「こいつと旅をしてた時の話なんだけど」
執務室のソファの背もたれに深く体重をかけたまま、ジークフリードは気怠げにそう口火を切った。
こいつと言いながらユーハバッハへ向けていた人差し指を天井へ向けて立てる。そしてその指の先を緩慢にくるくると回しつつ、視線を微かに天井の方へ向けて記憶を想起させながら話を紡いでいく。
「だからもう何十年も前の話だ、旅をしてる最中に滅却師の小さい集落に辿り着いたことがある。集落って言ってもそこはほとんど身内だけみてえな小さいものだったらしいがな。……らしいっていうのは、俺らが行った時にはもう数人を残して壊滅してたからだ」
ジークフリードのそのさして関心の無さそうな声音に、ザイドリッツはむしろ彼が感情を抑えるためにわざと平坦な声を出そうとしているのだと察する。
ザイドリッツは自らに残った右目でジークフリードを見つめた。寄せられた眉間の皺が何よりも雄弁だと知っている。
「虚に襲われてそこの滅却師のほとんどが殺された。まあ、よくある話だ。時間をかけてなんとか抵抗して、全員が死に切る前にようやく死神が来て、滅却師たちが弱らせた虚を倒した、と」
悲劇の話である。同時に帝国が成立する前の、分散する小さな徒党だった頃の滅却師たちにとってはよくある悲劇でもあった。その類の悲劇ならばザイドリッツの血筋の中にも存在している。
それだけであるのならば、わざわざザイドリッツへ語り聞かせてやるほどの話ではない。
「ボロボロになって虚から生き延びて、身内や隣人を亡くして悲しみに暮れる滅却師の前に、死神はこう言ったらしい」
ジークフリードはザイドリッツへ向けて顔を歪ませるように笑った。
「『虚を滅却しようとするとはなんと悍ましいことを!』だとよ」
「……遅れてきた割に、随分死神らしい物言いですな」
「虚に殺された滅却師は魂魄そのものが破壊されて、この世界における魂魄の循環の輪から外れる。死神なんざバランサーを名乗る連中だ、循環することのない滅却師の魂魄より虚の魂魄の方が大事なんだろ」
ジークフリードはつまらなそうにそう口にした。それからお手上げとばかりに両手を頭のそばで広げると言った。
「その話を聞いてから俺はあいつらが気に食わないね」
「死神はお嫌いですか」
「お嫌いってほどでもねえが、そんな話を聞かされて好きにはなれねえよ。つか俺も昔に整が虚に襲われてると思って助けてやったらそいつが死神で、そのあと虚を滅却したことに対してすげえ怒られたことあるもん。じゃあなんだよ、見殺しにすりゃあよかったってのかよ」
「見殺しにすればよかったのでは?」
「だからあの時私は助ける必要など無いと言ったのだ」
「あーあ、お前らはほんとに冷たい。夏になったらお前らの間に挟まって涼むことにするわ」
そう軽口を叩いたジークフリードはソファの背もたれに肘を引っ掛けながらもう一度「俺は死神が気に食わねえよ」と言った。それからこうも続けた。
「だが、戦争始めてまで奴らをぶち殺そうと思ったことはねえな」
ジークフリードの碧い瞳が真っ直ぐにユーハバッハを映す。
尸魂界侵攻という壮大な目的の根源にある理由を求めるその瞳にユーハバッハは臆す事も怯む事もなく答える。
「お前たちを前に隠匿する理由も無い。私情を語れば、私は死神が嫌いだ。半死半生の肉塊に寄生する蛆同然の存在であると唾棄さえしている」
「過激だな……」
躊躇いなく死神への嫌悪を口にしたユーハバッハへ、ジークフリードは微かな茶化しの意味も込めて呟いた。
ソファのそばに立つザイドリッツからの窘めるような視線に肩をすくめたジークフリードを瞳に映してユーハバッハは続ける。
「だが、己の好悪を理由に我が子らを死地に送り出すほど狂っている自覚もいない。そも、死神の殺戮はこの侵攻の真の目的ではないのだから」
「ではどのような理由を持って此度の侵攻を考えられたのですか」
ザイドリッツはそう問いかける。
彼は己の君主が考えの無い愚か者だとは思った事などなかったし、不必要な争いを好む人物でも無いと知っていた。
疑問を抱く三つの瞳に見つめられながら、ユーハバッハは静かに長年の失意と絶望へ思いを馳せる。
もしも何物も顧みることなく、他者から何もかもを奪い尽くす化け物として孤独に生きていくことを選んだのならば、この世界への失望がやってくることはなかったのだろう。そんな自分を許していたのならば、こうやって他者と言葉を交わす事も国を建てることもなかったはずだ。そして100万年続くこの絶望に抗おうとさえ思わなかったのだろう。
ユーハバッハはジークフリードの瞳を見つめて、お前さえいなければ、と思う。
お前さえいなければ、きっと化け物のままでいられたのに。
お前がこの冷たい手を取ったが故に、人になってしまった。
孤独と死を恐れる、ありふれた人へ。
「滅却師とはいずれ滅びゆく種族だ」
内心の熱を薄皮一枚の冷たさで隠しながら、ユーハバッハは低い声で言葉を紡ぐ。その言葉にジークフリードはほとんど反射的に口を開いた。
「そりゃ予言の話か?」
「現実の話だ」
返された言葉にジークフリードが身を硬くする。訝しげな顔のまま、話を聞こうと耳を傾ける姿を目に映したまま、彼は説明を始めた。
「今のこの世界は魂魄の循環によって生かされている。器子に魂魄を内包して命は生まれ、死によって魂魄は器子の形を写した霊子となって尸魂界へ渡り、やがてその霊子の形が朽ちた時、その霊子は三界へ霧散する。人体の中を巡る血液の如く、世界は魂魄を根源とした霊子が三界を循環することによって存続し続けているのだ」
血液が絶えず肉体を循環するように、魂魄から成る霊子は三界を巡る。
それによって世界は絶えず変化を続ける。
それによって世界は今の形を保ち続ける。
それが、現在の世界の在り方であり、生き方。
「だが、かつては違う。かつて世界が大きな一つだった頃、魂魄も霊子もその世界の中にあればそれでよかった。巡る必要どころか、巡る先さえ無い。世界はそのような形で完結し、完成していた」
「大きな一つ……?陛下、かつて世界は今とは別の形を持っていたとおっしゃるのですか?」
「その通りだ、ザイドリッツ」
肯定の言葉を口にしてユーハバッハは窓の外へ視線を向ける。
吹き抜ける風が木の葉を舞い上げて空高く飛んでゆく。時は流れ、変化し、絶えず万物は流転する。そんな世界の在り方を是とするには、横たわる現実に救いが無かった。
「かつての世界は三界に分たれてなどいなかった。ただ一つだけの世界、原初の海。そこには死と生の境界は無く、器子と霊子の境界も無い。その世界で人々はただ穏やかに在り続けたのだ」
「……じゃあ三界ってのはなんなんだ。なんで世界はそうなった?」
「それを語るには一人の男の話をせねばならない」
問えばユーハバッハから返ってきた答えに、ジークフリードははるか昔、彼から聞かされた話を思い出す。
ユーハバッハという存在はとある一人の男の持つ力の具現である、という話。
ジークフリードは眉間に皺を寄せたまま黙ってユーハバッハの言葉に耳を傾ける。
「原初、分たれる前の世界に一人の男がいた。その男はかつての世界において、虚を倒す力を持つ唯一の存在。その力こそが滅却師の持つ退魔の力だ。男はその力で人々を虚から守っていた」
ただし、とユーハバッハは続ける。
「私が知っているのはあくまでもその男に焼き付いた記録の残滓であり、私自身が知識として知っているものでは無い」
「……その男とは、陛下にとっての何者なのですか」
ザイドリッツの問いかけを前にユーハバッハは数拍、沈黙に身を委ねた。
あれが何で、自分にとって何なのか。
事実は確かに存在しながらも、そのどれもが正確ではないような気がした。湧き上がる感情は常に流動的でどの感情も口にした時にはもう異なるものへ変化しているような感覚だった。
「……その男に最早名は無い。烏滸がましくも神を名乗る死神共が祀り上げる伽藍の器であり、滅却師固有の退魔の力を持つ原初の人間。今や名を消され『霊王』とのみ呼ばれる者。……私にとって唯一、父と評することのできる存在があるとしたらそれこそがその者だ」
「……陛下にとっての父君にあたる方」
ユーハバッハは霊王が持っている『退魔の力』そのものの具現であり、権化である。
その事実が揺らがぬ以上、ユーハバッハを生み出したのは霊王であり、ユーハバッハの父とは霊王だといえる。
「ああ、我が父とも呼ぶべき霊王は滅却師の退魔の力を持ってして、三界に分かれる前の世界を守護していた。人々を虚から守り、世界の均衡を保ち続けていたのだ」
ユーハバッハは霊王から生まれた存在である。
しかし、彼らの間に人間の父子のような愛情はあり得なかった。
概念的な在り方でしか認識し合うことのなかった二者の間に肉体的な触れ合いなど無かったし、言葉を交わすことさえ無かった。
ユーハバッハは自身の在り方故に霊王を父と評せども、霊王がユーハバッハを子と認識しているかさえ危うい。まして今の霊王にそのような感情や意思のようなものがあるとは思えなかった。
ユーハバッハが霊王から与えられたものがあるとしたら、それはこの退魔の力であり、そしてその100万年にも渡る数奇な運命のみ。与えられた永きに渡る絶望へ思いを馳せては己の心を観測しようと試みる。
私は我が父を愛している?憎んでいる?……わからない。
愛も憎も、この身が霊王へ抱く感情を正しく表せているとは思えなかった。
内心の混沌は深く、けれどそれらさえ存在しないかのように、ユーハバッハは温度のない顔のまま、彼にとっての父の末路を淡々と語り続ける。
「しかし、その力を恐れた死神共の奸計によって霊王は討たれ、その身を封じられた。ひとつだった世界は三界に分たれる。そうして霊王は三界を保つための楔として、今もなお死神たちによって生きたまま殺され続けている」
「生きたまま、殺されている……?そりゃあどういう……」
「言葉の通りだ。死んではいない。だが、生きてもいない。今の霊王はただ辛うじて鼓動があるだけの肉塊に他ならぬ。歩く事も話す事もできず、ただ曖昧な意思を持ってそこに在るだけ。そこに最早人としての尊厳さえない」
ユーハバッハの紡ぎに、ジークフリードもザイドリッツも霊王の有り様を想像して言葉を失くす。
霊王と呼ばれる存在がこの世界を作り出した神であるかのように死神たちから信仰されていることは滅却師たちも知っている。
けれどその情報は朧げで、それでもきっと死神たちから信仰されているのだから、それはまるで王のように神のように丁重に扱われている、死神たちの始祖の末裔のような存在なのだろうと漠然と思っていたものだ。
けれど、異なる。
霊王は滅却師の力を持った原初の人間であり、はるか昔に死神によって陥れられ、生も死も無く長年この世界を保つための道具にされているのだ、と。
ユーハバッハの言葉が事実であるならば、死神たちは悍ましい手段を持ってして自らの手で神に造り上げたことになる。
ジークフリードは顔を歪めると、無意識に自身の口元を掌で覆った。
彼の隣で同じように顔を顰めたザイドリッツが唇を開く。
「……それはつまり、死神が祀り立てる霊王とは滅却師であった、ということですか」
「その表現は正しく、同時に誤ってもいる。霊王は確かに滅却師の力を持ってはいたが、それだけでは無く死神・人・完現術者の四つの力を持っていた」
とはいえ、仮に霊王が滅却師の力だけを持っていたとしても死神たちの恐れは変わらなかったのだろうとユーハバッハは思う。
「死神共はその中でも特に滅却師の力を、つまりは魂魄を消滅させる力を忌避した。その力が自身に向けられることを恐れたのだろう。世界を前進させるという名目で彼奴らは霊王を封じ、世界を現世・尸魂界・虚圏の三つへ分けた」
「……とんでもねえな。世界そのものを変えるとか、やることの規模がデカ過ぎる」
「恐怖は人を狂わせる。まして、自己の存在の消失ともなれば、な」
その点において当時の死神たちの心もわからなくはなかった。
滅却師が虚を滅却する理由もまたそれに近しいからだ。例えそれがこの世界のためにはならずとも、滅却師は虚と戦わなければならない。そうでなければ世界より先に自身の存在が消失するのだから。
「ここまでが過去に起こった事実の話だ。そしてここからが、これから先に起こる現実の話となる」
ユーハバッハはそう話を区切る。そしてジークフリードとザイドリッツを目を見てから、話を再開した。
「分たれた今の世界は生物の死を前提とした、魂魄と霊子の循環無くしては継続出来ぬ世界。バランサーを名乗る死神共はその循環が正しく行われることをのみを望んでいる。……だが、彼奴らにとってその世界の循環を阻む存在がある。それが何かわかるか、ジークフリード」
そう問い掛ければ、ジークフリードは楽しくなさそうな顔のまま片眉を上げて答える。
「……虚を滅却しちまう俺ら滅却師だろ?」
「その通りだ。知っての通り、滅却師は虚の魂魄を完全に消滅させる。だがそれは悪意によるものではない。悪戯に世界を破滅に導く気もない。ただ、自らの身を守るために致し方なくそうしているだけだ」
「それに世界のバランスを崩すほどのことなんて、虚圏から大量の虚を引き摺り出して滅却でもしなきゃそうそう起こり得ないだろう」
だが、とユーハバッハは続ける。
「そのような事情を死神が汲み取るはずもない」
そうでなければ冒頭にジークフリードが語ったように滅却師や死神たち自身の命よりも魂魄の循環を優先するような発言は出ないはずだ。
死神たちにとっては魂魄の循環は滅却師の命よりも重い。
どれだけ滅却師が細々と穏やかに生きていこうとしても、虚に狙われ、自己を守るために戦う限り、滅却師は死神たちにとっての、そして彼らが守る世界にとっての敵にしかならない。
「やがて死神共は気がつくだろう。魂魄の循環を遮るこの世界の膿など元から断って仕舞えば良いのだ、と」
この世界にとって滅却師は百害あって一利無し。
虚に殺されれば魂魄は消滅して循環せず、虚を殺せばその魂魄を消滅させる存在。
人が死ぬ限り発生し得る虚の存在を断つよりも、数が少ない滅却師という種族の根を絶やすほうが早いという考えに至るのも時間の問題だろう。
そう語るユーハバッハの声音はどこまでも冷静だ。その滔々とした語り口にジークフリードもザイドリッツもまた起きてもいない現実に対して、その通りなのかもしれないと納得してしまう感覚があった。
元より深く信頼を預けている相手から語られる想像可能な未来は現実味を帯びて彼らの鼓膜から脳へ忍び込む。
滅却師は滅びゆく種族。
ユーハバッハのその言葉の通り、いつか死神たちの手によって滅却師は滅ぼされるのかもしれない。
……ならば、その前に──。
「待て、ユーハバッハ」
傾きかけた思考を平行に戻すように、ジークフリードは口を開いた。軽く上げた右手を振って、ユーハバッハへ示す。
「……確かに納得はできる。だが、お前の話はまだ起こってもいないいずれの話だ。先制的自衛権の行使にしたってあまりにも仮定が過ぎる」
ユーハバッハの言葉と思想を肯定するには、ジークフリードの倫理観が優っていた。
可能性として考えられるが未だ起こってもいない仮定の話を理由に戦争を始めるのはあまりにも空想が過ぎる。そう口にするジークフリードに、ユーハバッハはそれさえ想定内だとばかりに薄く笑みを作る。
「いずれ、か。死神による滅却師の排斥が未だ起こっていないと、どうしてそう口にできる?」
「……なに?」
「お前が語ったばかりだろう、虚によって壊滅した滅却師の集落の話を。何故死神はもっと早くに虚を倒しに来なかった?何故滅却師の殆どが滅んでからようやくやってきた?あれらは虚退治を生業としている。被害が出る前にいくらでも迅速に対応できたはずだ」
死神は意図的に滅却師を見捨てたのだと暗に示すユーハバッハ。その言葉にジークフリードは一瞬不意を打たれたような顔をすると、眉を寄せて諌めるような言葉を口にする。
「……死神連中の事情なんざ知らねえよ。だがお前のその考えは少し……穿ち過ぎだ。奴ら憎さに無いものまで見ようとしているように見える」
そして不安と困惑を瞳に浮かべてジークフリードはユーハバッハを見つめた。
ジークフリードとて、ユーハバッハの気持ちも理解できる。何故滅却師たちを助けてくれなかったのか、どうして失意に寄り添ってくれなかったのかと死神に掴みかかれるのならそうしている。
だが仮定と感情だけで決断するには戦争というものはあまりにも重過ぎた。
折れる気は無いとばかりに互いを真っ直ぐに見つめたまま、唇を一文字にする二人。
張り詰めた空気の中、部屋に重苦しい沈黙が落ちる。
決して長くはないが短くもない時間の果てに、深く息をついたのはユーハバッハだった。
「誤解をするな、ジークフリード。言っただろう、私の感情の所在はともかく、それを理由に戦を引き起こすほど狂ってもいない、と」
「戦争を始めようとする奴が狂っていないことを証明できるかは諸説あると思うがな」
少しだけ肩を落としてジークフリードは咄嗟にそう返す。意地の悪い返しをした自覚はあったが、それが彼なりの手打ちであることがわからないほど彼らの過ごした時間は短くない。
ユーハバッハは鼻で笑うと、言葉を続けた。
「私は先にこうも言ったろう、死神の殺戮は侵攻の目的ではない、と」
その言葉にジークフリードは目を丸くしてから、ソファの上で座り直し、話を聞く態度を作り直す。それを見てからユーハバッハは唇を開いた。
「仮定、お前の言う通り死神が意図的に虚の対処に遅れたわけではないとしよう。そして我ら滅却師を害する気もない、と。それならば別の問題が発生する」
「別の問題?なんだそりゃ」
「単純な話だ、
死神は現世と尸魂界の魂魄のバランスを取ることで世界の天秤を等しくしている。
それは死神がその役目を引き受け、バランサーとして戦っているからだ。
「そもそも死神自体、死者の魂魄のうち特定の性質を持った者のみが成れる存在だ。意図的に増やせるものではない。そしてその一部の存在が明確に霊子の循環をしなければ世界は成立できない」
ユーハバッハは二人を見つめて問いかける。
「果たしてこれが世界の在り方として真っ当だと思えるか?」
その問いかけに、ジークフリードは答えられない。
今度こそユーハバッハの言う通りだ、と思ってしまった。言葉を詰まらせたまま、ユーハバッハを見つめる。
この世界は死神の活動によってのみ継続できている。
自然な心臓の鼓動によって生きているのではなく、常に心臓マッサージをしているから生きられているだけのようなものだ。
死神というバランサーによる心臓マッサージがなければ、この世界は容易く崩れ落ちる。
もしも死神がその役目を放棄すれば、あるいはなんらかの理由で役目を継続できなくなれば自動的に朽ち果てる世界。
一部の種族の働きに依存しなければ世界が崩壊するなど、まともなシステムとして成り立っていない。
「100万年前はそれでよかったのだろう。世界に満ちる霊子の総量も今ほどではなかった。世界はまだ手に届くほどに小さかった。……だが、今は違う。人間は増え栄え、世界は広がった。死神共がどれだけ戦えど、指の隙間は広がるばかり。虚はかつてより一層増えていくだろう。そうなれば滅却師も人間も死神も無傷ではいられない」
ユーハバッハはただ淡々と語るが、その声には引き込まれるものがあった。言葉が現実味を帯び、やがて現実として侵食していくような感覚。
「もはや今のこの世界は自己の在り方に耐えられぬ。故に変えねばならぬのだ、かつて死神共がそうしたようにこの世界の在り方そのものを」
「だが、どうやってだ?」
問いかけるジークフリードに、ユーハバッハは迷うことなく答える。
「霊王を三界の楔から解放する」
はっきりと告げられた言葉にジークフリードは一瞬息を飲んだ。
それから先ほど聞いた霊王の有様を思い返して疑問を重ねる。どこか躊躇うような声音でユーハバッハへ問いかけた。
「その霊王って人……まだ助けられるのか?」
「……否、最早あれは生者に戻ることはできぬ。生者に戻るには奪われたものが多過ぎる。故に殺してやる以外に救いは無い」
返ってきた答えは残酷なものだったけれど。
現在の霊王には四肢が無く、臓器もそのほとんどを奪われている。不可逆は当然であり、散逸した心臓を取り戻したとしても人として生き直すことは無いだろう。
「だが霊王を殺して三界の楔という今の義務から解放すれば、世界はようやく原初に戻る。かつて死神共がそうしたように我々の手で世界の在り方を変えるのだ」
「世界の、在り方……」
そこまで口にして、ユーハバッハはそれまでの無表情から一変してゆるりと口角を上げて笑う。
「──そう、死の無い世界へ、と」
その瞬間、ジークフリードは何かに気がついたようにビクリと肩を揺らした。それからユーハバッハの瞳をじっと見つめる。
彼が嘘をついているとは思わない。
事実今の世界は限界を迎えつつあり、世界そのものの在り方を変えなければならない段階まできているのだろう。
そこに嘘はない。事実だ。
だが、ユーハバッハの本当の望みは最後に口にした言葉なのではないだろうか。
死の無い世界。
原初の世界に戻すことで、世界は霊子の循環を失くし、三界の境界は絶え、死と生の境目が消えていく。
それこそが死の無い世界。誰からも奪わず、誰も奪われない世界。
それこそが、ユーハバッハが望むものなのではないだろうか。
そう思ってからジークフリードは微かに目を伏せる。
……知っている。
ユーハバッハが他者から命を簒奪しなければ生きられない自身の性質を嫌悪していることを。かつて自らの手で奪った命の感触を未だに忘れられずにいることを。
死の無い世界がどんなものなのか、ジークフリードには想像もつかない。それが世界にとって、人々にとって良いものなのか、悪いものなのかさえ。
けれど、その死の無い世界こそが少なくともユーハバッハにとっては救いなのかもしれない。
侵攻に対して思うことがないと言ったら嘘になる。戦うことに躊躇いも迷いもある。
それでも自分の唯一は揺らがない。
ジークフリードはゆっくりと肩を落とすと、冷たくなった指先を握り込んで、息を吸って騒つく心ごと腹の奥に沈める。
「ん、わかった」
一度俯き、それから顔を上げて不器用に唇を歪める。
「それがお前の願いならば」
詳細は後日、改めて場を設ける。
ユーハバッハが話をそこで区切れば、了承したジークフリードは立ち上がって部屋を出ていった。その振り返ることのない背中を見送る。
そうして閉じた扉から目を離せずにいれば、ザイドリッツが歩を進めて近づいてきた。
「……あまり納得はしていなさそうなお顔でしたが」
「だろうな。だが、ジークフリードとてこの場において感情が理屈に勝てないことがわからぬほど愚かでは無い」
ユーハバッハの言葉や理屈に納得できたからジークフリードはこの侵攻の計画を良しと受け入れた。少なくとも頭ではそうだ。
だが、内心では悲観や不安や躊躇が渦巻いていることだろう。人が思うより繊細で理性的で現実的な男だと知っていた。
根本のところでは屋敷で出会った頃と変わらないのだ。臆病を裏返した気の強さと、諍いを好まない敬虔な精神。人を殺める度に、何度その手を祈りの形に変えたかったことだろう。
「ジークフリードは理知的に人を殺せる割に、本質的に人を殺すことが嫌いな男だ」
「ですが共に戦場に立つにおいて、彼ほど頼りになる方もいません」
「皮肉なことだな」
それでも、とユーハバッハは思う。
この戦いの果てにそれもようやく終わりを迎えるのだ。
平和のためには戦わねばならない。
幾千幾万の戦場の果てにようやく平和は訪れるのだから。失われてきた数多の命に報いるためにも立ち止まりはしない。
世界を過去の姿に戻す。
世界を新しい姿に変える。
世界から死という概念を消す。
そうすればあらゆる戦いはようやく終わるのだ。
そうすればお前が誰かを殺すことも、誰かに祈ることもない世界がやってくる。
そして、翳ることのない星がとこしえに私の傍にあり続ける。
ユーハバッハはアンニュイに口角を上げると、己の補佐官と視線を合わせた。
「ザイドリッツ」
「はっ」
「……ジークフリードと話をしてやれ。あの男はお前を好ましく思っている。多少気も晴れるだろう」
「お言葉ですが陛下、この城にジークフリード殿が好ましく思っていない人間はいません」
「相変わらず誰にでも尾を振る男だ……」
呆れた声音にザイドリッツは小さく笑う。
「好ましい」と「気に食わない」は両立するものだ。己の君主が時折見せる素直な表情が彼は好きだった。
「ご心配なさらずともよいのです。現状諸手を上げての賛同はせずとも政策に理解は示してくれています。ジークフリード殿は政治思想として保守的なだけです。陛下のことを大切に思っておられる気持ちに変わりはありませんよ」
「……わかっている」
「ジークフリード殿とお話されてください。陛下は時折少しだけお言葉が足りないのです」
ザイドリッツの言葉にユーハバッハは珍しく鼻白んだ顔をした。
それから心外だとばかりに反論する。
「……そんな筈はない。ジークフリードにはよく「お前は一言多い」と文句を言われる」
「陛下、本当にお言葉ですが、「要らんことを言うな」と「大事なことはちゃんと言え」は両立するものです」
「…………」
ユーハバッハは呆気に取られて不意を打たれたかのように二の句が継げなくなる。
必要ならば、年齢や立場に関係なく誰にでも物を言えるというジークフリードによるザイドリッツ評に狂いはなかった。
「ジークフリード殿とお話されてください。何もこの話の続きをしろとは言っていません。普段のように他愛のない話でよいのです。気が晴れるのはお互いにでしょう」
「…………」
「陛下」
「…………む」
いいから仲良くしろ。
別に喧嘩をしたわけでもないのだが、まるで仲裁するかのようにザイドリッツは世話を焼いた。そんな彼の言葉を前にユーハバッハは居心地悪そうに頷く。
皇帝として扱われたのならばそのように振る舞える。
けれど、ただの人として進言されたのならば、その奥にある愛情から目を背くことはできなかった。