いのりちゃん、と大蜘蛛蘭に声をかけられたのは合宿1日目の昼食のときだった。記憶が正しければ、こうして直接話すのは初めての彼女は、緊張したように端正なその顔をすこしだけ強張らせていのりを見た。
大蜘蛛蘭。福岡パークFSC所属、いのりと同じくジュニア1年目。一昨年のノービスA銀メダルの実力者。ぶっちゃけて言うとそれくらいしか知らない間柄だ。スケート歴の浅いいのりなので、スケーター皆知り合い!みたいな狭い界隈のはずが知らない人ばっかりなのである。
「…あの。キミたちがもし良ければ、隣いいかな」
問いかけに、いのりは首を激しく縦に振った。
「えっ、も、もちろん!ねっ理凰くんも、いいよね!」
「俺は別に…いいけど…」
あらゆる女子に対してガード固めの理凰少年だったが、彼は良識ある男子のため嫌とは言わなかった。礼を述べていのりの二つ隣の席に腰を下ろした蘭は、静かにいただきますと手を合わせて、スプーンを手にした。ぴん、と伸びた背筋が大人っぽくて綺麗な女の子だなあ、といのりがのんびり思いながら玄米ご飯をもりもり食べていると、飲み込んだものを咀嚼し終えた蘭が2人をちらりと見て言った。
「理凰くんといのりちゃんって、仲良かったんだね。一緒にご飯食べてるとこ、初めて見たよ。いのりちゃんがいる合宿が初めてなのもあるけど…」
「いや。俺は光とか他の男子勢まだ来てないからなだけ」
鴗鳥理凰、ばっさり。いのりはドライな弟弟子を凝視した。
「!?め、珍しく理凰くんから声かけてくれたな、と思ったのに!?」
「アンタだって、あのメンダコいたらそっちいくだろ…」
「それはそうだけど…」
先ほどまで曲かけ練習が終わった順に講師たちから講評をもらい、それが終わって昼食という流れだったので、早々と終えた理凰やいのりは昼食のテーブルについている。逆に終わってないメンバーもそこそこいたので、食事会場にいる人間はまばらだった。
そういえば、といのりは思う。先ほど話した高井原麒乃と同じく、蘭もまた福岡パークFSCの所属選手だ。なので当然、航とも長らく付き合いのある人物ということになる。せっかく話しかけてもらえたんだし、といのりは共通の話題を振ろうと決意した。心の中ではガンバレ!!!と司が応援してくれている。
「ら、蘭ちゃんって航くんとずっと同じクラブだったんだよね!私、航くんがこっち来てからいつもすごくお世話になってて…蘭ちゃんは航くんと何歳くらいから一緒なの?」
質問に、蘭はすこし考えてから答えた。
「私は4歳でスケート始めたんだけど…ほぼ同時期に航くんと航くんの妹が入ってきたんだ。スケート教室も同じだったから…今で10年?くらいかな」
「10年!?すっごいね…幼稚園生時代からなんだ…」
単純計算で、いのりのスケート歴の4倍以上。航がルクスに移籍して2ヶ月と少しなのだから、付き合いの長さたるや比較できるレベルではない。
「4歳か5歳にはスケート始めてる奴がほとんどなんだし、そんなもんでしょ。俺も光と6年一緒にいるし」
「!理凰くんはそうだよね!?いいなあ〜〜」
始めた年齢や、キャリアを言い訳に使わない、といのりは決めている。が、それにしたって羨ましいものは羨ましかった。長く積み上げてきた経験があること、それを分かち合える素敵な誰かがいることも。
「昔は航くん、髪の毛がちょっと長いから女の子みたいで可愛かったんだよ。ほら」
「わっ、ほんとだ!蘭ちゃんの小さい頃も可愛いね」
蘭が見せてくれた写真には、幼い顔立ちの子供が3人揃ってピースサインをしている光景が映っていた。3人ともスポーツウェアを着ているから、多分普段のリンクなのだろう。幼稚園くらいの女の子が2人(片方が蘭なので、もう片方が航の妹だろうか)と、後ろから2人と肩を組んでいる航。言葉通り、顎より少し長い髪の毛が、彼の元々中性的な顔立ちを更に甘く、女性的に見せていた。
「航くんは小さい頃からクラブの中でも1番上手で…今でも私の憧れなんだ。もちろん男女の差はあるけど、彼みたいに綺麗なジャンプが跳べるようになりたいって思ってるよ」
「そうなんだ…航くんのジャンプ、どれも綺麗だよね!特にルッツとか私もお手本にしてるんだ」
はにかむように、憧れを口にする蘭に、いのりはほっとしたような思いだった。いるかにあそこまで貶されていた彼に対して、今も変わらぬ憧れや親愛を持てる者がいるというのは、たかだか2ヶ月のクラブメイトからしても嬉しいことだった。
「分かるよ。先生たちもずっと、航はルッツが1番上手いって褒めてたから…あの、それでいのりちゃんに聞きたかったんだけど」
こっそり、少し声のトーンを落として蘭は言った。
「うん」
「……航くんが選考会で怪我したって噂、本当?その、また腰を悪くしたとかじゃない…よね」
すっきりとした切れ長の目には、心配そうな色が浮かび上がっていた。心なしか、横で聞いていた理凰も初耳だったようで、食事を口に運びながら会話の行末が気になるようだった。
「えっ、あ、違うよ!なんか選考会の演技の途中で壁にぶつかって鼻血が出た…って先生たちは言ってた。脳震盪?とかは起こしてなくてよかったって…。腰のことは何にも聞いてないけど…航くん、腰痛めたことあるの?」
「「え」」
逆に、2人はいのりの答えが予想外だったようで、理凰も蘭もギョッとしたようにこちらを見遣った。
「ああそっか、アンタまだ始めて2年だったっけ…知らないのも無理ない、のか?」
「今回は怪我が大したことなくて良かったけど…航くん、いのりちゃんに話してなかったんだね。3年前の世界ジュニア選手権が終わったすぐ後に、航くん交通事故にあってるんだよ。腰を骨折して、ボルト入れてた時期もあったんだ」
もう手術も終わって、今は完治してるらしいけど…と付け加えられた情報は、いのりにとってまるで聞き馴染みのない話だった。そして、今まで漠然と航に抱いていた『すごい選手だけどここ2シーズンはどうも調子が悪いらしい』という印象も、まるで意味が変わってくる。いるかは彼に対して、もう天才じゃなくなった、と言った。あれは、交通事故を経て戻ってきた彼に対する評価だったのだ。
眼裏に、合宿に行く前に最後に会った航の顔が浮かんだ。強化指定も、JGPシリーズ派遣もなかったことを微塵も気にする様子もなく、「気を付けて楽しんできてね、俺は洸平先生と練習しとくよ」とひらひら手を振っている彼の顔にはいつも通りの明るい色が浮かんでいた。事故にあって、思うように勝てなくなって、いのりを見送る時に思うことだってあっただろうに。
いのりは何も聞かなかったけれど、彼もまたいのりに何も教えてくれなかった。その時になって初めて、新しいクラブメイトである燕条航のことを何も知らないのかもしれない、といのりははっきり思ったのだった。
あれ、お二人交流ありはるんや。
蛇崩遊大は、司と布袋野兎太を交互に指して意外そうに呟いた。兎太が説明しようとしたところで、遊大も気付いたのだろう、ああ、と得心が言ったように頷いた。
「そういや航くんの移籍先、ルクス東山やったもんな。その関係やったか」
「そうです。まあ最初はそういう感じじゃなくて、司先生が福岡のクラブ来てたんですよ。航の移籍どうこうはその後で出た話なんで」
兎太の言葉に、アシスタントコーチ陣も大して意外そうでもなくそう言えば聞いたな、と相槌を打った。
「司先生、コーチ休んで全国回ってたんだっけ」
「その話、知ってるわ」
「プルルゥ〜(俺も)」
「えっ」
クラブ外には特に言っていなかった自分の行動が筒抜けだったことに、司は驚いて声を漏らしたが、周囲の野郎共は微塵も驚いた様子を見せなかった。雉田輝也がこともなげに言う。
「トップ選手のクラブは、コーチもアシも第一線で戦ってきた友達同士だから。最近見たよ!まじで?みたいな」
「うわあああスケートのトップ、、世界狭い!!」
フィギュアスケートという日本では数千人規模でしか競技人口がおらず、尚且つそれを長年続けて、その上で全日本に出場できるような選手はほんの一握り。ノービスBからシニアの中で選手たちの殆どは顔見知りになり、コーチどころか審査員まで名前と顔を覚えられるような業界なのである。逆にその中で新参者ながら全日本4位まで食い込んできたいのりや、司の方が異端に分類されるのだ。
「名古屋から離れて何ヶ月も何してたの?」
「えっと…成長期は体格の変化に伴って、ジャンプが不安定になりやすいと聞いていたので、スポーツ医学の専門知識がある人を探していました」
肉体の変化は、思春期を迎えるアスリートにとっても重要な課題だ。体が重くなり、背が伸び、足のサイズが変わり、脂肪や筋肉のつき方も変わっている。特に氷上でジャンプをするフィギュアスケートでは一大事だ。人によっては14〜6歳がピークの女子選手がいたり、逆にシニアに入ってから急に伸びる選手がいたりする。その過渡期も、上位をキープし続けるために、司は遥々メディカルトレーナー探しの旅に出ていたわけである。
「……そんな中で、チーム医療の経験があるメディカルトレーナーがいると聞いて福岡を訪ねたんです。専属だから紹介はできないと言われていたのですが………すごくいい人だったので、駄々こねて共同トレーナーになってもらいました!!」
「え!?急展開!」
「泥棒!」
この狭い業界で、堂々と引き抜きをかましてHAPPY ENDに無理やり持ち込んだ司に、アシスタントコーチ勢からヤジが飛んだ。当たり前だが大人としてあんまり行儀の良い行いではない。金弓美蜂女史に土下座したことを言えば、司は軽蔑の眼差しを受けたことだろう。
「布袋野先生、よく折れましたね…」
「トレーナーの方からも希望されましたし、司先生にスケーティングの練習を定期でつけてもらう条件ももらえましたし…」
兎太は缶の酒を呷った。
「…航が『美蜂先生が名古屋と掛け持ちするんなら、俺も引っ越し先でお世話になれるしありがたいです』と言ったのもありました。司先生が来る少し前に、航のご両親から引っ越しと移籍の話を聞いてたんで、タイミングが良かった…んですかね」
「あそっか、名古屋に引っ越しする選手の移籍先を探してる時に、司先生が名古屋からメディカルトレーナー探しに来たのか。すごいタイミングやな…」
「にしてもさ」と、五里。
意外そうな顔で五里は兎太を見遣って言った。
「航くんみたいな福岡パークFSCのエース格が、いきなり移籍って聞いた時はびびったよ。うちと…慎一郎のとこと、ルクス東山?」
「そうお聞きしましたね。私のところにも金弓先生と一緒に見学に来ていました」
「本人から移籍したいって言ったの?」
「いや」と短く兎太は首を振った。
「お父さんが転職して名古屋に移られるらしくて。航だけ福岡残るとか、お父さんの方が単身赴任するかとか悩まれたらしいですけど、結局家族ごと名古屋になったそうで…」
ああ、とコーチ陣は口々に声を漏らした。フィギュアスケートという競技は、始める上で最も高いハードルとして、その資金の問題が出てくる。クラブへのレッスン代、衣装、高価なスケート靴(しかも子供のうちはすぐにサイズが変わって履けなくなる)、遠征費…上げればキリがない。はっきり言って中流以上の家庭以外は選手を目指すことすら難しいのだ。おそらく転職、というのは、そう言ったフィギュアスケートの費用を工面する上での選択だったのだろうな、とコーチ陣も察していた。
司自身、航が移籍してから少しして、菓子折り片手に挨拶に来た航の父親の口からそれとなく聞いていた。いかにも仕事のできるサラリーマンらしいきびきびした壮年の男性は、それでもどことなく疲れた雰囲気を漂わせていた。
「もちろん、本人が愛西ライドを選んでくれたら受け入れたってのは前提だけど…正直、俺のところに話が回ってきた時には、慎一郎んとこ選ぶのかなって思ってたんだよな。司先生には悪いんだけども…」
五里の言葉に、司は慌てて否定した。
「いえあの、それは俺も少し考えました。俺はいのりさんが初めての生徒で、クラブ自体男子選手育成のキャリアがないのもそうですし…」
「…私自身、現役時代には怪我の多い身でした。力添えできることも多少あるかと思いましたが…最後に選ぶのはやはり、選手自身です。司先生も、彼のことで私が力になれることがありましたら、いつでもお申し付けください…」
((せ、聖人……))
司が口を濁したことを、慎一郎はあっさりと言って仄かな笑みを浮かべた。鴗鳥慎一郎という選手は、選手生活後半では骨折や靱帯の損傷で戦線を離脱することも多く、そしてその度に復活して国内どころか世界のトップクラスとして君臨し続けた選手だ。
怪我から2シーズン、復調できていない航が師事するのにはうってつけの人物のはずだと、司はこっそり思っていたし、だからこそ移籍先をルクス東山に決めたと聞いた時かなり驚いた記憶があった。選ばれたからには全力を尽くそう、と思うのだけれど、それと同じくらいに何故選ばれたのだろう、と。
ほどよく酔っ払ったコーチ陣が増えてきて、コーチ飲み会も解散となった後。三々五々に元の部屋へ帰ったり、はたまた迷惑極まりないことに上司の部屋で寝始めたりと好きに過ごす中で、司は廊下の先に兎太の背中を見つけて「布袋野先生」と呼び止めた。恰幅のある背中の主が、声に応じて振り向く。
「?司先生?なんかありました?」
「いえ、あの……まだきちんとお伝えしていなかったと思って。航さんのこと…JGPシリーズの選考会で結果を出せずじまいですみません。先生方から本番でジャンプの着氷率が下がってしまう、と事前にお聞きしていたのに力及ばず」
頭を深々と下げた司の大真面目な謝罪に、兎太は束の間ぽかんとして、それから慌ててやめてくださいよ、と止め出した。
「いやいやいや、俺らが2年かけて改善できなかったことを、2ヶ月足らずでどうにかできなかったからって、いちいちケチ付けたりしませんって!」
「ですが…長年布袋野先生たちが手塩にかけて育ててきた選手を任されているのは事実です。金弓先生にもお世話になっていますし…」
「初手で土下座かましてきたとは思い難い沈み方だな…!?ちょ、ちょいちょい、落ち着いてくださいよ。言っときますけど、俺も金弓先生も…うちのヘッドコーチも。福岡のエース選手を預けたからには、絶対結果で返せよ!なんて思ってませんからね!?」
呆れたようにそう言った兎太は、廊下の途中にある自販機スペースの椅子に座ると、向かいの席を司に黙って進めてきた。ありがたく司が腰を下ろすと、彼は電子アプリを操作してコーラを買った。先ほどの集まりでもフルーツ系の発泡酒を口にしていたのを見ると、甘党なのかもしれない、と司はぼんやり思った。何か要ります?と聞かれたが遠慮した。そう言う気分にはあまりなれなかった。
ぷしゅり、とプルタブを開けながら、それで、と兎太は促すように顎をしゃくる。
「司先生は、移籍選手受け持つの初めてでしたっけ?航はどこのクラブでも上手くやっていけるタイプだと思ってましたが…実際2ヶ月担当してみて、司先生からするとどうっすか」
「容量の良い、飲み込みも早い選手だと思います。年下の生徒たちや、いのりさんとも来た当初から仲良くやれています。俺たちコーチ陣にとっても、よき生徒だと…この短期間でもそう感じました」
「でしょうね」
彼はしごく当然のように、航に対する褒め言葉を肯定した。彼にとっての航は自慢の生徒だったのだろうと、それが伺える仕草だった。
「うちにいた頃の航も同じです。明るくて、人の輪の中心にいて、適度に聞き分けが良くて人懐こい。長らくあいつは同世代の男子スケーターのトップ選手でしたが、周囲から浮いたりビビられることも全くなくどの世代とも上手くやれていた」
「…司先生にとってはいのりちゃんが初めての生徒だったように、俺は航と蘭が初めてレッスンを受け持った生徒でした。その分、まあその、思い入れだってあります」
「………」
自販機の白い灯りに照らされて、兎太の顔には複雑な色が浮かんでいた。親愛と、栄光と、苦悩を共にしてきた生徒を思うコーチの心の内にどんな感情が渦巻いているのか、司には推し量ることもできなかった。7歳から初めて、高校2年生になるまでの10年。思い入れ、なんて言葉では足りないだろうに。そして。
「…だから、世界ジュニア選手権が終わった3月の終わりに、航が事故にあったと親御さんから連絡が来た時は生きた心地がしませんでした」
「交通事故というのは、親御さんからも伺っていましたが…」
兎太は頷いた。
「スピード超過のバイクが、自転車に乗っていた航にぶつかったんです。腰椎の破裂骨折で、入れたボルトを抜いてリンクに戻ってくるだけで3ヶ月かかりました。美蜂先生にも長らくリハビリに付き合ってもらって…ブロック大会はシード権を使ってパスしたので、初戦は西日本ジュニア選手権でした」
今でも兎太は思い返して嫌な気分になる。復帰初戦の会場の空気は最悪だった。国内では同世代無敗の王者が不慮の事故で戦線離脱し、そして半年ぶりに戻ってきた氷の上。怪我など感じさせない素晴らしい演技をしてくれるのではないかという期待、あるいは無敗の王者が初めて負ける姿を目撃するのではという悪意。怪我は完治したのかという好奇心。
燕条航が5年に渡って金色のメダルを積み上げてきたからこそ、怪我をした彼に向けられる視線の色は多種多様だった。それでも、兎太も美蜂も、ヘッドコーチである蕨一も。航ならそれを打ち破ってくれると信じた。グランプリシリーズの期間をリハビリと練習に費やして、去年はできなかった4回転ループを新たに跳べるようになった彼なら、きっと跳ね除けて、さらなる高みを目指すのだ、と。
航が西日本ジュニア選手権のSPで盛大に転ぶ瞬間まで、そう思っていた。
『……先生。戻れますよね。元の、俺に…』
病院のベッドの上でも、リハビリ期間中でも、会場の重苦しい視線を前にしても気丈に振る舞っていた航は、リンクを引き上げてくる時青ざめた顔でそう溢した。公式戦で転んだのは、彼の人生でその時が初めてだった。
普段明るく、大人びて人懐こい少年の顔は呆然とした表情が隠せていなくて、見ていられないほどに痛々しかった。大丈夫だ、も転んだ原因を考えていこう、も、あらゆる下手な慰めが何の助けにならないことなんて分かりきっていたから、兎太は頷くほかになかった。あげられる言葉がもっと沢山あればよかったのに、といつも思う。
『…心配すんな、ちゃんと戻れる。焦らなくていい』
そのために俺たちコーチ陣がいるよ、ちゃんとできるお前を信じて欲しい。あらゆる想いを込めて、兎太は教え子の背中をさすったことを昨日のように覚えていた。男子中学生にしては華奢で、それでもジャンプを跳ぶための筋肉がついた薄い背中。もうチャンピオンではなくなった少年の背は、それでもしばらくの間震えていたのだ。
「ー結局西日本選手権は突破できずに、全日本はシード権で出場してショート落ち。去年は全日本に出場して総合12位です。全日本に出れるだけでも上澄みと言う人もいるでしょうが…航はそんなところで語られるはずの選手じゃない」
きつい口調で言い切ってから、兎太は司を見てすみません、と謝った。
「…司先生を責めてるわけではないんですが、つい」
「き、気になさらないで下さい!俺だって移籍してからレッスンの度に素晴らしい才能を持った選手だと、いつも思います。世界の大きい舞台でその才能を証明できると」
3年前までの彼の栄光の、その続きを歩んでいけるはずだと。誰もが信じて手を尽くして、それでもどうにもなっていない。
「…その。この前の選考会が終わった後、航さんに言われたんです。『転んだのは司先生のせいではない』と。きっと本人なりに俺を気遣ってくれたんだとは思います」
あなたのせいで転んだ、と責められたかったわけではない。けれども転んだ痛みを共有できないから、転んだ悔しさの一部くらい、一緒に背負わせて欲しいと司は思ったのだ。だから『今日はお疲れ様』を遮るようにそう言われて、悔しさよりも悲しさが勝った。
「それは…司先生だから、ではないですよ。航は公式戦でスランプになり始めた頃は、俺たちの前でもかなり焦った様子を見せてましたが、途中からそれを隠すようになった」
それは、明るく気さくで、力んだところの少しもない彼らしく振る舞おう、元通りになろうという意識的なものだったのだろう。それをやめろ、とは福岡のコーチ陣の誰も言えなかった。
兎太はぐびりとコーラの缶を傾ける。どうやら空になったらしく、振ってもパタパタと雫が降ってくるだけだった。
「金弓先生からも名古屋でのお話は聞いてますが、司先生のことを航が嫌っているとか、信頼していないとか、そう言うことはないと思います。ただ頂点の景色を知っている分、今の自分にすごく苛立っていて…そういう自分を他人に見せたくないとも思っているはず」
「苛立って、いる…」
兎太は頷いた。空き缶をゴミ箱に捨てて、少しだけ司に頭を下げた。
「え!?ちょっとちょっと、布袋野先生!?どうしました!?」
「…司先生。俺たちはどうしても、昔の航をよく知っています。天才だとか…夜鷹純の再来だとかそういう呼び名で呼ばれていた時期を共にしてきました。長年の付き合いがあるから信頼関係だってあるけど、逆にそういう間柄だからこそ航にとっては言いづらいこともあると思います。これから関係性を築く途中の司先生にしかできないことが、あるはずです。選考会の結果で、自分を責めたりしなくていい」
「布袋野先生…」
司はここへきて、手の中にある何かがずしりと重みを増したような気がした。それは、いのりの競技人生を背負っているという重みとは違うものだった。燕条航という選手は司と出会うよりも先に、10年近い歳月をこのコーチらと共に過ごし、導かれて栄光の頂に上り詰めてきたのだ。そうして今、そこから落ちて再び王座に挑戦することを望まれている。願われて、祈られている。
(俺に、できるんだろうか…)
明浦路司はスケート選手として、一度も大成することもなく、そして成績が低迷する間もなく引退した。夜鷹純がかつて言った「そのために何が必要か、僕は知っている」という言葉を鵜呑みにするわけではない。したこともない。けれども自分より遥かに実績があり、誰よりも航をよく知り、悲痛なほど彼を想っているコーチにできなかったことを、果たして自分にできるのだろうかという不安は、彼が移籍してきた初日から司の心の内にあった。できるはずだ、やってあげたい、と思うのと同じくらいに。
「…航は今年で17歳です。子供の頃はすごかったね、だなんて誰にも言わせたくない。過去になるには…まだ、早すぎるはずです」
ぽつりと溢した言葉は、万感の思いが込められていた。司はもはや何も返す言葉がなかった。もしいのりが同じように怪我を負い、思うように滑ることができなくなった時には、きっと己も同じ言葉を紡ぐだろうと、知っていたからだ。
天使には、性別が存在しないらしい。男の人でも女の人でもないのだ、と。狼嵜光がそれを知ったのは、鴗鳥家に来てからのことだったと思う。多分聖書由来の何かだった気がするので、エイヴァが教えてくれたのか、はたまたキリスト教系の絵本にでも載っていたのかのかもしれない。
『…燕条航選手が既に3回転アクセルを習得…』
『来年も全日本ノービスを優勝になれば、夜鷹純以来のノービス4連覇という偉業に並び…』
『夜鷹純の再来…将来はオリンピック…』
テレビの画面に映っている、満面の笑みで笑う11歳のスケーターは、まさに天使みたいだった。女の子みたいに可愛い顔の、ほっそりとした男の子。ひらひらした白の衣装に身を包んで、黄金のメダルを喜びで満ち溢れた表情で掲げている。でも夜鷹純には全然似てないな、とも光は思った。彼に白色の衣装は似合わないし、こんな風に歯を見せて笑ったりしない。顔だって天使みたいだとか、一度も思ったことはない。死神の方がいくらか近そうだ。
なぜ、この選手が夜鷹純に似てるみたいに言われるの、と光が尋ねると、洗濯物を畳みながら問われたエイヴァは困ったような顔で少し考えて、それから答えた。
『そうね、この年での3回転アクセル習得やノービス4連覇が、彼以来という理由ももちろんあると思うけど…』
『夜鷹純というスケーターがあまりに偉大で、あまりに早く引退してしまったから、もういない彼の残像を誰もが追いかけてるのかも。それで、すごい選手を見るたびに“この人なら夜鷹純の残像に追いつけるかもしれない”と思わずにはいられない…』
『燕条くんとは私もあったことあるから、純に似てないな…と思うんだけどね。メディアの人たちはあんまり知らないものね、純のこと』
エイヴァの言葉には、当時の光を納得させるだけの力があった。夜鷹純は不思議な人だった。陰鬱な人なのに、吸い寄せられるような強い輝きがあって、どこか遠い果てを見ているような、普通ではない人だ。抱き上げられていても、誰も辿り着けない遠い場所に1人で立っているような静けさを、彼は服を着るように纏っている。
どこを見ているんだろう、と出会った日に思ったことを覚えている。そして、彼が見ているものを知りたい、とも思ったから、狼嵜光は彼の足跡を辿って、旅を始めることに決めた。
テレビの向こうで笑う4歳上の男の子は、夜鷹純の残像を追いかけるに相応しいスケーターだと思われている。氷の上を知る者から、氷の上を知らない者から、その価値があると考えられている。
(…この人も、夜鷹純を追いかけてるのかな)
そしていつか、夜鷹純が見たものを知ることになるのだろうか。光が追いつくよりも、早く。それは少し嫌だな、と思いながら、光はテレビ画面を見上げた。ノービスAの特集はあまり尺が割かれていなかったのか、画面の中の記者は最後に一言!と航にマイクを向ける。
『ハイ!来年はもっとかっこいいプログラムを滑れるようになります!応援、よろしくお願いしまーす!』
天使のような美貌とは裏腹に、なんとも子供っぽい話し方だった。ゆるくカールしたアッシュブラウンの髪が汗で張り付いているのも構わず、少年は楽しげにピースをした。前髪の奥でアイスリンクと同じ、淡い灰色の瞳がきらきらと、ゆらゆらと光っている。やはり、夜鷹純とは似ても似つかなかった。あの人の目はこんなふうに輝いたりしないよ、と光は心の中でこっそり呟いた。
「やーったやった、ウルトラやったー!!台乗りおめでと〜蘭ちゃ〜ん〜!!」
「分かった、分かったから!下ろして、航くん…」
ばびゅん、と。猛スピードで目の前を通り過ぎて行ったのが、光にとって初めての燕条航との邂逅だった。しかも何故か、戸惑っている大蜘蛛蘭をお姫様抱っこした状態で。
男の子にしては長いアッシュブラウンの髪の毛が、走るたびに揺れて靡くのが目に留まった。スポーツウェアの上下に包まれた体は思ったよりも背が高い。航は廊下のベンチに座っている光の目の前を過ぎて端っこまで行って、ターンしてくる途中でエネルギー不足みたいに、蘭をそうっと下ろした。
「う〜力尽きた…俺がひょろいばっかりに…ごめんな蘭ちゃん」
「そもそも抱っこして欲しいとは言ってないから…聞いてからにしてね…」
年下の女の子に怒られてショボショボしているその子は、テレビの向こうで見た時よりもきらきらして、天使みたいに見えた。
「…しょうがないじゃん、蘭ちゃんの演技めーっちゃ良かった!し、表彰台も乗れて、俺が嬉しくなったんだからさ〜!碧ちゃんはいつもこれで喜んでくれるから、つい!!」
「碧ちゃんはいいのかもしれないけど、私はいいかな…」
「え!ごめんなさい!もうしません」
天使みたいな年上の男の子は、口を開くとすごくうるさかった。よく鳴くプードルみたいな人だな、と思いながら来た道を逆戻りしていく仲の良さそうな2人組を光が眺めていると、蘭の方とぱちり、と目が合う。光が手を振ると、少し気まずそうに、それでも露骨にはしていない顔でちらりと手を振り返してくれた。そのやり取りに、ぽかんと視線を彷徨わせていた航も、すぐに光が誰か思い出したのだろう、ぽんと手を打つ。
「…あ!えーっと、そう、カミサキヒカルちゃん!名古屋の!さっきは優勝おめでとう、すごい綺麗なフリップだったね!」
と航が言った。
「ありがとうございます。──あの。燕条航くん、ですよね」
「俺のこと知ってるんだ!そうだよ〜」
4歳上のスケーターは親しげに、ニコニコ笑ってそう言った。「普通の」いいひとそうだな、と光は思う。あの人みたいに、氷の上以外ではうまく呼吸ができなくて、どこへも行けないから突っ立っているみたいな感じが、ちっともなかった。氷の外でも走って笑える人だ。なぜこのようなスケーターの中に、夜鷹純を見出すひとがいるのか、直に会っても光にはちっとも分からなかった。
「会えてうれしいです。あなたのこと、テレビでしか見たことなかったから。今日は大会を見に来たんですか?」
「そう!近くで出張レッスン受けに来るついでに、クラブの子たちの応援に来たんだ〜慎一郎先生んとこ、狼嵜ちゃん以外にもうまい子いっぱいですごいね」
福岡も負けてないけど!と航は胸を張った。
この会場で今日開催されていたのは、西日本小中学生大会だった。光はその5級の部で優勝して、3位が蘭。同じ名港ウィンドの生徒も何人か参加していた中で、表彰台に登ったのは光だけだったけれど、航の口ぶりにはお世辞や嘘の気配はなかった。ただ純粋な賞賛の色だけが浮かんでいる。
「おーい蘭〜、航〜。コーチ呼んでる〜〜」
その時に、ふいと2人を呼ぶクラブメイトの声が聞こえてきて、声の出所を見るとジュニアらしき女子選手が、廊下の端からちょいちょいと手を招いていた。声に応じてじゃあまたね、と手を振って足早に去っていく蘭に対して、航は何故か光の顔をちらっと見て「すぐ行く!」と大声で返してから、ばつが悪そうにこちらに向き直った。
「?行かなくていいんですか?」
光が尋ねると、航はうーとかあーとか曖昧な返事をした。
「…違ったらごめんけど。あのさー、狼嵜ちゃんて…」
「はい」
「なんか…聞きたいこととかある?」
俺に。
航はすこし首を傾げて、そう言った。動きに合わせて、淡い色の髪の毛がさらりと肩に滑り落ちる。邪気のない、子供のように澄み切った灰色の目に、こちらの内心を見透かされたような気になって、光はぎくりとした。底の抜けたような、不思議な透明度のある瞳だった。
「…どうしてそう思ったんですか?」
「なんとなく!うちの妹も、聞きたいことがあるときはそんな顔でじーっと俺のこと見るから」
航はちょっと笑った。
「ないなら別にいいや。ごめんね、変なこと聞いちゃった〜」
ある。あるけれども、どれを聞けばいいのか迷ってしまって、光は躊躇った。なぜ世の中の人があなたを夜鷹純に重ねるのか、夜鷹純のことをどう思うか…あなたはどこへ行くのか。何を尋ねたら、どう返してくれるのだろう。時間にしてみればひどく短い一呼吸の間に考えて、出てきたのは簡素な言葉だけだった。
「…いえ、あの。聞きたいこと、あります」
「うん」
航は静かに頷いて、先を促した。
「あなたは…夜鷹純を目指していますか?」
彼に、なりたいですか。
光のひどく抽象的な、それでいて陳腐な問いかけに、航はぱちぱちと目を瞬かせた。廊下の白熱灯の下で、さっきまでの騒がしさが嘘のように彼は数秒黙って視線を天井にやり、それから光を見た。それ、ほんとによく聞かれるんだけどさ。
「目指してないよ。夜鷹純のこと、スケーターならみんなソンケーしてるとは思うし、俺もそうだけど…」
続きを考えるように、航は少し言葉を切った。
「──誰も夜鷹純にはなれないから、特別なんじゃないかな。俺はそー思うんだけど…狼嵜ちゃんは、夜鷹純のファンなの?」
薄曇りの空みたいな、アイスリンクみたいな、淡い灰色の目が、まっすぐ光を捉えて離さなかった。どこにも悪意がないのに、思わずたじろいでしまうような瞳だった。あまりに澄んだ水を前にした時、足を触れるのをためらうときのような気分だった。
(このひとは、違う)
それと同時に、身勝手な落胆にも似た何かが光の心の裡にはじんわりと滲み出てきた。この人は、夜鷹純ではない。そして、夜鷹純の再来だとか何も知らない人に騒がれているのに、光と同じように夜鷹純に向かって旅をしてくれない人なのだ。この人は、誰でもないこの人のまま、スケートをしている。
「…いえ。ファンではないです。でも、いつか、彼のいる所へたどり着きます」
光がベンチから立ち上がってそう言うと、航は黙ってちょっと笑った。年下の子供の戯言と馬鹿にするような笑い方ではなかった。純粋な尊敬の眼差しで、彼の胸くらいしか身長のない光をその淡い色の目で見て、それからがんばってね、とありきたりな励ましの言葉を口にした。
でもそれも、昔の話だ。
狼嵜光は天才少女になり、燕条航は天才少年ではなくなった。それほどの時が、経ったのだ。
航くん 光ちゃん式分類なら光ちゃん・司先生側の人間。氷の上以外でも生きていけるけど、氷が好き。ただし人間的に真っ当過ぎるご家庭で大切に育てられているため、光ちゃんや司先生に比べると氷への執着は薄いかも。
蘭ちゃん 同時期にクラブ入ったのでかなり仲がいい。航の上の妹とは今でもズッ友。
布袋野先生 先生とアシスタントコーチ勢と一緒にDARK SIDE…やってほしかったな!の気持ちで書きました。