半年ぶりに手に取ったヘアワックスは、記憶よりもきつい匂いがした。こんな匂いだっけ、と首を捻りながら手のひらの体温で馴染ませてから、べちゃりとしたそれを手櫛で荒くかきあげるように刷り込んでいく。普段、眉のあたりへ掛かっている髪の毛を邪魔に思うことはないけれど、こうしてそれが無くなると驚くほどの爽快感があった。ゆるく癖のある己の髪の毛は完全にぴっちりしたオールバックになることがないので、適当に撫で付けて終了。
(…こういう時、男って楽だよなぁ…)
いつも朝方バタバタしている妹たちを思い浮かべてふっと笑うと、洗面所の鏡の中の自分も全く同じように笑っている。心なしか、写真で見る自分よりもイケメンな気がした。
ミントグリーンの差し色が入ったスポーツウェアの上下。その中に七分袖の暗いグレーのシャツ、翼のような模様のスパンコールと刺繍の入った赤色のカマーベスト、黒いレギンスというスケート衣装がちらりと見え隠れしている。アッシュブラウンの髪の毛をオールバックにしたことで、何も知らない人が見ても『ああ、なんか演劇とかバレエとかしてる人なんだろうな』と分かるような格好の航自身が、鏡の中からこちらを見ている。
リビングの方から差し込む、早朝の淡く消えかけの陽光に照らされて、鏡の中の自分はひどく冷たそうな顔に見えた。じっと、底深い光を湛えた瞳が、瞬きをしている。
出来栄えにまあそこそこ満足したところで、後ろから「…兄ちゃん?」と眠そうな声がかかった。見れば、パジャマ姿の
「あれ、ごめん起こした?てか美波ちゃん完全に寝てない、それ」
「んん……トイレで起きただけだから…気にしないでいいよ。美波はなんか…ついてきた」
起きな、と碧は美波を小突いたが、末っ子はぴくりともしなかった。相変わらず、立った姿勢で船を漕いでいる。
「美波ちゃん、立ったまま寝てんのすごいなあ。器用すぎ〜」
「…兄ちゃん」と、碧。
航が首を傾げると、上の妹は偉そうに顎をしゃくった。
「…洗面所にワックスおかないでくれない?ジャマだから」
「碧ちゃんの化粧水とかは置いてんのに。ワックスも置かせてほしい」
「あたしのは毎日使うからいいの。兄ちゃん、ワックス毎日使わないでしょ…あれ。てかその服…大会とかじゃないよね?今日なんかあったの」
だいぶ眠気が覚めてきたのだろう、いくぶん焦点の定まってきた目で、碧は普段のランニングとは明らかに違う衣装の兄を戸惑ったように見た。BGMのように美波のいびきが、ぐう、と響く。
「前言ったじゃん、今日JGPシリーズの選考会。大会じゃないし、なんなら一般は非公開」
「…ああ。だから去年の衣装のままなんだ、びっくりした。今年も衣装変えないのかと思った…」
「まあこれ材料代も安くないし、別に今シーズンも同じでもいいんだけどね、俺は。背ももう伸びてないし…どうよ碧ちゃん、俺の髪型変じゃない?イケてる?」
航のウザい質問に、碧は据わった目でじろじろと上から下まで兄を眺めた後、ぽつりと溢した。航とあまり似ていない、焦茶の瞳は兄の3倍くらい目つきが悪い。
「……似合ってるけど、一周回ってなんか…ロード◯ブザリングのエルフみたい」
「どういう意味?褒めてる?ディスってる?」
航は思わずつっこんだ。◯ードオブザリングのエルフて。確かに前髪全上げの人多めだけど。
「半分くらい褒めてる。まあ強いて言うなら、ぴっちりしすぎかも…髪の毛、ちょっとおでこに垂らしてもいいと思う」
「おっ、ナイスアドバイス!おくれ毛作っとこう」
ちょちょいと前髪をいじって何筋か垂らしてみると、確かにほどよくカジュアル感が出ていい感じに見えてきた。そうこうしているうちに、出発する時間になりそうだったので玄関でしゃがんでスニーカーを履きながら、見送りをしてくれるっぽい妹たちを見上げる。片方寝てるけど。
「今日は晩飯までには帰ってくるよ。遅くなりそうなら母さんたちに言うし。あと、さっきご飯だけ炊いてちょっともらったから、後で碧ちゃんたちも食べんね」
「ん。兄ちゃんも選考会……」
言いかけて、上の妹は途中で言葉を切った。何を言えばいいのか、何なら良いのか、選び直すように碧はもごもごと気まずそうに、呟く。
「…怪我、しないでね」
「ありがと!じゃ、行ってきます」
こう言う時に、頑張って、と言わないところが碧の美点だと航はいつも思う。自分なら軽い気持ちで、特に何も考えず口にする場面で、この妹はいつも細々と気を遣って言葉を選ぼうとしてくれる。余計なことを言っていないか、悪口に聞こえないか、頑張っている人に頑張れと言わないようにしよう、とか。
ドアを開けると、早朝の透明な外気が肺に染み渡った。福岡とは違う、しっとりとした6月の朝の匂いだ。もうすぐで雨の季節になる新緑の森を眼科に見ながら、航はマンションの廊下でぐぐ、と伸びをした。
▽
「航くん…オールバックになってる…!?」
「そうでーす。俺、衣装着る時は基本この髪型だよ。結束ちゃんは髪の毛、いつも通り編み込みカチューシャなんだね」
早朝、いのり宅の最寄駅にて。待ち合わせをしていた司の車の中から手を振った航に、いのりはびっくりして声を上げた。助手席に座っている瞳も、航くんだいぶ印象変わって見えるわよねえ、とにこにこ笑っている。普段女の子みたいに綺麗な顔の航だが、前髪を上げてジャージの中の衣装もフォーマルっぽいもののせいか、外国の王子様みたいだ、と内心でこっそり思った。
「う、うん。これ、昔のお姉ちゃんの髪型とおそろいで。お気に入りなの」
後部座席に座ってシートベルトをつけながらそう言うと、へえ、と航は面白そうに相槌を打った。
「いいな。女の子は髪型のバリエーションたくさんあって、楽しそう。男性スケーターなんか、前髪そのままかオールバックのほぼ2択だもんなあ。司先生は現役時髪の毛どうしてました?」
「オールバックだったわよ!司くんも前髪上げてるとかっこよく見えるけどねって、現役時代話題になってたんだから。ねえ、司くん?」
なぜか司より早く答えた瞳は楽しそうだ。ぎくり。その言葉に教え子たちが深掘りしてきそうだな、と素早く判断した司はそういえば!と声を無駄に張り上げた。司の声圧で、ミラーにつけている交通安全守がちょっと揺れた。
「い、いのりさんは今シーズンから衣装に合わせて、髪飾りも作ろうかなって、この前お母さんが仰ってたよね!もう完成してたりするの?」
いのりはぴょこんと、結った髪を立てた。
「!あとちょっと、なんです!でもお母さん、出来たところまで時々見せてくれるので、すっごく完成が楽しみ!今できてるところまででも本当に可愛くて…」
「あら、いいわね!いのりちゃんのお母さん、お裁縫すごくお上手だものね。衣装見るの楽しみだわ」
えへへ、うふふ、といのりは後部座席でくねくねと体をくねらせた。女の子はだいたいドレスとフリルとレースが大好きな生き物で、結束いのりだってその例を免れない。ひらひらと氷上で泳ぐ煌びやかなドレスたちは、長らくスケーターの証として憧れていた分もあって、格別の価値を持つものだ。
母の部屋に、ミシンと並んで置かれたトルソー。段々と完成に近づくそれを見るたびに、いのりの頬っぺたはだらしなく緩んでしまう。今、ジャージのに着ている鮮やかな赤色のものとは違う、綺麗な水色のチャイナ服のようなデザインの衣装の完成はひどく待ち遠しいものだった。
「航くんの衣装も、お母さんに作ってもらってるの?」
「あー…そうだね。うちはどっちかって言うと通販で買ったり先輩からもらった衣装をサイズ合わせたり、リメイクしたりが多いかも。母さん曰く『いちいち型紙に起こすのめんどくさい』らしくて」
「ジュニアに上がったら、最大で年に2着だものね…エキシビジョンで衣装変えたらまた必要になるし…そうでなくともフィギュアの衣装作り、親御さんには大変よね」
瞳の実感がこもった言葉に、ウンウンと航もいのりも頷いた。大会前に夜遅くまでこつこつとミシンで縫ったり、一粒一粒スパンコールやビジューを付けている母親の姿を見ているだけに、フィギュアスケートの衣装作りの大変さは身にしみて理解している。衣装ひとつ、靴ひとつ、付き添いひとつとっても、スケートは親の負担なしにはなり得ない。まこと親泣かせのスポーツなのである。
「結束ちゃんは今年のSP、中国の映画の曲使うんだっけ?やっぱりチャイナドレス系の衣装なの?」
「うん。お母さんが映画に出てくる男の子をイメージしたって言ってて…」
「本格的〜!和風とか中国風とか、民族要素入った衣装ってなんかそれだけで良いよね。俺も結束ちゃんの話聞いてると、またそういう衣装着たくなってきたかも」と、航。
運転をしながら司も口を開いた。
「『中国の不思議な役人』の中国風の衣装、航さんもよく似合ってたよね。JGPシリーズの大舞台で、2人の衣装のお披露目に立ち会えるのが楽しみだなあ!」
「!選考会、頑張ります!2試合派遣…!!」
いのりちゃん燃えてるわねぇ、と瞳がおっとり笑った。
今日の選考会でJGPシリーズの全7試合の内、何試合に派遣されるかが確定する。2試合派遣なら言うことなし、1試合派遣であってもその順位次第では2試合目にも出られるため、まあ良し。サブメンバー(強化指定なし)であれば、他の選手の順位や調子次第でのみ、入れ替わり出場が可能となる。
いのりが目指すJGPファイナル出場…すなわち、全7試合が終わった時点で上から6位以内にいるためには、2試合に出場しなければ不可能だ。今日の選考で、最悪でも1試合の派遣を勝ち取る必要があるのだ。なんとしても勝ち取るぞ、と拳を固く握った。
(…航くんは、3年前のJGPファイナルで2位なんだよね…それも初出場で、1位との差も一点以内だったって…)
実績でも技術の面でも、自分より遥かに積み上げてきているクラブメイトに負けない、といのりはぐっと決意を込めて彼を見上げた。
「が、頑張ろうね、航くん!JGPファイナル優勝目指して!」
航の淡い灰色の目が、何かまばゆいものでも見るように細まった。微かに頷く動作に合わせて、オールバックにしたアッシュブラウンの髪がすこし揺れた。車の窓から差し込んだ光が、埃にちらちらと反射して航の輪郭がちらちらと輝いている。
「ーうん。頑張ろうね、結束ちゃん」
選考会というのは、全日本ノービスのような大会とは全く異なるものだ。座席を埋め尽くす観客もいなければ歓声もなく、他の選手の演技もおおっぴらには見られない。点数発表もなければ、キスクラだってない。
魅せるものではないのだ。あくまで、どの選手が「JGPシリーズそれぞれの大会で優勝できるかどうか」を審査員たちが冷静に見定める場所がゆえに。
(静かだな…一般公開してないから、当たり前なんだけど)
普段はそれなりに人の出入りがあるはずのスケート場が、がらんと物寂しい状態なのはなんとも違和感があるな、と司はぐるりと見渡した。
雲一つない、青い空。
今回は大会と違って他の選手の演技の間、リンク外で待機する必要があるため、ただいま航はウォーミングアップ中、司はそれの監督中である。いのりは今回出番が大分遅いため、今は瞳がついている。司たちも、航の演技が終わり次第合流する予定だった。
グンニャリと、ちょっとキモいくらいの柔らかさで柔軟体操をしている航は、平素と変わらない落ち着いた表情だ。焦った様子も、体に不調も見られないオールグリーン。試合前のルーティーンだと言うそれを、のんびりと進めている。けれども。布袋野コーチたちも口にしていたのだ。失敗する試合の前も本当にいつも通りだった、怪我前と何も変わらない航だったのだ…と。
「…航さん、すごい姿勢になってるけどそれ大丈夫?痛くない?」
「ぜーんぜん、平気です!俺の柔軟性は、美蜂先生からもお墨付きなんですから」
航は得意げに、陸上でキャンドルスピンの姿勢になって上半身を逸らした。くにゃ、と音が聞こえそうな仕草だった。
「おお…航さんは本当、女子選手なみの柔らかさがあるよね!スケーターとして魅力的なポイントだな、といつも思うよ」
「あはは、ありがとうございます。ビールマンとかキャンドルスピン、女の子が使ってる印象強いですもんねぇ。かく言う俺も、最近はプログラムに入れること少ないし…」
本当に、いつもと変わりない。気さくで明るく、はきはきとした燕条航そのものだ。2ヶ月と少しの間、司が見てきた普段通りの彼だ。もしかしたら、今回の選考会ではこれまでの2シーズンの不調が起きず、練習通りの演技ができるかもしれない…と思いかけて、司は慌てて自分を戒めた。
(…福岡の先生方だって、そう思うことはあったはずだ)
交通事故から復帰して、練習でできていた演技が出来なくなって。それを一部始終見ていたコーチ陣とて、何度も『今度は行けるかも』と期待し、対策を練り、打てる手を尽くしてきたのだ。少なくとも、まだ出会って2ヶ月の司には彼らほど航との間に思い出も積み重ねていなければ、知っていることだって少ない。
その分注意深く観察して、彼の力にならなければ、と司はじっと航を見た。美蜂は身体は完治していると言った。ならば、他に何かがあるはずなのだ。それが心因性のものなのか、彼自身でも気付いていないものなのかは分からないけれど。
「…航さんは、大きな大会とかで緊張する方?」
問われて、航は首を振った。
「…ほぼしない方ですね!誰かの前で滑ることは、昔から嫌いじゃなかったし…司先生は?」
「俺は…する方だったね。ガチガチね、って瞳さんに言われることもたくさんあったなぁ…航さんはあの氷の上に1人で立つ時、怖くならないんだね。すごいことだよ」
司の言葉に、航はふ、と息を吐くように微かな笑みをこぼした。上げていた足を下ろして、屈伸運動を始めている。
「…時々、スケートの上位選手なんて、恐怖心が死んでる奴か、緊張でガチガチでも滑り切れるやつしか残らないんじゃないかって、思いますよ。俺は前者でありたいと思ってますけど…結束ちゃんはどうでしたか?緊張するタイプ?」
「いのりさん?いのりさんは……」
意外な方向に進み始めた会話の中で、指遊びを始めてした時のいのりが脳裏に浮かんだ。震えて、『こけちゃったらどうしよう』と顔を引き攣らせていた、11歳の少女。明浦路司の、1番初めての生徒。思えばあれはもう、2年も前のことなのだ。
「初めの方は、すごく緊張してる時もあったよ。でも、今はあんまりそういうのを表に出さなくなった……のかな?本番は緊張もきっとあるんだろうけど…それ以上にたくさんの決意を抱いてリンクに滑り出していくのがかっこいいなあ、と思っていつも見送ってるよ」
いつも勇気を貰っている、と思う。キャリアに反して、遠い夢だと笑われそうなそれを大事に抱えて、本気で目指して走っていく姿に。自分が渡して、彼女が磨いた新しい武器で戦う姿に。明浦路司は、抱えきれないほどのものを貰っているのだ。
「いいですね。俺も同じクラブになってから、つくづく思いますよ。結束ちゃん、すごい子だなあって…夢を追う熱量を保ったまま走り続けられるのって、ひとつの才能ですもんね」
「俺もそう思うよ!いのりさんの夢はオリンピックの金メダリストだけど…航さんには、そういう夢があるのかな」
航はその言葉に、黙ったままじいっとその淡い灰色の目で司を覗き込んだ。どことなくいたずらっぽい光の宿った瞳が、面白そうに弧線を描いた。
「…今日の司先生は、いつになく俺のことを聞きますね。なんか気になることでもありました?」
「え!?いや………聞いてなかったな…と思って…?」
(言えない…航さん聞かないと絶対自分のこと喋らないし……喋ってもいつの間にか違う話になってるから…とか言えない…!)
燕条航、高校2年生。司にとって3番目の教え子になるこの青年は、良い生徒だ。司の長いスケーティング練習もきちんとコツコツやり、分からないことがあれば質問をし、暇があればいのりにルッツのお手本を見せてくれたり面倒見も悪くない。年下のクラブメイトからは親戚の兄のように懐かれている、人当たりの良い男の子。それが、彼だ。
けれども時折、線をきっちり引かれているな、と感じることはこの2ヶ月の中でも時折あった。彼自身のことについて聞けば、答えは必ず返ってくる。けれど彼はある程度のところまで話した後、司やいのりに話を振ったり、滑らかに他の話題に移ったりと、決して話すぎることがない。
今、悩んでいること。困っていること。足りないところ。もしあるなら、司への不満。そういったことについて、司は何も知らない。航が上手にかわして、人懐っこく笑ってしまうからだ。初めの頃の理凰や…あるいは狼嵜光のように、嫌悪をはっきり表に出さない分、司自身も上手く踏み込めずにいる。
果たして、司の苦しい言い訳に誤魔化されてくれたのか…多分違うんだろうけども…航は2度、3度ぱちぱちと目を瞬かせてから、目標かあ、とつぶやいた。
「あんまりそういうの、きっちり決めてないタイプだったんですよね、俺。ただ氷の上を滑るのが気持ちよくて、難しいジャンプが跳べたら楽しくて、ずっとスケート続けてきたんです」
「そう、なんだ…」
意外なほどシンプルで簡潔な答えに、司も何とも微妙な反応になった。
「もちろん、大会に出たら1位を狙いに行きますよ。沢山の人の前で、1人で滑ることだって好きだし、試合で色んなリンクに行くのも好きです。試行錯誤して練習して、構成決めたジャンプが試合で出来たら嬉しいですし……あはは、なんかこう羅列するとガキっぽいですねえ」
「そんなことはないよ!スケートそのものを楽しいと思える初心を、ずっと忘れないことは誰にでもできることじゃない!」
司の紛れもない本心だった。楽しいだけでは続けられないスポーツだからこそ、航の言うような楽しみ方を忘れないでいられる人は貴重だ。けれども恐らく、それが全てではないだろうな、と司は思った。そして、航は全てを教えてはくれないのだろうな、とも思う。
胡座をかいて、上半身のストレッチをしながら航はにこっと笑った。朝の光を受けて、薄い色の髪が漂白されたように白く輝いている。
「司先生、褒め上手〜…まあ直近の目標ならやっぱり、JGPファイナル出て優勝!ですかね。3年前は銀で悔しかったですし、去年は派遣1国だけだったので。目指せリベンジ!」
ぺたん、と後ろに倒れこんで、航は拳を突き上げた。嘘ではないんだろうな、ということしか分からない司は、良い目標だね、とコメントする他になかった。
「航さん、イメージできてる?」
「はい!ステップシークエンスはロッカーからカウンターの繋ぎ目と、カウンターからループの繋ぎ目。フライングキャメルスピンからドーナツポジションの維持しっかり、ですね!」
口頭での確認が終わったところで、タイミングよくアナウンスが響いた。
『……ルクス東山FSC、燕条航さん』
「それじゃあ…航さん。最高の演技を期待してるね!いってらっしゃい!」
「行ってきます!」
最後に軽く拳を交わして、航が氷上に漕ぎ出して行く。グレーのシャツと赤色のカマーベストが、あっという間に遠ざかった。リンクの真ん中…ではなく、少し右寄りのポジションで止まった航が、少しだけ片膝を曲げて後ろで手を組む姿勢を取った。遠目にも目を伏せた白皙の上に、緊張の色はない。
「航くん、緊張してなさそうね。上手く行くと良いんだけど…」
司と同じようなことを考えていたのだろう、瞳が心配そうに呟いた。JGPシリーズへの派遣選考には、明確な基準がない。ここで歴戦の審査員たちに『この選手は派遣すれば優勝できるだろう』と思わせるような演技ができるか。ただ、その一点のみに限る。ここ2シーズン、不調が続く彼は、事前の実績という意味ではやや不利だ。なんとか不調を打ち破ってくれ、と願うコーチ陣を他所に、硬質な管弦楽の音が鳴り始めた。
───バレエ音楽『火の鳥』。
1910年にストラヴィンスキーが作曲し、スケート音楽としても定番となった名曲だ。航が昨シーズンのFSとして使い込んできた、テンポの速い、音の粒が転がるような序幕。
ぱちり、と音に嵌めて踊り出した航の動きは淀みなかった。福岡のクラブでみっちりとバレエもやり込んできただけあって、訓練された指先はひどく優雅だ。それでいて、『踊れる』タイプの彼は、曲のバレエ要素に寄せすぎず、近代的な要素を残す振り付けに合わせて細かく、静と動が使い分けられている。
(…よし…元々曲の細かい音符を拾って踊れるタイプだったけど、それに合わせるスケーティングも良くなってきてる…2ヶ月間の成果が出てるぞ…!)
司は内心で拳を握った。誰に言われるまでもなく踊れるタイプの航は、振り付けやジャンプが大きな得点源であり、それに比べるとスケーティングはまだ極められる余地がそれなりなあったが、この2ヶ月きっちりとアイスダンス出身のコーチ陣の指導を受けたことで目に見えて上達していた。エッジの使い方や下半身のより細かい動きが、滑らかに制御されている。
──『火の鳥』はロシアの2つの民話が合わさった内容だ。王の庭園には黄金のリンゴの木が生えており、夜毎火の鳥がそれを食べに来ていた。王は3人の息子に火の鳥を生け取りにした者に、王国の半分と後継者の地位を与えると言い、三兄弟は順に見張りをした。兄2人は眠ってしまったが、末っ子のイワン王子は眠らず、火の鳥を追いかけて旅を始める。
どこか幻惑的に、夜毎訪れては去る火の鳥のように、翼をはためかせるような振り付けのまま、短い助走から踏み切って航の最初の高難易度ジャンプの体制に入った。
(……えっ?)
4回転ループ+3回転トウループ。高難度とは思い難いほどあっさり踏み切ったコンビネーションジャンプ──練習でほぼ100%降りていたそのジャンプを、航は着氷間際で大きく体勢を崩してたたらを踏んだ。辛うじて手をついてはいたが、体重の過半がかかってしまうこけ方という、お手本のような崩れ方だった。4回転ループの方はきっちり降りれていたのに、トウループの方が失敗という、普段からは考えられない姿。
ゆっくりと音楽が加速していく。小刻みに歯切れの良い、虫や鳥の羽ばたきにも似た、リズミカルな音の群れ。金管楽器の低音が華やかに吹き鳴らされて、風を切って鳥が空を滑空するときのような、スピード感を感じさせる曲に合わせて、体勢を立て直した航の顔は流石に失敗をおくびにも出していなかった。それでも動きがどこか硬い。
──火の鳥を追いかけたイワン王子は、夜の内に不死身の怪物・カシチェイの魔法の庭に迷い込んでしまう。そこにいた火の鳥を王子は捕まえるが、火の鳥が懇願するので開放してやったが、その時に魔法の羽を王子は手に入れる。
キラキラと。航のカマーベストに刺繍された、翼を形取ったスパンコールが強く反射して光っている。カメラのフラッシュのように、夜空に輝く火の鳥の尾羽のように。
4回転サルコウ。
3回転アクセル+オイラー+3回転サルコウ。
3回転フリップ。アクセルやフリップは辛うじてクリーンな着氷とはなっていたものの、普段の練習で見せているような前後に難しいステップを入れた構成がいくつか不完全なものとなっており、サルコウが回転不足気味がかなり際どいラインだった。悪ければダウングレードを取られている可能性すらある。
(練習で跳べていたものが、試合で出来なくなるとは聞いていたものの……ここまでとは…。とは言え、今までの期間で有効な手を打てなかった俺の責任でもある…)
それでも目を逸らさない司の前で、少しずつ上達してLy3を出せるようになってきたステップシークエンスが、滑らかに、氷の上の図形を途切れなくなぞりながら、チョクトウ・ブラケット・ツイズル・ループ・ロッカー・カウンターと進んでいく。司に指摘されていたロッカーからの繋ぎ目も、最初に比べればうんと細やかなところまで行き届くようになっていた。
木管とヴァイオリンが主軸になって、曲のテンポがゆったりとスローに落とされていく。クライマックスに向けて、流れるような穏やかな曲調の中でコレオシークエンスは、バレエの要素を強く強調するような振り付けだ。ワルツジャンプのような軽やかなスケーティング、男性にしては珍しいスパイラルからビールマンスピンに移行していく。後半最初のジャンプである3回転アクセルはやっと調子を戻してきたのか、後にバタフライを入れた、美しい着氷だった。
(残りのジャンプは2回…4回転トウループと、3回転ルッツ+3回転トウループだ…!)
──物語の中では、イワン王子は13人の乙女たちと出会い、その中の1人である王女ツァレヴナに恋をする。しかし彼女は、不死身の怪物・カシチェイの魔法によって囚われの身となっていた。そうこうする内に夜は明けてしまい、カシチェイたちが戻って来てしまう。
物語のクライマックスに合わせて、テンポは加速しないままそれでも荘厳に、冒険譚の終わりを予期させる華やかなフィナーレの曲調へと変化していく。最も有名な金管楽器のフレーズと共に今度はバタフライを入りに持ってきたまま、航が左足のつま先で氷を綺麗に蹴った。4回転トウループ。とんでもない体力によって支えられた、スケーター・燕条航の大きな魅力のひとつでもある後半に跳べる4回転ジャンプ。
頼む、と指を組むコーチ達の目の前で、シャア、とそれはきっちり着氷した。若干エッジエラーの付きそうなそれは、完全に練習通り、とは行かなかったけれども、柔らかい着氷かつディレイ気味で、高さと幅がかなり戻ってきていた。───ジャンプは、残り1回。
(やった………!後半に持ってきた4回転成功だ…エッジエラーあるけど!これができる男子選手は少ない、最後のコンビネーションジャンプが決まれば、派遣の可能性も……!)
司も瞳も、手に汗にぎる心地で航のアッシュブラウンの髪が靡く瞬間を見た。練習と同じように行かなくて、本人が1番混乱しているだろうに、少しもそれを表に出さない汗ばんだ白皙を。それでも少しだけ、灰色の目を細めて、ルッツのタイミングを見計らうようにして、そうして航は右のトウで氷を叩くようにして、跳んで。
(あっ)
───ゴン!!!
司が声を上げるより速く、鈍く思い音がリンク中に響き渡った。
───イワン王子は、戻ってきたカシチェイの手下によって捕えられ、魔法で石にされそうになる。そこでイワン王子は手に入れた魔法の羽を使うと、火の鳥がやってきて、カシチェイの命が卵の中に隠されていることを告げる。王子が卵を破壊するとカシチェイは死に、石にされた人々は蘇る。そうしてイワン王子とツァレヴナ王女は結ばれることになり、物語は終幕を迎える。
めでたし、めでたし。
▽
そう言えばさぁ、と人1人肩車しているとは到底思えないほどほんわかした笑顔で、年上の少女が微笑んだ。結束いのりにとっては一方的に知っている高井原麒乃は、長年の知り合いのようにこちらに笑いかけている。
初夏。
じりじりと焼ける厳しさが、日光の中に混じり始めた季節。
ジュニア強化合宿。JGPシリーズへの参加が正式決定した選手と、ノービスの選手のみが参加できるここで、初めてお会いする方である。先ほどまで岡崎いるかにつれなくされていたのとは大違い、優しそうな先輩選手2人(肩車しているので1組と言い換えてもいい)の登場に、いのりはほっとした思いで183㎝+aの人影を見た。
「大注目中の結束いのりちゃんじゃーん!JGP出場おめでとう〜!あと、今航と同じクラブなんだよね?不詳の…なんだっけ?航がお世話になってまーす」
ぺこん、と麒乃が頭を下げたのに合わせて、上に乗っかっている寧々子があわてて頭にしがみついた。
(あっそうか、麒乃ちゃんは福岡パークFSCの所属なんだ………航くんと前まで一緒だったんだよね…)
気づいたいのりもぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます!こ、こちらこそ!?航くんにはいつもお世話になってます!」
「あそっか、航って今名古屋なのか!へー、本当に移籍したんだ。ずっと麒乃と同じクラブのイメージしかないから、変な感じ」
今気付いた、という風な寧々子にそうそう、と麒乃が頷く。
「航と今もLINEするし、あんま福岡いた時と変わんない気もするけどね。テスト勉強教えて〜って言ったらGmailから大量の対策PDF送ってくれるし。…あと結束ちゃんのこと、めーっちゃいい子だよ、天才!って言ってた」
にこにこ笑う麒乃に、いのりは意外な思いで長身の先輩スケーターを見上げた。自身が希少な才能を持っている、評価されている、という自認は多少ある。4回転サルコウは誰にでも跳べない武器だからこそ、価値があると知っている。
けれども同時に、まだ「氷の上で1番になる」という目標には程遠く、まだ自分の強さを証明し切れていない、とも思う。だからこそ航のように同世代の頂点に何度も立っていた選手が、いのりをそこまで評価してくれていたのは驚きだったし、同じくらいに嬉しい、とも思った。その評価に応えられる選手になりたい、とも。
「しょうもな」
ばっさり切った岡崎いるかは、その言葉を鼻で笑った。
「天才って言葉を軽く使い過ぎじゃない?どいつもこいつも。燕条だってずーっと天才だ天才だって言われてきたくせにさ」
「よくない?航自身が自分で名乗ったわけじゃないんだしさ〜」
嗜めるような麒乃の言い分をスルーして、いるかはずい、といのりに身を寄せた。海を背にして、淡いブルーの目が冷たくいのりを見据えている。結束いのり、とフルネーム
呼びされて背筋が伸びた。
「は、はい」
「お前らの世代はさ、『狼嵜光世代』って呼ばれてるじゃん。同じように私たちはノービスBからジュニアの1年目まで、ずーっと『燕条航世代』だったわけ。同世代であいつが1番実力があって期待もされてる選手だったから」
分かる?とおでこを軽く弾かれた。
「でももう誰も私たちの世代を『燕条航世代』なんて呼ばない。あいつは事故に遭ってもう天才でも『夜鷹純の再来』でもなくなったから…少なくともそう考える人が多くなったから。お前の姉貴もそう」
(…多方面に喧嘩売りすぎじゃね?)
(それはそう)
こそこそ囁く寧々子と麒乃を他所に、いのりは絶句した。姉である実叶のことも航のことも、憧れている、やすごい選手であるという評価は耳にしたことがあっても、ここまで直裁に悪口を言ってくる人に出会ったのは初めてだった。
「天才なんて言うと希少価値みたいに聞こえるけど」
「この世界は降りると決めた奴を引き止めたりしない。お前もチヤホヤされて浮かれてたら、姉貴みたいにそのうちスケート嫌いになるよ。燕条だってあそこまで負け込んでたら、嫌いになってきてるんじゃないの?」
「体が重くなって、褒められなくなったやつから、ジュニアで辞めていくんだから」
じろりとこちらを見下すいるかの目を、きっと睨み返していのりは言い切った。
「辞めない」
「誰に褒められなくても、夢を目指していいって知ってるから!」
それだけは断言できた。誰に何を言われても、スケートを嫌いにはならないといのりは知っているから。自分が選んだ氷の上で1番になりたいという夢を、司を金メダリストのコーチにしたいという夢を、決して離さないと約束できるから。
(…でも)
航くんはどうなんだろう、といのりは少しだけ心配になった。自分のことは断言できるけれど、自分ではない人のことは言い切れない。それも、航のように…今の狼嵜光と同じように金メダルを積み上げ続けた先でつまづいている…と少なくとも周囲から思われるようなスケーターの真意を図るのは難しかった。
JGPシリーズの選考会が終わって、司の車で帰路につくとき、彼はいつも通り気さくで明るい、燕条航だった。演技途中でリンクの壁にぶつかって、鼻血を止めるためのガーゼを付けていたものの、それを感じさせないくらい航はけろりとしていた。明るい色の瞳が、午後のオレンジ色の光に照り映えていたこと、鼻のガーゼが痛そうだったことを記憶している。
『転んだの、司先生のせいじゃないですよ』
去り際に彼はそう口にしていた。選考会でルッツを転んでしまった、と落ち込み気味だったいのりとは対照的に、少しも気落ちした様子のない彼に、悔しくないのかな、と不思議に思ったことを覚えている。スケーターは誰しも、成功すると思って跳ぶ。転ぶと分かって跳ぶ者などいない。それでも氷の上は転びやすくて、こけると痛くて悔しい。
航が悔しくなさそうだったのは、彼がいのりよりずっと長くスケートをやってきたからだとばかり思っていた。けれど、いるかの言葉に、いのりはほんのり不安になった。彼がスケートを嫌いになっていたらどうしよう、と。そんな思考がじわじわと脳裏を侵食する。
燕条航はJGPシリーズへの派遣は未定。補欠選手扱いとなるため、派遣の決定した選手の成績や怪我等での欠場の場合のみ出場となる。そのため今シーズンは強化指定の選手ではなく、この合宿への参加はできていない状態だった。
──転んだの、司先生のせいじゃないですよ。俺のミスです……
耳の奥で、柔らかい響きの声が響いている。自罰的でもなく、やけっぱちになった風でもない、ただ、少し困ったような色のある言葉だった。
燕条航 夜鷹純の再来〜って呼ばれてたのは、ノービス4連覇が彼以来だったのと、ノービスB時代に3回転アクセルとか、後半に3回転ルッツ+3回転トウループ跳べてたから。ルッツループは跳べない。強化指定、ナシ!!!!
妹たち 兄妹みんな海っぽい名前。
いるかちゃん めっちゃしょうもない因縁があって嫌われてる。ミカちゃんみたいな深刻な事情はないので安心して欲しい。