バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

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tabula rasa

 

『病気で弱っている者をかかえた人たちが神の子のもとに連れて来る。神の子が病人に手を置くと癒やされた』

 

深夜、与えられた使用人用の個室のベッドに転がって、ジークフリードは昔教わった物語を頭の中で誦んじる。

彼は決して宗教を信じているわけでは無い。

少なくとも彼自身の自認においてはそうだ。

 

それでも教えは彼の生活と人生に根付いている。

信仰を知っているが故に、彼は飲酒を忌避し、肉親を守ろうとし、神の名を呼ぶことができない。

それは現代日本人が、例え特定の宗教を信仰していないと自認していたとしても、仏壇や墓などを前に何の違和感もなく両掌を合わせることに近しい。

あまりにも当たり前のことであるが故に、そのルーツがどこにあるのかなどと考える必要さえない。

 

例えそれがただの石の塊だと頭で理解していたとしても道の端に佇む地蔵を足蹴にできる者が少ないように、それがただの音の群れであるとわかっていながらもジークフリードは神の名を冠した彼の名を呼ぶことができない。

彼の心底に根付いた信仰ゆえに。

 

それでいいと思っていた。

そうであるべきだと思っていた。

……今日、この日までは。

 

「……クソッ」

昼間のこと、ただ名前を呼んで欲しいと求める子供の願いさえ叶えてやれなかったあの瞬間。

諦めたようにこちらの手を離したあの子の表情がまだ瞼の裏に焼き付いていた。

 

「……ユ、ヤ、……ユー、ユーハ、………んんんんん」

ジークフリードは眉間に深く皺を寄せたまま、寝返りを打つ。音にならないように口の中で名前を呼ぼうとしてみるが、それにさえ酷い抵抗感を覚えてしまう。思わず溜息。

 

「……テトラグラマトン。アドナイ。…………いや、違うな」

ガシガシと自分の頭を掻き乱しては何度目か数えることさえやめた溜息を再び吐く。肺の中が空っぽになってしまいそうだった。

 

「まあ、うじうじしても仕方ねえか……」

そう呟いたジークフリードはベッドから起き上がると勢いよく床に両手を付いた。それからぐるんと足を宙に上げる。逆立ちである。

特に意味は無いが、グッと気合を入れるために逆立ちをした。単にジークフリードの癖である。

倒れないようバランスを取りつつ逆立ちをするジークフリードはふとこの姿をあいつに見られたら、何をしているのかわからないとばかりに呆れた顔をされるのだろうと思った。想像して、つい笑う。それだけのことで少し元気が出た。と、その時だった。

 

「───」

「──、────」

部屋の外から人の足音と、話し声が聞こえた。

 

扉を一枚挟んだ向こう側、廊下を足早に進んでいく何人かの足音と、内容は聞こえないがどこか落ち着きのない様子の会話。この屋敷の大人たちだろう。しかし基本的にこの屋敷の夜はいつも静かだ。こうやって人が出歩いたり、話したりしている様子を聞いたのは初めてだ。

 

「夜間は部屋の外へ出てはならない」と言い付けられているジークフリードは逆立ちしていた足を地につけると、足音を立てないようにそっと部屋の扉に近づき、扉に耳を当てる。が、扉越しではよく聞こえない。

ようは部屋から出なければいいのだ、と好奇心に釣られた彼は内心で言い訳をしつつ音を立てないようにそっと扉を細く開けた。

 

「様子はどうだ」

「……今のところ異常は見られません、が……」

「では続けろ。人数を増やして構わん」

「で、ですが、これ以上は流石に限界かと……!」

「黙って指示に従え。今後を考えれば必要なことだ」

 

微かに聞こえる声に耳をすませてみる。

扉を細く開けた程度では見えないが、声を聞く限り、この屋敷でそれなりの権力を持っているらしい教祖のような立ち位置の男と、その側近の女が話しているらしかった。

 

少し離れたところから聞こえるどこか不穏なやりとり。ジークフリードには彼らの会話の全貌はわからない。しかしあまり愉快な話では無さそうだ。

 

もっと話の詳細が聞けないかと思わず前のめりになるが、女の方が屋敷の奥にあるユーハバッハの部屋の方へ向かい、男がジークフリードの部屋の方へ戻ってきていることに気がつく。すぐそばまで近づいて来る足音に、彼は音を立てないようにしながらも慌てて扉を閉めた。

ぴたりと閉じた扉の向こうを通り過ぎていく足音。それが遠ざかっていくのを耳にして、ジークフリードはバクバクと音を鳴らす自身の左胸を押さえながら息を吐いた。

 

(あっぶね……!つーか今の話、なんだったんだ?)

 

ジークフリードは小首を傾げながら、扉から離れベッドに寝転がる。

ただでさえ陰鬱なこの屋敷での不穏そうなやりとり。気になりはしたが、情報の足りないことを考えても仕方ない。

 

それよりもユーハバッハのことだ、と彼は今自分が考えるべき事柄について専念することにした。

 

 

 

 

 

 

「よう、起きてっかー。……って、珍しいな」

 

翌朝、いつものようにユーハバッハの部屋に訪れたジークフリードは、まだカーテンの閉じた暗い部屋の中でベッドに丸まったままの主人を見つけて目を丸くする。

 

普段ならばジークフリードが来る頃にはとっくに起床して身支度まで終えているような少年が、瞼を閉じて静かに眠っている姿は初めて見る景色だった。

声を潜めたまま足音を立てないようにしてベッドへ近づき、その寝顔を見下ろす。普段の不遜な表情が嘘のように穏やかな表情だった。

 

ジークフリードはキングサイズの大きなベッドの縁に腰掛けると暗い部屋を見渡す。

子供一人にしては広すぎる部屋はジークフリードがいて二人になっても広すぎる。だからだろうか、この部屋の中にいるといつも少し寂しく感じられて仕方ない。

暇を持て余した彼はベッドの隅に寝転がり、冷たいシーツに背中を押し付ける。

夢の中にいる子供を叩き起こす趣味もない。起きるまで待っていよう、と思った。

 

待っていよう、と思っていたのだ。

 

 

「…………お前は、どうしてそうも……」

いつもよりずっと遅い朝、目を覚ましたユーハバッハは自身が横たわっていた広いベッドの足元に人影があることに気がついた。

 

微かな吐息、弛緩した体、間の抜けた寝顔。

まるで警戒のない体で寝こける姿。

 

仮にも主人である人物のベッドで寝転がる使用人を目に映したユーハバッハは呆れたような表情で肩を落とした。

 

口から溜息が生まれそうになりながら、ふと視線を窓辺へ向ける。

カーテンの隙間から差し込む光は酷く明るく、今がもう朝というより昼に近い時間だということを教える。

 

ユーハバッハには時折どうしてもいつも通りに起きられない日があった。

そして今日がジークフリードが来てからは初めてのその起きられない日だった。

眠れなかった昨晩のことを思い出しかけて、やめる。それよりもジークフリードだ。

 

ユーハバッハは柔らかな毛布から抜け出し、ベッドの上に立つ。

そして軽く勢いをつけると、寝ているジークフリードの身体をフットサルのスライディングの如き勢いで足蹴にしてベッドの縁から蹴落とした。バイエルンからの招集も時間の問題だろう。

 

「ギャン!」

落下。ゴン!と床に頭を打つ音と共に、ぶたれた犬のような声が響く。

一瞬の静寂。

すぐに起き上がったジークフリードが肩を怒らせながら蹴落としてきたユーハバッハの胸倉をがしりと掴んだ。

 

「おうおうテメェ人様を足蹴にして叩き起こすたぁいい度胸じゃねえかクソガキオイコラ……!」

「足を滑らせた」

「おうそうだな滑らせてはいるな過失じゃなく故意に足を滑らせて俺を蹴落としやがったなこの元気いっぱい野郎が……ッ!」

 

獣のようにグルルルと犬歯を見せて怒っていたジークフリードも、ユーハバッハのスン……とした表情に怒る気も失せたのだろう、ハァーと大きく息をついて手を離した。

 

「クソいってぇ、頭打った。バカになったらどうすんだよ」

「今更心配することでもないだろう」

「んだとテメェの頭も連打してこっち側にしてやろうか……ってそうじゃねえんだよ」

 

ユーハバッハは胸倉を掴まれて乱れた服を直しながら彼の瞳を見た。そうすればすぐにぴたりと合う視線。凪いだ瞳がユーハバッハの目に映る。

 

「お前に話したいことがある。まあ、とりあえず座れよ」

ジークフリードはベッドの縁に腰掛けると、その隣を掌でポスポスと叩いた。それに素直に従い、ユーハバッハは彼の隣に腰掛ける。

 

まだカーテンさえ開いていない部屋。内緒話のような距離。隣に座る自分より高い背丈を見上げる。

いざ話を切り出すとなると恥じらいが出てきたのだろう、見つめるユーハバッハの視線にたじろいで、ジークフリードは照れたように目を逸らした。

 

「まあ、なんだ、つっても今から話すのは本筋とは少し逸れた話になるんだが、ちょっとだけ付き合ってくれ」

「……構わない。元よりお前と会う以上の予定も無い身だ」

 

ただ事実を口にしただけのその言葉を自虐だとでも思ったのか、ジークフリードは目を細めると我儘を言う子供に見せるような笑みで少しだけユーハバッハに肩を寄せた。

 

「今からするのは俺の身の上話ってやつだな。俺の住んでた村はそんなにデカくはねえんだが小さくもなくてな、病院はあるし、教会はあるし、学校もある。まあ、俺は学校に通ったことねえんだが」

 

故郷を思い出しているのか、ぼんやりと宙へ視線を向けながら微かに口角を緩めてそう語った。

その横顔を眺めながらユーハバッハは静かに耳を傾ける。

 

「学校には行けなかったけどよ、村の司祭が、まあ偏屈な爺さんなんだけどな、ひとり親の俺をなにかと気にかけてくれてさ、読み書きと計算はそこで教わったんだ」

「文字が読めるのか」

「まあ最低限な」

 

謙遜するようにそう言いながらどこか得意気にジークフリードは笑った。

それから普段から首にかけている小さな十字架に無意識にふれて、その指先で戯れるように弄ぶ。

 

「俺の父親は俺が生まれる前にもう死んでるんだけど、司祭はうちの父親と顔馴染みだったらしくてな、色々と思い出話もしてくれた。俺はその人にガキの頃から懐いてさ、よく教会を出入りして、その流れで読み書きとかもそうだし、説教も受けてきた。だから教えは馴染み深いっつーか、俺にとってお前の言う「呪い」はそういう生まれた時から当たり前に存在してるもんなんだよ」

 

さして重くもなく彼はそう言った。「呪い」という言葉に意趣返しの意図さえ無いのだろう、笑った顔は穏やかで、それがユーハバッハの内心を微かに怯ませる。

 

「んで、ここまでが前提。こっから本題に入るんだがよ、俺は昨日、お前の名前を呼べなかっただろ」

「ああ、そうだな」

「だから一晩考えた。どうにかお前の名前を呼べねえかって延々考えて、わかったんだ」

 

ジークフリードはそこまで言い切ってから、隣に座るユーハバッハへ視線を向ける。

返される視線から少しも逃げることなく言った。

 

「俺はお前の言う「呪い」のせいで、お前の名前を呼ぶことができない」

 

そうはっきりと彼は言った。

彼の心に絡みついた信仰は篤く、それはもはや他者の手でも己の手でも解けるようなものではなかったから。

 

わかっていた。わかっていながら、ユーハバッハは確かにそう告げられた瞬間に心の奥に小さな空洞が生まれたことに気がつく。惜しむような心を隠して硬い声で言葉を紡ぐ。

 

「……そうだろうな、お前はそういう男だ」

「でもそれはさ、やっぱさみしいだろ。俺だってお前のことをいつまでも「お前」ってばっか呼びたくねえし」

 

だから、とジークフリードは言葉を続けた。

隣に腰掛けるユーハバッハを柔らかい表情で見つめて、ゆっくりと彼の黒髪へ手を伸ばす。

 

「ユーフェン」

 

ジークフリードがそう口にしたのと、彼がユーハバッハの頭に手を置いたのは同時だった。大きく開いた掌がわしゃわしゃとその柔らかい髪を撫でる。

 

「…………なにを」

されるがまま撫でられているユーハバッハは、聞き慣れないワードを耳にしてその瞳へ困惑の色を乗せる。

何の話なのかとばかりにじっと彼の目を見つめれば、ジークフリードは普段はギュッと寄せられている眉間の皺を緩めて相好を崩した。

 

「愛称だよ、愛称。あだ名。お前の名前を呼べないなら、呼べるような愛称をつけりゃあいいんだって気がついてよ」

「……それで、ユーフェンなどと?」

「気に食わねえか?ユーラインとか古臭え呼び方よりマシだと思ったんだけどな」

「……道理ではあるな」

 

出来ないことがあるなら、出来るように手段を変える。当然の判断である。

そう頭の中では思いながら、ユーハバッハは急に宇宙に放り出されたような困惑があった。

 

名は体を表す。

ユーハバッハという名は明確に誰かに与えられたものではない。

神の名で呼ばれていることを知ったユーハバッハが自身の名としてそれを定め、神としてのその在り方をよしとした成れの果て。

ある種、彼が彼自身にかけた呪いとさえ呼べるだろう。誰もがそう呼び、そうであることを望むから彼はそれを選んだ。

原初はただ、それだけ。

 

だから、こんなのは初めてだった。

 

「あー、まあ、お前が嫌ならやめとくけど」

 

無表情に近しい顔の中にある微かな戸惑いの色を感じ取って、ジークフリードはそう口にする。

けれど離れていく手を掴むように、ユーハバッハは唇を開いた。

 

「構わない。……別段、その響きは嫌いではない」

 

少し素っ気ない声音を、けれどジークフリードは気にすることなく安堵に似た表情を浮かべる。

上がった口角と下がった眦。

それを目に映したまだ幼い体を持つユーハバッハは感じ慣れない感情の揺らめきに無意識に自身の左胸に手を置く。

それでも一定の心音はこの心の意味を語らない。

だから、彼はまだ知らない。

 

「おう、俺のこともジークでいいぜ、ユーフェン」

 

そう言ってこちらに見せた嬉しそうな顔が瞼の裏に焼きつく理由など知りもしないのだ。

 

ジークフリードは笑ってユーハバッハに向けて手を差し出した。

昨日とは逆になった立場。

差し出される手にユーハバッハは微かに瞠目する。

 

自分より大きな掌、躊躇いなく向けられる穏やかな感情、自分を呼ぶ優しい響き。

ささやかな温みを求めるように、左胸を押さえていた手を差し出された掌にそっと近づけていく。

 

そして、ユーハバッハの手がジークフリードの手を握った。

ただそれだけ。ただ、それだけのことだ。

 

「……ジーク」

「おう」

「ジークフリード・ジンツァー」

「ふ、なんだよ、ユーフェン」

 

その音が好ましい響きだとずっと思っていた。

その名を呼ぶことも、そしてその声を聞くことも。

だからその声で呼ばれて、きっと、そう、嬉しかったのだ。

その喜びと評されるものをユーハバッハは他者から簒奪した知識としては識っていた。

 

けれど、それを自分自身として経験するのは初めてだった。

 

生まれて初めて、嬉しかった。

 

 

 

 

「ったく、せっかくいい天気なのになんで俺らはこんな暗い部屋で話してんだろうな」

 

どこか惚けたままのユーハバッハを見て苦笑すると、ジークフリードは立ち上がりながら彼の黒髪を再びわしゃわしゃと撫でた。

それから窓辺に近づき、カーテンを開く。途端に差し込む陽の光に目を細めながら彼は窓を開いた。

 

翠を纏った外の香りと、入り込む涼しげな風。

眩しい光にチカチカとする瞼の裏に慣れてからようやくジークフリードは窓の外を見て──

 

「うぉおぁああ!!」

悲鳴を上げた。

 

窓の外、すぐそばの屋根の上に、部屋の中を覗き込もうとしてくる骸骨のような仮面を被った白い異形の化け物がいたからだ。

 

 

 

 

 







tabula rasa(タブラ・ラーサ)
白紙状態の意。人は生まれた時は何も書いていない紙のように何も知らず、後の経験によって知識や観念を得ていくという考え。




ドイツ語圏では愛称として名前に「-chen」(ヘン・フェン)や「-lein」(ライン)をつけることがある……らしい(オタク特有のネット知識)
子供へつける傾向が多いらしく、恐らく「ユーちゃん」くらいの感覚だと思われる。
また、「-lein」(ライン)が古臭いというのはあくまでも現代の価値観によるもの。
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