幽鬼、魔だと思った。
絹のように長く艷やかな黒髪の女が戦場に立っていた。怒号や破壊音が響く戦場で、女が立っているその場だけ切り離されたようにしんとしていた。その白い羽織が雪原のように音を吸い取っているのかと思うほど。
一歩、歩く。
首。胴。腕。血飛沫。
女の周囲にいた騎士たちが悲鳴を上げる間もなく両断されていく。
一歩、歩く。
肺。心臓。
人が死んでいく。殺されたという感覚さえ無いままに死んでいく。
そこにいるだけで命を奪う。
その姿は死神のようだった。
あまりにも自然にやってきて自然に蹂躙を始めた女に、その場にいた騎士たちの反応はむしろ遅れた。花も手折れぬような顔をしながら、命を踏み潰すその姿があまりにも異様だったからだろう。
混乱する場の中、ニキータは隊の長として生存している部下たちの統率を取った。合流予定だったアルゴラの隊の方へ部下たちを向かわせながら、殿を務める。
異常事態に気がつかなかった己を内心で罵倒しながら、ニキータは数十メートル先、部下たちの死体の海を歩む女へ銃口を向けた。
そうして彼女が照準を合わせたのと引き金を引いたのは同時であり、そしてニキータのマスケットが切断されたのもまた同時であった。
「……え?」
長い銃身がその途中で両断されている。
霊子兵装とはいえ、鉄製の本物同然の強度を持った代物だ。それがストンと、容易く落ちた。
瞬間、考えるより先にニキータはマスケットを放棄して、素早く後ろへ跳んだ。あの場にいるのは危険だと、此処はすでにあの女の間合いなのだとわかったから。
──わかったからといって、逃がれられるかは別なのだけれど。
素早く、そしてできるだけ遠くへ退避したニキータの青い瞳に映ったのは、自身に迫り来る白銀の刃だった。
目の前にはすでに女がいた。弱者を蹂躙する無関心な瞳がニキータを捉える。死の淵、極限状態の中、スローモーションになる感覚の中でニキータは気がつく。
あ、死ぬ、と。
こんな無関心な刃の一振りで呆気なく死ぬのか。
恐怖を感じることはなかった。それよりもずっと深い無力感だけがある。
それだけ。彼女がそれ以上何かを思う間もなく、刀は冷たく振り下ろされた。
「──俺の可愛い部下だぞ」
キィィンと鋼がぶつかり合う高い音がニキータの鼓膜を揺らした。飛びかけた意識を揺さぶるような音と、安堵するほどに馴染み深い霊圧。
ニキータは汚れの無い、白く大きな背中を見た。
「おさわり禁止だぜ」
女とニキータの間に滑り込み、振り下ろされる刃を剣で受け止めたのはジークフリードだった。
彼は女の真横から数多の矢を射出させると、避ける為に重心を僅かに下げた女の腹を乱暴に足蹴にした。女はその勢いをむしろ利用して乱入者から距離を取る。その姿を逃すこと無くジークフリードは白帽の下から殆ど睨めつけるように見つめ続けた。
そして女もさして体勢を崩すことなく距離をあけると、一部の隙もなく、けれど刀を握った手をだらりとおろしながらじっとこちらを見ていた。
「た、隊長……」
「おう、怪我はねえな。部隊は?」
「アルゴラのところに先行させた」
「いい判断だ、偉いぞ」
背後のニキータへ視線を向けることはなく、しかし戦場に不釣り合いなほど優しい声でジークフリードは声をかける。
彼はニキータが霊子兵装を再構築するのを確認して、彼女の心が折れていないことを確認する。もしも立ち上がれないのならば、ハッシュヴァルトの元まで下がらせることも考えていたがその必要はなさそうだ。
だからといって、目の前の女死神とニキータを対峙させる気もなかった。自身が騎士として鍛えてきたニキータを弱いと評するつもりはないが、あの女と戦って勝つことは出来ないだろう。
技量も霊圧も明らかに圧倒的。そもそもこの女が戦士として強いのだ。将かと思ったが軍を率いてはいない。こんなのが一般兵ではないことを祈るしかなかった。とかくニキータはこの場から離脱させなくてはならない。
……此処ではなく、そして下がらせもせず。
そして、安全な場所。
ジークフリードはほとんど考えることもせずに口を開いた。
「ニキータ、お前はアルゴラと合流して早急に陛下の護衛に向かえ」
今の尸魂界において、滅却師にとって最も安全な場所はユーハバッハの傍だろう。ジークフリードはそう判断した。
最前線であることを加味しても最も強い者の傍にいるほうが安全だ。少なくとも彼女を護りながら戦うことのできない自分よりはマシだろう、と。
そんな彼の内心をどこまで理解していたか、ニキータは一瞬間をおいてから「了解」と頷いた。
「……隊長、早く来てね」
「ああ、もちろんだ」
この場から離脱するニキータの霊圧が遠ざかったのを感じて、ジークフリードは顔に出さないまま内心で僅かに安堵を抱く。……さて、ここからが問題なのだが。
「お喋り中、見逃してくれてありがとな」
「いいえ、私も虫や兎を殺すのには飽いていたところでしたから」
敢えて気安く語りかけるジークフリードに、女は柳眉を下げた。
「──少しは骨のある者を斬れると思えば、多少の我慢は容易いこと」
ゆるりと三日月のように上がる口角。そこが美しい屋敷や花園であったのならば、女の微笑む姿は1枚の絵画のように美しい光景だったのだろう。だが、彼女が作り上げた死体の海の中では、そのたおやかな笑みさえ悍ましいものにしか感じられなかった。
怖い、とジークフリードは素直に思った。
できれば帰りたい。でも帰ろうとしたら普通に着いてきそうで怖いし、そもそも帰る前に殺しにかかってきそうだ。だからといって、放ったらどこに行って誰を殺し始めるかわからない。
「……なあ、お嬢さん、話し合いって可能か?」
「ええ、語り合いは好きですよ」
そう言って女は己の魂の写身である斬魄刀を握り直す。剥き出しの刃紋が細く光るのを見て、ジークフリードは小さく溜息をつきながら、手に持っていた剣を弓へ変化させた。戦ってこの女を始末する他に、味方を護る術はないらしい。
数十メートルの距離で相対した二人は、遠くの喧騒を他人事のように聞いていた。遠くで、近くで、人が、人が、人が死んでいく。
もうこの場で息をしている彼らしかおらず、それさえ時を待たずして一人へ変わるのだろうと思っている。
女は抜いた刀をだらりと下げたままジークフリードを見る。彼もまた弓を手にしたまま、矢を構えずに女を見ていた。無言のまま、けれど獣のように互いを伺う。
視線は途切れない。隙は生まれない。
風が吹いて女の髪が僅かに顔にかかる。
粉塵にジークフリードが微かに目を細める。
仕方なく、互いにそれをきっかけとした。
まず矢が放たれた。構え、引き、離すという動作は少なくとも女の目には僅かにしか見えなかった。すでに矢は女の眼前に届いている。しかしそれは女の頭蓋を貫く前に砕け落ちた。だらりと下ろされていた剣を斬り上げ、矢を落とした女は自身の背後から飛んでくる数多の矢を最小限の動きで避けながら、男へ向かって跳ぶ。瞬歩。空間転移にさえ見えるほどの高速で、瞬きの間もなく女は距離を詰めた。刃、銀の軌道がジークフリードの首に迫る。避ける為にストンと膝を折り背が地に触れるほど身体を落としたジークフリードは背を反らせながら女へ向けて矢を撃つ。殺傷力より当てることを狙った胴への射撃は女が身体を捻り避けることで外れた。むしろ捻じる回転の勢いで振られた剣がジークフリードの赤い腕に線を作る。
わずか数拍の中での攻防。再び距離を取り、体勢を戻す二人。女は声なく笑い、つられるようにして男も乾いた声で笑う。バクバクと鳴る自らの心音が五月蝿かった。
「……はは、俺怖いよ、お嬢さん。ちびるかと思った」
「御冗談を。まだ本気ではないのでしょう?」
「まさか、本気も本気。あんたに付いていくのでギリギリだよ。もう死んじゃいそう」
巫山戯たようにホールドアップするジークフリードの言葉に女は微かに声を上げて笑った。穢れを知らぬ少女の如き鈴の鳴るような声だった。それから「いいえ、死なないで」と微笑む。
「──私の渇きを満たすまで」
距離を詰めて女は左手で刀を振るう。両刀使いではないようだがどちらの腕でも刀を振るえるのだろう、その速度は先程まで右手で振るっていた時と何も変わらない。
「あんたの水分補給に付き合わせないでくれ」とボヤきながらジークフリードは霊子の波に乗って距離を取る。戦闘など自分の間合いの押し付け合いだ。刀の間合いに付き合ってやる必要は無い。
弓に矢を番えたまま飛廉脚で高度を上げながら空中を滑り、激しい夕立のような矢を降らせる。当たれば容易く致命傷になる威力の矢が振り注ぐ中、女は矢と矢の間に身を入れて避けようとして──ハッと何かに気がつくと素早く刀で矢を打ち払った。斬り捨てた矢の残骸には細く、けれど強靭な糸が絡まっている。もしも矢の間に身を滑り込ませて避けようとしていたのなら、矢同士の間に張られていた糸によって動きを阻害されていたことだろう。
「げ、バレたか」
「……小手先の技ですね」
「下らないだと思うか?」
「まさか、貴方はあらゆる手段で私に勝とうとしている。その必死さは尊べど嘲笑うものではありません」
「…………その思考回路でなんで殺し合いが好きなんだ?」
心臓を狙って放たれた矢は赤子の手を捻るほど容易く斬り落とされる。刃を振るって女は微かに首を傾げた。沈黙は僅かに、女はただ己の中にある事実だけを口にする。
「愉しいでしょう?」
快楽が理由である、となんでもないように女はそう紡ぐ。
その言葉にジークフリードは自身の心中に空白が生まれたことを知る。戦闘のために抑えつけていた感情が蘇る。一瞬、我を忘れかけた。そして気がつく。……俺は今、苛ついたのか、と。
女の快楽のために部下が殺されたことに、ではない。そこには少しも思考が至らなかった。
(──「人を殺し、奪うことでしか生きられない化け物にも意味があるのか?」)
泣き出しそうなほどに震える声。
軋むほど掴まれた手の痛み。
こちらを見つめる色の濃い紅。
遠い昔、真正面からぶつけられて、けれど答えることのできなかった問いかけのことが思い出された。
食うためでもないのに、感情のためだけに人を殺す。それは恵まれているからできることだ。そして恵まれているのは目の前の女だけではなく、自分自身もそうであると知っている。
女は己の快楽のために人を殺すのだという。
自分はいつか己の怒りのために人を殺した。
そこにさしたる違いはない。結局のところ、ただ自分本位なだけだ。戦いの中にある快感、命のやりとりのなかにある高揚感、人を殺す瞬間に抱く全能感。それらには経験がある。否定はしない、できない。
でも友達にはなりたくない。
俺が俺とだけは絶対に友達にはなりたくないように。
「……無意味な愉しみだな。本質的には他者を求めながら、それさえ排することしかできないお前はきっと永遠に孤独だ。安らぎなんざ、死に際にしか得られないだろうよ」
それまでの飄々としたものではなく、硬く苛立ちの混ざった声を出すジークフリードに、女は何かに気がついたような顔でそっと口元を手で隠す。
「ふ、ふふ」
「……なにを笑っている」
「いいえ、だって、おかしくて」
相手を傷つけようとして吐き出された言葉は、それが他者を傷つけ得ると知っているから紡がれるもの。鏡写しの心を見つけて、女はほくそ笑む。
「それは、誰に向けた言葉なのですか?」
人はその言葉を言われたのが己ならば傷つくと知っているからこそ、傷つけるための言葉を生み出せる。
本質的には他者を求めながら、それさえ排することしかできない。それが哀しいことだと知っているから、それを暴言として振るえるのだ。
どうしてそれが哀しいことだと知っているのか。
──だって、ずっと見てきたから。
(──「人を殺し、奪うことでしか生きられない化け物にも意味があるのか?」)
「…………あ」
ジークフリードの頭の中に無意識に浮かんだのは、ただこの世界で唯一護ると誓った友の姿。
(「本質的には他者を求めながら、それさえ排することしかできないお前はきっと永遠に孤独だ」)
(「安らぎなんざ、死に際にしか得られないだろうよ」)
……俺は今、誰に何を言った?
心が、乱れる。
戦場においては致命的な、隙だった。
「──破道の三十三『蒼火墜』」
衝撃に視界が飛ぶ。刀を持たぬ女の右掌が向けられた瞬間、放たれた爆炎によって宙にいたジークフリードは撃ち落とされた。
墜落していく中、機能しない視界を捨て、霊圧だけを頼りに矢を放つがそれが藁を掴むようなものだとわかっていた。女の剣が煙さえ切り裂くほどの速さでジークフリードへ振るわれる。
左腕が、飛んだ。
瞬間、軽くなった左半身に重心がずれ、ジークフリードの身体が受け身も取れずに瓦礫の中に叩きつけられる。
飛廉脚の要領で自身の周囲の霊子を操作し、無理やり身体を動かすことで致命傷だけは避けたものの、吹き上がる血と全身に満ちる痛みにジークフリードは思わず悲鳴を上げた。
「──あ゛、ああああああ゛ッ!」
瓦礫の中で身悶える身体。頭が肉体を欠損したことに気がついて滲む脂汗。右手で左肩を掴みながら肩で息をする。それでも顔を上げて、睨むように敵を見据えた。
「っ、クソッ……!」
「左手が無くては弓は扱えませんね。ではどう戦いますか?」
女は散歩するような足取りで、瓦礫の中へ墜落したジークフリードへ歩み寄る。
「腕の1本や2本が何です。首は繋がっている。心臓は動いている。なら貴方はまだ戦えるでしょう?」
立ち上がって、と女は囁く。期待に満ちた瞳で、片腕のない男を見下ろしてさらに求める。
「まだ足りません。もっともっと、戦いましょう?」
「……ここで見逃してくれたら、次会った時にまた遊んでやるって言ったら?」
「いいえ、今、今がいいの。今でなくてはだめ」
「我儘な女だな……」
ジークフリードは痛みに顔を歪めながらもどうにか笑ってみせる。なんとか身体を起き上がらせ、幾分か大きな瓦礫に手をついて立ち上がろうとする。
「あんたが思うほど、俺は強くない。だから期待には応えられない。……それでも愉しいのか?」
「ええ、とても」
女はジークフリードの数メートル前で立ち止まる。彼にとっても間合いの中だが、ここまで近づかれたら女の抜刀のほうが速い。
すぐ傍までやってきた死の予感に、彼は溜息をついてから女へ視線を向けた。
「今気がついたんだが、あんたってすごくきれいだな。長い黒髪も、白い肌も──」
軽口を叩いて男は笑う。
それでも死ぬ気はなかったから。
「──血がよく似合いそうだ」
ごぼり、と女が血を吐いたのはその時だった。
血の気の薄い、女の美しいかんばせ。その薄い唇の隙間から鮮血が溢れて、零れ落ちる。女は驚いたように目を開き、白皙の手で自身の口元に触れた。紅を引いたように女の指先までもが赤く染まる。
「……あ、ら?」
「アリジゴクって虫を知っているか?」
痛みを堪えながら見栄を張るように口角を上げてジークフリードは言った。
「ウスバカゲロウの幼虫で、普段は砂の中に潜って生きてる小さい虫だ」
治癒術は他人にかけるのは苦手だが、自分にかけるのならまだマシだ。ジークフリードは止血をしながら女に語りかける。姑息だが、せめて血が止まるまでの時間は稼ぎたかった。
「肉食だが、身体は肉を噛み千切るようにはできていなくてな、獲物を捕まえると中身だけを啜って食うんだ。食われた獲物は殻や皮だけになって死ぬ。ほら、ガキの頃に見たことないか?真っ白になって死んでるダンゴムシとか。アレがそうだ、中身だけ食われて空っぽになってんだよ」
「あなたは…………」
「あんた、自分の身体の中が今どうなってるかって考えたことあるか?」
ふらつき、視線がブレる。女の歩みが止まった。
ジークフリードは口角を上げる。
尸魂界はそこに存在するものすべてのものが霊子で出来ている。そして滅却師は霊子を自在に扱うことが出来る種族だ。
だから少しずつ女の肉体の内側の霊子を削った。
彼女の内臓を、肉を、血を、それらを構築している霊子を。
肉体の見える部分を削ればすぐに異変に気づかれてしまうと思ったから内側を選んだ。
女がお喋りに付き合ってくれてよかったとジークフリードは息を吐く。
口を開いてくれたから肉体の中身を弄くる霊子操作のイメージがしやすかった、と。
多少時間はかかるが、こんなこと滅却師なら誰にでもできる容易いことだ、と。
──果たして、そのようなことが滅却師に可能なのか?
滅却師の基本能力である「霊子の集束」を極限まで高めた霊子の絶対隷属、
だが、それは
そんな今はまだあり得ざる奥義をジークフリードはさしたる苦難もなくやり遂げる。虫が獲物の体液を啜るように。だって、
流石に肉体全てをバラバラの霊子に戻すことは出来ないとしても、外皮や内臓程度ならば出来るだろう、と。
はるか昔、若きジークフリードが初めて霊子で矢を構築した時、ユーハバッハはその矢を強制的に霊子の粒に戻し、己の支配下にいれた。やっていることはそれと変わらないとジークフリードは思っている。
……未熟な霊子兵装を崩すのと、霊子で出来た人の肉体を崩すのではまるで話が違うということにさえ知らずに。
霊子操作に限度も際限も物理法則もないと、他でもないユーハバッハがそう言っていたから。
ジークフリードはその言葉を愚直に信じている。信じているだけなのだ。
「ま、敵にわざわざ種明かしはしねえが。……今、あんたの中身はぐちゃぐちゃだ。むしろよくもまあ、ここまで立っていられたもんだよ」
ジークフリードは立ち上がる。
片腕が無いためにずれる重心を意識的に中心に保ちながら、自身の周囲に矢を構築した。片手が無い為に弓は射てないが、矢を放つことは容易い。苦しげに身体を折って咳き込む女へ向かって、ジークフリードが数多の矢を射出しようとした、その時だった。
遠くの空に、巨大な炎の柱が立った。
「──!?」
瞬間、時間差をおいて肌が焼けるような熱波がジークフリードの元まで辿り着く。罅割れそうなほど熱い風が彼の身体を襲い、ジークフリードは反射的に静血装に切り替えた。そしてあることに気が付いて、呆然と顔を歪める。
──見知った数多の霊圧が消え失せた。
小さな水滴が灼熱に蒸発するかのように。
方向は最前線。見上げた空は夜明けのように朱く、絶えることのない炎が血肉を吸って膨らんでいく。何が起きているのか、混乱を隠せないジークフリードの耳にころころと鈴を転がすような女の笑い声が響く。
「……嗚呼、あの人に刀を抜かせたのですね」
「お前、なにを……」
「あれは剣の鬼。ひとつの修羅。この私が従っても良いと初めて思った人……」
顔を上げて、女は笑う。鮮血に塗れた口元は人を喰った跡のようだった。
「……直にすべてが灰と化すでしょう」
「ッ、ユーフェン……!」
ジークフリードは駆け出した。碌に視線もくれてやらずに女へ乱雑に矢を放ち、炎の方へ向かう。
最前線にはユーハバッハがいる。その傍にはザイドリッツとヒューベルトがいるはずだった。俺がアルゴラとニキータを行かせてしまった。親衛隊たちの霊圧の感知が出来ない。その事実が示す意味を頭は理解してしまう。それでも嘆く間などなかった。ジークフリードは霊子で鳥を構築するとそれを後方のハッシュヴァルトへ向けて飛ばした。戦線は崩壊したと判断していい。後ろは逃がす。問題はユーハバッハだ。なんで俺は今あいつの傍にいない!
前線に向かうにつれて死体が増えていく。地を埋め尽くすほどの汚れた白。生きている者はいなかった。いや、息のある者はいたのかもしれない。けれどジークフリードは見向きもしなかった。警鐘のような鼓動に突き動かされるままに煉獄を駆け抜ける。
──最果てにその景色はあった。
血の匂い、肉の匂い、脂の匂い、それらが焼ける匂い。吐きそうになるほど懐かしい匂い。死の匂い。
死体の山を踏みしめて、ユーハバッハはそこにいた。
相対するは抜身の刀を手にした男。可視化された霊圧が燃えている。炎を纏った男。遠目にも圧倒的な霊圧は細い刀に収束し、それがユーハバッハへ向けられていた。剣を持たぬユーハバッハは男と対峙する。追い詰められていようとも無策ではないと、手が無いわけではないとジークフリードは知っていた。
けれど、ユーハバッハの、その背後。
ずるりと死体が起き上がる。ただ、静かに。朝に目を覚まして起き上がり、散歩へ行くかのような気軽さで、細身の刀を手に死神がユーハバッハの背後へ迫る。
ユーハバッハに不意打ちは効かない。
それは未来視を奪われる前、かつての話である。
その景色に喉が引き攣る。ジークフリードは失くした左手を霊子で無理やり構築すると、弓に矢を番え、男へ向けて放つ。
音速を超えた矢はユーハバッハの背後の男の肩を確かに貫くが、男は悲鳴さえ上げなかった。足場の悪い死骸の上、矢に貫かれる衝撃さえ耐えきって、ただ己の役割を果たすためにその鋒を黒いマントの奥へ深く、差し込んでいく。矢が飛んできたことに、背後に迫る者の存在にユーハバッハは気が付く。それももう遅い。
悲鳴じみた声を上げたのはジークフリードだった。恐怖に震える声で彼は振り絞る。
「ユーフェ──」
その声は最後まで吐き出されなかった。
自身の胸から生えた刃に、言葉は殺されたから。
「嗚呼、私を放って他の者を撃つなんて……」
ぬるりと湿度をもって囁くような女の声がジークフリードの背後から届く。耳元で落とされる鈴の音は悋気を抱く女のよう。
「この浮気者」
女はジークフリードを背後から貫いてそう呟いた。
ジークフリードは目を見開き、己の胸から生えた刃とそこに伝う鮮血に瞬きをした。
なぜ、この女が……?殺したはず……いや、違う。殺し損じたのだ。だって頭蓋を割っていない。首を切り落としていない。心臓を潰していない。死んだかどうかを確かめもせず、焦りのままあの場を離れてしまったのだ。新兵みたいな馬鹿をやらかしたと悔いてももう遅かった。
ずるりと刃を引き抜かれて、ジークフリードは前のめりに地面へ倒れ込む。胸に穴が空いている感覚、呼吸をしてもその穴からすべてが抜け出していってしまう。地に顔を伏せながら、無意識に前へ手を伸ばす。ユーフェンと名を呼んだつもりだった。声は風にもならなかった。自分の肉体を無理矢理に動かして顔を上げれば、終わりに向かって行く景色だけがそこにはあった。
「……炎はお前にとって、己の無力さの表れだった」
あの灼熱の中に、あの炎の中に友がいるのだ。向かわなくては、助けに行かなくては。
「最初は生まれ育った村で見た大火。燃え盛る家の中でお前は人を貪る虚を見た。お前は何もできなかった。……何もしなかった。正しいことだ。お前は幼く、弱かった。炎の中へ向かったとて、虚に立ち向かったとて、お前という死骸がひとつ増えただけだ」
伸ばした手の先に何かが当たる。焼けた目でそれを見る。三叉の
「二度目はお前が母の脚を焼いた火。病のために切り落とす他無かった脚。医者に言われるがまま、お前は麻酔も無く脚を切断される母親の身体を寝台に押さえ付けていた。激痛に死に際の如き悲鳴を上げ、暴れる女の爪の先がお前の頬に傷をつけた。痛みは無かった。ただ何もかもが遠かった。他人事のような感覚でお前は渡された脚を言われるがままに焼いた。流れる血のせいで上手く火がつかなかった。血が止まるのを待って、星が傾いた。うまく火が着いた時、お前は安堵して、それからそう思った己を嫌悪した。やがて炎は傍に座り込むお前よりも高く立ち昇った。血と肉と脂が焼ける匂いにお前は喉が焼けるほど吐いた。それでも火の前から逃げはしなかった。代わりに何もできなかった。孤独な夜が終わって、朝になり、火が絶えた頃、溶けた肉と脂が纏わりついた骨がそこにあった。医師の手に渡った母の脚がどうなったのかをお前は知らない。何をしたらよかったのか、何ができたのか、わからないままお前はずっと悔いている」
声が聞こえる。声が聞こえている。
嗚呼、目の前に誰かが立っている。黒衣を纏った黒髪の小柄な少年がそこにいる。こちらを見下ろす瞳は赤く、紅く、朱く、懐かしい色をしていた。少年は唇を開く。
「そして、三度目がお前の連理を焼いたこの炎。目の前の炎が見えるか。この日輪の如き灼熱が見えるか。これはお前の無力の象徴。お前の弱さの証明。お前は部下を死地に追いやった。護るべき友を孤立させ、見えている刃からも護れず、
違う。まだ死んでなどいない。あいつはまだ生きている。俺が生きている。俺が生きているのならあいつも生きている。あの男が真に死ぬ時にこそ俺は死ぬのだ。そうでなければ道理ではない。だから手を伸ばす。声は出せず、立ち上がれずとも、まだ俺にはやれることがある。
「もういい、もう手を伸ばすな。戦おうとするな。救おうとするな。護ろうとするな。お前がこれ以上傷つく必要は無い。お前が救うほどの価値など、あの男の命には無いのだから。お前が傷つくほどの価値など、この世界には無いのだから」
声は泣いているかのように震えていた。皮肉でも悪意でもないと知っていた。ただこちらを案じているだけなのだと。
それでも手を伸ばす。愛した騎士たちの影に手を伸ばす。愛していた。死体にならずとも愛していた。お前たちは父なる存在に繋がる幼子。俺はユーハバッハの写身。魂の破片。地に映る影法師。俺はユーハバッハと繋がっている。お前たちはユーハバッハと繋がっている。ならば俺もまたお前たちとも繋がっている。お前たちの影は俺の影だ。俺の影の一部だ。俺の影ならば操れる。俺の影ならば全てを飲み込める。
「……やめろ、やめてくれ、それを選んではお前がお前ではなくなる。肉を失い、貌を失い、心を失い、ただの機構となる。お前はひとつの大きな影となるのだ。そこに温度はなく、触れることも触れられることもできない。それの何がお前なのだ。どこにお前がいると言うのか」
己の影が波打つ。それに呼応するように、生者も死者も問わず全ての滅却師の影が揺れる。
地に額をつけていたジークフリードは笑いながら身体を反転させる。身体の端から溶けていく感覚があった。仰向けになれば赤い空、無表情にこちらを見下ろす女の顔と、苦しげにこちらを見つめる少年を顔があった。
「……は、はは、は、悪いなあ」
笑えば胸の穴から空気が漏れるみたいだった。ヒュウヒュウと風の音。大火は人命を吸って天高く、頂を目指していく。悍ましいのに美しい。それを地に這いずって眺める様はさながら虫けら。それでも、構わなかった。
「お前とは踊れない」
少年は悲しげに目を伏せた。一滴だけ、雨が降る。
女は何かに気がついて素早く刃を振るう。けれどそれはほんの少しだけ、遅かった。
ひとつの修羅が刀を振り下ろした、瞬間の閃光。
旅禍の親玉を尸魂界ごと焼き尽くさんばかりに振るわれた刃。
光が世界を焼いた。
空白、沈黙、破壊、その果てに世界に色が戻る。
そこで死神たちが見たのは、終末。
それまで数多に積まれていた死体の山から滅却師だけが消え失せていた。
斬り捨てたはずの敵の親玉も、女がとどめを刺そうとしていた男も、まるで初めからそんなものすべて幻であったかのように消えていた。
残ったのはいくらかの死神の死体の群れと、壊れ切った瀞霊廷。
戦争は終わっていた。
「……参ったな」
──夢を、見ていたみたいだ。境界の夢を。
夢か現か、あるいはそれらが混じり合ったものなのか。
現実によく似た生々しい鮮明さと、夢の岸辺に立つ曖昧な感覚は両立していた。
重い瞼を開けば、そこは見慣れた屋敷の部屋の中。
俺はテーブルの一席に座り、そして向こう側には変わらず少年がいた。その顔を見て、眦が下がる。
「その顔で泣かれると、堪えるよ」
瞳に目一杯溜めた涙を一筋、声も無く零す子供へジークフリードは苦笑しながらそう言った。