「アクア、ルビー、愛してるよ」
*
想いを言葉にして、アクアとルビーを抱きしめるアイ。彼女の激情を引き金に、社長やミヤコさんの涙腺も崩壊した。
興奮冷めやらぬままに、語り、笑い、泣き――気づけば夜は更けていく。そしていつしか、溜まっていた疲れに押し流されるように、大人三人組は、気絶するように深い眠りへと落ちていった。
「~♫」
トタトタ、と可愛らしい足音を響かせながら、星野ルビーは暗い廊下を進む。鼻歌交じりに軽やかなステップ、浮かれ気分が最高潮のご機嫌な様子で。
だがそれも仕方のない事。カミキヒカルは捕まった。ママはちゃんと生きていて、「愛してる」を沢山聞かせてくれた。今私が生きる世界は前とは違う、全員納得、文句なしのハッピーエンド。
ここまで色々大変だった。……いや本当に大変過ぎたが、私たちは遂にたどり着いたのだ。
そしてそうなれば当然、私はとうとうアクアに言うことが出来る。
――私、星野ルビーの前世が、『天童寺さりな』であるということを。
「ふふっ……せんせ。どんな顔してくれるかなぁ」
まだこれからだというのに、想像するだけで口角が上がる。というか、天井に突き刺さって戻ってこない。嬉しすぎる、幸せすぎる。さっきまでとはまた別の意味で、涙が溢れそうだった。
一週目――せんせいとの数々の想いでが、頭の中を駆け巡る。
『アイドルになったら、推してやるよ』
『16歳になったら、俺と結婚しよう』
そして、極めつけには、
『あのときの君は、アイよりずっと眩しかった』
「ああ~~っ!! やばい! せんせ好きっ!!」
あふれ出る感情に押し出され、両手で顔を覆って地面を転げまわる。もう、どうしようもなく愛しさが溢れて、アクアを抱きしめたくて仕方がない。少し脚色が入ってるかもだが、大体こんな感じだっただろう。
……もう、いいよね? 戻ってきてから今日までずっと、我慢したもん。正体明かしたついでに勢いで押し倒して、そのまま――
「…………はっ!」
いかんいかん。これでは何も始まらないまま、性根尽き果ててしまう。トリップするのはベッドの中で……じゃなくて、とにかく今は、途中でどこかに行ったアクアを探さなくては。
「アクア~?」
そっと呼びかけながら、ルビーは家の中を探し歩く。リビング、キッチン、寝室と、一通り家内を見て回ったが、彼の姿はない。
そうして、ふと窓の外に目を向けた時――かすかに人影が見えた。
ガラス戸の向こう、ベランダの手すりに寄り掛かる、一つの後ろ姿。夜風に揺れる金髪、静かに立ち尽くす幼いシルエット。星野アクアだ。
ルビーは途端に目を輝かせ、そっとガラスの戸を開けて、口を開く。
「アクアっ!」
「……ルビーか」
ルビーの声に反応してこちらを振り返るアクア。自然な形で彼の隣を位置取り、二人してベランダに手をかけて夜空を見上げる。冬にしては雲が少なく、空には綺麗な満天の星々が広がっていた。
なんだか、想像以上にロマンチックな状況だ。
「他の皆はどうなった?」
「社長とミヤコさんが酔っぱらって、ママを挟んで三人一緒に寝ちゃったよ」
「……年の割に三人とも、落ち着きがないな」
ドクン、ドクンと。アクアの声を聞くたびに、心臓がうるさくなる。
横顔から目が離せない。落ち着け。せっかくなら自然な成り行き、ベストなタイミングで正体を……
「アクアはここで何してたの?」
「ああ、それは…………」
ふと、アクアの表情が幾らか暗くなって、ルビーは首を傾げる。どこか深刻そうな顔。さっきまでの祝勝会の余韻が嘘かのように、その瞳は静かに沈んでいた。
そして、
「……前世のことを、考えてたんだ」
狙ったかのようなタイミングで打ち出された『前世』についての話題に、ルビーは思わず面食らう。
「俺はずっと、自分のことが許せなかった。前世をずっと引きずって、幸せになっちゃいけないって……心のどこかで、そう思ってた」
「……アクア」
静かな夜風に乗って響く、アクアの声。その言葉の意味を、ルビーは理解している。だって私は知っているから。アクアの前世が「雨宮吾郎」で、どんな人生を歩んできたのかを知っているから。
彼の募らせている後悔。その大部分は――私を一人で死なせてしまったことにあるのだろう。これは自惚れでも何でもない。私は、知っている。
だからこそ、言わなければならない。
私の名前は、天童寺さりな。
あの日、あの病室で、あなたと出会えたことを一瞬たりとも後悔したことはない。そして最期の瞬間、話せた相手がせんせいで、本当に良かったと。
これから一緒に――幸せになっていこうと。
大丈夫、今日の私はなんだかついている。きっとこのあまりに都合の良い状況は神様が用意してくれたに違いない。だから、
ルビーは息を大きく吸い込み、そして、
「アクア、私は――」
「――でも、もういいんだ」
「…………へ」
ルビーの決死の想いは、アクアの言葉に遮られた。そして、首をひねってこちらを正面からとらえたアクアの顔を見て、ルビーは言葉を失う。
「アイが『愛してる』って言ってくれたから」
彼は、笑っていた。眩しい程の、綺麗な笑顔で。芸術品に勝るとも劣らないその笑顔には、以前のような陰りはどこにもなく、声音もどこか弾んでいる。
「こんな俺でも……必要としてくれる人がいるんだなって、そう思えた」
「そ、そうなんだ……」
予想外の方向に話が進み、ルビーは誤魔化すように笑みを浮かべる。
まいった。なんだかすごく楽しそうで、こっちの話を切り出せる雰囲気じゃない。ここは一度聞き手に徹して、また新たに機会を待つべきだろう。
……だけど、なんだろう。これは。
「アイが代わりに、俺を許してくれたんだ。だから俺は二度目の人生、彼女を幸せにするために使うよ」
彼のいきいきとした表情を見るたびに、何故か胸がざわつく。彼が笑っていて、幸せそうで何の問題があるというのか。……しいて言うならば、この顔は一度も見たことがない。ママが亡くなった直後や復讐に躍起になっていた時は勿論、下手すれば一度も、
――私が正体を、明かしたときでさえ、
「アイは……誰よりも眩しい、俺の最推しだから!」
思い出は、塗り替えられた。
第一章幕間『生き残った奴ら』
胸を焦がしていた筈の熱が冷め、真冬の肌寒さを体が思い出す。
「……っと。結構、話しこんじゃったな」
会話、というよりはアクアの一方的な独り言が続くこと約五分。ようやく彼は我に返った。
自分を縛り続けていた呪いから解放されたことに、よほど興奮していたのだろう。こちらとは対照的に、冷え込む体を物ともしていない。
「そういえばさっき、何か言いかけたか?」
「え? アクアの気のせいじゃない」
「……ならいいや。俺はもう戻るから、お前も今日は早めに寝ろよ」
「うん、おやすみ」
その言葉を最後に、アクアは大きく欠伸をしながらベランダの戸に手をかける。その最中、ルビーは彼の背に向けて手を伸ばすも……
結局、やり場を失った腕はうようよと空中を漂うだけで、彼は通路の奥へと、その姿を消した。
ルビーはぽつんと一人、その場に取り残される。
「……言いそびれちゃったな」
言えなかった。私は天童寺さりなだよって。理由はアクアの熱量に呑まれて、タイミングを逃したから。それだけ。……それだけの、はずなのに。
ふと、戻ってきて一週間が経過した日の事が頭をよぎる。映画撮影の現場で、先輩と交わした会話の事だ。
――アクアは前のこと、覚えてないの?
私は、あっけらかんと「ない」と言い放った。だって、どうでもよかったから。今だってそう。アクアが生きて、なんなら前の世界で最後まで見れなかったような笑顔を浮かべている。
……そう、私たちでは見れなかった。最期、まで
「…………私が」
「私が一番眩しかったんじゃないの? かな?」
「――――」
突如として、思考を遮るように響く声。ルビーははっと顔を上げるが、周囲を見渡してもそれらしい影はない。当然だ、ここはタワマン。地上から遠く離れた遥上空。人などいるはずがない。
無数の羽音と甲高い鳴き声が響く。誘われるように空を仰ぐとそこにいたのは、
「……ツクヨミ」
「そうだよ。久しぶりだね、星野ルビー」
満月を背に、ゆっくりと舞い降りる銀髪の幼女――ツクヨミ。私とせんせいを転生させた、自称神様だ。
「それで、さっきの発言だけどね、あれは仕方がないと思うよ。雨宮吾郎は君を天童寺さりなだと知らない。その状態で君を最推しとして挙げてほしいというのは、いささか傲慢な考えだ」
「……私、何も言ってないけど」
「一連の流れを見てれば嫌でも分かるさ。……君、もしかして嫉妬したの? 大好きな母親に」
ツクヨミの言葉に、ルビーは視線を鋭くしてツクヨミを睨みつける。その表情を見て、ツクヨミはうっすらと笑みを浮かべた。相変わらず、何を考えているか分からない。
「そんな怖い顔しないでよ。今の状況が誰のおかげか、分からない君じゃないだろう?」
「……やっぱり、そうなんだね」
ツクヨミが言っているのは、時間の巻き戻しと、記憶が残っている現状のことだろう。私の知る限りそんな事ができるのはこいつだけ。だからその事実を、今更驚いたりはしない。
だけど今は一つ、聞きたい事が出来た。
「ねぇ、ツクヨミ」
「なにかな?」
軽い気持ちだった。今抱えているもやもやとした気持ちの答えが、そこにあると思った。
だけどそれは決して――触れてはいけなかった。
「アクアはなんで、記憶が――」
そもそも、疑問を口にすることすら、出来なかった。
理由はツクヨミだ。
「……ははっ」
いつもと変わらない、うっすらとした笑み。幼い体躯も可愛らしい顔もそのまま。だけど少女の周りの空気が明らかに――にごった。
「それを……君が聞いてくるの?」
そして、少女の目に映る、黒く濁った憎悪を見た。これまでツクヨミが見せてこなかった感情の渦に、ルビーは彼女の本質の一端を見た気がして、言葉を詰まらせる。
怒っている、確実に。何が逆鱗に触れたのか分からないが、文字通り神の怒りに触れたのだと強制的に理解させられる。それだけの圧が、のしかかってくる。
何も言えないルビーを見て、ツクヨミは「はぁ」と息を吐いた後、重い腰を上げる。
「……いいよ。じゃあ答え合わせをしようか。誰が前のことを覚えていて、誰が忘れているのか。……その条件を、教えてあげる」
ツクヨミはまず、指を一本立てた。
「条件は二つ。一つ目は君たちが予想していた物に近いね。アイやアクアに対する想いの強さ……ではないけど、二周目の世界が君たちに有利に働くよう、信用できる人間を私が選んだ」
信用できる人間――これは確かに、壱護の予想していた物に近い。だが想いの強さが条件ならば鏑木勝也など、アイをあくまでビジネスパートナーとして見ていたものまで記憶があった点が腑に落ちなかった。
だからこそ、ツクヨミが選んだ味方の人間だと言うのなら、納得できる。
だけど、それなら尚更、
「尚更、何故アイとアクアに記憶がないのか。そう思った?」
またしても、ツクヨミは先回りして言葉を遮る。ルビーは、無意識に唇を噛んだ。
私たちに有利に働く人材。ならば真っ先に記憶を持つべきは、アイとアクアだ。実際、当の本人である彼らが記憶を持っていないことは、私たちにとってあまりにも不利に働いた。
「そこで二つ目の条件だ、それはね……」
そして、決定的な言葉が言い放たれる。
「一周目で死ななかったこと、“生き残った奴ら”さ」
「…………え?」
死んで、いないこと。
もちろん、知らなかった事実だ。考えもしなかった。なのに――ずっと目を背けていた事実を突きつけられたような気分になるのは、何故だろうか。
「なん、で……? そんな……」
自然と条件の理由を問う。まだ気づいていないフリがしたかったのかもしれない。
一周目での死亡。アクアとアイに共通する特徴などそれくらいのものだ。少し考えれば分かった事。にも関わらず、社長やあかねちゃん、賢い二人までがこぞって気づかなかったのは、きっと、
「理由は単純。人はね、耐えられないんだよ。……死んだ時の記憶を持ちながら、生きることに」
きっと、その理由まで、なんとなく察していたから。
「死とは、掛け値なしの絶望だ。何にも変えられない喪失感、痛み、苦しみ。人はそんな記憶を持ちながら生きることを想定されていない」
死んだ後には生きられない。
当たり前で、だけど残酷な事実を突きつけられて、ルビーの手が震える。
「だ、だって……私とせんせいも、一回死んで……」
「それはさりなとルビー、二つの魂で死を分散したからだ。もはやそれは、君の死ではない。それに……星野アクア、彼は別格さ」
「アク、アが……?」
「生まれただけで母の命を奪った。患者の子に未来を与えてあげられなかった。二度目の人生でさえ、大切な人の死を唯見ていることしか出来なかった。そして十数年という時を地獄の中で生き、最期は一人海の底……こんな記憶、持ってて幸せになれると思うかい?」
「……ちが、う。だって、アクアは、先生、は」
ツクヨミが何を言っているのか、もう頭に入ってこない。その言葉が、意味が、ルビーには信じられない。
だってアクアは、私との日々を忘れたいだなんて、思っていないはずだ。復讐に奔走する日々がどれだけ辛かろうとも――天童寺さりなに再開できた時は、それを補って有り余る幸福を共有出来ていた筈なのだ。
だって、私はそうだった。私と彼はお互いが、人生を照らす、最愛の――、
『前世をずっと引きずって、幸せになっちゃいけないって……心のどこかで、そう思ってた』
「――――ぁ、れ?」
一瞬、信じられない考えが、頭をよぎった。それは酷く曖昧で、予感の域を出ないものだったけど。彼との思い出を思い出し、当てはめるたび、次第に形を帯びてくる。
違う、違う。違う。違う違う違う違う違う。
気づいちゃいけない。その答えだけはたどり着いてはいけない。でも、もしそれが本当なのだとしたら、
私は彼の推しなんかじゃない。むしろ真逆の存在と言ってもいい。病院で初めて出会った、あの日から。
私はずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと。
彼を苦しませ続けた、彼の人生から笑顔を奪った、最大の――、
「君たちは彼を救えなかった。だから何も思い出さない。時間が戻ったからやり直せたとでも思ったかい? それは間違いだ、何故なら――」
「――彼の心は今でも、海の底で一人なのだから!」
私は勘違いをしていた。
何か、大事なものが、割れた気がする。
それは前世で経験したような復讐心とは、また違う。だって今回の対象は、愚かな自分自身。もうずっと目を背けてやり過ごしてきた何かが、割れたのだ。
パキリと、音を立てて、割れたのだ。
「一つ目の条件……信頼にたる人間だけどね。その中で二人、戻すか悩んだ人がいたんだ。その内の一人は、あの怪しいプロデューサーでも、裏切り者の新野冬子でもない」
「星野ルビー、君だったよ。なんせアクアは君の未来のために、死んだのだから」
少女はカラスに包まれて、その場から姿を消す。残されたルビーは一人、何も出来ずに地を見つめる。その両目には――どこまでも深く底の見えない“黒”が、宿っていた。
かくして、二周目の世界。その物語の序章は、終わりを迎える。その結果は、誰もが望むハッピーエンド。掴み取った世界の上で、彼らは幸せを享受する。
仄暗い海の底へと取り残してきたもの全てから、目を背けて。
〈了〉――第一章【激動の三年間】