ひとりきりの部屋で、ユーハバッハは窓辺に立つ。
紅い瞳で見上げた空は灰色の雲で満たされていた。そう時を待たずに雨が降るだろう。
屋根の上の気配は探るまでもなくそこにあって、少年はさして思案することもなく窓辺に身を乗り出した。窓枠に足をついて立ち、何もない窓の外へ一歩踏み出す。常人であればそのまま落下していくはずの体は、けれど変わらずそこにあった。霊子を収束して作り出した足場の上に立った彼はさらに高い屋根を見上げてから階段を昇るようにそちらに向かって歩き出す。
「よう」
やってきたユーハバッハに気がついたジークフリードは軽く手を上げて口角を上げる。
彼の周囲には無数の霊子の矢が浮かび上がり、敷地の外にある森の方へ向けて次々に射出されていく。
霊子操作を教えて以降、ジークフリードは日がな一日こうやって遊び半分に滅却師としての力を使っていることが多かった。
目覚めた力を意のままに使うことが楽しくて仕方なかったのだろう。それは己の四つ足で移動できることを知った赤子が体力が尽きるまで意味も無く這い回る様に似ている。
ユーハバッハもまたそれをそばで眺めたり、たまに茶々を入れて遊んだりしていた。
元は戦うための力とはいえ、撃ち倒すべき敵が頻繁にやってくるわけでも無い。虚はあの日以来現れていなかった。無為で平穏な日々が続いていた。
ジークフリードの元へ向かおうと、ユーハバッハは霊子の足場から屋根の上に降りる。
途端に彼の足元に小さな毛玉が寄ってきた。
柔らかな毛皮と長い耳、尻にくっついた丸い尾は何をせずともふるふると揺れている。
兎だった。
兎は警戒も無くユーハバッハの靴の先に前足を置くと、彼を見上げる。そのつぶらな瞳にじっと見つめられたユーハバッハは感情の無い瞳でそれを見つめ返した。そしてしばしの間。
「邪魔だ」
瞬間、ユーハバッハはその兎を足蹴にすると、構わず歩いてジークフリードの元へ向かった。斜めになった屋根の上を小さな兎が転がり落ちていく。
兎とユーハバッハの交流、そしてその顛末というその一連の流れを眺めていたジークフリードは「ウワ……」と引いた声を出す。
「お前最低だよ……普通蹴るか?こんなカワイイ生き物を」
「言葉は正しく使え。どこに生き物がいた?」
足蹴にされて屋根から転がり落ちかけていた兎は体勢を立て直すと逞しい脚力で屋根を駆け上がり、ジークフリードの元に戻ってくる。
そして彼のそばにぴたりと身を寄せると、すぐに霊子の粒となって消え失せた。
霊子操作に限度も際限も物理法則もない。
そう口にしたのはユーハバッハだった。
それをなんでも造れると解釈したのがジークフリードだった。
そうして生み出されたのが霊子によって構築されたあの兎だった。
流石のユーハバッハも意味がわからなかった。
「わざわざ霊子で人形を作ってまでこんなものを愛玩するとはな」
「いいだろ、好きなんだよ」
「稀有な趣味だ」
「前に言わなかったか?俺ここに来る前は農夫しててさ、よく野菜を食おうと畑に野うさぎが来てたんだよ」
「害獣ではないか」
「そう、だから罠に引っ掛けて捕まえて締めてよく食ってた。味もうまいし毛皮も獲れるし見た目もかわいい。完璧な生き物だ」
胡座をかいて座るジークフリードの組んだ脚の中で再び兎が造られる。彼は眦を下げながら兎を抱き上げると「もうちょい太らすか……食いでがある感じのほうがいいしな……」と呟いた。まさか霊子で造った獣を食う気ではあるまいなと思いながら、ユーハバッハはジークフリードの隣に腰掛ける。並んで座ったユーハバッハを見て、ジークフリードは機嫌の良さそうな声を出した。
「お、やっぱ抱っこするか?」
「いらん。寄せてくるな」
「遠慮すんなよ、おらおら」
少年の顔に兎の腹を押し付けては楽しげにけらけら笑う青年。
そんな彼へ、ユーハバッハは真顔で「その畜生を肉塊にされたくなければやめろ」と告げる。
瞬間、ジークフリードは素早く兎を引っ込めると「怖……」と呟いた。
「なんだ、嫌いなのか?だとしたら悪かったけど」
「単に鬱陶しいだけだ」
「そうか?」
「お前がな」
「俺かよ」
素っ気ない物言いを気にすることなくモチモチと兎の腹を揉むジークフリードを、ユーハバッハは緩く膝を抱えたまま黙って見つめる。
霊子操作に際限はない。確かにそう言ったのはユーハバッハだったとはいえ、まさかジークフリードが霊子でこんなものを作り出すとは思いもしなかった。
そう呆れ半分に驚くと共に、そのように拡張された力の使い方を興味深く感じてもいた。
これはユーハバッハだけだったのならば想像することさえなかった力の使い方だろう。個では生まれ得なかった手段の拡張。己の力を知ったばかりのジークフリード一人でさえそうなのだ。
もしも滅却師の群があったのならば、果たしてどうなるのだろうか。
それが軍だったのならば、国家だったのならば。
まだ一度も作られたことのない国家。
まだ一度も想像されたことのない武器。
まだ一度も実行されたことのない戦略。
まだ一度も記述されたことのない歴史。
数多の滅却師が、それぞれの思考を持って能力を拡張させたのならば、一体どのような未来が生まれるのか。
拡張されていく可能性。
果たしてそれがユーハバッハにとっての絶望なのか希望なのか、少なくとも今の幼い彼にはまだ判断のしようのないことだった。
ユーハバッハは取り止めのない思考を振り払うと、自らの手の中で霊子を構成する。
ジークフリードが兎を造り出したように、ユーハバッハは鳥を造ろうと思ったのだ。
「……ユーフェン」
「なんだ」
「……なんだって言うか、なんだよそれ」
「鳥だ」
「鳥ィ!?」
大きめのジャガイモのような歪な楕円状の体に、大きなツノ、そして人の掌のような二対の翼が生えた謎の物質。
ユーハバッハの手の中に生まれたのはそんなナニカだった。
「体があって翼があり、嘴もある。鳥だろう」
「そのツノって嘴なのかよ!刃物って言われた方がまだ納得するわ!なんかこう……可哀想!すべてが可哀想!」
「なんだその憐れむような顔は」
「無自覚にこんな悲しい存在生み出すんじゃねえよ……命に対するなんらかの冒涜だろ、それ」
「命……?霊子だぞ」
小首を傾げるユーハバッハに、ジークフリードはなんとも言えない顔をした。
自身の膝で頬杖をついたまま、思うところがあるような表情で自分よりまだ幼い少年を眺める。
そして、紅顔の少年の手元へ視線を下げた。そしてその手の中にいる翼の生えたジャガイモを見て素直に(ウワ、キショ……)と思った。翼というか掌がワキワキと動いている。
「ユーフェン、さてはお前、ちゃんと見てねえな?」
ジークフリードは呆れたようにそう口にすると、宙に軽く手を上げる。そしてその指先に鳥を、誰が見てもそうだと認識するほど精巧な鳩を造り出してみせた。
彼の指先に掴まった鳩は首だけを動かしてきょろきょろと辺りを見回すと、バランスを取るように羽を広げて数度その場で羽を大きく動かす。
「捌いてみりゃわかるが、生き物のパーツってのは独立してるわけじゃない。肉も骨もすべてがどこかと繋がって構成されてんだよ」
ジークフリードの造り出した鳩は軽く跳ねると屋根に足をつけ、ユーハバッハの目の前まで進むとそこで止まった。
「鳩は体はでかいけど頭は小さい。歩くときは首を前に出してから体を持ってくるし、右脚と左脚をバラバラに動かせる。あと食うとうまい」
ジークフリードの説明を聞きながら、ユーハバッハは時折小首を傾げつつこちらを見つめる鳩を見つめ返す。白目のない小さな瞳がやけに奇妙に見えた。
「前に描いてたあの下手っくそな絵もそうだけど、お前はきっと興味が無いからちゃんと見てねえんだ。だから実際の形とお前が作る形が違くなる」
「……関心が無いことは否定しないが」
「ま、こんな陰気な屋敷にいたらそうなるのもわかるけどな」
ジークフリードは笑って、屋敷の敷地内にある林を指差した。その指が指す方へ、ユーハバッハは無意識に視線を向ける。
「あそこの木に生えてる葉っぱだって一枚一枚、形が違うんだ。鳥の羽だって一つ一つ違う。この世に一人として同じ顔の人間がいないみたいに、俺たちが思う以上に世界は精巧に丁寧に出来てるんだよ」
「…………」
「だから、世界をよく見ろ。せっかく見える目があるんだ」
そこまで言ってから、ジークフリードは不意に何かを思いついたかのようにハッとすると、どこか訝しげな表情を浮かべる。そしてじぃっとユーハバッハに胡乱げな視線を向けた。
「……なあ、おい、ユーフェン」
「なんだ」
「さてはお前、人の顔の区別もついてないんじゃねえだろうな」
半分確信したような声音でそう告げるジークフリード。それに対してユーハバッハは鼻で笑うと反論するかのように答えた。
「ふん、愚問だな」
「あ、おう、流石にそこまでじゃねえか」
「人の区別など、霊圧や霊力で出来ている」
「じゃあやっぱ顔の区別はついてねえんじゃねえかよ!なんだその心外ですみたいな顔は!こっちが心外だわ!」
「判別ができれば問題ないだろう」
「んなこと言ってるから絵が下手くそなんだよお前は!どうせ俺の顔もちゃんと覚えてねえんだろ!」
ジークフリードはそう口にすると、ユーハバッハの両肩を掴んで自分と向き合わせた。真正面から向き合う体勢でお互いの顔を見つめ合う。
「毎日ツラ突き合わせてんだ。ちゃんと俺の顔くらい覚えろよ」
それくらい覚えている、とユーハバッハは言い返そうとして、しかしジークフリードの顔を見つめたまま黙り込む。
彼の顔を覚えていないわけではなかった。数多の人間が群れをなしていようと、その中からジークフリード一人を見つけ出すことは息をするように容易い。
けれど、とジークフリードを見つめながら彼は思った。
朝焼けを思い出すかのような赤毛の短髪に、新緑のように碧い瞳孔の三白眼。
気の強さを示すように釣り上がった眉と、見つめられていることに照れてきたのか耐えるようにへの字に曲がった口元。
大人と評するにはまだまろさの残る輪郭と、少し大きな耳の形。
すべて知っている。何度も見てきている。
けれど、とユーハバッハは思った。
まるで初めて見たかのような感覚だった。
お前はこんな顔をしていたのか、と今更な感情さえ覚える。
「……ジーク」
「んだよ」
もし「お前はこんな顔をしていたのか」などと口にすれば、きっと勝ち誇ったような顔で「ほら見ろ、やっぱり人の顔を見てねえんだお前は」と笑うのだろう。容易く想像がついた。だから強がりだと理解してなお、ユーハバッハは言葉を紡ぐ。
「お前の顔は、忘れない」
ユーハバッハはそう口にすると、掌の中の異物を本を閉じるように一度消し去り、それから再び霊子を構築して造り上げる。
ジークフリードが造り出したそれを見つめながら、同じように精巧で本物のような鳩を。
ユーハバッハの小さな掌の中から生まれた白銀の鳩は翼を広げると想像力さえ越えようと高く飛び立つ。
翼を広げ、自由にこの屋敷を、この箱庭のような敷地を離れていけるはずのその鳥は、けれどここを離れることはなく旋回し、敷地の中を飛び続ける。
「ジーク、あれを撃ち落とせるか?」
「……いいのか?」
「ああ、撃て」
ユーハバッハの言葉にジークフリードは空中に霊子の矢を構築すると、それを素早く射出する。
瞬間、放たれた矢は正しく鳩の胴を穿った。
飛ぶための機能を失ったそれは真っ直ぐに落ちて行き、空中で霧散して消えていく。
「なるほど、無為ではあれどこの程度は容易いか」
「なに、褒めてんの?」
「お前は肺呼吸を褒められた程度で喜ぶのか?安い男だな」
「……お前のそういう意地悪ってどこで学ぶわけ?ここに先生とか呼んでそういう勉強してんの?」
「独学だ」
「才能だな。もっと別のことを学べよ、絵とか」
「私を揶揄うための話題として絵しか挙げられないあたり、お前に大した才能は無さそうだな」
言い負かされて顔を顰めるジークフリードが屋根の上でバタつくのを横目に、ユーハバッハは今にも降り出しそうな空を見つめる。それに気がついたジークフリードも同じように見上げた。
「なんか、降りそうだな」
「ああ」
「中に戻ろうぜ。濡れると面倒だ」
霊子の足場の上を歩いて部屋の窓へ向かった。そんな二人の後を追いかけるように兎が跳ねる。
「ジーク」
「おう」
「明日は暇か?」
「あいにくお前と会う予定しかねえよ」
「外に出る。ついてこい」
「……外?」
「屋敷の外だ。趣向を変えたくてな」
「屋敷どころか、お前が部屋ん中と屋根の上以外にいるのを見たことねえんだけど俺。出ていいのか?」
「さあな」
「さあなって、なんかあったら怒られんのは俺なんだぞ……」
「では、やめるか?」
「やめねえよ」
「いいのか」
「いいんだよ、反抗期だからな」
「反抗期……後先考えられない馬鹿の言い換えか」
「お前俺より年下だからって殴られないと思うなよ」
明日が楽しみだった。
寺島修司『事物のフォークロア』から一部改変引用しています。