バッハ「私たちは友達だからだ」   作:ホネホネ

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Alice in Wonderland

 

視界の端で何かが動いた。

それに気がついたリルトットは反射的に銀架城の長い廊下の奥へ視線を向ける。

見えざる帝国の、月夜のように薄暗い昼間のことだった。

 

胡乱げに目を細めれば、廊下の先に丸くて白い毛玉が転がっているのが見える。

 

…………毛玉?

リルトットは二度見した。

 

もしも自分が洗脳されていて存在しないものを見ているのでなければ、廊下の先にいるのは白い兎のように見える。

 

……兎が何故城の中に?

どこからか入り込んだのか?

 

兎は長い耳を伏せたまま、廊下の先でキョロキョロと周囲を見渡すと、唐突に軽い足取りで曲がり角を走っていく。

別に放っておいたって構いやしなかったのだが、リルトットはなんとはなしに周囲を見渡すと、誰もいないのを確認してからその兎を追いかけた。

 

別に小動物を愛玩する趣味はこれっぽっちもないが、もしかしたら誰かが隠れてペットにでもしていたのかもしれない。

ここの城にいる連中は動物を愛護する気持ちどころか、人間に対する真っ当な情さえ持ち合わせていないような連中ばかりだ。碌でも無い奴らに見つかれば、戯れに蹴り殺されるかもしれない。

 

その前に拾ってやってもいい。丁度暇だったのだ。もしも飼い主が見つからないのなら、食堂に持っていけば捌いてくれるだろう。なかなか肥えていたようだし、食いごたえはあるだろう。

 

そうしてリルトットは兎を追いかけた。

まるで御伽噺の中の少女みたいに。

 

角を曲がれば、その先にまだ兎はいた。無機質な廊下に不釣り合いなふわふわの毛皮で今度はさらに廊下を曲がって奥へ駆けていく。誘われるようにしてリルトットもゆっくりと追いかける。悪い気分じゃない。むしろなんだか、少しだけ楽しい。

 

兎を追いかけて廊下を進む。階段を上がる。

本気を出せばいつでも捕まえられるけれど、それをしなかった。少しずつ距離を縮めながら追いかける。

 

長い耳が揺れる。

追いかける。

丸い尾が跳ねる。

追いかける。

白い足が駆ける。

追いかける。

廊下を走って。

右に曲がって。

左に曲がって。

前を向いて。

足音はカチカチ、時計の秒針。

白い廊下に黒い影。

モノクロの城はトランプの兵士。

螺旋階段を上がってく。

ぐるぐるぐるぐる逆さま逆しま。

少女が穴に落ちてくみたいに。

 

長い長い階段を上りきった先、兎は更に城の奥の方へ走っていく。何の躊躇いもなく。まるで行き先がはじめから決まっているみたいに。

どこに行くのだろう?不思議と好奇心が疼く。

リルトットは夢中になっている自分のおかしさにも気が付かずに兎を追いかけてさらに足を踏み出した。

 

「リルトット・ランパード」

 

その瞬間、不意に予想打にしていなかった方向から名前を呼びれて、びくりと肩が跳ねる。

 

パチンと夢から覚めるみたいな感覚。星が飛ぶ。

リルトットは目を瞬かせながら周囲を見渡した。知らない景色、知らない廊下。いつの間にこんな見知らぬところまで来ていたのだろう?

己の名を呼んだ声の方へ視線を向ければ、ひどく背の高い男がこちらを無表情に見下ろしていた。その男の名を呟く。

 

「ハッシュヴァルト……」

「ここは立入禁止区域だ。何故お前がいる?」

 

そこにいたのは星十字騎士団の最高位であるハッシュヴァルトだった。

感情の読めない彼にそう問われて、リルトットは初めて自分が立入禁止区域に侵入していることを知った。困惑が胸を占めるが黙り込むような性格でもない。リルトットは口を開いた。

 

「兎を見かけたんだよ。追いかけてたら此処まで……」

 

廊下の先へ指を指し、そこまで言ってからリルトットは我が事ながら呆れた。本当だとしても、ハッシュヴァルトはこんなことを言われて「では仕方ないな」と見逃してくれるような男ではない。厳格で真面目で頭でっかちな野郎。

 

まして、兎を追いかけて此処まで来ました、なんて今どき子供でも言わないような言い訳、信じてもらえるはずもない。リルトットは兎が駆けていった方へ視線を向けるが、兎が戻ってきて姿を現すこともなかった。諦めたように溜息を吐く。

 

「ああ、クソ、気が付かずに入ったオレに非がある。好きに処罰しやがれ」

「……兎、と言ったか?」

 

ハッシュヴァルトの言葉に、リルトットは顔を上げる。そうすればあまり見かけたことのない表情をする男の姿があった。まるで遠い記憶を思い出しているかのような顔に、リルトットは微かに首を傾げながらも肯定の意を示して頷く。

 

「……そうか」

「なんだよ」

「……いや、なにも。つまりお前は害意を持って侵入したわけではないのだな」

「たりめーだ、んな命知らずなことするかよ」

「ならばもういい。早く戻れ」

「……は?」

 

リルトットは目を見開いた。ハッシュヴァルトが見逃してくれるような発言をしたなんて、信じられなかったからだ。

 

「……いいのかよ」

「日頃の言動を顧みるにお前が侵入の言い訳に兎だなんだと馬鹿げたことを並べるとは思えない」

「……そりゃあそうだけどよ」

「私も暇ではない。今回だけはお前の言葉を疑いはしない」

 

そう告げるとハッシュヴァルトは、もう行けとばかりに軽く顎を上げた。あっさりと許されてしまったことに違和感はあれど、わざわざ望んで処罰を受ける気もない。リルトットは無言で頷くと、ハッシュヴァルトへ背を向けて来た道を戻っていった。

 

その小さな後ろ姿をハッシュヴァルトは無言のまま、けれど思うことばかりを抱えたまま見送る。

 

「…………兎、か」

 

そうして少女が去った後、ハッシュヴァルトは俯き、そうひとりごちた。

静まり返った城の一角で、思い出すのは子供の頃。騎士団に入ったばかりの頃、目に見えるものすべてに怯えてばかりだった自分へ手品を見せてくれた彼のこと。あの日見た、白い兎のこと。

 

「……ジークフリード様」

 

ハッシュヴァルトはリルトットの発言を嘘だとは断じない。野生の兎が城内に入り込むわけもない。ましてこんな奥にまで。

心は微かにリルトットを羨む。見たかったな、と思う。それが例え遠い日の陽炎でしか無いとしても。

 

彼はリルトットが指さしていた、廊下の奥へ視線を向ける。

そうして歩き出した。ブーツがコツコツと硬い床を叩く音だけが響く。

 

ここは城の中でも最深とも呼べる場所であり、ユーハバッハと、許されたハッシュヴァルトのみが立ち入ることのできる区域だ。

 

此処にあるのは一つの部屋。

それ以外は何も無い。部屋の中に一般的に価値のあるものが置かれているわけでもない。

 

ハッシュヴァルトはその部屋の前に立つと、ノックもせずに扉を開く。それから、いつかの誰かの真似をするみたいに、扉を開いてからノックをしてみた。コンコンと音が響く。ひどく寒々しく、耳につく音だった。

 

扉を開いたまま、ハッシュヴァルトは中へ入る。

薄暗い部屋の中へ。

 

四方の壁に窓はなく、不安になるほど広く殺風景な空間に椅子とベッドだけが置かれている。生活感はない。当然だ、ここに生活をしている者はいない。

部屋の中は奥に行くにつれてより暗くなっていく。

扉を開いていても部屋の奥は真っ暗で、どれだけ目を凝らしても深い闇が広がるばかり。

 

ハッシュヴァルトはベッドのほうへ足を進める。

誰かの穏やかな眠りのために用意されたのに、誰にも使われていないそのベッドには酷く古びた、それでいながら大切に扱われてきたように見える黒いテディベアだけがあった。

それに視線を落としてから、ハッシュヴァルトは傍の椅子に腰掛ける。ぎぃと軋む音が酷く耳障りだった。

 

「……ジークフリード様」

 

ハッシュヴァルトは縋るように彼の名前を呼んだ。部屋の奥に向けて、返ってくるはずのないと知って。

 

城の最深にあるこの部屋は、見えざる帝国の中で最も濃く深い影がある場所。

 

この影こそが帝国を護り続ける影の領域の根源であり、ユーハバッハの忠実な懐刀の成れの果てである。

 

千年前の戦争の時、壊滅状態となった滅却師をジークフリードは自らの影に引き込んで、死神たちの手の届かないところへ逃がしてくれた。

その代わりに、自らさえ影と成り果ててしまった。

 

死んだわけではない、とユーハバッハはハッシュヴァルトへ教えてくれた。ただ己と他者の境界が緩んで、解けて、融けてしまったのだ、と。

魂は変わらず此処にある、とユーハバッハは言った。けれど、彼が昔のように人の姿に戻れるのかどうかについては一度も口にしなかったし、ハッシュヴァルトも聞かなかった。……聞けるはずもない。

 

ハッシュヴァルトは時折、この部屋へ訪れる。

心が疲弊した時、不安に押し潰されそうな時、一人になりたいのに一人きりは嫌な時、この部屋を訪ねてはこうやって椅子に腰掛けて、ジークフリードの霊圧を探してみたりするのだ。

 

……感じられたことはないけれど。

ハッシュヴァルトは深く溜息をつく。

此処に来て思うことはいつも同じだ。

 

あなたがいてくれたのなら。

私の傍にいてくれたのなら。

陛下の傍にいてくれたのなら。

此処に来るたびにいつもそう思ってしまう。

 

千年、長い月日が巡った。何もかもが変わり果てて、愛しい記憶を遠く置き去りにしたまま、背を向けて進み続けてきた。千年、あまりにも長い、停滞の日々だった。

 

ハッシュヴァルトはベッドの上のテディベアへ視線を向ける。

この縫いぐるみに身に覚えはない。ハッシュヴァルトが置いたのでなければ、選択肢は自然と一つになる。

彼がなぜそれを置いたのかはわからない。問うこともしない。そして、変わらず此処にあり続けるそれにハッシュヴァルトが触れたこともない。少なくとも、自分のものではないことだけは確かだったから。

 

陛下に伺えば答えてくださるのかもしれないけれど。

そう思ってから、ハッシュヴァルトは長い睫毛が並ぶ瞼をそっと伏せる。

 

ユーハバッハがこの部屋を訪れているのを彼は見たことがない。彼が此処を訪ねていたという痕跡さえ、見つけられたことはない。

 

きっと彼は彼の意志でこの部屋を訪れないことを選んでいるのだろう。

その心はハッシュヴァルトにも察せられる。

 

この深い影がジークフリードなのだとしても、会いたいのはこの影ではない。屈託無く笑う世話焼きなあの男に会いたいのであって、声も鼓動も無く、触ることさえできない影を伽藍洞な部屋の中で眺めたいわけではないのだ。

 

千年、長い月日が巡った。ジークフリードと共に過ごした日々は精々十年ほどだというのに、この影のことはもう千年も眺め続けている。

ハッシュヴァルトはもう自分の記憶の中のジークフリードの顔と、本当のジークフリードの顔が一致しているかどうかさえ証明できない。自分の記憶が摩耗していないとどうして信じられるだろう。確かに存在していた人はさわれもしない遠い過去の中で水中の中のように輪郭をぼやけさせていく。

 

陛下もきっとそうに違いない。

共に過ごした時間より、失ってしまった時間のほうがもうずっと長い。

それなのに、自己の記憶が少しも摩耗していないなんて思えるわけがない。

何も忘れていない、何も失っていないとどうして信じられる?誰が証明できる?

 

忘れていく。置いていく。

そうして失くしていく。

なにもかも、心とは裏腹に。

 

ハッシュヴァルトは祈るように手を組んだ。そうして部屋の奥へ呟く。

 

「……ジークフリード様、どうか陛下をお護りください」

 

千年、長い月日が巡った。何もかもが変わり果ててしまった。

光の帝国は滅び、生まれた新しいこの国は歪んでいる。私たちは何のために、誰のために戦っているのだろう。

誰も救われないまま、世界は変わらないまま、捻じれ、壊れ、歪み、狂い、陛下は変わり果ててしまった。

あのお方の昔のような穏やかな笑みをもうずっと見ていない。こちらの名を呼ぶ声の中にあった温みをもうずっと感じていない。

 

何もかもが坂を転げ落ちるように壊れていく。

何もかもを助けてほしいと思った、あなたに。

 

 

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