目先の欲に溺れたことを否定はしない。
それを選択すれば結果がどうなるのかわからないほどこの目は曇ってはいなかった。しかし結果として、選ぶべき最善よりも目の前の輝きを掴んだ。
己からしてみれば児戯にも等しい子供のささやかな殺意から己を護ったジークフリードを目に映した時、ユーハバッハの脳裏に過ったのは200年前の景色だった。瞬間、目の端が光る。
これまでの人生で育んできた正しさを捨てて、罪を選んでくれたあの姿。
ユーハバッハを犯す男を震えることも躊躇うこともなく番えた矢で射ったあの姿を、ほんの少し何かが違っていたのならば手を取る未来もあっただろう神父を射殺して己の下へ帰ってきたあの姿を思い出したのだ。
あの屋敷の中で、ずっと疑問を抱いていた。
いやもっと前からだ。今の自分が生まれる前。あの原初の海で涙を流したあの時から、ずっと。
どうして己は生まれたのか。
何故生きているのか。
何故いまだに生かされ続けるのか。
もしも答えがあるとしたら、それは200年前のあの朝焼けの中。
生かされるだけの価値が己にも在ったのだ、と初めて思えたあの時。
初めて己に付随する能力や意味や価値などではなく、ただの己であるということを良しとされた。
生きていていいと望まれた。
生きていてほしいと願われた。
これまで自身が歩んできた人生と呼べるものにおけるあらゆる苦痛も絶望も安寧も諦観も切望も、己の人生に内包される事象、事実、現実、記憶、感情、夢想そのすべてはあの日に正しく結実したのだ。
あの善良な人間でさえ失意に飲まれて人を殺したように、私の生存が誰かにとっての救いようのない絶望になるとしても。
私が生まれてきたことには、きっと意味があるのだろう。
そして、同じように同じものを同じだけ抱いた。
生きていていい、生きていて欲しい。
空を翔ける鳥も、夜空に浮かぶ星も、地上のことなど顧みない。それでいい。あるがままに自由に。
故に、今もまた己の視た最善から手を離す。
結果として、ユーハバッハはバザード・ブラックという小さな石ころひとつを見逃すことを良しとした。
少なくともそれは己にとっては路傍の石である。
己にとってどこまでも眩い星が、誰かにとっては路傍の石であるということを思考の奥深くで理解しながら、しかしその本質を根本的には理解し得ないまま、ユーハバッハは足元の石を靴の先で転がした。
「ユーグラム少年はまだ幼く、精神的に不安定であることが予想されます。聞くところによれば血縁者を亡くした後は友人1名と数年間生活を共にしていたとのこと。交友関係は非常に狭く、他者との交流そのものに慣れておりません。特に血縁外の大人との関わりが薄いことが懸念されます。それを除いても生活そのものが大きく様変わりすることによる精神的な負荷は容易に想像可能です。故に、これからの城での生活にあたって馴染み深い者……この場合においてはバスビーと名乗る少年が傍にいることが彼の負荷を緩和させ、またユーグラム少年自身を懐柔し得るものと考えます」
「……続けよ」
「はっ、またそのバスビーですが、ユーグラム少年を保護した旧ブラック家領地での言動を見るに我が帝国への反発心を抱いていることは明確です。しかしながら彼はユーグラム少年の不全の滅却師としての能力による力の譲渡を除いてもその年齢にしては滅却師として一定の能力を保持していると判断しています。現状のまま外へ放り出し、万が一にでも地下組織などに拾われでもしたら面倒ですし、そうなった場合ユーグラム少年にとっても良い影響を与えるとは思えません。それ故に……」
「……ジークフリード」
彼にしては珍しくボソボソと気乗りのしない声で語っていたかと思うと唐突に言い淀むジークフリード。静かに話を聞いていたユーハバッハが続きを促せば、ジークフリードは苦虫を口の中に詰め込まれたかのような顔で渋々口を開いた。
「……………………故に、バスビーを光の帝国騎士団に入団させることを提案いたします」
全くもって提案したくなさそうな顔をしながら、低い声で覇気無くそう呟くジークフリードに、ユーハバッハは片眉を上げ、傍で聞いていたザイドリッツは微かに肩を落とした。
執務室に落ちる沈黙に、ジークフリードは居心地の悪そうな顔をする。根が素直な男だ、心からではない言葉を口にすることへの忌避感もあるのだろう。嘘はついていないが、嘘をついているかのような心持ち。ましてそれを親友であり、君主でもあるユーハバッハの前で口にするなど、以ての外だったはずだ。
その心情を察しながら、ユーハバッハは微かに目を細めてジークフリードの顔を見つめる。
素直で善良故に、他者と交わした約束は裏切れない。にっちもさっちも行かなくなったから、致し方なく此処に来て心にも無いことをのたまった。ある種の甘えであろう。
「ジークフリード」
「……ああ」
気まずいからかそっと逸らされたジークフリードの目に不思議と面白さを覚えた。自分にしては珍しい感覚だとユーハバッハは自覚する。理解したうえで唇を開いた。
「私は以前にもお前へ告げたはずだ。あるがままにあれ、と」
「……それは、つまり……」
「許す。お前の提案を受け入れ、我が勅命としよう」
ユーハバッハはさしたる動揺もなくあっさりとジークフリードの提案を受け入れる。
その言葉にジークフリードはぽかんと口を開き、目を見開き、信じられないのを見たような顔をした。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、「お前……」と小さく呟く。呟いておきながら、ジークフリードはユーハバッハが嘘をつくような男ではないと知っていた。
つまるところ、本当に許されたのだ。
あれだけ暴れ回り、皇帝に殺意を向けようとしたバズビーが騎士団に入団することが。
「……その、本気か?」
「皇帝の衣を纏って此処にいる私が偽りを口にするとでも?」
「ああ、それもそうか……」
ジークフリードは皇帝の前故に脱いでいた白帽を手にしながら、確かにと納得したように頷く。それからユーハバッハの顔を見つめたまま、手に持っていた白帽を振り上げた。
「いや
そして、振り下ろす勢いで帽子をスパァン!と床に叩きつけて喚いた。
急に出された大声にユーハバッハもザイドリッツも内心で少しびっくりする。ジークフリードは腹から声を出した時の声量がデカい質だった。
一度吐き出した大声のまま、ジークフリードは続けた。
「とっっっめっっっろーーーッ!俺を!!!止めろ!!!許すな!!!なぁぁにが提案だ!!!どう見ても世迷言を言ってるだろうが今の俺は!!!バカの提案を許すな!!!止めろ!!!阻止しろ!!!あの何処の馬の骨ともわからんクソガキを今すぐにでも追い出す勅命を出せ!!!何考えてんだアホかお前は!!!」
「……陛下、今の発言は流石に……」
「そうだな、私は気にしないが互いに立場を持つ身である。ジークフリード、以降はその場で正座をして発言しろ」
「了解!!!」
一応の罰則扱いとして床に正座するように言われたジークフリードは素直にその場で膝を折る。二人きりならば友人同士の戯れで済ませられるが、ザイドリッツという部下がいる手前、ライン越えの発言をした自覚はあった。処罰も甘んじて受け入れる。
執務机に隠れてユーハバッハからは顔の半分から上しか見えなくなったジークフリードが、しかし変わらない声量で言った。
「前言を撤回しろ、ユーハバッハ!あのガキは騎士団を舐めてるし、お前に敵意を向けた奴だぞ!確かにクソ弱いし俺でも指先一つで殺せるが、不要な不穏分子をわざわざ身の内へ招く必要はねえだろうが!」
「……しかし、ジークフリード殿。そもそもあの子供を騎士団へ入れる提案をされたのは貴方では?」
「……え、あ、いや、まあ、それは、そうなんだが……うんん、あの、そのあたりはちょっと俺にも事情があってだな……」
ユーハバッハへそこまで進言するのならば、そもそもバズビーを騎士団へ入れる提案そのものをしなければよかったはずだと言うのに。
そんなそもそもの話をザイドリッツから切り出されて、ジークフリードは図星を突かれたような顔をしては狼狽える。
それを見たユーハバッハは何もかもを理解したような顔と声音で言った。
「ジークフリード、お前のことだ。大方あの子供の挑発に乗ったか乗らされたかしたのだろう。騎士団に入れてくれとせがむ子供に、……そうだな、お前のことだから「俺に勝ったら話を通してやる」とでも言ったのだろう」
「ウグッ!」
「ハンデとして勝負のルールを子供に決めさせたところ、運が絡むような勝負事……あるいは博打かなにかで勝負する羽目になり、結果完膚なきまでに負かされたといったところか」
「ぐうっ……!」
「思えばお前は救いようがないほどに賭け事に弱かったな。何度旅の飲み屋で素寒貧にされたお前の端金を取り戻してやったことか」
「その節はありがとうございました……ッ!うう……ザイドリッツ、俺のこんな恥ずかしい話なぞ聞かないでくれ……」
「……お言葉ですが、賭け事に弱くて巻き上げられている貴方は割と想像がつきます」
「え?」
ジークフリードはしゅんとした。
それから切り戻すように首を横に振ると「とはいえだ!」と話を再開する。
「あくまでも俺があのガキと約束したのはお前に話を通すということだけだ。提案であって、意思決定じゃない。俺はお前がこの提案を拒否すると信じてたから話したんだぞ」
ジークフリードが何を語ろうとも、ユーハバッハが拒否すればそれで丸く終わるはずの話でもあった。というより、むしろジークフリードはそうなることを望んでいた。
皇帝の命は何よりも優先されるものであり、バズビーとて戻ってきたジークフリードが「陛下に進言したが、お許しが出なかった」と言えばそれ以上何もできないはずだからだ。
何を考えているのだとばかりにムッとした顔でそう口にするジークフリードに、ユーハバッハは深く背凭れに腰を掛けては自己の思考を言語化する。
「ジークフリード、私には人の心がわからない」
「…………なんだ、急に。思春期か?」
「ジークフリード殿」
ザイドリッツの呆れ混じりの諌めるような視線に、軽口を叩いたジークフリードは肩を竦めた。それにさしたる関心を抱くこともなくユーハバッハは続けた。
「お前が口にしたハッシュヴァルトの精神状態もその負荷も、私には思慮はできても理解はできない。ましてそれを理由に恩を売り、両者への懐柔の手段にしようとは、人の心の分かるお前らしいことだ」
「……なんか俺が卑怯な手を使ったみたいな言い方……」
「私の言葉から言葉以上のものを見いだそうとするのはやめろ。お前を罵倒する時はお前の頭に合わせてもっとわかりやすく言う」
「今の発言がもう俺に対する罵倒だろ」
ジークフリードの提案や言葉を貶すつもりはないと否定をしたつもりだったが、一層嫌そうな顔をされる。難しいものだと小首を傾げれば、呆れた声音で「お前はそういうやつだよ……」と肩を落とされた。それを瞳に映しながら、ユーハバッハは話を戻す。
「しかし、他者との交流や生活の変化によるハッシュヴァルトの精神的負荷、か……。そこまでの考慮が必要なものか?いずれ慣れよう」
「……お前のいずれっていつだ?10年後?100年後?」
「5日もすれば慣れるだろう。先行事例がある。お前がそうだったからな」
「あ?」
ユーハバッハが当然のようにそう口にすれば、ジークフリードは動きを止め、何の話だとばかりに眉間に皺を寄せる。
そしてそう長くない思考の果てに、彼は何かに気がついたように「……あ」と溢して目を丸くした。それから顔を手を当て、肩を落として溜息をつく。
「……あの屋敷での話かよ……」
200年前、2人が出会った屋敷での話。
ほとんど無理やり屋敷に連れてこられたジークフリードが、けれど1週間もしないうちにそれなりに適応していた姿をユーハバッハは見ている。
ユーハバッハにとって、人類の基準は良くも悪くもジークフリードだった。
その基準である人間はかつて見知らぬ屋敷に放り込まれても5日ほどでそこそこ適応した。単純な場所慣れならもっと早かっただろうし、なんなら二日目の夜には与えられた個室の硬いベッドで熟睡することができていただろう。
基準がそうならばそれ以外の人間もそうだろうと考えるのは、特段可笑しな思考回路というほどでもなかった。
そういうこともあって自分の正しさを疑わない顔で座るユーハバッハに、ジークフリードは頭を抱えた。言いたいことがあり過ぎる。
彼は口を開こうとして、しかし、その前にザイドリッツへ視線を向けた。
今のやりとりの意味を彼は理解していないだろう。当然だ、ユーハバッハとジークフリードの出会いの話など彼は知らないのだから。こちらの事情を知らない彼の前で、彼を蚊帳の外に放り出すような昔話をすることにジークフリードは抵抗があった。
とはいえ、そんな伺うようなジークフリードの瞳に察するものがあったのか、ザイドリッツは苦笑したような表情で「お構いなく」と言った。その言葉に甘えて、ジークフリードは唇を開く。
「ああ、確かに俺は数日であの屋敷に慣れたかもしれねえ。けどな、ユーグラムと俺とじゃ事情が違うだろうが」
「……事情」
「そもそもあそこに俺を連れてきたのはか……母親だったんだぞ。その母親も同じ屋敷に住んでたし、会いに行くことを許されてた。身内もいたんだ、それだけで事情が違う」
「ふむ、血縁者の存在か」
「それに歳が近……くはねえが一緒に遊ぶような子供もいたし、屋敷を管理してた人も別に悪い人じゃなかった」
「…………お前はブルクハルトを善人と判断しているのか?」
「善人とは思ってねえよ!全部が全部悪い人だったって言えないだけで……。言っとくけど、だからってあの人がお前にやったことを許してるわけじゃねえからな」
ジークフリードにとってブルクハルトは、諸手を挙げて好意を示すことはできないが、心の底から嫌悪することもできないという色々な意味で複雑な感情を抱く相手だった。それは200年経った今でもなお変わらない。
閑話休題。
「とにかくだな!俺の時と違ってユーグラムは頼りにする当てがねえんだ。多少事情を考慮する必要はあるだろう。それに見た感じ性格的にも気が小さそうなところにあるからな……警戒心があるといえばそうなんだが……」
「その点、お前は恐怖心と猜疑心が裏返って誰に対しても強気だったからな。屋敷の大人が皆、お前を尾を股に挟みながら精一杯吠える仔犬を見るような目で見ていた」
「……マジ?200年越しに知ったんだけどそれ」
当時、屋敷の人間には誰にでも警戒を向けてばかりいて、相手からどう見られていたのかなど考える余裕もなかった。もう顔もほとんど覚えていないが、他でもない自分がこの手で殺した人たちのことを思い返そうとして視線を落とす。そんなジークフリードの思考を、ユーハバッハの声が遮った。
「つまりお前の言葉を参考にするのならば、血縁者と年齢の近い友人と信の置ける第三者が必要、というわけだ」
「ん……?まあそういうことになる……のか?」
それならば容易いとユーハバッハは判断する。
欠けたピースに適切なものを埋めていく作業に等しい。
「年齢の近い友人はお前が推薦したその子供でいいだろう。取り換える理由もない」
「まあ、そうだな」
否定する理由もなくジークフリードが頷くのを見て、ユーハバッハは続ける。
「血縁者……父は滅却師の祖、すべての滅却師の父たる私だな」
「うわっ、かわいそう」
「……どういう意味だ」
「いや俺も父親ってものを知らねえが、お前に父親面されるのって、どのツラ下げて言ってんだみたいなところがあるよ。な?ザイドリッツも嫌だよな?」
「いえ、陛下が己の父ならば嬉しく思いますとも」
「……あれか?実父とうまくやれてなかったのか?」
「そんな事はありませんが……」
ユーハバッハが父親というのは個人的にはとても嫌だ。
ハッシュヴァルトを憐れむ気持ちはあったが、だからといって適切な代案を出せるわけでもなくジークフリードは黙り込む。
ユーハバッハの代わりにハッシュヴァルトの父親役をやってください、と他人にお願いするのは違うというか、頼まれた側が可哀想過ぎるというのもあった。
何も言えなくなるジークフリードに、その沈黙を勝手に肯定と受け取ったユーハバッハはさらに話を続ける。
「そして、信の置ける第三者だが……これはジークフリード、お前でいいだろう」
「雑」
「お前ほど他者に関心を抱き、息を吸うように関わりを持てる者もそういまいよ」
「……その言葉は褒め言葉として受け取っておくが……お前、俺がユーグラムの友人を十分の九くらい殺しかけたの忘れたのか?ユーグラムにとっちゃあ俺は友達の仇みたいなもんだぞ。……いや、殺してはないんだが」
ろくに言葉を交わしてはいないが、恐らくユーグラムからジークフリードへの印象はゼロどころかマイナスを振り切っているだろう。そんな者が信の置ける第三者など、笑わせる。
「俺への敵意はあれど、永久に気を許すことはないだろうよ。自分の友達を傷つけた相手なんか…………いや待て、今の俺ってなんかブルクハルトさんみたいな立ち位置になってねえか?……え?嘘だろ、まってくれ、つらい」
自身が幼い少年たちにとっての強大な敵になりつつあることを自覚して、ショックのあまり正座したまま崩れ落ちるジークフリード。
精神的なダメージを受けて彼が何も言葉を発せなくなったのを良いことに、ユーハバッハは「話は纏ったな」と話題にピリオドを打った。
その景色を見ていたザイドリッツも流石に今ここにはいないハッシュヴァルトへ同情する。
国のツートップが色々気を回してくれているという見ようによっては贅沢な図ではあるのだが──実際ヒューベルトがこのやり取りを見ていたら、嫉妬のあまりそれはもう全力で歯噛みしたことだろう──、その結果がうまくいっているようには見えないし、うまくいくようにも思えなかった。
善意ではあるのだ。空回ってはいるが、恐らく。
ザイドリッツは内心で苦笑すると、親衛隊の中でも穏やかな質であるアルゴラへ話を通して、幼い少年へ気にかけてもらうことを決めた。
そんなザイドリッツの内心を知るわけもなく、ジークフリードは疲労に満ちた声を出した。
「…………まあ、なんだ、ユーグラムについてはとにかく、本題のバズビーの件については承知した。だが、スケジュール通りに通常の入団試験は受けさせるぞ。これ以上の特別扱いはしない。適切な足切りも突破できないようなら騎士になる資格はねえ。それにもしこの国やお前の邪魔になるようなら即座に首と胴をお別れさせる」
「ああ、お前に一任しよう」
復活したジークフリードは疲れた顔をしながらも立ち上がり、制服についた塵を払う。
話に区切りのついたところで彼はザイドリッツへ視線を向けると、普段通りの気安い笑みを浮かべた。
「申し訳ねえな、居心地最悪だったろ、ジジイ共のわけわからん昔話に付き合わされてよ」
「いえ、お二人は仲が良いんだなと再確認しました。私には喜ばしいことです」
「……ったく、本当にお前は懐が広いな。そういうところが好きだよ。よし、頬にキスしていいか?俺は唇にでもいいんだが」
「……ザイドリッツ、いくらか殴って構わん」
「いえ、そのようなことは……」
「いだっ!……えっ?尊敬するジークフリード殿にそんな事できない……みたいな顔をしながら今普通に殴った?」
ザイドリッツがハグをしようとしてくるジークフリードの頬に一発入れたところで、執務室の扉がか弱くノックされる。
その後、厚い扉越しに些細な物音一つで聞こえなくなりそうなくらい小さな「へ、陛下……失礼します……」という少年の声が三人の耳に届いた。
それを聞いたジークフリードは手に持っていた白帽をきっちりと被り直しながら「そろそろ退散するか」と呟いた。
ユーハバッハが入室の許可を出せば、数拍の間をおいてから重い扉が細く開く。
それからおっかなびっくりという様子でそこから顔を覗かせたのがハッシュヴァルトだった。
この城に連れてこられたばかりの彼にとって、城の中を一歩進むことさえとてつもないほど緊張のかかることだ。
孤児が皇帝に召し上げられるシンデレラストーリー。とても現実とは思えない展開の数々。夢心地とはいうが、ハッシュヴァルトにとってはどちらかというと悪夢に近いものがあった。
そんな彼が勇気を振り絞り、怯えながらも足を前へ出して部屋の中に入った、その時。
「ひっ……!」
退室しようと扉へ向かっていたジークフリードと鉢合わせたハッシュヴァルトは、かち合った碧い瞳に思わずか細い悲鳴を上げた。
己の目の前に立つジークフリードの姿を前に、ハッシュヴァルトは凍りつく。
ユーハバッハやザイドリッツと比較すれば小柄なジークフリードではあるが、まだ幼いハッシュヴァルトにとっては見上げるほどの背丈であることに変わりはない。
蛇に睨まれた蛙の如く、足は震え舌は縺れ、その場に動けなくなるばかり。
少年からしてみればジークフリードは、理由はあれど友人を一瞬で殺しかけた相手である。普段の彼の温厚さを知るはずもないが故に目の前の男はどこまでも恐怖の対象だ。
まして、その気になれば容易く死を齎せる相手の間合いに自分がいるということは、本能的な恐怖を感じさせることに他ならなかった。
自分を見つめて青白い顔をするハッシュヴァルトに、ジークフリードはふっと目を伏せて視線を切る。それからすぐに少年の横を通り抜けていく。
突然の動きに、ハッシュヴァルトはビクリと肩を震わせて咄嗟に身を守るように両腕を胸の高さまで上げた。もちろん、彼が害されることはなかったが。
傍を通っているのにほとんど聞こえない足音、背後の扉が開き、すぐに閉じる音。それから、無音。
ジークフリードは何も言わずにこの部屋を出ていった。
それは怯える子供の前から早めに退散してやろうという彼なりの優しさであったが、ハッシュヴァルトからしてみれば路傍の石のように関心もなく立ち去られたようなものだ。彼の為人を知っているユーハバッハとザイドリッツだからこそ察せるその配慮を、碌に言葉をかわしたこともないハッシュヴァルトが感じることは不可能だった。
まだ抜けられない緊張と硬直に身を支配されたまま、ハッシュヴァルトは凍りついた喉のまま息の仕方を思い出そうとする。
「ハッシュヴァルト」
「わっ……!あ、はっ、はい、陛下……!」
そんな様子の彼をユーハバッハが呼べば、少年は驚きながらもすぐに顔を上げ、その声にむしろ安堵したかのような表情を見せた。返事をしたハッシュヴァルトは、ユーハバッハへ視線を向けるとゆっくりと肩を落とし、無意識に止めていた息の仕方を思い出す。
その姿を視界に入れたユーハバッハは一瞬、虚を突かれた。
……飴と鞭において、自分が飴になることは滅多にない。そうユーハバッハは自覚していたからだ。
例えそれがジークフリードに感じている恐怖心の裏返しから来るものだとしても。
基本的に超越者であり、恐らく定義によっては人類とは異なるカテゴライズとなるユーハバッハを前に、人間が人間に抱くような親しみを覚える者はそういない。牙を向けるか、拝するか。大抵はそのどちらが眼前に現れる。
それ故に、微かな困惑が彼の心のごく片隅に生まれる。
確かにジークフリードとの会話の中で父親役をするかのような物言いをしたが、その実、ユーハバッハとて正しい父親としての振る舞いなど知らない。
彼にとっての父とはそういう類の存在ではなかったし、代わりになぞれるサンプルもなかった。
今になって己の選択に疑問が生じる。
何故理解できないはずのものに己の役割を当てはめようとしたのか?
けれど、自問に自答は返らない。
当然だ、この少年を前に己が抱く感情がどのようなものなのかさえ、まだ掌握しきれないのだから。