Generalpause
とっくに痛みはなかった。
すでに感覚自体が無かったから。
影のように真っ暗な空間の中で、ニキータ・デスロックはひとり、立ち尽くしていた。
前後の記憶ははっきりしていない。覚えているのは戦場のこと。己の眼前に迫る死神の大火。それから、目の前に割り込んだ大きな影。自分を庇うように間に入ったその影によって、ニキータは即死を免れた。
そう、即死は免れたのだ。
誰かに護られた。庇われた。だから、死ななかった。
それでもとっくに致命傷だった。
護ってくれた相手が一瞬で溶け尽くすほどの灼熱はその背後に隠されたニキータをも焼いた。
視界は殆ど機能していない。大半がもう真っ暗で、水の中のように朧気な景色が視界の中心にまだ僅かに残っているというくらいだ。自分が今どこにいるのかもまったくわからない。
ただ、もう音は聞こえない。戦場の剣戟も悲鳴も怒号も、轟々と音を立てて仲間たちを飲み込んでいくあの炎の音さえも。それが自分が安全な場所まで辿り着いたからなのか、とうに耳も聞こえなくなっているからなのかはわからない。
状況はわからないが、自分のことならばいくらかわかる。
ひどい火傷が全身を覆っている。肌は焼け爛れ、肉どころか骨まで露出しているところがある。痛みがないのが救いだ。けれど、それよりも、とニキータは内心で思う。
多分、髪も燃えてしまったのだろう。
(「じゃあ、金髪は?」)
(「大好きだよ!!」)
隊長が好きだと言ってくれた金色の髪。……まあ、あの時は半ば無理やり言わせたようなものだったけれど。冗談でもその場の勢いでも、嬉しかったのだ。
だから、綺麗に伸ばしていた。
己の見目になど関心はなかったけれど、あの人がそう言ってくれたから。
隊長は、陛下のもとにいるだろうか。
陛下を護ってくれただろうか。
霊圧を辿れば、不思議と自分が今ここにいるその空間そのものが彼の霊圧の中であるかのようだった。だから、安心する。
そもそもここが瀞霊廷の中で戦場の真っ只中ならば、ぼんやりと突っ立っている滅却師などとうにとどめを刺されているはずだ。そうでないのだから、ここは安全な場所なのだろう。
周囲の霊圧を確認すれば、己と同様に殆ど死にかけの、けれどまだ生きている滅却師たちがいることがわかった。
多分、きっと、隊長がみんなをここにつれてきてくれたのだ。護ろうとしてくれたのだ。
ニキータは壊れ切った身体で前へ進む。
誰かを探すように霊圧を辿り、その人の方へ向かう。歩いていても感覚は殆どなかった。もしかしたら歩いていると思っているだけで本当は倒れているのかもしれないと思った。
それならば這いずってでも向かわなくては。どうせ死ぬのだ。ならば最後まで悔いなく生きなくては。生かされた意味を遂行するのだ。
死に向かいながら彼女は歩く。永遠のような道程だった。辺りからは苦悶の声が聞こえ、消えかけの弱々しい霊圧ばかりが辺りに転がっている。そばで一つの霊圧が消えた。己とて、いつそうなってもおかしくなかった。それでも、例え向かう先が千里の果てだろうと命がある限り彼女は歩いただろう。
そうしてニキータは死に至る前に辿り着くことができた。
朧気な視界で、その黒の前で膝をつく。
そうして、呼び掛ける。振り絞る、声で。
「……ぁ、…………」
「……そこにいるのか、ニキータ……」
「…………は、ぃ、……へ、いか……」
主君たるユーハバッハの元へ辿り着き、彼女は彼を呼ぶ。
ニキータ・デスロックは光の帝国の騎士だ。
皇帝ユーハバッハの親衛隊だ。
命ある限り、騎士として彼を支え、護る者だ。
ニキータは少しでもなんでもないように見えるよう、焼け爛れた顔で微笑んでみせた。それがただの顔に張り付く肉の歪みにしか見えずとも。
ユーハバッハは壁を背に浅く呼吸を繰り返していた。彼もまた決して無事とは呼べるような形ではなかった。とうに深く深く破損している。修復は容易いものではない。それどころか、生存のために今すぐあらゆる手段を取らねばどうなってもおかしくはない程だった。
それでも目の前のニキータの姿を見て、ユーハバッハの心は酷く痛んだ。
目の前に苦しむ民がいながら、今の自分には救えないとわかってしまったから。
戦場で散った滅却師たちの魂が還ってきてもなお、死神に斬られた肉体の回復には足りない。そんな状態で他者に分け与えることなどできるはずもなかった。
「へいか……ごぶじ、ですか……」
「ああ、この身はお前たちの尽力によって生き永らえている」
「た、いちょ、は……」
「口は利けぬが此処にいる。……安心しろ」
「……ん」
ニキータが笑ったのだとユーハバッハにはわかった。彼女がジークフリードによく懐いていたことを知っている。ジークフリードもまた彼女を慈しんでいたことを知っている。その景色さえ、愛おしく護るべきものだったはずだ。それが、こんなものが、この世界の、なにが。
暗い絶望に顔を歪ませるユーハバッハに、ニキータは肌が爛れ落ちた腕を伸ばした。
その手で、ユーハバッハの大きな手を握る。
彼女は難しいことなど考えていない。ただ、傍にいるのだとわかって欲しかっただけ。だから笑ってみせた。なんでもないみたいに。死なんて怖くないみたいに。
「へいか、どうか、わたしたちのいのちを、おつかいください」
騎士たちの命を使ってくれ、と。
なんでもないように紡がれたその言葉に、男は息を呑む。けれど、本当はもうそうするほか無いとわかっていた。
誰かを犠牲にせずには生きられない。それが自分という命の根源。どれだけ愛していても、どれだけ護りたいと願っても、どれだけ救いたいと祈っても、変わることのない無様で救いようのない原初。
理解している。それでも心は拒絶した。本当は誰からも、何一つ奪いたくなどなかった。初めから、ずっと。
「……わたしたちはもう、しにます」
微かに震えた掌に、ニキータは穏やかに語りかける。怖くないよ、と幼子に教えてあげるみたいに。
「このまま、たくさん、くるしんで、しぬ。だから、たすけて、へいか。いたくないように、して」
「……ニキータ、それは──」
「どうか、わたしたちのいのちに、かちをあたえて」
その言葉はユーハバッハの胸を刺し貫いた。
──赦しを、与えられたのだ。
彼女はたった一瞬で、理不尽な簒奪を意味のある救済に変えてしまった。
救うこともできずに見送るしかないユーハバッハを糾弾することもなく、ニキータはただ苦しみ果てて死んでいく騎士たちに穏やかな介錯を与えてほしいとそう告げた。
ニキータはできるだけ強くユーハバッハの手を握ったけれど、それは彼には肌を撫でるような弱々しいものでしかなかった。それでもこの手を取ってくれた。そこにユーハバッハは遠いいつかの夜明けを想起する。
……どうして、誰かを護ろうとする者ばかりが傷つくのだろう。
どうして、彼らの魂の安寧をこの世界は許してくれないのだろう。
……どうして、私はこんなにも小さく、弱いのだろう。
嗚呼、もっと力があれば。この世界を変えるほどの強大な力があったのならば。
ユーハバッハは顔を歪める。ずっと護られてばかりだった。親衛隊たちにも、ジークフリードにも、今、目の前にいるニキータにも。光の帝国はユーハバッハにとって愛おしい日々だった。護りたいものだった。いずれ失われると知っていたから、永遠を求めた。その果てが、今なのだとしたら。まだ、未来は変えられるというのならば──。
ユーハバッハはニキータの手を握り返す。もうその感覚さえ彼女に伝わっていないとしても、大切なものにふれるようにその手を握った。
「……許してくれ、ニキータ」
溢れた嘆きに、ニキータはなんでもないように笑う。いつか親衛隊の全員がジークフリードに言われたのだ。
「死ぬ時は怖がるな」と。
滅却師の魂はユーハバッハの元に還る。死者の魂の最期の叫びもまた、容赦なくユーハバッハの元まで辿り着く。彼に鮮明な死の恐怖と、救えなかった命への哀しみを与えてしまう。だから、恐れるなと彼は言っていた。
怖くなどないと、ニキータは本心から思う。陛下の力になれて嬉しい。誇らしい。貴方の臣下でよかった。愛おしい日々だった。幸福な人生だった。
肉体は失うとも、魂は変わらずあなたの傍にある。
だからニキータは笑った。
「……ふ、ふふ、どこにもないつみを、どうやってゆるすのですか、へいか」
その優しさを前に、この手を握る彼女の手の力が、温もりが失われてしまう前に、ユーハバッハは唇を開き、声を震わせる。
故に詠唱はただ、半旗のように紡がれる。
「──掲げよ」