───先生はなんでスケート選手やめたと?
大昔、そう問いかけた記憶がある。
燕条航がまだスケートを始めて間もない、7歳か8歳くらいの頃だった。1回転のジャンプしか跳べないけど、そろそろヘルメットを外しても滑れるかな、と言うような、それくらいの時期だった。季節はもう覚えていない。ただ、幼い航はもこもこしたダウンベストを着ていたような気がする、秋か冬だったのかもしれない。
「ケガ?」
「いや、怪我ではないけども…何?」
いきなりそう聞かれた
聞き返された航は、水筒に詰められたアクエリアスをこくんと一口飲み干して続けた。あの頃使っていた水筒は、象印のシルバーカラーだった覚えがある。これから少し後に、振り回して遊んでいる時にぶつけて凹み、捨ててしまったお気に入りの水筒。まだまだ使えるはずだったのに、と母に怒られた水筒だ。
「だってさあ、先生ジャンプもスピンも?まあ上手いっちゃん」
「どこから目線だよお前!?まあ上手いじゃねぇ、俺がお前より何年長くスケートやってると思ってんだ。これでも一応全日本出てんだぞ…」
ぺし、とチャップされても航はめげなかった。
「?じゃあ何で辞めたと?ケガしてないなら選手ずっとできるっちゃん」
思い返さずとも、燕条航(7)は割とアホなガキだった。22歳という兎太は想像もつかないほど年上の大人であり、結婚したら子供は自然にできるものであり、スイカを食べたらお腹の中で発芽するという噂を信じ、大人のスケート選手は漠然とすごい怪我をしてスケートができなくなった人から辞めるのだ、とばかり思っていた。
22歳と言う大学卒業を機に引退するシニア選手は多いこと。そうでなくとも金銭的な限界があること、フィギュアスケートそのものが競技人生の極めて短いスポーツであること。そう言った事実を想像だにしなかった。そして、選手生活を終えたばかりの布袋野兎太にとって、それがいかに浅はかな質問であるのかを、知りもしなかったのだ。
「…あのなあ。フィギュアスケートってのは、そういうもんなんだよ。だいたい俺くらいの歳になったら、引退するの。俺に限らずそう言う奴は多いよ」
「ケガしてなくても?」
「してなくても。ほら…夜鷹純だって20歳で引退したろ?あれ、今の俺より2歳も下の時だぞ。まあ夜鷹純が怪我してたかどうかは知らんけど…」
夜鷹純の言葉に、ようやく航はほほう、というような顔になった。しかしまた難しい顔で見習いコーチを見上げる。
「そにどり選手は?先生よりおじさんじゃなかと?」
「あの人はめっちゃすごい。その上ですごいだけじゃないからこの年まで続けられてる。あとおじさん言うな、おじさんて。レジェンドだぞ」
「夜鷹純とどっちがすごい?」と航。兎太は目を剥いた。
「オイお前、スケートファンに聞いたら叩かれそうな質問はやめろ!どっちもすごいから。比べるベクトル違うから!」
なぜなにゾーンに入り始めた航に、この問題をうまいこと納得させなければ解放されないどころか、レッスンが始まってもずっと聞かれそうだな…と察したのだろう。うーーんと悩み始めた兎太は、何と言ったものか、という風に顎に手を当てた。
「……あー…航は、去年より背が伸びたよな?」
「うん。おれ、2センチ伸びたばい」
「だよな。逆に俺は伸びてない。もう大人だからな。背が伸びる時間っていうのは決まっていて、俺はその時期をもう過ぎたから。航のお父さんお母さんも、もう背がおっきくなったりしてないだろ?そこは分かるか?」
「うん」
航はこっくりと頷いた。
「背が伸びる時間っていうのは決まってる。同じように、スケート選手がジャンプを沢山飛んだり、スピン回ったりできる時間もある程度決まってるんだよ。もちろん、その期間を過ぎても強いスケート選手でいられる人もいるけど、あんまり多くない」
「……過ぎたら、どげんすると?」
子供用に分かりやすく噛み砕かれていてなお、難解な『時間』の話に、渡は心許ない気分で師を見上げた。
「過ぎたからすぐどうなる!って訳じゃないよ。でも、その時期の選手に比べて、ジャンプやスピンをすると疲れやすくなったり、怪我をしやすくなる。だからスケートをするとちょっと危ないね、ってことで選手を引退する人もいる。もちろん、他にも理由はあるけど。航はよぼよぼのおじいちゃんのスケート選手を見たことないだろ?死ぬまでスケート選手って訳にはいかないんだよ」
その言葉で、航は幼いなりになんとなく、分かったような、分からないような気分になった。同時に兎太ははっきりと言葉にはしなかったけれど、ただ、過ぎてしまったのだ、と言葉の外で航は理解した。スケート選手でいられる時間は決まっていて、布袋野兎太はそこを過ぎたから辞めたのだ、と。
脳裏に浮かんだのは、妹に読んであげたシンデレラのお話だった。12時になったら魔法が解けてしまうから、それまでに帰ってくるのよ、という魔法使いの言葉と、ガラスの靴を残して走り去っていくシンデレラの姿。まあ、兎太は中肉中背の成人男性であってシンデレラではないけども。家に戻ったら、ドレスも馬車も元通りだ。ディズニー映画の青いドレスも、魔法が解けたらただの服になる。
───それは。
それはとても、寂しいことではないのだろうか。
お城からお家へ帰る時、悲しくないのだろうか。
12時になっても魔法が解けなければ、シンデレラは王子様と踊っていたかったのではないだろうか。
わたる、と柔らかい声で布袋野兎太は彼の名前を呼んだ。子供なりに、ショックを受けた顔でもしていたのだろう。
「…変な話しちゃってごめんな。まあお前が聞いてきた話だけど…でも航にはまだずっと先の話だよ。まだ7歳だし…………いやほんと何引退のことを今から考えてるんだよお前!?早すぎるわ、まだダブルサルコウ降りれてない分際で!」
7歳のくせにいっちょまえに引退…とかなんとかナイーブになり始めた航に、ぷんぷんと怒り出した兎太は練習戻るぞ!とえっちらおっちら航を担いでリンクに放り込んだ。ぺいっと放られて、氷にほっぺたをつけた記憶がある。ひんやりとしたリンクに頰を焼かれながら、遠くで麒乃がこっちに手を振っているのが見えた。手を振りかえしながら、航は身を起こした。
──もし。スケート選手がシンデレラだとしたら。ガラスの靴は、スケート靴になるんだろうか。
──落とした靴を届けてくれる王子様は、いるのだろうか。
大須リンク、午後18時。一般営業終了のお時間。
袋入りのカットキャベツ、サラダチキン(バジル味)、
ごまとチョコのスティックパン(5本入り)、卵とマヨネーズペーストの乗った菓子パン。
白ご飯、ミートボール、卵焼き、ほうれん草のバターソテー、豚肉ともやしの炒め物。生姜入りの卵スープ。
レタス入り炒飯、唐揚げ、冷凍ハンバーグ、ジャーマンポテト、ブロッコリー、プチトマト、千切りキャベツ。
チキンライス、ミニのグラタン、ハムカツ、プチトマト、さつまいもの甘露煮、ピーマンの肉詰め。
「…司先生のお弁当、マジで忙しい社会人って感じですね…俺の唐揚げいります?」
「えっ気を使わせちゃってごめんね!?ありがたいけど、親御さんに作ってもらったお弁当をもらう訳にはいかないから、航さんが食べて!成長期なんだから!」
可哀想なものを見る目で、司のコンビニご飯を見ていた航に唐揚げを献上されそうになって、司は慌ててお断りした。
華奢で中性的な容姿には不釣り合いな高校生男児特有のバカデカい弁当箱には唐揚げがみちぃ…と詰まってはいたが、この時期の男子なんて食べても食べても腹の空く年頃だろう。流石に大人として貰えなかった。
アイススポーツ激戦区であり、フィギュアスケートクラブの多い名古屋では、氷の上に乗れる時間は有限だ。ルクス東山では月・水・木は学校が終わってから18時まで。火曜日は加えて19〜22時まで、金曜日は20時半までの貸し切り練習があり、日曜日は唯一早朝練習があるため5:30から滑ることができる。氷の上という場所は、好きな時に好きなだけ滑れるわけではない厳しい世界なのである。
そして、夜の貸し切り練習のある本日・火曜日と金曜日は18時の一般営業が終わった後、生徒とコーチ達は休憩室で弁当を食べて、19時からの再びレッスンまで休憩というスケジュールになっている。ちなみに上記の弁当の羅列は、上から司・いのり・航・そして三家田涼佳の順番だ。なんとなくご家庭の食に対する意識の違いがでている気もする。
「航、唐揚げ食べんの?ミケ欲しい」
「お、いいよ。我が家秘伝の唐揚げ、味わって食べんね」
涼佳に言われて弁当箱を差し出すと、猫の模様のついた小さなお箸が、程よいサイズの唐揚げをつまんでそのまま口もとへと運ぶ。もきゅ、と小さい一口に、航はほっこりした。
「……、……おいしい!でもママの唐揚げと、味違うでね。ちょっと甘い」
「マジ?あ、でも俺、こっち来て全体的に濃いめでちょっと辛い味付けだな〜って思ったわ。九州の醤油は甘いとか言われることあるらしいし…地域性かなあ」
口に唐揚げを放り込み、飲み込んでから航はそう言った。甘い、とは感じないのは、彼が17年この味で育ったからなのだろうか。
にしても、と司は航の手元でもりもりと減っていく弁当に、往時の自分を懐かしく思い返していた。比喩ではなく胃袋に穴でも空いてるのか?というくらいなんか四六時中食べていないとお腹が空くお年頃なのだ。司の予想が正しければ、多分レッスンに来る前に菓子パンとかも食べてるはず。涼佳やいのりの弁当の2倍くらいある弁当箱を、もうここまでは食べられないよなと見ていると、その視線に気付いたのか航はにこっと笑った。
「司先生は普段料理とかしないんですか?コンビニ中心?」
「家ではするんだけど…お弁当に詰めたり、持って帰って洗ったりするのが面倒くさくなっちゃってね」
「あー…分かる。洗い物ってなんであんなにめんどく感じるんでしょうね」
レタスチャーハンをスプーンで掬いながら、航はウンウンと頷く。
「航さんはたまにお料理とかする?」
「しますね!なんなら今日は半分くらい自作です」
「手作り!?え、偉過ぎない………!?」
百億点満点…と司がつぶやくと、航は大袈裟じゃないですか、とほんのり呆れを滲ませたような笑みを浮かべた。ついでにジャーマンポテトをひとくち。薄切りのベーコンがテリテリしていてとても美味しそうな一品だ。
「いや、俺が朝ランニング行くから家族で1番早起きなんですよ。帰ってきて誰も起きてなかったら何品かちょっと作って、作り置きと合わせて入れて〜ってだけで…帰ってきて母さん起きてる日は普通に弁当作ってもらってます。そんなに偉くは…」
「充分過ぎるよ!俺、高校時代に弁当作ったことなかったからね…」
「まあ俺が燕条家で1番米と肉を消費してますし。弁当作りとか、できる時にできる範囲の家事は負担減らしたいんですよ」
残り少なくなってきたレタスチャーハンを、航は容器を傾けて掻きこみながらもぐもぐ咀嚼した。端っこに残った米粒も摘んで、ぴかぴかの弁当箱に『ごちそうさまでした』と手を合わせる。
(つくづく、大人っぽい子だなあ…俺、同い年の頃絶対こんな感じじゃなかった…)
さらりとそう言い切った新しい教え子に、司は感心というか、尊敬の眼差しで航を見てしまった。司が彼と同い年の頃と言えば、スケートの世界に憧れて寝ても覚めてもスケートのことしか考えられないような子供だった。クラブに入るにもお金がなく、年齢でも断られ、それでもしがみつきたくて学校が終わればバイトとスケートリンクに通う日々。その中で意識することなく学校に持って行っていたのは、母の作ってくれる弁当だった。
あの頃の司が知らなかった、毎日弁当を用意することがどれほど大変かを。航はもうきちんと知っているのだな、と司は思う。
「…航って食べ過ぎじゃないら?そんな食べたら重くて跳べんくならんの?」
「跳べます〜〜〜てか男子高校生って皆こんなもんだから。なんなら今食べてるこれで、跳ぶための筋肉作ってんの!ほらほら、ミケちゃんピーマン最後に残したらだめだよ。ピーマン食って、栄養バランスの取れた最強スケーターになろう!」
「…スリーターン、クロス〜…はいジャンプ!」
司の声に合わせて、シャア、と。滑らかで余裕たっぷりで着氷した4回転サルコウから止まることなく、航はするすると進んでいく。Edeaのアイスフライのブラックが、氷の上を切り裂いて輝いていた。真昼のように明るいリンクの上、自分の最強ジャンプを別の人が跳躍しているのは、不思議な気分だった。
「洸平先生〜…」
「?どうしたの、いのりちゃん」
航の個人レッスンの間、リンクサイドの壁を持って黙々と苦手なルッツの足抜き練習をしながら、いのりは鴨川洸平を困った声で呼んだ。
「4回転サルコウ…私以外だと身近に跳べる人がいなくて、初めて生で見て思うんですけど…」
「うん」
「航くんの4回転サルコウ、なんか私より長く?か速く?か分かんないんですけど、私のサルコウと全然違いますよね!?気のせい?」
「あ〜〜…それはね…」
むむ、とちょっと考えている顔で言葉を濁した彼自身、2人3脚で歩むアイスダンスの選手として活躍してきただけあり、司同様に目が良く、言語化も上手い。噛み砕いてどう説明したものか、というような表情をしながら、洸平は指を2本立てた。
「これは多分司くんから説明されてると思うんだけど…スケーターはジャンプの跳び方で、ざっくり2種類に分けることができる」
「…えっと。高跳び型と、幅跳び型!」
いのりの答えに、洸平は正解、とにこやかに言った。
「そうだね!いのりちゃんはどちらかと言うと幅跳び型になるかな。どちらの跳び方にもメリットやデメリットがあるし、個人によって跳びやすさも違うから一概にどっちがいい、とは言えないんだけどね」
それで、と洸平は向こうのほうで司にスケーティングを直されている航を指した。司を見上げる航は楽しそうだ。
「航くんは高跳び型に近いんだけど…その中でもいくつかのジャンプがディレイジャンプになってる選手だね」
「ディレイジャンプ…」
「うん。あ、多分次はルッツ跳ぶかな…トウで踏み切るジャンプの方が分かりやすいかな?踏み切っていつ回り始めるか、よく見ててごらん」
彼の言葉通りに、バッククロスで一気に加速した航は、後ろを一度だけ確認して右の爪先で氷を蹴った。綺麗に、ほとんど真上に飛び上がって、空中で始まった軸の細く速い回転がぶれることなく、そのまま着氷。エッジエラー、一切なし。お手本のような、3回転ルッツだった。ついでに両手上げ。ルッツでエッジエラーを取られがちないのりは、ついつい拍手をする。向こうからも司の褒め言葉がすごい熱量で聞こえてきた。
「あれ、いま……」
「空中で回り始めてたでしょ?」
いのりはその言葉に急いで頷いた。明らかに、上に飛び上がってから回転が始まっていた。
「!そうです!えっ、なんで!?」
「それがディレイジャンプ(delay=遅れる)なんだよ。普通のジャンプは踏切りの瞬間から回り始めるけど、航くんは空中である程度の高さまで行ってから回り始めてる。その分回転速度を上げないと着氷までに回りきれないし、高さや幅が足りないと回転を維持できない。その分あれができる人は、高さ・幅・回転速度が充分であるとジャッジされてジャンプの加点が稼げるんだ」
決して誰にでもできる、と言うわけではない。高さ・幅・回転速度・チェックや踏み切りの揃ったジャンプを目指して行く中でディレイジャンプにある程度近づける事はできても、遅く回り始めるぞ!と思って矯正することはかなり難易度が高いのだ。
「もちろんデメリットもあるよ。ディレイジャンプは着氷までに回転を終えるのがギリギリになって、エッジエラーやダウングレードを貰う可能性も高いんだ。そうなったら一気に減点をもらうことになる」
「航くんもディレイになってないジャンプはあるし……とは言えルッツとフリップがこれだけ打率が高いのはすごいな。良いコーチがいて、本人の努力の賜物なんだろうね」
感心したような口ぶりに、いのりは自分のルッツはこうも褒められたことがないな…とちょっぴり羨ましく思った。
「へえ……あの、私もジャンプ上手になったら、あんなふうに跳べるようになるんでしょうか…?」
「こればっかりは空中で回り始めるぞ!という意識でどうにかなるわけではないからね…向き不向きもあるし……でも、ジャンプの質を上げる中で、限りなく近づいていけると思うよ。これから最高のお手本がずっといるわけだしね」
その言葉にいのりはハッとした。その通りだ。今までルクス東山どころか大須をホームリンクにする選手で、ここまで高難度のジャンプを武器にしている人はいない。いつか来る狼嵜光との対決に向けて、見て、感じて、たくさん学ばせてもらおう、と決意をめらめらと燃やし始めたいのりに、洸平はやさしく「まずは3回転ルッツの成功率上げようね!」と声をかけた。
「航さん!!多分もうたくさん言われてると思うんだけど、どれもすごく高水準なジャンプだったね!トウを突くルッツやフリップがディレイジャンプになっているのも素晴らしかったし、高さや幅のどちらも兼ね備えていて見応えがある!助走が少なめだし、持ち前の膝の柔らかさで着氷の瞬間が沈まずすごく軽やかで、毎回フリーレッグが高いのもいい!軸の取り方も(以下略)」
「うお〜かつてないパッションで褒めてもらってる…アハハ、理凰くんの言ってたのマジだなあ…」
一通り滑って、司の勢いの良すぎる褒め言葉に押し流された航は、多少照れた様子でリンクサイドの方へ向かい始めた。中性めいた白皙には、幾筋もの汗が後から後から流れては肩の方へと流れて服に染み出している。航の口から出てきた意外な名前に、司はきょとんとした。
「理凰さんが?」
「そう、明浦路先生はすっごい褒めてくれる良い先生だよーって、理凰くんが。司先生が福岡初めて来た時は、美蜂先生に背負い投げされてるし、ほんまか?とちょっと思ってましたけど」
にっこり。不思議と嫌味に聞こえないのは、航のいたずらっぽい目つきがきらきらと輝いているからだ。
「ゔっ、その節はご無理を…思えば福岡に行った時、ちょっとスケーティングを見たりはしたけど、こうして航さんをジャンプをがっつり見るのは初めてだよね」
司がほんのり気まずい思いでそう言うと、確かに、と航はリンクサイドに置いていた自前のスポーツドリンクをくぴ、と飲みつつ頷いた。
「…こうして見ると、やっぱり福岡パークFSCの選手は皆ジャンプに安定感があって評価されてる、というのを実感するよ。良い選手たちがいるのはもちろん、布袋野先生たちのご指導の賜物でもあるんだろうね」
航の前の所属先は、質の高いジャンプを武器にするスケーターを多く輩出してきた古豪だ。ヘッドコーチである布袋野蕨一は過去に日本代表選手を送り出した経歴もあり、航は彼の薫陶を10年近く受けてきた生徒なのである。現役選手であれば他にも、女子ジュニアの高井原麒乃や大蜘蛛蘭もここの所属だ。
司のその言葉に、航は少しだけ目を見開いてから、ふっとほどけるような、衒いのない笑顔になった。彼にしては珍しい、年相応の素朴な笑い方だった。真昼のように明るいリンクの上で、淡い灰色の目が純粋な喜色を湛えて司を見ている。
「…そう思ってもらえるの、何よりも嬉しいですね。どれもこれも、コーチたちから扱き上げられたジャンプたちなんで」
静かで、彼のプライドがめいいっぱいに詰まった言葉だった。司がいのりとひとつずつ覚えていったジャンプと同じように、21種類全てのジャンプにコーチとの10年があるのだ、と。言外にそれはひしひしと司の胸を打った。
これから司が航に与えるであろう、スケーティングやステップの技術も、いつか。こんな風に言ってもらえたら素敵だろうな、と思うほどに彼の口ぶりは優しかった。
(ただ、それだけに……)
『彼がここ2シーズンで出た試合は、合計で7回です。中四国・九州ブロック大会、西日本大会、そして全日本ジュニアがそれぞれ2回。それに加えて、JGPシリーズの海外派遣で1回』
『…彼はその7回ほとんどで、複数回の転倒とエッジエラーを取られています。後半に高難易度ジャンプを入れられるおかげで、上位の選手とも戦えてはいますが…』
『練習でほとんど転ばないようなジャンプはもちろん、得意だったルッツやフリップでも成功率が下がっているのです。こと、試合の時に限って』
美蜂が移籍相談の時に言っていた言葉は、航の美しいジャンプを見れば見るほどにわかには信じがたかった。もちろん、氷の上に絶対はない。練習でできていたジャンプが本番でできないことなど、掃いて捨てるほど当たり前のことなのだ。重圧、期待、緊張、力み、そして何の理由もなしに。氷は誰にも容赦がないから。
その上で、ノービスB1年目からジュニア1年目までの5年間、公式戦で一切の転倒なく、全ての「もしも」を跳ね除けて燕条渡というスケーターは証明し続けてきた。己が同世代最強の座に相応しい選手であること。そして、『夜鷹純の再来』という称号を引き継げるだけの実力を持つことを。
だからこそ、彼が交通事故で腰椎を損傷し、療養を経て復帰してから今に至るまでの2シーズン、調子を落とし続けていることには布袋野コーチ達も、そして美蜂も落胆よりも不可解さが優っているようだった。身体が完治し、精神面でも長らく選手生活を共にしてきたコーチ陣はあらゆる言葉とサポートを尽くしたはずだ。
『贔屓と言われるかもしれませんが…彼のリハビリからサポートしてきた身としては、報われてほしいと思います』
『贔屓だなんて仰らないでください!コーチなら誰しもが、見守っている選手の滑走が良いものになるよう祈ります。美蜂先生のお気持ちは、航さんにとってきっと嬉しいはずです』
『ありがとうございます。名古屋でも引き続き彼のサポートに回る身として…もちろん、ルクス東山のメディカルトレーナーとしても。やれることを最大限するつもりです』
2年と言う歳月は、現役生活の短いフィギュアスケート選手にとって充分すぎるほど長い。それこそ、いのりがスケートを始めてから全日本へ出場できるほどの長さだ。その期間結果を出せていないのは、どれほど苦しいものだろう。それでも、歴戦のメディカルトレーナーの横顔はしん、と静かだった。焦ることも、長年の見守ってきた選手が復調できていないことに対する焦りもあるはずなのに、それを欠片も顔に出すことなく。
(…俺も、全力を尽くそう)
彼女はやれることを最大限、と言った。司も同じことを思う。まだレッスンを担当して1週間と少し。航のことを何もまだ知らないけど、司にだってやれることは沢山あるはずなのだ。
「…航さん」
「ハイ?」
ベンチで束の間の休憩を楽しむ青年を名を呼ぶと、人懐こい笑みで航は司を見上げた。妖精のように端正な顔立ちに、薄いアッシュブラウンの髪が張り付いている。
「もし話したくなかったら良いんだけど!航さんはさ、どうしてスケートを始めたの?」
「おっ、良いですね司先生!ザ・仲を深めるための質問って感じで」
ノリの良い返答だ。理凰の時は親が銀メダリストだからやらされたにきまってるでしょ、と睨まれたことももはや懐かしかった。
「そう!!まだ航さんのこと、お料理が上手で、国内男子スケーターのほぼ全員とLINE交換してることしか知らないから。たくさん知れたら良いなと思って」
司の言葉に、航は無地のタオルで汗を拭いながらああ、と頷く。汗をかかなさそうな上品な顔付きに反して、航は存外汗っかきのようだった。
「俺の場合のきっかけは、よくあることなんですけど…元は上の妹に誘われたんですよ。テレビで夜鷹純の特集だったか、オリンピックの振り返りだったか忘れたんですけど、それを見てからスケートスケート言い出して…母さんに航も一緒にやったら?と言われて始めました。それが7歳のときです」
「へえ…兄妹揃って始めたんだ!航さんは3人兄妹だったよね、下の妹さんは?」
「やりませんでした。俺らがスケートで毎日忙しそうにしてるから、絶対こんな大変な習い事するもんか!と固く決意したらしくて…」
航は苦笑いして、それでも彼にとっては可愛い妹なのが分かるような顔で続けた。
「だったんですけど、小学校に入ったあたりからスケートの観戦に凝り出して。いつの間にかジャンプ6種類も見分けられるし、加点がどれくらい付くか予想までしてくるような奴になっちゃって…試合終わって気が向いたら長文の感想くれるんですよ。すごい細かいとこまで見てるし…」
ちょっと嫌そうな顔をした航に、司も思わず吹き出した。選手の身内が応援に来るうちに、フィギュアスケートに詳しくなるのはスケートあるあるだが、加点がどれくらい付くか予想してくるレベルは稀だ。航のこの様子から、割と手厳しいお言葉を頂くこともあるのだろう。
逆に司先生もご兄弟いそうだな、と航は司の方を覗き込んだ。顎に手を当てて、ふむ、と司を上から下までじろじろ眺めた。
「…………ウーン、お兄さんか弟さんいます?それか両方?」
「えっなんで分かったの!?そう、俺、弟2人と兄1人いるんだけど……瞳さんとかに聞いた!?」
あっさり当てられて仰天した司に対し、航は違いますよ、と手をひらひら振った。
「当てずっぽうです!でも女兄弟いる感じはしないし、お兄さんでも弟でも司先生はしっくりくるな〜と思って。でも弟2人は分かんなかったな。4人兄弟、楽しそう。スケートやってる人いるんですか?」
「いや………両親も、特に。そう言う意味では、兄妹みんなスケートに馴染みのある航さんたちは、共有できる趣味があっていいね!」
「ですね。なんだかんだ話題に困ることないので、ありがたいと思いますね〜」
仲のいい兄妹なんだろうな、とそう思わせる口調だった。それにしても夜鷹純が間接的なきっかけとは。14歳で彼に憧れて氷の上に魅入られた司と同じように、航の上の妹も目を輝かせて兄を誘ったのだろうと、容易に想像がついた。今は訳あって彼と戦う…とも違う不思議な関係になってこそいるが、やはり彼は永遠のスターなのだ。司以外のあらゆるスケーターにとっても、目指すべき、そして手の届かない星のような何か。
「そっかあ。でも俺も夜鷹純がきっかけでこの世界に飛び込んだから、親近感を覚えるね!上の妹さんは…今もスケートを?別のクラブとかでやってるの?」
司のその言葉に航は目を細めて、なんとも言えない顔でゆるく首を横に振った。身を少しかがめて靴紐を結び直すと、彼の顔に長めの前髪が影を落とした。さらりと揺れる前髪の向こうで、ペールグレーの瞳がすこし、揺れている。
「いえ、辞めちゃったんです。ダブルアクセルが跳べなくて、6級受からなかったから。4級とかの大会で表彰台上がったこともあったから、頑張って欲しかったんですけど…」
「アレ!?もしかして嫌なこと聞いちゃったかな!?ごめんね航さん…」
「いやいや、気にしないで下さいよ!5級で辞める人いっぱいいるし、何なら今は転校先が吹奏楽部の強豪校だとかで楽しそうに部活やってますしね!マジで大丈夫ですよ司先生!?地雷踏んだとかマジ全然ないですからね!?」
なんか目に見えてしょげ出した司を励ますように、半笑いの航は彼の背中をバシバシ叩くと、「そろそろスケーティング練習再開しましょうよ」とリンクの方へと促した。師弟揃って氷の上をなめらかに滑り出しながら、ちらりと司が航を伺うと、スピードを上げながら、航は誰に言うでもなく呟いた。どこか遠くを見るように、リンクの上を見上げて。
「…まあでも。妹の分も頑張りたいと、俺が勝手に思ってるんです。誘ってくれなければ、氷を知らないままだったから」
ーほんとに、そう思うんですよ。彼は言い訳するように、そう付け加えた。
航くん ガキの頃は方言あり。インタビュー経験が増えるにつれて標準語よりになった人。妹は3歳下と6歳下がいる。
ディレイジャンプ 実在はするけど詳細間違ってたらごめん。『羽生結弦 ディレイドアクセル』とYouTubeで検索するとマジでどうやって回ってるのか分からんものが見れます。