誰かによく似た君に出会ったのは。
身分不相応な理想郷。
扉があった。見覚えがある扉だった。
俺はそれをよく知っているはずなのに、どうしてかそれがどこの扉なのかわからなかった。
道端で懐かしい匂いを嗅いで郷愁を抱いたのに、それが何の匂いなのか少しも思い出せないみたいに。
けれど、扉は確かに目の前にあり、俺には伸ばす手があった。開いて、その中へ入ればここがどこなのかもきっとわかるだろう。
手を伸ばして鈍色のドアノブを掴めば、頭より掌がそれを覚えていた。上手く押さねば開く時に僅かに突っかかるのだ。俺はノブを回すと絶妙な力加減と角度でもってその扉を押し開いた。
隙間に身体を入れて中へ入れば、そこはやはり見慣れた部屋だった。
過剰すぎるほどに大きな部屋。天蓋のついたベッドは大人が数人寝転がっても余裕があるほどで、置かれた調度品は触ることを躊躇わせるほど高価そうに見える。
敷かれたカーペットもテーブルもソファも、そこらにかけられた布の1枚でさえ、己が生まれ育った村で一生農夫として働いても買えないほどの価値があるに違いないと思えた。
そんなおっかないほどに綺麗な部屋の中、窓辺に置かれたソファの上に小さな少年がいた。
抱えるようにして重そうな本を読んでいたそいつは、入ってきた俺に気がつくと緩慢な動作で顔を上げ、それから真っ直ぐに俺の目を見た。
夜闇のような黒髪。
離れていても鮮明な紅い瞳。
その目を見た瞬間、それ以外の景色のすべてが、あるいはこの世界のすべてが遠く消え去ったような感覚を抱いた。
それは柘榴や兎の目、或いはこの身に流れる血潮。
どれに例えてもしっくりとこないけど、それが不思議と酷く懐かしく見えたのだけは事実だ。
この赤眼の子供のことを知っている、と気がついた。
そうして俺が気がついたということに気がついたその子供は、人形のように無表情だった顔に造り物みたいな笑みを浮かべると色の薄い唇を開いて言った。
「ジークフリード」
その瞬間に俺はなにもかもを
ここがどこで、自分が何者で、何故ここにいて、あの少年が誰なのか。その時の俺はそれだけを確かに覚えていた。あるいはそれ以外はすべて覚えていなかったのかもしれないが、そう思ったことさえもう覚えていなかった。
まるでずっと孤独に砂漠を彷徨っていた者がようやく人と巡り合ったかのような喜びさえ抱いた。その時にはもう自分がいろんなことを忘れていたということもすべて忘れていた。断絶されていたはずの過去と現在はすでに連続性を取り戻して未来へ進んでいく。それがどこへ向かうとしても。
だから俺は当たり前のようにあの子供の名前を呼ぶことにした。
「ユー……………」
名前を呼びかけて、止まる。
……あいつの名前がわからないわけじゃない。
ただ、呼べないだけ。無意識に自身の胸元へ手を当てる。首から下がった十字架を握り込んだ途端に苦々しい気分になる。
……名前が良くないんだ。軽々しく呼んではならない御方の名を持っている奴だから。
それ以上何かを言うこともできなくなって半開きの口のまま硬直していれば、こちらを鼻で笑うのが聞こえた。
「相変わらずの敬虔さだな」
皮肉だ、とすぐにわかってムッとする。どうして信仰心を持っていることを馬鹿にされなくてはならないのか。一瞬カッと発火するような心地があったが、しかしすぐに子供相手に怒りを感じるのもひどく恥ずかしく思えてバカげた苛立ちを放り捨てた。
いつも思っていたけれど、年齢の割に大人びた物言いをする奴だ。俺より年下のくせに。そのわりに背伸びをしているようにも見えなくて、まるで中身はとっくに大人なんじゃないかと思ってしまうくらい。俺のほうがまだ全然子供みたいで、なんか……ダサい気がする。今だってなにか言い返してやりたいのに、何を言ったらいいのか思いつかなくて、でも黙り込むのも嫌でなんとか言葉を吐き出した。
「だって、お前の名前が悪い……」
「人の名にケチをつける、と?随分傲慢な振る舞いだ。果ては神か独裁者か」
「そ、そこまで言うか。いや、そんなつもりじゃない……けど、言いたいことはわかるだろ……?」
いや、わかってる。今は俺の言い方が悪かった。どうあれ、人の名を詰るようなことをするなんて良くなかった。後ろめたさにもごもごと声が小さくなる。
けれど、その名をみだりに口にしてはならないと教え込まれて生きてきたから、例えそれが主を示すものではないとしても心が引き攣るような抵抗感が生まれてしまう。
「お前のせいじゃないけどさ……」
──そう、本当に、何ひとつ、お前のせいなどではなかったのに。
俺がそう言えば、子供はまた笑った。でもさっきまでみたいな意地の悪い笑みではなく、もっと普通の、楽しい時とか嬉しい時に出るような笑顔だった。少なくとも俺にはそう見えた。そしてその顔のまま、言った。
「許す」
「は……」
「そうも雨に濡れた犬の如き顔をされてはな。本当に犬畜生ならば足蹴にしてもよかったが」
「さ、最低だ……」
「それより朝餉はいいのか」
お前が用意するだけ用意して、飛び出していったきりだっただろう。
そう言ってそいつはテーブルの方へ視線を向けた。
それにつられてテーブルを見れば、その上には確かに二人分の朝食が置かれていた。鼻腔を擽るスープの匂い。……こんなもの、先程まであっただろうか?思わず首をひねる。
そもそも自分がそれらをここに運んできたという記憶も、ついさっきまでなかった。俺が用意したのだと言われて、……そうだったかもしれないと朧気に思い出しただけで。
「また人からの頼まれ事か?」
「…………そう、だっけ?」
「馬鹿げた話だ。お前は私の使用人であって、この屋敷の使用人ではないはずだが」
文句を言う声を無視して思考に足を踏み入れる。
俺はいつものようにこいつの部屋へ二人分の食事を持っていこうとしていた。その途中で屋敷の人に頼まれ事をされたから、いったんこいつの部屋に朝食を置いてから部屋を出て、用事を終えてからまたこの部屋に戻ってきた…………んだったっけ?
……うん、多分、そうだ。確信はないけど ──むしろ違和感のほうが強いが── そんな気がする。何故ついさっきまでのことのはずなのに記憶が曖昧なのだろうか。……まだ朝だから、か?
考え込むことはいくらでもできたが、早々に切り上げる。テーブルを見た途端思い出したように腹が減ってきたし、俺が減っているということはきっとあいつもそうだろうと思ったからだ。
「ま、いいか。待たせて悪かったな。飯にしようぜ」
食事の前に祈りを捧げる。
生きていくための糧を与えてくださった主へ感謝を。十字架を手に目を瞑り、闇の中で心からのものを思う。
主よ、貴方の慈しみに感謝いたします。私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください。主よ、なぜ我らは他者の命を食い潰さずには生きられぬのですか。誰もみな死にました。火に焚べる薪のようにすべては失われました。どうか我らの罪を許さないでください。私たちは人を呪います。犠牲を呪います。蹂躙の果てに残る瓦礫を呪います。主よ、我らという悪から彼らをお救いください。どうか、どうか、主よ、どうして貴方はお見捨てになられたのですか。
「いつになく長い祈りだな、ジークフリード」
目を開く。大きな窓から差し込む朝の光は滲んだ涙のように柔らかに広がり、世界の明度を上げている。その光の中で、食事に手もつけずに興味深そうにこちらを見つめるルビー。
「……先に食べてていいっていつも言ってるだろ」
「従うかは私が選ぶことだ」
俺が手を解いてから、目の前の子供はようやく食事に手を付けた。手を付けた、といってもそれは文字通りの話で、小さな五指で手慰めのように硬いパンを千切っては、スープの中へ落としていくばかり。
偏食なのか胃袋が小さいのかこいつの食事は細く、そして食うということに関心もなさそうだった。散々皿の上を散らすだけ散らかした後、残飯を俺に寄越すことさえ多々あった。俺がこいつくらいの年の頃はいつだって腹を空かせて、飯を食うことばかり考えていたというのに。時折、こいつには食事なんてもの必要すらないのかもしれないと思ってしまうくらいだ。
なんて、馬鹿げた事を思いながらパンをスープに浸す。汁を吸っていくらか柔らかくなったそれを口に含みながら、これを飲み込んだら言おうと心に決める。
しかし照れと沈黙が咀嚼を緩めた。過剰にパンを歯ですり潰し、何度かタイミングを逃し、しかし最後には観念して唾液と混ざって泥のようになった食物を飲み込んだ。
よし、言うぞと腹をくくる。そうして唇を開くと共に吐き出されるはずの言葉は、向かいに座る子供の「名前が欲しい」という発言に潰された。
「…………え?」
「名前が欲しいと言ったのだ。いや、必要、と言うべきか。いつまでもお前だのそいつだのと有象無象と十把一絡に呼ばれるのも馬鹿らしいからな」
何のことだと問いかける直前で、俺のことかと思い至る。つまりは俺があいつの名前を呼べないということが、あいつにとっては少なからず不愉快だったらしい。はあ、と目を丸くしていればそいつは「早く出せ」と強盗みたいに命令してきた。
「お前が呼べる、私の名を」
紅い瞳がじっとこちらを見つめてくる。その言い分を聞いて、俺はもしかしたらこいつとは案外仲良くやっていけるのかもしれないと思ったのだ。
「……あのさ」
「なんだ」
「俺もそれを……その話をしようとしていたんだよ。お前の名前の話。愛称でもつけてやれば、お前のこともちゃんと呼んでやれると思うからって」
「気が合うな」と笑いかければ「……お前の口は牛の歩みほど
気に入るかはわからないが、そこまで変なものでもないだろうと考えていた愛称を口にする。
「じゃあさ、ユーレイン……ってのは、どうよ」
結構自信があった。悪かないだろう。ユーフェンよりは厳格な感じがあって、不思議に大人びたこいつの性質にあっていると思った。
どうだ、と言ってやれば、返ってきたのは沈黙だった。…………もしや気に入らなかったか?ここでは気が合わなかったか。
やらかしたという心地で匙を手にスープを掻き回していれば、「……それが私の名か」と呟く声が届く。顔を上げてそいつを見れば、どこか想定外だとばかりに驚いたような顔で俺を見ていた。
「……変だったか?そこまで捻ったつもりはなかったんだが」
「お前が無い頭を絞ったことはわかる」
「俺もそれが悪口なのはわかるぜ」
口と性格が悪いのは良く知っていた。普通のガキはこういう悪口は言わない。頭が良いことは認めている。性格の悪さと頭の良さという組み合わせは碌でもないが。
「気に入らねえんなら考え直すけど。それか、ほら、お前がお前自身で決めたっていい」
「私が一度でも気に入らぬと言ったか?」
「じゃあ気に入ったのかよ」
「お前が付けた、私だけの名だろう。……あの男とは別の名だ。お前にしては賢明な判断で、好ましい」
「……?」
そう言ってこいつは、ユーレインは笑った。
時折俺にはよくわからないことを口にするが、多分俺が知らなくてもいいことだろうと思ってわざわざ言及はしない。あるいは俺がわかろうとしなかっただけなのかもしれないが。
機嫌がいいことを隠さないまま、ユーレインは言葉を紡いでいく。
「名を付けるとは、存在を許すということだ。この世界にいてもいいのだと許しを与えることだ。名前を与えられた時に私は初めて生まれた。己で己の名を与え、己で己を定義するほかなかったあの憐れな男とは違う」
ジークフリード、とそいつは俺の名前を呼んだ。
月のように目を細め、唇を歪めて、多分、喜んでいたんだと思う。ガキのくせに、全然子供特有の可愛らしさがない笑顔だった。
「此処にいるといい。長く、私と共に。お前を傷つけるものは何も無い。誰もやってくることはない。血も剣も圧政者も辿り着けぬ理想郷。此処だけがお前にとっての全能者の影だ」
仰々しい物言いをする、と思った。神様嫌いのくせして、全能者の影などと語るのはこちらを皮肉ってのことだろうか。そのくせ本心みたいな声音をするものだから、どこまで本気に捉えればいいのか、困ってしまう。
「……ずっと?」
「ああ、ずっとだ」
「……まあ、母さんの脚が良くなるまでならここにいられるだろうけどよ」
「……メリダが、なんだ?」
「だから人の母親をファーストネームで呼ぶなって……。ほら、あくまでも俺は母さんの療養の付き添いでしか無いだろ?それも終わったら流石に村に帰らないとな。冬が来るまでには準備もしねえといけないし」
ずっと此処にいてと言われるくらいにはユーレインに気に入られていたらしい。子どもの我儘に現実的過ぎる回答をする返すのも大人げない気がしたが、子供騙しの言葉を返すのも誠実ではない。
だから、誤魔化すようなことはせずに、「いられるだけはいてやるよ」と返す。そうすればユーレインはどこか不意を打たれたような顔をして、それから呟いた。
「……そうか、
「そ。そういうもんなの」
「そうか、ならばそういうことでいい」
聞き分けがいい。やっぱり頭が良い子供だ。
俺は右手に持っていたカトラリーを置くと、テーブルの向かいに座るユーレインへ手を差し出した。
「まあ、そういうわけだからさ、改めてよろしくな、ユーレイン」
「…………」
ユーレインは俺の手をじっと見つめて、それから手に持っていたパンを皿へ置く。そして真似るように右手で俺の右手を握った。握り返すことに抵抗感は無かった。ただユーレインの指先に付いていたパン屑が俺の手にくっついて、その擽ったさに思わず笑う。一度強く握り返してから、手を離して食事を再開する。
「なあ、飯食ったら外にでも行くか?今日は天気もいいしよ」
「好きにするがいい」
「お前はまずちゃんと飯を食い切れよ。食わねえと背ぇ伸びねえぞ」
「…………」
「おい、返事」
「…………」
「強情だな……なんだ、林檎くらいは食えるか?剥いてやろうか?」
「食うかは知らんが剥いておけ」
「なんでだよ。食うと約束しろ。お前の魂に誓え」
結局自分の腹に収まる予感を覚えながらもナイフを手に取り皮を剥いてやる。
けどまあ、人の世話を焼くのは嫌いじゃなかった。母さんのことだって、別にずっと村で一緒に暮らして、俺が一生世話をし続けたってよかったんだ。母さんにとってはそれが一番苦しかったのだろうけど。瞼の裏でまだ炎が燃えている、今もなお。一晩中眺めていた。人の焼ける匂い。肉が燃え、脂が溶け、脚が一本、骨だけになるのを。ずっと待っていた。俺は待っていたんだ。朝が来るのをずっと待っていた。ひとりで、ずっと。
「ジークフリード」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「もういい」と、ふやけたパンが浮かんでいるスープを押し付けられた。呆れながらその皿を自分の方へ引き寄せる。代わりに剥いた林檎を皿に乗せてやれば、一番小さな欠片だけ手に取って、口へ持っていっていた。それで良しとしてやる。
……えーっと、なんでだろう。なんでか言わなきゃいけない気がするから、言っておくんだが。
俺の名前はジークフリード・ジンツァー。
生まれは平凡な農村。学は無いが、教会通いが功を奏してか人並み以上には文字が読めることが唯一の特技。
脚を悪くした母親が村の司祭からの縁でこの屋敷で療養をしていて、俺はその付き添い。宿代代わりにこの屋敷に住んでいる小生意気な子供──ユーレインの世話役というか使用人扱いで働かせてもらっている。……まあ、それは建前というか、実態は遊び相手みたいなものだ。
俺という人間について特筆するようなところは、多分……もう無いと思う。
例えば、悪魔が見える目なんてものもなければ、それに立ち向かう超能力も当然無い。この先の人生で世界中を回って旅をすることもないだろうし、御伽噺の中みたいな王様やら貴族やら騎士様なんてものにも縁は無い。平々凡々とした普通の人間だ。この屋敷にいる今だけが少し特別で、母の調子が良くなれば生まれ育った村に帰り、そこで変わらず農夫として生きていくんだろう。聖書の中にある物語は美しいけど、試練ばかりだ。俺はもうちょっと平らな道を歩いて生きたい。
……なあ、俺はなにかおかしいことを言って
──なにも。何ひとつとして可笑しいことなど無い。私がお前にとっての全能者の影となろう。お前は英雄になどならなくていい。十字架を捨てる必要は無い。影の中で微睡む、無力な羊のままでいい。
開けた覚えのない窓から吹き込む風はどこか冷たさを纏っていた。時折雲に陰りながらも陽光は確かに世界に降り注いでいる。それなのに不思議と、もうすぐ雨が降るような気がした。
手元に視線を落とした時、ナイフに張り付いた林檎の皮が血に見えた。それを握る己の手が本当に自分のものなのかわからなくなって、ナイフから手を離す。手を離そうと思ったら手を離したから多分俺の手なのだろうと思う。何も怖いものなど無いのに、理由のわからない不安によく似た何かがずっと俺の脳を不躾に触っている。ここは安全だとわかっているのに、自分の背後にあるベッドを見るのがどうしてか怖い。
何もおかしいところなんて無いはずのに、どうしてか違和感が
「ジークフリード」
名前を呼ばれて顔を上げれば、そこにはお前がいた。当たり前のように、当然のように、昔からずっと傍にいたかのように。応えるように俺はお前を呼んだ。「ユーレイン」と。でも、
俺は思わず不審げに
俺は問い質すように
俺は胡乱げに
俺は違和感を抱きながら
俺は訝しげに
俺は笑って言った。
「ん、どうしたんだよ」
「果実ももういい。お前にくれてやる」
「おまっ、ちょっとしか食ってない!端っこのちっちぇ欠片だけ!んもー!お前と飯食うと太る!俺だけ毎回二食分食ってる!」
「冬支度だ、越冬に向けて肥えておけ」
「クマか俺は!冬眠でもすんのか!」