハバッハの前髪を指の先で払ってやった。
そのほとんど無意識の行動に驚いたのは双方だった。
一瞬の沈黙。
大きく開いた瞳同士の見つめ合い。
「……!」
「ッ!うわっ!さわっちまった!」
目を丸くするユーハバッハと、触れた手を高く上げて猫のように飛び上がるジークフリード。
これまでジークフリードは常にユーハバッハから一定の距離を取り、まるで野生動物かのように警戒し続けていた。彼に触れるどころか、ほんの少し近づかれるだけで体を強張らせ、無意識に体重を背後にかけるほど。
それが、唐突に、こうも流れるように。
ユーハバッハはそれに驚くと共に、明確な苛立ちと、ジークフリードへの文句が生まれた。その端正な顔の眉間にぎゅっと皺を寄せて低い声で従者の名を呼ぶ。
「……ジークフリード」
「お、おお……」
「……さわっちまった、とはなんだ」
「え、あ、いや、だって、お前に按手されると母さんたちみたいに洗脳が移るだろ……」
「ほう、随分な物言いだ。人を細菌か何かだと思っているのか」
ズモモモ……と圧をかけ、不愉快を隠さないユーハバッハにジークフリードはたじろいた。
その気はなくとも、いじめっ子の「きったねー!こいつに触ると〇〇菌がつくぞー!」のような発言をしてしまったことに気がついて後ろめたくなったのだ。おろおろと視線を彷徨わせ、中途半端に上げた両手をふらつかせながら眉を下げる。
「……う、あ、いや、今のは、確かに俺が悪かった……い、言いすぎたよな……」
「ふん、そもそも私の力は洗脳などではないし、ましてやこの程度の接触で起こるものではない」
「そ、そうなのか……えと、ご、ごめんな……?」
それどころか、赤子の頃ならまだしも今のユーハバッハは己の力を完全にコントロールすることができている。突然触られた程度でいちいち相手に「与える」ことなどあり得ない。
むしろユーハバッハはなぜ自分がこんなにも苛立っているのかわからなかった。
ジークフリードの物言いに怒ったわけではない。
それを都合よく使っただけで、彼にぶつけた感情のほとんどは自分が感じている不可解な苛立ちに起因するものだった。
ジークフリードが自分から距離を置こうとすることが、なぜか無性に腹立たしかったのだ。
他人からどう思われようが、どう扱われようが、そこに介入する己の感情など今までは塵ほども無かったはずなのに。
怒気を滲ませた表情で黙り込むユーハバッハに、ジークフリードは困惑したようにオロオロとしていた。
彼は彼で、自分より小さな子供を本気で怒らせてしまうという人生でも経験したことのない事情を前に非常に戸惑っていた。まして悪いのは十割自分である。低く唸るような声を出すユーハバッハに、びくりと思わず肩が震える。
「ジークフリード、お前は私にふれようとしない」
「お、おお……いや、だって……」
「一度だって私の名を呼んだことはない」
「…………そ、れは……」
「ふれてみろ、私に」
ユーハバッハはジークフリードに向かって手を伸ばした。
幼く小さく柔い掌。差し出された手を見つめたまま、ジークフリードは立ちすくむ。ただ茫然としたようなその姿にユーハバッハは息を吐く。
「私が恐ろしいか」
「…………違う」
「……私が、悍ましいか」
「違う……!違うんだ……」
「ならば何故」
問いを重ねれば、青年は戸惑いながらも真っ直ぐに見つめ返す。
そして、震える喉で言葉を紡いだ。
「……お前を、あの人たちみたいな目で見たくない」
欲望に塗れて澱んだ目の群れ。
求めるばかりで与えようとしない大人たち。
伸ばされる数多の手の中心にいる、幼い子供の姿。
例えその子供がどれだけ大人びていようとも、例えどれほどの能力を持っていようとも、例え母を狂わせた張本人だとしても、自分より小さく幼いというだけでジークフリードにとって彼は護るべき存在に他ならなかった。
そう思える自分のままでいたかった。
ただそれだけのこと。
真っ直ぐな言葉に、ユーハバッハは少しだけ目を見開いて、それから一度ゆっくり瞼を閉じる。
はじめから、ずっとそうだった。
この屋敷に蔓延する異常に対して酷く怯えながら、その渦中にあるユーハバッハに対してはずっと慮るような心ばかりを向ける青年。
彼のことが、ずっとよくわからなくて、不思議で、不可思議だった。
それを与えたこともなければ奪ったこともないユーハバッハにはこれが一体何なのかわからなかった。
わからなかったけれど、それが自分の元から離れていくのはどうしてか、嫌だった。
だから、目の前の青年に向けて告げる。
「……お前はあの者たちのようにはならない」
「そう、なのか……?」
「ああ、私はお前へ嘘をつかない」
もう一度、手を伸ばす。
そうすれば同じように向こうから伸ばされる手。
あとほんの少しで触れ合うというタイミングで、一瞬の躊躇いを見せた彼の手。けれどその躊躇いさえ彼はすぐに踏破する。
ジークフリードの手がユーハバッハの手を握った。
温かい掌がシンと冷えた手を掴んで、握る。
ただ、それだけのこと。
ジークフリードの視線に気がついて、ユーハバッハは顔を上げる。彼は何かにぐっと耐えるような顔をしていた。そこにある感情の名をユーハバッハは知らない。
ジークフリードは荒くなる呼吸のまま息を吐いて、もう一度息を吸うと唇を震わせた。言葉を、音を生み出そうとしていながら、踏み留まろうともする相反する行動。
「……ユー、」
ユーハバッハの名を呼ぼうとして、しかしジークフリードはそれ以上の音を紡ぐことができなかった。ハクハクと音にならない声を出そうと喉を必死に動かし、けれどそれは叶わない。
その理由など、ユーハバッハにはわかりきったことだった。
彼の信仰心は、彼が思うよりずっと彼の心の奥深くに根付いたものだととうに知っていたから。
「『あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』、だったか」
目の前の人の名を呼ぶというただそれだけのことが、ジークフリードには月へ辿り着くほどに困難なものだった。
彼の名が神の名を冠すのならば、それは信仰者を縛る鎖になり得る。
信仰とは救済でありながら束縛だ。ほんの
「まるで呪いだな」
ユーハバッハは嗤って、彼の手を離した。
それはまるで、遠心力に引き裂かれる星々のように。
1200年前に細菌の概念はありませんが、「110年前にジャズは無い」理論で何卒……