明浦路司と3人目の弟子   作:メラニンEX

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2話

 

生徒さんが増える、と加護耕一は鸚鵡返しのようにそう呟くと、三拍ほど『何を言ったのか分からない』みたいなスペースキャット顔で黙った後急にええっ!と大声を上げた。横で聞いていた羊がびくっとして、口に入れかけていたジャガイモを落としている。

 

「…いのりちゃんの他に受け持つ子が増えたってこと?ようやく2人目…って言っていいのか分かんないけどさ。よかったね司くん。段々と一人前のコーチに成りつつある?んだね」

「継続して個人レッスンを受け持つ生徒としてはそうですね、2人目になります。…なのであの、加護さん。これから俺の給料も上がることになるので、払っている家賃の額を上げたいと思うんですが…」

司が本題を切り出すと、家主はあっけらかんと拒否した。

「え?ダメだよ。今だって家賃別に払わなくていいよっていつも言ってるのに」

「もうちょっと払わせてください!俺が今お渡ししている家賃、名古屋の一軒家を借りる場合の相場に全然満たないんですから!」

 

司の勢いのある、かつ正論にも耕一はどこ吹く風だった。家賃を下げてくれと交渉して断られるケースは世に溢れているだろうが、正当な額を払うと言ってなぜ自分は断られているのだろうか。全く解せない。自分で作った夕食のドライカレー(羊向けに甘口)を口に運びながら、この異様なまでに己に甘くあろうとする男をどう説得したものか、と考えていると、耕一はでもさ、と人参だけ避けながら口を開いた。

 

「司くん、今でもバイトたまにしてるでしょ?この前みたいにハーネス買う時とかさ。言ってくれれば買ったのに、っていうのを司くんが嫌なのは知ってるけどね」

「それは……」

「生徒さんが増えて懐に余裕ができたらさ、欲しいものがあってもそういう事をしなくて済むでしょ。せっかく金銭と時間にゆとりを持たせられそうなのに、僕へ払う家賃を増やして自分からカツカツになりに行こうとしなくてもいいんじゃないかな。時間や金銭の余裕ができたのなら、司くんのやりたいことに使って欲しいよ、僕は」

 

うぐ、と痛いところを突かれて司は言おうとしていた反論を忘れてしまった。現状、ルクス東山FSCのアシスタントコーチである司は給料のほとんどが結束いのりの月謝という状況のため、こうしてかつての支援者だった加護家に生活を依存して暮らしている。正直言って30近くなった大人が自分一人で生計を立てていない、という状況は後ろめたいし、心苦しい。自分にも、この人にも。

 

 

なのでこうして2人目の生徒ができて、ちょっとでも金銭的な見通しが立ちそうなのは喜ばしかったし、これで『正当な金銭的負担』を負いたいと思ったのだ。それは本当。でも、彼が言ったように、それをすると生活が前と同じ、というのも本当。いつだって明浦路司はお金に振り回されている。

 

「…真面目な話、今年からいのりさんがジュニアに上がったので、海外遠征に俺が付き添う機会も増えます。新しく教えることになった子も恐らくそうなると思いますし、今までのように家事や送り迎えを担当できる時間が減ってしまうと思います。だからその分家賃を」

「……海外遠征?司くんの新しい生徒さん、ノービスじゃないの?」

司の説得は、きょとんとした羊にあっさり遮られた。

「…え?そうか、言ってなかったけど、新しく教える選手はジュニアラストイヤーなんだよ。今高校2年生」

「へえ!その歳から始めた訳ないよね、移籍…であってるのかな、フィギュアスケートの場合は」

 

なんだか家賃の話が流されつつあることにうっすら気付きつつも、司は頷いた。耕一が避けている人参を自分の皿に移すと、ありがとう、と微笑まれる。いい年して好き嫌いをしないで欲しい。

 

「…合ってます。他所のクラブから所属を移した選手の指導を、俺がこれから受け持つ形になるので」

「なんかサッカーみたいだね。クラブがいっぱいあるスポーツならそんなもんなのかな…」

「新しい生徒さんって女の子?」

「男の子だよ。話した感じ、すごくしっかりした高校生だった」

「「へえ〜〜」」

 

親子揃って何やら頷いている。によによと楽しそうに、面白そうに。全然似てない親子なのに、なぜかこういう時ばかりは血の繋がりを感じさせる顔をしていた。

時々。司の心の内には、2人に対して少し後ろめたい気持ちと同じくらい、自分の愛するスケートを2人が好きになってくれたことに対する喜びがある。自分が関わっているからという理由だけで、この2人は自分の教え子や、フィギュアスケートを知ろうとしてくれている。それが何にも変え難く嬉しい。

 

「これからは男子ジュニアも追わなくちゃねえ。楽しみが増えたね、羊」

「わたし、実はちょっと前から男子選手も見始めてるから。もしかしたら知ってる選手かも…なんて人?」

「うん。彼の名前はね…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…11番燕条(えんじょう)(わたる)さん、福岡パークFSC』

 

スマートフォンから流れ出した英語アナウンスが、思いの外大きかったもので、バスの隣席のおばあちゃんがぎょっとしたようにいのりの方を見た。ごめんなさい!と謝罪をして、鞄から取り出したイヤホンを差し込む。いのりのイヤホンは大抵鞄の中でぐちゃぐちゃに絡まってしまっているのだけど、今日も今日とてそれは変わらなかった。しょうがなく絡まって短いイヤホンを耳に押し込む。

 

『…バレエ音楽“中国の不思議な役人”より』

 

わあっと、さざなみ立つように。降り出したスコールが水面を叩くときのように、あるいは木立を吹き抜ける嵐のように、観客が口々に興奮の入り混じった声を上げるのが、イヤホン越しにはっきりと聞こえてきた。その声の行く先…今しも画面の中で、コーチの元から送り出された1人のスケーターが、リンクの中央へと滑ってくる。

 

成長期の少年特有のほっそりとした体を、ブルーグレーの中国風衣装に包んだ燕条航は、リラックスした様子で観客席に向かって微笑みかけながら、ゆるくターンをして銀盤の真ん中に立った。肩を回すような仕草をした後、少年は氷に膝をついて自分自身を抱きしめるポーズで静止する。

 

そのシーンを撮ったカメラの位置が悪かったのか、始まりのポーズをとる航はひどく遠かった。その代わりに、観客席を埋める観衆が固唾を飲んで、彼の演技が始まる瞬間を見届けているのが、画面のこちら側からでもありありと伺えた。その瞬間を見逃さないよう目を見開いて、曲の一音目を聞き逃さないよう耳を澄まして。きっと今のいのりと同じように。

 

 

 

観客の視線が最高潮に高まった瞬間に、スピーカーから華やかな音が流れ出した。絃楽器を背景に、高らかに吹き鳴らされるトロンボーンのファンファーレ。華麗、なのにどこか前衛的で不吉さを感じさせる音の群れ。

 

それを合図にして、氷上で跪いてた航はなめらかに動き出した。元はパントマイム用に作曲され、バレエ用としても使われるようになった音楽に合わせて、振り付けもどこかバレエやパントマイムの名残を残すようなものだ。少し大袈裟に、かつ少しの淀みもなく。

 

 

物語の大筋は、困窮した3人の悪党が、1人の少女に窓辺に立って通行人を誘惑するように命じたところから始まる。初めに伊達男の老人が現れ、次に貧しい少年が現れるが、どちらも金を持っていないので、金品を奪いたい悪党たちは結局彼らを放り出す。最後に宝石で体を飾りつけた不気味な役人が現れ、彼は少女に招かれて部屋の中へと入ってくる…というようなものとなっている。

 

 

上演当初は『不謹慎』と大バッシングを食らった物語を表現するかのように、難解でやや荒々しさのあるステップを踊るように挟みながら進んでいく航が、後ろをちらりと確認して、そして躊躇いなく前向きに踏み切った。

 

 

–––画面越しに目が合った、ような。そんな錯覚すら覚えた。

 

 

オールバック気味にしたアッシュブラウンの髪が、跳躍に合わせてざあっと空中で靡くのが、いのりの目にも映った。いのりの知る彼より長い髪が一筋、二筋と今より幼く中性的な顔にかかって細い影になり、その奥で彼の目が煌々と光っていた。アイスリンクのような淡い灰色だ、と思ったはずの色が、氷の反射で照り映えて、つよく、鋭利な銀の輝きを帯びている。

 

 

最初のジャンプは、恐ろしく助走の短いトリプルアクセルだった。飛ぶぞ飛ぶぞという予兆の極めて少ない、かつダブルスリーターンを入れてから左足に乗り換えて踏み切り、着氷後にバタフライ。ただでさえ高難度なアクセルをステップありで降りたとは思えないような、すとんと柔らかい着氷は猫のごとく軽やかだった。それだけではない。

 

(高さと幅だけじゃない。私より長く空中にいるみたいに見える…)

 

踏み切りの瞬間から回転が始まると言うよりは、飛び上がった空中で回転が始まるようなややディレイド気味のジャンプ。回転の速さ、高さ、幅が揃わなければ回りきれないようなその条件を、いとも容易く画面の中の少年はクリアしていた。

 

 

いのりがジャンプに気を取られている間に、いつの間にか曲は加速していた。バルトーク特有の、民族音楽の要素を多分に取り入れた旋律が、不気味な熱狂に浮かされていく。ノスタルジックで原始的な匂いのある、これから訪れる恐ろしい未来を予感させるような、速いテンポの荘厳な音色。

 

物語の中では、役人を部屋の中に入れた少女が、椅子に座ったまま何も言わずに己を見つめる役人の沈黙に耐えきれず、躊躇いながら踊り出すシーンだ。少女の踊りは段々と速く、野生的でエロティックなものになり、それに魅せられた不気味な役人は少女を捕まえようと追いかけ始める。

 

音楽の加速に合わせて、観客席からも手拍子が上がり始め、トリプルルッツを軽やかに着氷した航に対しての賞賛も、その手拍子の波に呑まれていく。

 

氷の上で、燕条航と言うスケーターは物語の中で踊る少女のように可憐で蠱惑的でもあり、薄気味悪い役人のように妖しい威圧感すら漂っていた。ステップシークエンスではそれを表現しようとしたのだろうか、足元は細かいステップを刻んで氷上に図形を描きながら、見えない誰かと2人で踊っているかのような振り付けへと変化している。

 

けざやかなスポットライトの下、航はときに女性を滑らかにエスコートする男性側と、ときにそれに身を委ねる女性側と交互に入れ替わるような動きを見せていた。

見えないパートナーの腰に手を当てターンを促すように、くるりと交代して誰かの手を取り、優雅に円の軌道を描く。息のぴたりと合った見えない誰かが、航の横に束の間見えたような気がする。彼のアッシュブラウンの髪が踊るたび、髪の上を削った氷の粒が奔るたび、いのりは彼が内側から光を放っているようにすら思えた。

 

 

そして、最後のトリプルフリップ+トリプルトウループ着氷から息を呑む暇もなく、フライングシットスピンから足を組み替えた航は、徐々に片足を上げてキャンドルスピンに移行した。くるくると、風に押し流される風見鶏みたいだ、といのり思った。狼嵜光しかり、彼しかり、際立って上手いスケーターの動きは時折自動運転のように見える。滑ろう、回ろうという意志に関係なく、氷と靴が自分からこの人を勝手に動かしている、というような。

 

ぞわぞわとするような暗い色調の、それでいて軽快なフィナーレの加速に合わせて、極めて速い回転速度を落とすことなく周り続け、最後に入れたキックの勢いのまま氷の上に倒れ込み、航は眠るように目を閉じた。

 

 

–––悪党たちは不気味な役人の身ぐるみを剥ぎ、それでもなお少女を見つめる様子に恐れを抱いて彼をナイフで刺し、シャンデリアに吊るした。すると役人は何やら体が光り始める。少女が悪党たちに役人をシャンデリアから落とすよう願うと、下された役人は少女と抱き合いったまま息絶え、それが終幕となる。

 

 

わずか3分未満のショートプログラム。文字に起こせばたったそれだけの演技を終えた少年に対し、割れんばかりの拍手が観客席から湧き起こる。スタンディングオベーションの観客席を前にして、むっくり起き上がった航は頰についた氷を払いながら優雅にお辞儀をして見せた。熱狂する観客たちの拍手は彼がリンクを離れるときまでまるで勢いを落とすことなく、雨垂れのように止むことがなかった。 

 

 

 

 

 

 

「……うわぁ〜……すごい…」

 

画面の中で航の演技と得点発表が終わり、キスクラにコーチと並んで航が笑っている場面で動画が終わるまで、いのりはぽかん、と口を開けたままぼんやりしていた。いくら言葉を尽くそうとも感想なんかそれくらいしか出てこず、自然と詰めていた息を吐き出して、小さくパチパチと拍手をしてみる。

 

 

ノービスの時とは違って、ジャンプが3回とは思い難いほど濃密で完成しきった演技だった。ジャンプやスピンの技術が水際だっているのはもちろん、男性にしては珍しい部類のキャンドルスピンが可能な柔軟性、難解な振り付けを踊り切れるスケーティングもそうだ。スポーツでありながら、ひとつの劇を見ているかのような純粋な表現力がそこにはあった。

 

 

何もかもが高水準だった。今のいのりにはクリーンなトリプルアクセルはもちろん、ここまで減点要素の少ないトリプルルッツは跳べないし、最後のキャンドルスピンだって彼のようにはできない。それでも、彼の演技のすごさは痛いほど理解できる。どうやったらこんなに綺麗なルッツが跳べるんだろう、どうやったらキャンドルスピンをあんな姿勢で維持できるんだろう…筋トレ何してるんだろう…と後から後から疑問が湧いて尽きることがなかった。

 

 

 

いのりはぺったりと前の座席の背もたれに頰をくっつけて、恩師の顔を思い浮かべた。頭の中では司がムキ!という効果音付きで解説を始めようとしている。もちろん男子と女子で体格や、できる運動量に違いがあるのはいのりだって知っているけど、画面の中の彼のようなアクセルやルッツやキャンドルスピンをやってみたくてしょうがなかった。いのりは毎日学校にいる間中、スケートリンクに行きたくて行きたくて震えているのだけど、今日はそれがより一層強烈だった。乗っているバスがリンクの最寄り駅に早く着かないかな、とひどく待ち遠しい。

 

体の中で何かがどくどくと脈打っているような気分だった。狼嵜光のジャンプを見た時、司の美しいスケーティングを見た時、夜の諏訪湖、初めてのメダル、買ってもらったスケート靴、初めて座ったキスアンドクライ。途方もなく美しく、思い返すたびにいのりに力をくれる記憶は数えれば沢山あって、それはこれからも増えながらいのりの血肉になっていく。多分、燕条航のこのショートプログラムも、そのひとつになるような、そんな予感がしていた。

 

 

というか。いのりは興奮のあまり忘れていたことを思い出して、はっと飛び起きた。そうだった。別に司に聞かずとも…いや別に聞いてもいいのだけど、今日から直接本人に聞けるのだ。

 

(…今日会ったらいっぱい聞こう。ルッツにキャンドルスピンにあの振り付けもかっこよかった、どうすればできるのか、って…)

 

いのりは想像をしながら足をぱたぱた、るんるんと動かした。そう、なんと言ったって今日は彼が…燕条航が正式にルクス東山へと移籍してくる日だった。他にも移籍候補はあったけれどここに決めた、ということを一昨日の終わりに司から聞いていのり自身も、総太もびっくり仰天していたのをさっきまで覚えていたはずなのに、演技の素晴らしさのあまり飛んでいたようである。洸平くんにはマスタークラスの人を主に見てもらってるから、シングル選手なら俺か瞳さんで、俺が担当することになったんだよ…だよ…と脳内で恩師の声がこだました。

 

 

(総太くんに有名な選手だとは聞いてたけど、本当にすごい人なんだな…)

 

こんなに素晴らしい演技をした選手が同じクラブに来るんだ、といのりはしみじみ不思議な気分になった。ルクス東山FSCに所属しているシングル選手の中で6級以上を持っているのはいのりと雪、総太の3人だけで、あとはみんな下の級か、大人になって始めたマスタークラスの人になる。客観的に見て、すごく強豪のクラブと言うわけではないのだ。

 

ただ別に、自分を取り巻く環境に不満を抱いたことはない。リンクの氷と、スケート靴と、大好きな先生たち、そうして狼嵜光の背中があれば、結束いのりはどこまでも頑張り続けられることを、もうちゃんと理解している。

 

とは言っても彼のように現時点でいのりより明らかに上手い!という選手が同じクラブに来ることは、間違いなくいのりにメリットのあることに違いない。他の強豪クラブは上にシニアやジュニアで強い選手がいることも多い。岡崎いるかを擁する愛西ライドもそうだし–––狼嵜光の名港ウィンドにだってオリンピアンの鯱城理依奈がいる。

 

きっと。きっと、彼がルクス東山FSCに加わることは、いのりが夢見るいつかにとって、素敵な出会いになるだろう。いのりは理由もなしに、そう思った。

 

いのりはイヤホンを耳から外して、バスの車窓の外を見た。すこんと晴れ渡った暮れ方の空の下、道路脇に植えられた桜の樹が春の風に攫われて、花弁がひらひらと宙を舞っている。午後の明るい日差しに照らされた花びらたちは、光の結晶みたいにも見える。窓を閉めていても分かる、ふうわりと甘い空気が鼻をくすぐった。春だ。そうして、出会いの季節でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぷしゅう、と間の抜けた音がしてバスの扉が開くのが分かった。続いて、前へ向かってぞろぞろと降りようとする客の靴音。いのりは繰り返して見ていた、航の全日本ジュニアの動画から目を上げて、今がどこの停留所か確かめようと前を覗き込んだ。幸いにも大須リンク最寄りの停留所まではまだ3駅ほどかかるようで、ほっとしていのりは頭をひっこめた。

 

中学校に上がっていのりの母が会社勤めに戻ったこともあり、学校からリンクへ通うのがバスになってまだ1月足らず。小学校の間は母の運転する車だったから乗り過ごしとは縁もなく過ごしてきたが、バスに変わってから既に2度リンクを通り越したいのりとしては、停留所を確認するたびに通り越していないか毎度ひやひやするのが常のことだった。

 

いのりが頭をひっこめた後、慌てた様子で男子高校生たちがどやどやと連れ立って降車口へと向かい、「やばいやばい」「もう授業始まるじゃん」などと言いつつ降りていく。身を包んでいるのは、市内の名門公立高校の制服だ。受験生なのだろうか。勉強にまったく打ち込んでいないいのりは、ちょっと尊敬の目で勤勉な青年たちの後ろ姿を見送った。

 

「じゃーな航、また明日〜」

「勉強頑張れよ、来年受験生」

「お前もな、来年受験生!」

 

2年生だったらしい。男子高校生たちが降りおわると、ぶうん、とエンジンがかかってバスが再び動き出した。バスの中はひどく静かだ。帰路につく学生はいても、社会人はいないような時間帯。まばらに埋まった席を、だんだんとオレンジ味を増してきた春の夕方の日差しが照らしている。いのりは少し前まで乗っていた母の車が懐かしくなってきた。あの車内には、こんなに寂しい隙間も、停留所を毎回確認する手間もなかったのに。「枕のナントカ」で春はなんだっけ…夕方だっけ夜だっけ…と、普通に間違っている上に妙にセンチメンタルな考えに頭が向きそうになったところで、ぽんぽん、と肩を叩かれた。

 

「結束ちゃん、久しぶり」

 

ぎょっとして飛び上がると、肩を叩いた張本人が困ったように笑っている。アッシュブラウンのゆるい癖毛に、淡いグレーの瞳。後ろの席にいたのは、燕条航だった。ついさっきまでいのりのスマートフォンの中にもいた人が、至近距離にもなぜかいた。

 

「……航くん!?えっ、な、なんでここに」

「なんでって。俺の通ってる高校から大須リンク行くなら、この路線のバスが1番近いから。結束ちゃんもそうでしょ?制服着てるもんね」

そう言う彼は先ほど連れ立って降りて行った学生たちと同じ、紺のブレザーに明るい水色のネクタイという制服だった。細身の青年にあつらえたように、よく似合っている。

 

県立明南高校。ブレザーの胸に描かれている刺繍は、あまり進学に興味のないいのりでも知っているような、偏差値お高めの高校だったはずだ。航くん頭もいいんだ…といのりはきらっとした目で彼を見た。

 

「う、うん。中学校からだと、そのままリンク行く方が近いし…航くんってもうお引越しとか終わったの?今日からルクス東山の貸し切りも来るんだよね?」

「お、先生からもう聞いてた感じ?サプライズにはならなかったか……引っ越しも転校ももうバッチリ。貸し切りと個人レッスン、どっちも今日から参加するよ。個人レッスンは結束ちゃんの後だったかな」

 

これからクラブメイトとしてよろしくね、と微笑んだ航の顔は、からっとしている。司の溌剌!!!という笑顔とは色の違う、角のない柔らかい笑い方だった。

 

「てかさ、俺の個人レッスンは司先生が担当してくれることになったんだけど、結束ちゃんのコーチも司先生だよね?全日本ノービスの時キスクラ座ってたし」

「そ、そう!司先生が私のコーチで…私は司先生の1番弟子なんです!」

その言葉に、ん?と航は首を傾げた。

「そうなの?前に理凰くんに聞いたら俺が司先生の1番弟子なんだよって言ってたんだけどな。もしかしてあれかな、司先生の門下生は全員オンリーワンだから、全員1番弟子だぜ!みたいなやつ?」

「違います!?理凰くんは去年の夏に一時的にルクスに来てて、その時に司先生と……何もないことはないですけど、とにかく私の方が弟子歴はうんと長いんです!」

 

ジェラシー姉弟子マン結束いのり、必死の主張。なんとなく事情は察した航は、生暖かい目になった。少なくとも教え子たちが思春期真っ只中の中学生になっても、1番弟子の座を争えるくらい慕われていることは理解できた。

 

「ウーン、そっかあ。何はともあれ、俺が司先生の3番目の教え子になることは確定なんだな。福岡だとほぼ最古参だったから、なんか新鮮。焼きそばパン買ってきましょうか、結束パイセン」

「!?それは別にいらない、です……?」

「あはは、冗談だって!混乱させてごめんね」

 

言葉の割に悪びれることなくけらけらと笑う航は、あんまり年功序列を気にしないタイプのようだった。そのいかにも人懐っこい感じのする笑い方は、先ほど画面の中で踊っていた少年とは、別人のようだ。ちょうど少女と少年の間にあるような無性的な顔立ちには変わりないのだけれど、内側から光る銀の月のようだった少年の航には、見る者をひやっとさせるような怖さがあった。今の、制服に身を包んでバスの座席に腰掛けている彼には、それが欠けているようで、ちょっとヘンな気分だった。

 

–––まるで、どこにでもいる普通の高校生みたい。彼も氷の上にいない時は違うのだろうか。結束いのりが氷の上でだけ、1番強くなれると信じているように。

 

 

「あ、あの。実は私、ちょうど航くんの演技見てたところだったんです。全日本ジュニアのSP」

これ、といのりがスマートフォンを見せると、航はどれどれと灰色の目を瞬いて画面を覗き込んだ。

「えっ、すごいタイミングだな…『中国の不思議な役人』か!てことは俺がジュニア1年目の時……3年前!?やば。時間経つの早いな〜」

「トリプルアクセルも、ルッツも、キャンドルスピンも、あの、すっ、すごかったです!私も、こんな風に跳びたい!今年から私もジュニアに入るし、今年はショートにルッツ絶対入れなきゃ駄目な年だって聞いてるから、航くんみたいに綺麗に跳ばなきゃ…」

 

聞きたいことがありすぎて前のめりになるいのりの勢いに気圧され、航はどうどうと彼女を宥めながら苦笑した。

 

「お、おおお勢いあるねえ結束ちゃん…でもそんな風に言ってもらえると嬉しいな。本当はトリプルアクセルのコンビネーションを後半に回したかったんだけど…それ以外は俺も結構お気に入りのプログラムなんだよね」

「すっごくかっこよかったです!この曲も大人っぽくて、振り付けも…」

「あーそうそう、そうだった。こんな衣装だった。懐かしいなあ…吹奏楽部の友達がやってて、元々好きな曲だったんだよね」

「へえ〜〜」

 

3年前の自分を見つめる航の目は、優しげだった。画面の中では再び踊り始めた少年の航が、目まぐるしく、一瞬も立ち止まることなく氷上を行き来している。今より髪が長くて、背が低くて顔の幼い、燕条航。妖精みたいに可憐で、月みたいに輝く稀代のスケーター。『夜鷹純の再来』だと、世界が万雷の拍手で出迎えた天才少年。

 

「…結束ちゃん」

ふっと。画面から視線を上げて、航はいのりをじっと見た。夕暮れの光に照らされて、淡い灰色の瞳がオレンジ色に染め上げられている。アッシュブラウンの髪の毛が、無造作に目のあたりにかかっていて、それがどきりとするほど美しかった。綺麗な人だ、といのりはぼんやりそう思う。

 

「俺、この頃より体硬くなったからキャンドルスピン、もうあんまりやってないんだ。それでもよかったら、また自主練の時にでも教えたげるよ。司先生にも聞かなきゃいけないかもだけど」

「いっ、いいんですか?」

「さっきのプログラム、すごかったって言ってもらえて嬉しかったから!そのお礼」

 

その言葉に、やったあと無邪気に喜ぶいのりに航は微笑んで、それからバスの前の方へと目をやった。バスは淀みなく進んでおり、停留所はもう間も無く大須スケートリンクの最寄り駅へと到着しようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「はい!それじゃあ、みんな注目!新しいクラブメイトをご紹介します!」

「燕条航、16歳男子シングルのスケーターです!バッヂは7級!福岡パークFSCから来ました!尊敬してる選手は鴗鳥慎一郎選手と魚淵翔選手!多分この中だと年上の方だと思いますが、クラブでは新入りなので遠慮なくパシってやってください!これからよろしくお願いします!」

「「よろしくお願いしま〜〜す!!」」

 

一同、大歓声。航の元気のいい自己紹介に、子供達が揃ってご挨拶を返すと、ぱちぱちと拍手が沸き起こった。後ろの親御さんからは「え?あの子前ニュース出てなかった?」「よね?全日本ジュニアで優勝した…」などとひそひそ囁く声が聞こえてくるが、おおむね歓迎ムードだ。

 

 

移籍の体験に来た時から感じのいい子だとは思ってたけど、この様子じゃすぐに馴染めそうだな…と司はほっとした気分で、靴を履き替えながらわらわらと年下の子供達に絡みつかれる航を見た。いのりの時もそうだったが、ルクス東山は人の出入りが激しくないクラブが故に、珍しい新顔のお兄さんに対して子供達は興味津々だった。

 

「今何年生!?」

「高2!」

「彼女いる?」

「いません!でもチョコ毎年貰えてるからオールオッケー!」

「何型ですか!!」

「血液型?Oだよ!」

「兄弟は?」

「妹2人いる!3人兄妹の1番上!」

「今身長何センチ?」

「170〜〜」

「でけえ!」

「でも司先生よりはチビだよね」

「ジャンプ何が得意?」

「う〜〜〜んルッツかな!君は?」

「上手に飛べないけど、アクセルが好き」

「偉すぎ!1番むずいジャンプ好きなんて、超かっこいいじゃん!」

 

 

子供の捌き方に、まるで無駄がない。無秩序に動くガキ共の対応に明らかに手慣れている上に、なんならひょいと小柄な男児を肩車までしてくれている。司は美蜂が言っていた『彼は早くにクラブ内で男子選手の最年長になったので、お兄さんポジションだったんです』ということを思い出して、本当だったんだな…と噛み締めた。ちなみにそんな美蜂は今日は福岡にいるため不在だ。

 

「すごいな…ジュナとは別ベクトルで子供ウケがめちゃくちゃ良い…」

「洸平くん…比較対象があんまり良くないんじゃないかな、それは」

「布袋野先生も、航くんのこと『アシスタントコーチ0.5人分て感じでめっちゃ助けられてました』って言ってたものね…」

 

仮にも物事を教える立場にいる大人たち3人は、会うのが2回目の子供達に大人気の航に、ちょっと羨ましそうな顔になった。断じて嫉妬とかではないのだが、普段俺らにそのテンションでこないじゃん…みたいなあれ。悲しい大人心なのである。

 

 

 

散々子供達のおもちゃにされた後、キリのいいところで解放された(航がリンクに放り込んでいったとも言う)航は改めてしゅぱっと頭を下げた。

 

「それじゃ改めまして司先生、瞳先生、洸平先生。これからご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします!…今日は初めに今後の計画とかざっくり決めるって聞いたんですけど、合ってます?」

「それで合ってるよ。こちらこそよろしく、航さん!!一緒に頑張っていこうね!」

 

司個人としては3番目の教え子になる青年は、子供相手にはおちゃらけつつもめちゃめちゃ腰が低かった。理凰さんのレッスン初っ端とは違うなあ…と37度ある手で握手しつつ、恐ろしいほど態度の悪かった金髪の少年の在りし日を懐かしく思い返していた。

 

(いのりさんとも理凰さんともタイプの違うスケーターだけど…)

 

これから彼の競技人生の一端を、司が担うことには変わりない。やるぞやるぞ頑張るぞ!とやる気で燃えている司に気づいているのかいないのか、航は緊張した様子もなく、人懐っこい笑みを浮かべた。

 

 

 

そうしたところで。

スペぺぺぺ、と部屋のテーブルの上にカードが並べられた。7並べのように右から左に難易度が上がり、上から下に行くにつれて回転数が増えていく、最大4×6の長方形。すなわち、航の場合は

 

1A 1Lz 1F 1Lo 1S 1T

2A 2Lz 2F 2Lo 2S 2T

3A 3Lz 3F 3Lo 3S 3T

4Lo 4S 4T       

 

合計21枚のカードが燦然と並んでいる。航が現在クリーンな着氷が可能なジャンプの種類だ。おお…とコーチ陣の誰からともなく声が上がった。

 

–––厳然たる事実として。男女の間には埋め難いフィジカルの差が存在している。一般的に言えば、女子の方が肉体的な成熟が早く男子が晩成な傾向があり、女性は男性より柔軟性に優れるが筋肉の量は男子の方が多くなり、脂肪がつきにくい…など。そして成長しきった段階では、個人差はあれど男性は女性に比べて肉体的性能が上回る場合がほとんどだ。

 

フィギュアスケートという競技において、この男女の差は明確に「できるジャンプの難易度」として現れてくる。簡単にいうならば、4回転を曲に組み込んで降りられるシニア選手は、女性よりも圧倒的に男性の方が多い。言い方を変えると、4回転ジャンプを降りられる女性選手がごく稀少であるからこそ、使用者は名声を手にできるとも言える。ライリー・フォックスや狼嵜光、そして結束いのりが「天才」と呼ばれるのはそれ故なのだ。

 

逆に肉体の全盛期に近い男子シニア選手の中で表彰台に乗ろうとと思うのであれば、4回転を飛ぶことは暗黙の義務に近い。燕条航は区分としてはジュニア選手ではあるが、来年からはシニアの年齢であり、4回転ループまでを揃えている現状は、「シニアを見据えた上で良いアドバンテージを持っている」というような具合なのだ。決していのりのように、同世代のほとんどが飛べないジャンプを1人だけ会得している、というようなわけではない。

 

「…つくづく思うけど、3回転アクセルや4回転ジャンプの価値って男女で全然違うよね。いのりちゃんみたいに女子選手が持ってると、それだけで一発逆転の可能性すらあるジョーカーだけど…」

「男子のシニア選手とかだと、持ってなきゃ表彰台に入れないぜ!って感じですもんねえ。去年とかもそうだし。オリンピック見据えるなら、ルッツまで揃えてる選手も全然居るし」

 

洸平の呟きに、航は軽い口調で答えた。そう。そもそも男子は女子と異なり、ジュニアからSPでトリプルアクセルかダブルアクセルを単独で飛ばなければならないルールがあるので、トリプルアクセル単独禁止の女子ジュニアとは違う。そう言ったルールも男女のフィジカル格差を加味したものなのである。

 

「もちろん、細かいことは航さんのジャンプやスケーティングを沢山見てからになるけど。布袋野先生からの引き継ぎだと『4回転フリップの習得をシニアまでの最終目標にしつつ、4回転ループを最大の武器として考えていく』という方針で進めていたんだよね?」

「そうです。今のジュニア選手だとまだクワドのフリップ試合で使ってくる奴がいないので、4回転ループまででも充分戦っていけるはずだと。俺も実際そう思いますし…そもそも俺は4回転ループとサルコウ、まだ試合ではクリーンに降りれないこと多いのでそこの成功率上げるのと、」

言葉を切って、コーチ陣を見渡した航はにっと笑った。

「せっかくアイスダンス経験者の先生方にお世話になるんで、ステップシークエンスのレベル上げも課題にしたいなーと個人的に思ってます。俺は調子良くてもレベル3くらいだったし、全日本ノービスの結束ちゃん、ステップシークエンスすごい上手くて記憶に残ったので」

(しっかりした子だな……)

 

きっちり自分の課題を把握している青年に、コーチたちは航の言語化能力に舌を巻いた。アスリートとして幼い頃から生きている子供の中には、こういった自己管理能力に長けたタイプも一定数いるがそれだって才能のうちだろう。自分の弱点を明確に言葉にして他人と共有できるに越したことはない。

 

「目標と課題を自分で分析できてて偉い!航さんのプログラムを披露する直近の機会は、いのりさんと同じくグランプリシリーズの選考会になるかな。それまでに俺たちで最適な構成を考えて、国際大会の派遣をできれば2戦!勝ち取りに行こう!」

「はーい!よろしくお願いします!」

 

元気のいいお返事。司も内心で頑張らなければな、と拳を握った。何せ初めての移籍選手。その上ノービスBからジュニア1年目まで全日本を5連覇している有力選手であり–––そして去年の全日本ジュニアは総合12位。ここから彼を復調させられるかどうかは司たちの手にかかってきている。




燕条航 頭もそこそこいいけど昨シーズン低迷中のスケーター。妹が2人おり、福岡のクラブも女子ばっかりだったので、異性との距離に敏感。いのりさんを「結束ちゃん」呼びなのは、『4個も年上の異性にいきなり下の名前で呼ばれるとキモがられるかもしれない…』という気遣いによるもの。仲良くなったら「いのりちゃん」になる。
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