【追記】怪我した時期変更しました!このままだと1シーズン結果出せてないのにやたら凹んでる人になるので0
(時系列的には全日本ノービス終わった後の2〜4月くらいとお考えください。司先生の戻り&金弓先生加入が前倒しになってます)
大須スケートリンクの日曜日の朝は早い。うどん職人より早い。ここをホームリンクとしているスケートクラブは複数あり、そこに所属している選手たちの中でもやる気のあるメンバーが、初春とは言え太陽も開けきらぬような時間帯から、貸し切られた氷の上をスイスイと泳ぎ出すからである。
「おはよう」
「おはよ」
「おはようございます…」
「zzz……」
眠たげな子供の声、少年少女の声、はたまたリンクサイドで寝ているお疲れの親御さんの寝息、その他もろもろ。どれもこれもがひっそりと、抑えられたトーンの声たちが、広々とした氷の上で響き合っている。
そして、それらの声よりも強く、はっきりと。彼らが履く靴についた鋭いエッジが氷を削り、進む音が絶え間なくこだましている。
(……なんだか、エッジの音でおしゃべりしてるみたいだなあ)
結束いのりは、眠たげな目をこすりながらスケート靴の暇を結びつつ、ぼんやりとそんなことを思った。
この場所では時に、エッジの音は言葉よりも遥かに雄弁だ。目を閉じても、「スピードが出ている」「ジャンプをした」「スピン」「失敗」「止まった」はなんとなく聞き分けられる。それにどれくらいの体重が掛かっているか、もなんとなく分かる。もっと耳を澄ませば、このエッジの音は誰!まで聞き分けられるのかもしれないが、流石にそれを試す気はなかった。
シャア、と。
氷の上を居場所とする者たちの共通言語が、冷たい空気を切り裂きながら、とめどなく、滑らかな反響を伴いながら何重にも折り重なっている。
「いのりちゃん、おはよ〜」
「!おはよう、聡太くん」
のんびりした声がかかって、いのりは振り向いた。予想通り同クラブ所属の男子スケーター、
練習着に着替えてのんびり柔軟体操を始めた彼の側には、今日も今日とてSwitchが鎮座している。流石。
「昨日さ、友達とLINEで話してたんだけど、魚淵先生また日本戻ってきたんだって。友達も初めてハーネスで釣られてめちゃくちゃ楽しかったって言ってた」
「え!そう言えば先生に最後に会った時、飛行機が…って言ってたかも。また会いたいねぇ」
脳内では全体的にスナフキンぽい童顔コーチが、ハーネス片手にニコニコと笑っている。
「司先生のハーネスもいいけどね…あれ?いのりちゃん、美蜂先生来るのって今日もだっけ」
「美蜂先生は…えーっと、火曜と金曜日じゃなかったっけ。昨日会ったよね。今日は福岡の日じゃないの?」
スケジュール管理の苦手ないのりは、問われて曖昧に首を捻る。最近いのりが所属するルクス東山FSCに加わったメディカルトレーナー、
昨日の夜テーピングを張り替えてもらいながら話した記憶があるので、いのりのあやふやスケジュール管理を信用するなら次に会うのは2日後のはず。多分。
なんで?と聞くと、聡太はだってさ、と開脚をしながらリンクの対岸を指差した。
「あそこにいるの、美蜂先生じゃない?え、見間違いじゃないよね」
「ほんとだ!朝に大須で見るの、初めてかも。どうしたんだろう、特別な用事とかなのかな…」
聡太の言葉は確かだった。指さす先、向かい側のリンクサイドに立って、リンクを眺めているがっちりとした女性は間違いなく金弓美蜂その人だ。三つ編みに結われた淡い金の髪が、早朝のリンクスケートの反射光に照らされて白く色褪せるように輝いている。
彼女はまだこちらには気づいていないようで、リンク上を行き交う誰かをじいっと眺めているようだった。右、左、右、もっと右。眼鏡の向こう、髪と同じ薄い金の瞳が、忙しなく誰かを追っている。
ー誰を見ているんだろう。
ー魚淵先生みたいに、別のクラブの出張相談で来たとか?
いのりたちがメディカルトレーナーの地味な謎に興味津々になったところで、美蜂とぱち、と目が合った。
薄い色の瞳がやんわりと細まって、それから彼女は深々と会釈をした。そのまま、こちらへすたすたと歩み寄ってきた。
「おはようございます、いのりさん、聡太さん。こうして午前中にお会いするのは初めてですね」
「おはようございます」
「美蜂先生、おはようございます!先生、今日は福岡にいる日じゃないんですか?」
いのりの疑問に美蜂は驚いた風もなく、今日は特別に選手の付き添いでこちらに、と答えた。女性にしてはやや低めの声は、早朝ということもあってか流石に眠そうな響きがある。
「選手の付き添い?」
「そうです。現在福岡パークFSC所属の選手なのですが…せっかくですので、いのりさん達にも先に紹介しておきましょう。もしかしたら聡太さんは既に顔見知りかもしれませんが……
ぴん、と弓を弾くような美蜂の声が、まばらに人のいるリンクに通った。呼び声から一拍遅れて、影が1人分するするとリンクの右側からこちらへ滑らかに寄ってくるのを、いのりの目が捉えた。顔かたちまでははっきり分からなかったが、すらりとした体付きと、短い髪の毛からたぶん男子選手だろう。
「……え。航くん?」
驚いたように聡太の口からそんな言葉が飛び出した。知ってる人なの、と彼の方を振り向いて聞こうとしたところで、スリーターンをしながら寄ってきたその人が僅かに背を屈めるのが見えて、いのりは自然に氷の上に目をやった。
───とびきり高く、速いジャンプを跳ぶための仕草だ。
いのりは誰に言われずともそれを知っていた。
ざあっと氷を削る音がして、その男子選手は後ろ向きに踏み切って空中へと飛び出した。目にも止まらないような回転が、合計で──4回。それを余裕すら感じさせるような、柔らかく沈み込むような着地で降りた青年が、にっとこちらを見て笑うのが見えた。淡いグレーの瞳が、スケートリンクの氷みたいだった。
踏み込みは、右のエッジ。
(…4回転の、ループだ…)
希少な才能を持つ人間にしか許されない、選ばれた人たちのジャンプ。それを驚くほどあっさり着氷してみせた青年は、どよめく朝のリンクを気にも止めず、なんならついでにクリムキンイーグルを決めながらいのりたち3人の元でぴたりと止まって、それから上体を起こしてにっこり笑った。美蜂は呆れたように眉をほんの少し顰めた。
「呼びました?美蜂先生」
「呼びました…航さん。1日にできる4回転の回数は、覚えてますね?」
きつい美蜂の声にも、青年は堪えた様子がない。
「ハイ!10回です!ちゃんと今日はあと9回しか跳びません!」
「よろしい。限られた機会なのですから、きちんとジャンプの指導をしてくれる先生のもとで跳ぶよう気をつけてください」
「イエッサー!」
ふざけて敬礼をした青年はちらりとこちらに目をやって、いかにも人懐こそうな、明るい笑みを浮かべた。妖精みたいに綺麗で、中性的な面立ちの美青年だった。狼嵜光のような輝かしい美貌とは少し違う、ひっそりと、音のない美しさが顎爪の先まで満ちている。
歳はジュニア後半かシニア入りたてくらいに見えた。いのりよりも淡く、くすんだ茶髪がふんわりと優雅に額にかかっている。細身でしなやかそうな体つきが、どことなく大型の猫科動物を思わせるような青年だった。どこかで見たことがあるような気もしたが、どこで見たのかは思い出せない。
「おっす聡くん。顔合わせるのだいぶ久しぶりだよね?背、伸びたなぁ」
「航くん、なんで名古屋いるの?こっちでなんかレッスンとか受けるの?」
青年は馴れ馴れしく、リンクサイドの壁に肘をついてひらひら手を振った。
「違う違う。うちのお父さんの転職でさ〜単身赴任するかとか色々家族会議した結果、俺も名古屋に引越しすることになったの。今は移籍先候補のクラブ何個か回ってる途中」
「ええ!?移籍!?」と、聡太。
「そ。ていうか聡くん、今って『モンスターマーダー』やってる」
「航さん。初対面の方がいるのですから、先にご挨拶をしましょうか」
楽しげに話し始めた男子勢に、ぴしゃりと美蜂が釘を刺す。すみません、と首をすくめた青年は、いのりより遥かに高い身長を屈めて少女と目を合わせると、その淡いグレーの目を柔らかに細めた。
「ごめん、つい話しすぎちゃって…結束いのりちゃんだよね、全日本ノービスAに出てた」
「は、はい!そうです!」
「俺、
「結束いのりです!ルクス東山所属で……えっと、今年からじゅ、ジュニア1年目です!よろしくお願いします!」
よろしく〜〜と、航と呼ばれた青年はご機嫌そうにニコニコしている。優しそうなお兄さんだ、といのりはホッとした思いで青年を見た。先ほどのクワドループと同じように、軽やかで、人目を惹きつける華やかさがあって、力んだところの少しもない人。そんな印象だった。
「航くん、ルクス東山に来るの?うち、他にジュニアの男子選手いないけど…」
「迷い中!ここか、愛西ライドか名港ウィンドかなーってとこ。たまに福岡行くこともあると思うから、名古屋にいるときの拠点探しって感じ。ね、美蜂先生」
話を振られた美蜂はひとつ頷く。
「今日と明日で、移籍を検討しているクラブと打ち合わせをしに行くので、私が付き添いとして来たんです。ルクス東山には明日の夜伺うので、その時にまたお会いできるかと思います」
───もし航さんがルクス東山に移籍することになりましたら、その時は彼共々どうぞよろしくお願い致します…と彼女らしい真面目くさった挨拶を最後に航がまた滑り始め、いのりと聡太も朝練をぼちぼち始める時刻だったので、自己紹介のくだりはそれでお開きになった。
シゴー、と朝早いが故に傷の少ない氷の上を滑りながら、いのりは遠くの方で滑らかなスケーティングを披露している青年の後ろ姿を、なんとはなしに見つめた。多分いのりと同じように気になっているのだろう、横の聡太も彼の方をちらちらと見ている。
「…さっきの4回転ループ、すごかったね」
「うん。いのりちゃんの4回転サルコウを初めて見た時も、びっくりしたけど…」
「ループだもんね…」
それよりも更に難しいループを、ああも易々と。加点も沢山つくだろう、余裕たっぷりの着氷。上位の男子シニア選手ともなれば、4回転は跳べる人間も一定数いるけれど、先ほどの彼はその中に混ざっても十二分に戦えるトップ選手なのだろう。彼の戦績をまったく知らないいのりでさえそう思わせる力が、彼のジャンプには満ちていた。
「聡太くん、私ジュニアとかシニアの男子選手あんまり知らないんだけど…航くんってやっぱりすごい人なの?」
「えっ」
いのりの疑問に、聡太はちょっと驚いたような顔をして、それから何と言ったものか、という風に口ごもった。
「…そっか、いのりちゃんてスケート始めて2年ちょっとだもんね…たまに忘れちゃうけど……航くん、割とすごい人だよ。3年前の全日本ジュニアでも優勝して、GPFでも銀メダル獲って、めちゃくちゃ有名だったし」
滑らかなエッジの音を響かせて、聡太はスリーターン、モホーク、チェンジエッジ、と氷の上を自在に滑っていく。いのりと同じく、ルクス東山で鍛えられた厳しいスケーティング技術が伺える、確かな足取りだった。
いのりは目線を上げる。遠く向こうで、燕条航が滑っているのが見えた。だんだんと人の増えてきた大須リンクの氷上、その中でちっとも埋もれることのない、すらりとした人影が滑りながら前を向く特有の構えを取った。
「…一時期は騒がれてたんだよ。夜鷹純の再来なるか、って」
彼はやはり、何でもないことのようにトリプルアクセルを着氷した。フリーレッグがぴんと伸びて、エッジが朝の光を反射している。
「…ねえ」
「どしたん」
「…………うち、来ないの?」
その言葉の言い草があんまりにも可愛いものだから、航はわざとらしく胸を押さえて、撃ち抜かれた!とうずくまって見せた。その大袈裟な動きに、言葉の主は呆れたようにやめなよ、もう高2でしょあんた…と呟く。ぐうの音も出ない正論だ。返す言葉もない。
「しばらく会わないうちにか〜〜わいくなったな!?本物!?鹿本ちゃんに弟子入りした?ん?でも二人称あんたはやめた方がいいと思うよ!もうちょっと柔らかい方が俺は好き」
「そういうの良いから!マジで!」
撫でくりまわすと、それに対してぷりぷり怒って見せる鴗鳥理凰は、前に会った時よりもずいぶん背が伸びたように思う。彼だけではない。名港ウィンドの他の生徒たちも、朝に会った聡太も、少し前まで自分の胸よりも遥かに小さい生き物だったはずが、縦に長くなり、骨っぽく大人の体型になりつつあるのが、妙に感慨深く思われた。航自身の身長が早くに伸び、早くに止まったタイプからだろうか。
「だいたい、名古屋に引っ越してくるなんて言ってなかったじゃん。いきなりすぎでしょ…しかもこんなシーズン始まるギリギリに」
「どっちかって言うと、引越しは高校の学期が始まるのに合わせた感じだからなあ。いやー燕条家、年始からめっちゃ忙しかったよ。俺も妹たちもみんな転入試験でひーこら言ってたし…入試以来1番勉強したわ」
お陰でクラブ探しが後回しになっちゃった、と航は持っていたスポーツ飲料をぐびりと口に含んだ。
「な、理凰くん今度暇な時に名古屋案内してよ。俺、名古屋城行きたい名古屋城。シャチホコグッズ欲しい」
「別にそれくらいは良いけど…航くん高校どこ行くの?間京大附属?」
「え、ううん。普通の公立。県立明南高校ってとこ」
理凰はびっくりした。
アイススポーツがそれなりに盛んな名古屋では、選手を目指す中学生の多くが間京大附属高校に通うことを希望する。理由は単純に、学校自体にリンクが備え付けられた強豪校であり、スケートに生活のほとんどを費やさねばならない選手たちへの優遇措置も存在するからだ。
航ほどの実績のある選手であれば推薦枠にも入れるだろうし、勉強の方もかなりできる彼なら試験も突破できるはずだ。なんなら、3日前に『実は名古屋に引っ越すことになった!』とアホみたいなLINEが来た時、理凰は自然に『じゃあ間京大附属に通うのか』と思ったくらいだ。それがまさかの、公立とは。
「てか俺、福岡の時も公立高校だよ。言ってなかったっけ?」
「そうだっけ…あんたくらいの成績なら行けるんじゃないの、間京大附属でも他のスポーツ強い私立も」
「そうかも!でも行かない。あと2年だけの在籍のために、親に高い金払わせるの申し訳ないからね」
きっぱり言い切った航には、悲壮感というものがこれっぽっちもない。そのまま彼は持ってきていたスポーツバッグをごそごそと漁り始め、それからおもむろにハイこれ、と綺麗な包みを理凰に渡した。落ち着いたブルーグリーンの紙で包装された小さい箱と、ついでになぜか「とおりもん」の箱。
「何?これ」
「ノービスA優勝おめでとうの品。あと『とおりもん』は普通に福岡土産。汐恩ちゃんと慎一郎先生甘いもん好きだったよね?家でお食べんしゃい」
「……ありがと」
理凰が両手で受け取ると、彼はぱっと破顔した。
「どういたしまして。ささやかなもんだから、お返しとか気にしなくていいからね」
一瞬、ノービスとジュニア含めて5連覇してる人にお祝いされると、とかごちゃごちゃ言いそうになって、理凰は慌ててきゅっと口を引き結んでお礼を口にした。見えないものを怖がるのは、もう辞めると決めた。例えただの幸運由来の栄冠だったとして、それでも今回の王者は、金メダリストは自分だ。
ベンチに並んでこちらを見る、先輩スケーターの眼差しはひどくやさしい。リンクによく似た、薄い灰色の瞳には何の衒いもない、後輩の勝利を称賛する色しか浮かんでいなかった。純日本人なのに、どこか無国籍な雰囲気のある端正な顔立ちが、リンクサイドの白熱灯の光を受けて、陰影にふちどられている。理凰は、ぱちぱちと瞬きをした。
──いつも、綺麗だと思う。
憧れている。
この、年上の偉大なスケーターのことを。
それなのに、きっと生涯、見上げるばかりだと思っていたのに、案外そうでもないから困っている。
「…航くん、やっぱり移籍先うちにしなよ。父さんだってさ、怪我から復帰した経験たくさんあるからきっと力になれるし…」
初めの話題に水を戻すと、航はそれなんだよな、とベンチの上で胡座をかいた。
「理凰くんにそう言われると揺らぐなあ。慎一郎先生の指導受けてみたくもあるし。まあ詳しくは福岡戻って布袋野先生たちと相談だけどな〜〜〜え〜どしよっかなぁ〜〜〜迷う〜」
ぐだぐだ体を揺らしながら唇を尖らせる航に、焦った様子はない。悔しさや、諦念も。もしかしたら数ヶ月前の理凰のように彼の内側ではそう言ったものがぐるぐると淀んだまま渦巻いているのかも知らないけれど、少なくともそれが表には出ていない。すごい、とも思ったし、大人だなぁとも思ったけれど、それが良いことなのかはついぞ分からなかった。
燕条航、高校2年生。
9/21生、乙女座のA型。
現在は福岡パークFSC所属、ジュニア4年目。
バッヂテスト7級、スケートを始めたのは7歳。
全日本ノービスB優勝2回。
全日本ノービスA優勝2回。
全日本ジュニア優勝2回、2位が1回。
全日本シニアへの推薦出場、第3位。
ジュニアグランプリシリーズで、合計2回の優勝。
ジュニア1年目でグランプリファイナル出場、第2位。
ジュニア1年目で世界ジュニア選手権出場、第2位。
錚々たる経歴に、明浦路司はパソコン片手に「すごっ」以外の感想を失った。彼の輝かしいキャリアはそれに留まらず、その他表彰台を逃したものであっても4位など上位に食い込んでいるものも多い。
スケートで得た栄冠だけが、その人を構成するわけではない。ないが、スケーターは身に付けた技術と勝ち取った栄冠を持ってして、己が『勝利に賭けたくなる選手』であることを証明し続けなければならない。その点で言えば、燕条航というスケーターはもう既に、己が「そう」であることを証明できた者なのだ。選ばれた者。掴み取った者。氷の上を居場所にした人間の中でも、ほんの一握りにしか許されない王座の座り心地を知る者。
『夜鷹純の再来』と騒がれたのも納得の実績だった。女子に比べ肉体の成熟が晩成傾向にある男子選手の中で、ここまで早期から勝利を重ね続けられる選手は歴代で見てもごく少数だろう。
(すごいなあ)
混じり気なく、純粋に司はそう思った。視線の先、夜の貸し切りレッスンに混ざっているひとり背の高い青年は、見知らぬ彼が気になるらしいノービスの子供達にまとわりつかれながら、楽しそうに氷上を伸びやかに滑っている。
面倒見のいい性格なのだろう、バッククロスの遅い子供の手を引きながら何やら喋っており、子供のエッジの角度か何かを教えているようだった。
つい先ほど『移籍の検討期間中』と言うことで、やってきたばかりの青年はすんなり場に馴染んでいる。リンクの外でも感じた、朗らかで人当たりの良い子だなという印象は、氷の上でも全く変わらなかった。
「…彼は、どこでもああいう立ち位置ですね」
横に立っていた美蜂がそう溢した。司は自然と、目線をそちらに向ける。
「そうでしょうね!福岡で会った時も、燕条選手は人の輪の中心にいつもいる印象がありました」
「ええ。今シーズンからクラブを移籍する旨は、結構前に彼がクラブメイトに伝えていたのですが…大泣きする子もちらほらといました」
彼は早い段階で、男子の最年長になったこともあり福岡パークFSCの『お兄さん』のような立ち位置でしたから…と呟くメディカルトレーナーの目は優しげだった。この頼れるトレーナーは万人平等が服を着て歩いているようなお人柄ではあるが、それでも付き合った年月の差は確かに存在する。
航を見守る眼差しには、重ねてきた年月の分だけ深い色をした感情が宿っているようにも見えた。明浦路司が2年の年月の分だけ、結束いのりを想うのと同じように。
「…それにしても、まさかこれだけの実績を持つ選手がルクス東山を移籍先として検討しているのは意外でした。もちろん、金弓先生のメディカルトレーナーとしての知見を名古屋に来たあとも頼りにしたいと言うことであれば、掛け持ちして頂いているウチに移籍するのが早いのは理解していますが…」
ルクス東山には現在、シニアの男子シングル選手はいない。それどころか高峰瞳も自分も、育成したキャリアがないのだ。そこを移籍先の候補に含めるのはリスクだと考えるのが妥当だ。卑下ではなく、怪我からの復帰経験がありシニア男子選手も多くいる名港ウィンドの方が移籍先としてはよっぽど魅力的だろう。
「そうですね。彼の怪我後のリハビリ等にも当時私が関わりました。ルクスに移籍するのであれば、やりやすいことは確かでしょう。しかし、例え愛西ライドや名港ウィンドを選んだとしても、私のできる限りあなたの力になる、と彼には伝えてあります」
静かな声音だった。彼女は必ずそれを実行するだろうと、それが分かる口ぶりだった。司は、彼のWikipedia画面に視線を落とした。ページ内の写真にはまだ幼さの多く残る航が、白とグレーのグラデーションの衣装を身に纏ってメダルを掲げている。金色のメダルだ。彼がジュニア1年目で全日本ジュニアを制した時の、王者の称号。司がいのりに与えたいと願う、光輝く栄光の証。
「今夜福岡に新幹線で戻って、布袋野先生とも相談した上で来週中には決まると思いますので、また結果については迅速にお知らせいたします」
「早いですね!?大事な移籍ですし、じっくり時間をかけて考えたり…はなさらないんですか」
「ご両親からは、本人とコーチ陣に一任するとお聞きしています。そして彼は判断のすごく速い子です…昔から。多分、彼の中ではある程度決まっていると思います…あとは布袋野先生方の意見次第になるかと」
実感のこもった言葉だった。
美蜂の淡い金の瞳の向こう、いつの間に打ち解けたのかいのりとなぜかアイスダンスの真似事をしている航が見えた。レッスンがひと段落したのだろうか。洸平がちょっと困ったようにリンクに押し出されて、手本をやらされている。変わらず、燕条航は楽しそうだった。ひとかけらの不安も、憂鬱さも存在しないかのように、軽々と。
───彼が最後にとったメダルは、3年前に出た世界ジュニア選手権の銀メダル。その直後に腰椎を怪我して以降、彼は1枚たりともメダルを獲得していない。焦らないはずがないのに。
燕条航、高校2年生。
9/21生、乙女座のA型。
今はメダルから遠ざかりつつある、かつてのメダリスト。
燕条航
コミュ力モンスターの男子スケーター。国内の男子スケーターはほぼ全員LINEと誕生日を把握している。
やってそうなプログラム曲は
・オペラ「イーゴリ公」
・オペラ「皇帝の花嫁」
・バレエ「火の鳥」
・バレエ「中国の不思議な役人」
・「舞踏組曲」
歌劇「トスカ」 みたいなイメージ。