バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

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cities of refuge

 

執務室にて、小刀の刃が窓から差し込む陽光を受けて反射した。

刃が傾いた瞬間の、瞬きにも似た鉛の光。小刀を手に持った背の高い男は静寂を纏ったまま、ユーハバッハの背後に立つ。

そして何の躊躇いも持たぬまま、その刃を皇帝の首筋へと近づける。

 

そうして男は──ザイドリッツはユーハバッハの黒髪を切り落とした。

 

「すげえ」

 

気の抜けた声がザイドリッツへ向けられる。そっと指先で掬い上げた黒髪に視線を向けながら、彼はその感嘆の声を受け止める。

 

「大したことではありませんよ」

「いや、人の髪を切れるのは大したことだろう」

 

丁寧に、丁重にザイドリッツはユーハバッハの僅かに伸びた髪を整えるように少しずつ小刀で切り落としていく。

ケープのように布を首周りに巻かれたユーハバッハは椅子に腰かけたまま、身動ぎすることもない。そこに緊張や警戒の色はなく、ただザイドリッツへ身を任せるようにしていた。

 

 

人類の枠組みの中から逸脱していないとは言えずとも、少なくともユーハバッハは生物ではある。不死ではなく、不変でもない。

食事や睡眠の不足が人間ほど致命的なものにはならずとも、全く必要が無いわけではない。生きていれば爪も髪も伸びる。腹も減り、喉も乾く。休まなければ疲労する。

 

ユーハバッハにとって成長や老化はすなわち他者の命の捕食を意味している。

 

帝国の民は言ってしまえばユーハバッハにとっての餌だ。死ねばその魂はユーハバッハの元へ還り、彼の贄となる。意図的に奪うことが無いが、何もせずとも人は死ぬ。そうやって緩やかに彼らの命を糧にするが故に、ユーハバッハは長い時間をかけて老いていく。人よりも格段に遅いスピードで彼の髪も伸びる。

そうして気がつけば国を興した時よりも髪は伸びていたのだ。俯けば視界に入る黒髪が少しだけ煩わしく、それが今、彼が大人しくザイドリッツに身を任せている理由だった。

 

「ジークフリード殿が陛下へ剣を向けていた時は何かと思いました」

 

数刻前、皇帝の執務室へやってきたザイドリッツが見たのは、ユーハバッハの髪を掴みながら長剣を彼へ向けるジークフリードの姿だった。

 

何も知らぬ者が見ればどう見ても謀反の光景だったが、長年の付き合いで彼がそんなことをするわけもないと知っていたザイドリッツは、彼らの新しい遊びだろうかと思いながらジークフリードの頬を叩いた。

 

「いや髪を切ってやろうとしてたんだよ」

「傍から見れば首を刎ねようとしているようにしか見えませんでしたが」

「ああ、まったくもって野蛮な男だ」

「ジークフリード殿の行いをよしとした陛下のご判断も如何なものかと思いますが」

「喧嘩両成敗ってやつだな。ぶたれたのは俺だけだったけど」

「はい、咄嗟に手が出ましたな」

 

伸びた髪を切ってやろうとして長剣を持ち出すジークフリードもジークフリードだが、それをまあいいかと許してしまうユーハバッハもユーハバッハだった。彼らは変なところで雑だった。

 

「陛下ともあろう者が雑なざんばら頭では騎士たちに示しがつきません。反省なさってください」

「だとよ、ユーハバッハ」

「お前のことだ、ジークフリード」

「私はお二人に言っています」

「しかしな、こんなアホとはいえ仮にも皇帝陛下だ。城下の床屋に連れていく訳にも行かないだろうが」

「そのお気持ちはわかりますが……」

「…………」

 

……ザイドリッツ、今アホの部分を否定しなかったな。

ユーハバッハは内心でそう思った。とはいえ、ザイドリッツの前ではそこそこにやらかしているので、ジークフリードとまとめてアホ共だと思われていても何も言えないところはある。

思うところがありながらも無言を貫くユーハバッハの髪を切るザイドリッツに、ジークフリードが息をついた。

 

「しかし、うちには優秀な参謀長がいることを忘れてたな」

「……はい?」

 

ジークフリードの言葉にザイドリッツは小さく呟く。顔を上げれば、ソファに雑然と座ったままのジークフリードが笑う。それからそばにいるユーハバッハが言葉を紡いだ。

 

「ジークフリードが碌に使い物にならないと判断できた時点で、頼るべきはザイドリッツ、お前だったという話だ」

「いらん物言いが気になるが、まあそういう事だな。ユーハバッハ、お前これからは一生ザイドリッツに髪切ってもらえよ」

 

その言葉に、ザイドリッツの手が止まり、微かに震える。

軽やかな会話だった。どうあれ刃物を持って尊き人の背後に立ちながら、それを許されている己の姿にザイドリッツは不思議な心地を感じていた。少なくとも信用されている。信じるに値すると思って貰えている。それが今、彼の口元が微かに緩んでいる理由。

 

「……ええ、いつでもこのヨハン・ザイドリッツはお二人のお力になりましょう」

 

そう言って微笑むザイドリッツをジークフリードは穏やかに見つめた。

 

「このくらいの長さでいかがですか、陛下」

「どうだ、ジークフリード」

「なんで俺に聞くんだよ、大丈夫だよ、お前なんでも似合うんだから」

「……ふっ」

(嬉しそうで何よりです、陛下……)

 

 

 

 

 

 

「どうよ、師匠」

「似合わね〜。あとお前、俺のことを外で師匠とか呼ぶのやめろよ。ヒューベルトに聞かれたら絶縁される」

「絶たれるほどの縁あんの?」

 

城の廊下で新品の制服を着たバザードがジークフリードの前で胸を張る。それを揶揄いながらもどうにも内心に生まれる微笑ましさを否定できなかった。

 

二人がまともに顔を付き合わせるのは数ヶ月振りとなる。

新兵であるバザードは詰め込まれた訓練故にまともな自由時間などほとんど無かったし、来る者を拒まない質であるとはいえジークフリードもまた騎士団の中では上から数えた方が早い立場にいる者だ。たかが新兵と皇帝直属の親衛隊隊長など普通ならば気安く話せる間柄ではない。

 

それを知っているが故に数少ない自分の時間の中、バザードは古い宿舎内を歩いているジークフリードを見かけて、その背中を追いかけたのだった。

 

「慣れたか?」

「……まあまあ」

「そのうち慣れるさ。ま、人付き合いはちゃんとやれよ。ここは組織だからな」

「あんた、実力主義とか言ってなかったかよ」

「実力を生かすための組織だよ。円滑な人間関係ってのはあって悪いものじゃない」

 

ジークフリードの言葉にバザードは無言を返す。よくわからないといった顔にジークフリードは苦笑する。

 

「お前より強い奴なんかごろごろいる。もちろん俺より強い奴もな。そういう時は誰かに助けてもらわなきゃ困るだろ」

「それって弱い奴の考えだろ。そんなんで強くなれるかよ」

「言うねえ」

 

思わず笑えば、不満げな顔を向けられる。子供らしい気の強さだ。嫌いではない。

 

「本当に強い奴は他人のことまで目が向くもんだよ」

「はあ?」

「まあなに、お前が困った時には俺が助けてやるよ。だから俺が困ったら助けてくれ」

「いやだ」

「ンだと、このクソガキがよォ」

 

ワッシャワッシャと髪の毛を揉みくちゃにしては嫌がられていたその時、ジークフリードは背後の曲がり角の奥から聞こえてくる足音に動きをぴたりと止めた。

 

「……ハッ!」

「な、なんだよ急に止まって……」

「この足音……ヒューベルトのものだ……!」

「アンタ足音だけでわかんの?キモ……」

「お前といるところを見られると面倒だな」

 

ジークフリードはそばにあった部屋の扉を素早く開くとそこにバザードを突き飛ばすように押し込めた。

 

「ってぇ!なにすんだ!」

「そこで静かにしてろ」

「なんだよ!クソ!あの傲慢ちきに嫌われろォ!」

「嫌われませんー、仲良しですぅー」

 

防音性の高い厚い扉を閉じれば文句の声も聞こえなくなる。足音の方へ視線を向ければ数秒の後に曲がり角からヒューベルトの姿が現れた。

途端にジークフリードの表情は明るくなり、対してヒューベルトの表情が露骨に嫌な物を見たように変わった。

 

「よお、ヒューベルト!曲がり角で偶然会うなんざ運命的だなあ!」

「……チッ、ジークフリードか。……貴様、先程まで誰かと話していたか?」

「ああ、新兵がいてな。少し話をしていたが、どうかしたか?」

 

ヒューベルトは眉間に皺を寄せながら微かに疑うような視線をジークフリードへ向ける。しかし彼の言葉に、少なくとも嘘は無いと判断したのだろう、それ以上詰問を続けることはなかった。

 

しかしその言葉の中に隠し事が無い訳ではないということもまた理解していた。

ヒューベルトはジークフリードのそばにある扉へ鋭い視線を向けると、再び唇を開いた。

 

「新兵、か。……ジークフリード、数ヶ月前の旧ブラック家領地でのいざこざを覚えているか」

「お前らの仕事中にガキが乱入して俺が制圧したヤツ?」

「ああ、あの時の猿が入団したことは知っているな」

 

知らないはずが無いだろうという声音に、ジークフリードは黙って頷く。実はそいつとさっきまで話していました、などと口にすれば便器に張り付いた汚物を見る目で見られるだろうことは想像に難くない。ジークフリードは敢えて軽口を叩いた。

 

「やるねえ、あのクソガキ。ユーハバッハやお前に大口叩いて喧嘩を売るだけの実力はあったってわけだな、ははは」

「違う」

 

へらへらと笑うジークフリードに、ヒューベルトはピシャリと異を唱えた。少しも笑っていない顔に見下ろされて、ジークフリードも思わず上げていた口角を下げる。

ヒューベルトは眉間に皺を寄せたまま、自分よりいくらか背の低い目の前の男を見下ろすともう一度「違う」と繰り返した。

 

「あの時、私の前に現れたあの子供は弱かった。陛下の御手を煩わせずとも私だけで容易く制圧可能だった」

「だろうな」

「誤解するなよ、今でも容易に倒せる。……だがほんの数ヶ月前のあの子供と今の子供は違う。明らかに滅却師として成長している。有り得ざることだ。短期間であのような変貌を遂げられる訳がない」

 

ヒューベルトの口ほどにものを言う目に見下ろされて、ジークフリードは困ったように頬をかく。愛し子に圧のある声で名前を呼ばれて、どうしたものかと言い訳ばかりを頭の中に並べた。

そんなジークフリードへヒューベルトは低い声で問いかける。

 

「ジークフリード、お前が関わっているな」

「……『はい』か『いいえ』なら前者だ。新たな騎士の入団は国家と騎士団に関わること。騎士である俺には当然関わりがある。まして俺がアルゴラを試験官として任命し、その判断の結果を確認した上で陛下が入団を許可している。光の帝国の騎士として、関わりが無いとは口が裂けても言えないな」

「くだらない詭弁はやめろ。これは入団の話でもなく、ましてアルゴラや陛下の判断の話でもない。私が言っているのは貴様個人の話だ」

 

ヒューベルトはジークフリードの胸倉を掴むと、その身体をぐっと背後の扉へ押し付けた。無抵抗にそれを受け入れるジークフリードの姿に彼は歯噛みすると、微かな非難の色を声に乗せて吐き出した。

 

「……あの子供は陛下へ敵意を向けた。そんな不届き者を陛下の懐へ入れるのか。それが貴様の、陛下の第一の騎士としての判断なのか」

 

その問いかけに、彼は無言を返す。ヒューベルトを見つめたまま、無表情で無言を貫くジークフリード。沈黙が10秒を過ぎた頃、焦れたヒューベルトが唸るように「何故答えない」と続ける。

 

「私の問いかけに答えられないのか」

「いや、そういうんじゃなくて、どこまで話していいかなって考えてて……」

「……ジークフリード、我々が何も知らないと思うなよ」

 

我々、と彼は言った。

頭に浮かんだのは親衛隊の面々。彼らはみなブラック家の殲滅にも、旧領地での星十字騎士団通告の場にもいた。ましてヒューベルトは元々憲兵として街に出ていた立場だ。調べようと思えば容易くバザードの身元など把握できるだろう。

 

彼らはみな、それらを把握した上で、何も語らぬ上官の判断を今まで許してくれていたというわけだ。

……怒るのも当たり前な気がしてきた。

 

ジークフリードはホールドアップすると、人差し指をくいくいと動かしてヒューベルトにこちらへ近づくようジェスチャーした。

一瞬普通に嫌そうな顔をされたが、渋々体を寄せてきたヒューベルトへ、背後の扉の向こう側に聞こえないように声を潜めて言った。

 

「……旧領地で俺があの子供を殺そうとした時、あいつはそれを止めた。懐柔対象の手前だ、あの場では仕方なくそうしたのかとも思ったが、その後も命令は受けていない。つまるところ、生かす価値があると陛下は判断されたということだ」

「……」

「とはいえ、目の届かない範囲に置けるようなガキでもない。流れる血はどうとでも使いようがある。となりゃあ、先手を打って懐に入れた方がいい。どうせあの程度、脅威にゃならん。生かす価値が無くなったのなら俺が始末するだけだしな」

「……何も考えていない訳ではなかったか」

「知らないかもしれないが、これでも皇帝陛下第一の騎士なんだよ俺は。あいつの利にならないことはしない」

「……わかっているのならいい」

 

小声でそう交わし合ったあと、ジークフリードはヒューベルトから体を離すとぱっと人懐こい笑顔を浮かべた。

 

「しかしヒューベルトが俺を気にかけてくれるとはな、嬉しい……!」

 

瞬間、両腕を広げたジークフリードはヒューベルトに勢いよく抱きついた。頬擦りする勢いだった。

年若い青年よりいくらか低い背丈。自身の視線より僅かに下にある旋毛を目に入れたヒューベルトは次の瞬間。

 

「ああーー!あだだ!痛い!痛い痛い痛い!なんで!?なんでコブラツイスト!?」

「気安く触るな」

 

抱き着いてきたジークフリードの体を受け流して、関節技をキメていた。適度に千切れてくれないものかと思いながら首を引き絞っていれば、泣き声と共に身体にバシバシと降参のタップをされる。数秒待ってから仕方なく技を外してやれば、「あへん」という気の抜けた声とともにジークフリードが廊下に倒れ伏した。尻だけが突き上がった情けない姿だった。

 

「次は無いと知れ」

「エーン、反抗期」

「殴られたいか」

「良いこと教えてやろうと思っていたのにぃ……」

 

情けない姿で廊下に転がったままそんなことを宣うジークフリードを見下してヒューベルトはまあまあちゃんとゴミを見る目付きをした。

 

「ふん、何が良いことだ。お前から有益な話を聞いた覚えがない」

「ユーハバッハの話なんだけど」

「早く話せ」

「食いつきすごぉ……」

 

ジークフリードはふらふらと立ち上がりながら、軽く肩を回して唇を開いた。

 

「あいつ今日髪切ったよ」

「え」

 

ヒューベルトは目を丸くして固まった。

 

「……へ、陛下が……御髪を……?」

「ああ、お前が「お似合いです」の一言でも言ってやれば喜ぶんじゃねえの?」

「……ジークフリード、お前にしては珍しく本当に珍しく有益だ。今日この瞬間だけはお前に感謝する。今すぐ陛下の元へ向かわなくては」

「んんん、感謝されたのになんか切ねえ……でも普段より長めに構ってくれたので俺は嬉しい……」

 

そうして意気揚々とこの場を立ち去るヒューベルト……と思いきや、彼は廊下に寝転んで汚れた衣服を手で払うジークフリードをじっと見下ろしたまま何か言いたげにしていた。その視線に気がついてジークフリードは首を傾げる。

 

「どうかしたか?」

 

問いかければ、ヒューベルトは微かに眉を寄せながらジークフリードの赤髪の先に付いた埃を指で摘んで捨てた。ヒラヒラと落ちていく灰色を目で追ってから、顔を上げてヒューベルトを見つめる。そうすれば彼はその視線さえ煩わしそうにして言った。

 

「陛下の騎士として、……私の上官として恥ずかしくない振る舞いをしろ」

 

それだけ言い捨てると、彼は素早く身を翻してこの場を去っていく。そんなヒューベルトの背中をやや不意を打たれた心地で見送る。

 

それから可愛い奴だなと思わず頬を緩ませてから、彼は先程バザードを押し込めた部屋の扉へ視線を向けた。静かな廊下で耳を澄ませる。そして遠ざかり消えていく足音を確認してから息を吐く。

ユーハバッハの話題を使って体良くヒューベルトを追い払った……というつもりもないが、彼がいるとバザードと話ができないのも事実。

 

ジークフリードはドアノブを掴むと、重い扉をゆっくりと開いた。

 

 

 

 

無理矢理に押し込められた部屋の中でバザードは不機嫌そうに舌を打った。静かにしていろと言われたから、逆にむしろ扉を叩いて喚いて大騒ぎしてやろうかとも思ったが、結局そうはしなかった。

扉の外にはジークフリードだけでなく、ヒューベルトもいるからだ。

 

バザードはヒューベルトが嫌いだ。

第一印象はもちろん最悪。その上、騎士団に入ってからも明らかに目をつけられている。別段話しかけられたり絡まれたりしたわけではないが、露骨に気に食わないという目でこちらを見てくるのだ。こちらが隙を見せれば意気揚々とイチャモンをつけてくるに決まっている。

 

そんな奴が扉の向こうにいるとわかっていて、ジークフリードへの嫌がらせの為だけに大騒ぎするほど頭は空ではない。

 

バザードは足音を立てないように慎重に歩を進めて扉に耳を押し当てた。あわよくば向こうの話し声が聞こえないかと思ったが、思っていたより扉は分厚く、2人の声はくぐもっていてまるきり不明瞭。盗み聞きは出来そうにもない。

諦めたバザードは扉から離れると、この部屋の中を見渡した。

 

空き部屋かなにかに押し込まれたのだと思っていたが、室内には人の生活の痕跡が色濃く残っている。

 

部屋の広さは先日バザードに与えられた宿舎の一室とそう変わりがなさそうだ。奥の壁にある窓、備え付けの机とベッドの位置まで変わらない。

 

そのベッドの上には寝起きたまま乱れたシーツと毛布があり、ヘッドボードの傍の壁には仰々しい額に入った絵が飾られている。

近づいて見てみれば、立派な額には不釣り合いな、まるで子供が描いたような化け物のような何かが2つ並んだ絵が収められている。

かと思えば、ベッドの下に乱雑に放られて開いているスケッチブックには画家の作品のように写実的な鳥や風景の絵が幾つも描かれていた。

 

壁際の机の上には大量の本や書類やノートが積み重なっている。無造作に置いている方が悪いと躊躇いなく書類やノートを眺める。なにか益になる情報は無いかと探してみたが、重要そうなものは流石に無いようだった。

 

「……つか、字ぃヘタクソだな、コイツ」

 

木の枝で書いたのかと思うほどの癖字の上、添削のしがいがあり過ぎるほどスペルミスが多い。まともに書けているところもあるかと思えばその文章はやけに古臭い。走り書きのような文へ目を落として呟くように読み上げる。

 

「……『祈りの情、胸の裡より湧き出づれど信仰を抛棄したる愚衆の身には恐懼に堪えず』……古臭え文章、何百年前の人間だよ」

 

古い文章には問題がないのに、現代的な文章はまるで子供のような拙さ。まるで古い時代の人間がどうにか現代の書き言葉を覚えようとしている、という印象を受けた。そこまで考えが至って、ふと思う。

 

「……この部屋ってもしかして……」

「おいこらクソガキ。人の部屋をジロジロ見てんじゃねえぞ」

「ぎゃっ!ってえな!つかやっぱりアンタの部屋かよ!」

 

いつの間にか部屋の中に入ってきていたジークフリードに頭を叩かれて、バザードは痛みに脳天を押さえながら声を上げた。

振り返れば外での会話を終えたのか、ジークフリードが腰を手を当てながら呆れたような顔でこちらを見下ろしている。

それから自分が叩いたバザードの髪をわしゃりと一度崩すように撫でてから、彼は傍にあるベッドの縁に腰掛けた。視線の高さがそう変わらなくなったジークフリードを前に、周囲を見渡しながらバザードは唇を開いた。

 

「アンタ、この汚ねえ部屋に住んでんの?」

「汚ねえは余計だ。ちょっと物が多いだけだろ」

「師匠って結構上の立場の人間だろ?こんな古臭え宿舎に寝泊まりしてんのかよ」

「まあ、そうなるな。この宿舎が建ったばっかの時に一時的に寝泊まりするつもりで入ったんだが、つい長居してよ。物も増えて引っ越すのも面倒臭えから住み続けてんだよ」

「宿舎が建ったばっかの頃っていつだよ、ここ相当古いだろ。つか、幽霊出るって聞いたぞ」

「別にそんな古かねえよ。精々……50年とか?そんくらいだったろ、確か」

「……精々って、アンタらってマジで何歳なんだよ……」

 

呆れた顔をするバザードに「自分の歳なんかいちいち覚えてねえよ」とジークフリードは返した。

事実、彼は大まかにしか自分の年齢を記憶していない。寿命は伸びれば伸びるほど、1秒、1分、1日、1年、時間の価値を薄めていく。故にわざわざ年数をカウントする意味も見いだせないし、カウントするタイミングであろう己の誕生日ももう覚えてはいない。それに年齢を確認したいのならユーハバッハに確認すればいいという他力本願もあった。

 

「大体お前なあ、滅却師だろ?幽霊が出るなんて噂にはしゃいでんじゃねえよ。虚だの整だの、元から見えるだろ」

 

先程の少年の発言を拾って、ジークフリードは呆れたような声音でそう言った。けれど、その言葉にバザードはすぐに言葉を返す。

 

「はあ?整なんて、ろくに見た事ねえよ。だって滅却師は整にも虚にもならねえんだから」

 

そう返されてジークフリードは思い出す。

滅却師は整にも虚にもならない。……なれない。

正しくは「滅却師は」ではなく「ユーハバッハに魂を取り込まれることが確定している人間は」だが。

 

この国の住人は生まれながらにして、死後ユーハバッハに魂が還ることが決まっている。

死んで、整や虚になる前に魂はユーハバッハの元に行き着く。それ以外の何処にも行くことは無い。何処にも辿り着くことはできない。

そういう類の、絶望の形だ。

 

「…………そういや、そうだったな」

 

ジークフリードは自身の掌で口元を覆いながらそう呟いた。

それから目の前に立つ少年へ視線を向ける。一族を、家族を亡くしたばかりの少年の姿へ。

 

「幽霊でもいいから、会いたいって思うか?」

「は?」

「もし、大事な人を亡くしたらの話だよ」

 

自らの家族を殺害したその首謀者の一人であるジークフリードから言葉に少なからず不快感を覚えはしたのだろう、眉間に皺を寄せたままバザードは微かに俯いた。けれど、思うままに怒りをぶつけることは自らの正体を明かすことになるとわかっていたから、彼は強く奥歯を噛んでは呻くように呟く。

 

「……ありえないことを考えても意味ねえだろ」

「……まあ、そうだな」

 

意地の悪い事を言った、とジークフリードは微かに目を逸らした。二人が黙り込んだことによって生まれた沈黙、それが会話を再開するための重りになってしまう前にジークフリードは喉から声を吐き出した。

 

「あー、ところでだが、さっき机を見ていたろ。お前って字が読めるのか?」

「え?あ、ああ、そりゃあ……」

 

ジークフリードの言葉に咄嗟に頷いてから、バザードは自身の軽率さに気がついて冷や汗をかき、身体を強ばらせた。

21世紀ならばともかく、この時代における識字率は低い。宗教に関わる職業ややんごとなき立場の人間でもなければ文字を読むほどの教育は受けられないし、そもそも普通の市民には文字を読む能力を持つ意味がない。

 

そんな時代に文字が読めるなど、ただの孤児ではないと言っているようなものではないか。

それに気がついたバザードは後ろ手に隠した掌を強く握りこんだ。そうしてやがて向けられるだろう疑惑と糾弾に耐えるように首を竦め、上目遣いでほとんど睨むかのようにジークフリードへ視線を送る。

そして目の前でゆっくりと開かれていく男の唇を見つめ続けた。

 

「……どう、思うよ」

「……は?え?……なにが?」

「いや、その、俺の字というか、文章という、か……」

 

視線を口元から目へ移せば、恥ずかしそうに視線を逸らしながらそんなことを呟く男の姿があった。

何を問われているのかすぐに判断できずに固まれば、ジークフリードは言葉を重ねた。

 

「俺の書いた字とか文とかって、その……おかしくない、ですか……」

「(なんで敬語なんだよ……)……いや、普通におかしいけど」

「エッ」

 

素直に事実を口にすれば、途端にネコダマシされた猫のような顔をされる。そもそも急に何を聞いてきているんだコイツは、と思いながらバザードは言葉を続けた。

 

「いや、普通に字ィ汚えし読み難いしスペル間違ってる。つかどう考えても母音が入るべきところにzがあんのはなんでだよ。少しはまともに書けてるところもあるかと思ったら古文書みてえな古臭え文章だし。どう繕ってもアンタの文は普通に変」

「う……ええ……?」

 

思ったことを素直に口にすれば、無抵抗なのに殴られたかのような顔をされる。ただ質問に答えただけで、別にそんなつもりはないのだが。

 

「アンタってそこそこの立場だろ。文字書けねえの?」

「か、書けてると思ってた……」

「ならオレの名前書けるか?」

「……buzzby」

「bazz-Bな」

「…………」

 

雨に濡れた犬みたいな顔をされる。どうやら本当に自分はそこそこ字が書けると思っていたらしい。

そりゃあ一般人に比べればペンを持つことができるだけで上等だろうが、実際に文字が読める人間からしてみれば怪文書レベルである。

例えるのならば「今日は戦闘訓練をしました」という文を「きょおわ先頭訓練おしました」と書いているようなものだ。鼻で笑うしかないというか、お話になっていないというか。

 

ジークフリードは顔に手を当てて項垂れていた。哀愁漂う姿だった。「だってそこそこ書けてるって………頑張ってて偉いって……ザイドリッツが……」などと言っている様はあまりにも惨めだった。そもそも「頑張ってて偉い」は態度の評価であって実力の評価ではないことに気がついてほしい。

 

それを眺めながらバザードは(この人も何だってできるわけじゃねえんだな)と思う。

騎士として強く、戦闘においては頭が回り、誰とでもコミュニケーションが取れ、特段目を引くというわけではないが黙っていれば悪くない顔立ちをしている。そんな彼でもできないことはあるらしかった。それがダサくて、少し面白い。

 

「まあ、なんだよ。一から十までわかってないわけじゃないんだし、発音とスペルの対応がわかりゃ多少は良くなんじゃねえの?」

「……そう思うか?」

「おー」

「ほんとに?」

「おー」

「……どう勉強したらいいですか」

「(敬語……)……書ける奴に文字書かせてそれ読んでもらえばいいんじゃねえの、知らねえけど……」

「……つまり、バズビー先生ってわけか」

「は!?嫌だからな!オレはぜってえ嫌だからな!テメー、ユー……陛下とダチなんだろ!教えてもらえや!」

「ヤダ!アイツは性格が悪い!昔っから性悪なんだよ!俺が困って悩んでるのをワイン片手に眺めるタイプの生き物だぞ!なあ頼む頼む頼む!お前だって自分の師匠がバカなのは嫌だろ!な!な!お願いします!」

「離せや!つか大の大人がこんなガキに教わるのはいいのかよ!」

 

縋るように掴まれた腕をぶんぶんと振り払おうとしながらそう喚けば、ジークフリードはなんでもない顔であっさりと「年齢は関係ねえだろ」と答えた。

 

「事実として俺よりお前のほうが技量があるんだ。そりゃあ頭くらい下げる。ユーハバッハもガキの頃から頭良かったしな。まあ、あいつの場合はちょっと違うんだろうけど……」

 

何もおかしいことはないと見つめ返すジークフリードに、バザードは目を逸らす。

 

「……変なやつ。知ってたけどよ」

「じゃあそういう事でよろしくなありがとうバズビー」

「やるなんて言ってねえ!」

「とかいいつつ〜?」

「やらねえからな!アンタなんか適当に興味ある分野の初学者向けの本でも音読と写本しとけや!」

「独学向けの適切なアドバイスだ……」

 

ジークフリードの手を振り払って「クソバカ師匠!」と捨て台詞を吐いて部屋から出ていく小さな少年の背中を見送る。無意識に浮かぶ笑み、閉じる扉の音、一人になった部屋の中で喉を鳴らした。

 

ユーハバッハに教わるのは絶対に嫌だし、ザイドリッツは案外こちらを甘やかしてくるし、ヒューベルトには良いところしか見せたくない。

そうなるとバザードは教師役として丁度良い。

騎士団で上官と部下以外の関係があるというのも都合が良かった。相手に警戒されずに監視を続けられる。

 

「不審な動きがあればいつでも殺せるように。……いや、殺すための理由を探しているように見えるのかな、あなたには」

 

ジークフリードは瞼を閉じてそう呟いた。暗転した視界の中。それからゆっくりと目を開く。窓から差し込む光の眩しさに目を細めながら一人になった部屋の隅に視線を向けた。

 

そこに一人の男が立っている。

先程立ち去ったバザードでも、ベッドに腰掛けるジークフリードでもない男がただ黙り込んだままそこにいた。

 

ジークフリードが一人になるとその男は現れる。

現れるだけで何もしない。言葉を発することも近づくことも視線を向けることさえしない。ただじっとそこにいるだけ。

血に塗れた聖書を腕に抱えたまま。

 

「ユーフェンから与えられた者は整にも虚にもならない。整は死神によって尸魂界に導かれ、導かれることがなかった魂は虚となる」

 

事実を確かめるようにジークフリードは呟く。

死んでから数百年もの長期間、整のままでいられるはずがないと知っていた。自分以外の誰にも視えていないと知っていた。

 

「あなたが俺の目に映っているということが、あなたがユーフェンから奪わなかった清廉の証明なのか、俺の頭がイカれていることの証明なのか。……別にどっちだっていいんだけどさ」

 

あなたの魂のために両手を組んで祈りたいと思う。

己の意思で信仰を捨てた愚衆の身にそのようなことが許されるはずがないとも思う。

赦してほしいと願うことも、赦さないでほしいと縋ることも同等に罪なのだから。

 

最早、顔も声も朧気だ。

なれど、最期に弾いた弦の感触だけが今もなお鮮明に指先に残っている。

 

「……『逃れの町を選び定め、誤って知らずに人を殺した者をそこへ逃れさせなさい』」

 

もしも逃れの町というものがあるのならば、それはきっと俺たちにとってのこの国なのだ。

 

我らに罪は無い。

復讐者はきっと辿り着けない。

あなたは何も言わない。何も、言わない。

 

 

 






本年もよろしくお願いします。
今年の目標はアニメが終わるまでにこの連載も終わらせることです(絶望的)
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