あれからおよそ一時間、俺の体はまだ無事である。
こんな報告から始めなければならないのが切ない。
簡潔に状況を説明すると、星野アクアは小学校の前で人気配信者に誘拐されてしまったのだ。
その言動と立ち振る舞いからなんとなくこの後の
「ふぅ、やっと着いたよ」
おっと、早速死地に到着してしまったらしい。
「疲れた~。アクたん、全然自分で歩いてくれないんだもん。甘え盛りなんだから」
死地に向かって自分から歩いていく奴なんかいないだろ。
さて、どんな死地に到着したのか。首から上を渋々持ち上げ、目をやると、
「……あれ?」
そこにあったのは、少し予想と違う光景だった。
まず目に飛び込んできたのは、閑静な住宅街だ。
人通りはほとんどなく、鳥の音や木の葉の揺れる音がそこら中から響いてくる。小学校は結構街中にあったはずなので、死んだ目で引きずられている内に結構遠くまで来てしまったらしい。
「……どうしたの? 私の家って伝えてたよね」
「……あ、ああ。それは分かってるんだけど」
そしてさらに意外だったのが、少女の指が示す先――おそらく彼女の家なのだろう、小さなアパートだった。
寂しげな住宅街のさらに隅に、ぽつんと建つ二階建ての木造建築。外壁はやや色あせ、階段の手すりにはうっすらと錆が浮き、共用廊下の隅には苔が張り付いている。なんというか、誰がどう見ても“売れっ子配信者の自宅”という雰囲気ではない。
彼女ほどの有名人なら、オートロック完備の高層マンションにでも住むのが無難だろう。豪華な住宅に興味がなくとも、警備の面を考えれば当然だ。立地としても、お世辞にも便利とは言い難い。
「……案外、密会にはこういうとこの方が都合いいのか?」
「アクたん……? 君、やっぱりさっきから何か勘違いしてるよね」
心外だ、とでも言いたげな顔でこちらを覗き込んでくるが、こっちの台詞である。
睡眠薬と手錠を標準装備している女子高生に、犯罪以外の意味を見出せと言われても無理な話だ。多分このアパートは、自宅とは別に犯罪活動を行うための拠点なのだろう。
……さて、どう逃げ出したものか。
二人してアパートの二階へ上がり、軋む廊下を真っすぐ進む。
一番奥の部屋の前で足を止めた彼女が、慣れた手つきで鍵を回した。
カチャリ、と軽い音。
逃走経路、窓の位置、
「…………こ、これは」
部屋に入ったアクアは、予想とはまったく違う意味で息を呑む。
そこにあったのは、壁一面に貼られたポスター。整然と並べられたライブタオル。ガラスケースの中で神々しく鎮座するアクリルスタンド。棚にぎっしりと詰め込まれたCD、BD、限定特典、雑誌の切り抜き――そのどれにも、見覚えがある。
それはどれもが――星野アイを中心とした、B小町のグッズだったのだ。
「ふふん、どう? 驚いたんじゃない?」
「うわ……すっごおおおぉぉっ……!!」
誇らしげに胸の前で腕を組むMEMちょをよそに、先ほどまでの警戒を忘れ、目を輝かせる。
だが、それも仕方のないことだ。
なんせアクアの前に広がるのは、自分の死地から一転、夢のような光景なのだから。
「この部屋を作った奴は分かってる……!」
「アクたん? ここが誰の家か忘れてない?」
「初回限定版の未開封……? こっちの雑誌は発行部数が極小だったやつだろ。オークションにも出回らなかったやつ。こっちは関係者でも持ってない!」
「あらら、もう聞いてないや……。全く、いっつもすかした顔してたけど、なんだかんだ一番オタクだよねえ」
部屋のあちこちを駆けるように見て回る少年の背中を見つめながら、MEMちょはくすりと笑った。
そして、すっかり警戒心をなくし、特大のポスターを見上げているアクアの背後から、ふと魔の手が迫る。
――つん。
「……む」
頬に硬い感触を覚えて振り返ると、なぜかMEMちょが俺の頬を指差し、ニヤニヤしていた。
「ほっぺ、ぷにぷにだね~」
「何してるお前」
「……いやぁ、今のアクたん、本当に小学生なんだな~って思ってさぁ」
「なに当たり前のことを…………はっ!」
その言葉にアクアは我に返り、少女の手を跳ねのけて飛びずさった。
危ない。すっかりこの女の術中にハマっていた。どんな罠があっても対応する気だったが、まさか俺の推しに対する思いを利用するなんて。
「……目的は何だ」
「え? 目的って?」
「誤魔化すな。人気配信者が、わざわざ事務所のコネ使ってまで俺を連れ出した理由だ。そこに犯罪性がないなら、そろそろ話してくれてもいいだろ」
相手を刺激しかねない質問だが、構ってもいられない。
こうして一見、のんびり会話している間にも、裏でも別の事態が進行していないとも限らないのだ。ミヤコさんとのやり取りは確かに本物だった。だが、彼女が騙されている可能性だって十分にある。
だって、もし仮に、正式な取引として星野アクアを要求したのだとすれば――わざわざ校門前で誘拐なんて綱渡りをする必要はない。
事務所に来て、正面から話を通せばいいだけの事。つまり、この状況には何か別の意図がある。事と場合によっては――
「ぶふっ……」
すると、目の前の少女が急に吹きだした。
「ぷっ……ふふっ……はっははははは!」
「……何が可笑しい」
「ごめんごめん。でも、だってアクたん……無理ぃ、お腹痛い……!」
徐々に笑いの勢いを増した少女は、最終的にお腹を抱えて爆笑し始める始末。やがてひとしきり笑い終えたところで、涙目のままアクアを見上げ、
「だって今のアクたん、すごんでても全然怖くないんだもん!」
「…………は?」
そう、意味不明なことを口にした。
「顔は滅茶苦茶可愛いのに、言動があの時そのままじゃん。ちびっこが必死にハードボイルド気取ってるみたいで、もう可愛くて可愛くて」
「オイコラ、真面目に質問に答えろ」
「ぶほーっ!そういうところっ!!」
「こ、こいつ……!」
なんだこいつ、急にとんでもなくうざくなったぞ。
俺が小学生だからって下に見てやがる。今もすぐ傍にしゃがみ込みながら、「身長なんてこれくらいだよ。こーんな!」と手で高さを示し、下衆びた笑顔を向けてきてるし、その怒涛の煽りは、まるで過去に受けた何かしらの鬱憤を晴らそうとしているようだ。
「あーすっきりした。前はアクたんと口喧嘩になるたび毎回泣かされてたから、気分がいいよ」
ツヤツヤした顔で息を吐く少女を前に、アクアは何かやり返す手段はないかと思考を巡らせる。
だが、彼女の言う通り、今の自分はただの小学生だ。前世のイケメン研修医(自称)ならともかく、この姿で何を言っても迫力は出ない。
「ぐっ……それでもJKか! ガキ相手に大人げねえぞ!!」
「ゴハァッ!?」
と思ったら、苦し紛れに放った言葉に、なぜか少女は血を吐いてぶっ倒れた。
地面の上で数度痙攣し、震える足でなんとか立ち上がった少女が、アクアの両肩を強く掴む。
「て、撤回して……。今の私は本当にJKだから。自称とかじゃ、ないから……」
どうやら、彼女にとっての地雷を踏み抜いてしまったらしい。目がガチだ。
哀愁を漂わせる姿になんだかこちらが可哀想になってきたので、アクアはそれ以上深く追及しないことにした。
よろよろと立ち上がり、口元の血を拭ったMEMちょは、仕切り直すように再び笑顔を向ける。
「ごめんごめん。それで、アクたんを借りた理由だっけ? それは単純に、一緒に遊びたかっただけだよ」
「……信じられるか。だいたい、俺とあんたは初対面のはずだろ」
「そうだね。でも私は君のこと、知ってたんだよ。ミヤコさんに聞いてさ。そしたら、君がすんごいB小町ファンだって言うじゃん? だからB小町の一ファンとして、この部屋を共有してあげたくなったわけさ」
「…………」
少女の言い分に、アクアは半信半疑の目を向ける。
普通に考えれば、そんなわけがない。結局何で小学校前で誘拐されたのかとか、解決していない点が多すぎる。
だが、アクアの魂が、こうも言っているのだ。
――このオタク部屋は、にわか仕込みで作れるものじゃないと。
だって、この部屋のグッズは、ただ無造作に収集されている訳じゃない。
自分すら知らないデビュー当初の初々しいアイに始まり、センターとして自信を持ち始めた頃のアイ、そして伝説のラストライブまで。それぞれ年代ごとに整列されたグッズ達は、まるで展示会場のように生き生きとしている。
並大抵の努力で成せる業じゃない。
もしも、もしも仮にこの女が自分の同士なのだとしたら――その思いも無下にすることなんて、自分にはできない。
「本当、なんだな……」
今ようやく、初めて目と目が通じ合う。アクアの熱い想いを汲み取ったのか、心なしか彼女の瞳も優しくなった気がした。
「本当に……ショタコンじゃないんだな」
「ちょっと待って! いつの間にそんな疑いかけられてたの!?」
思えば、何年も前に解散したB小町を、このレベルで語れる相手など、小学校にはいなかった。
星野アクアは、いつの間にか周囲から浮き、どこか孤独なまま日々を過ごしていた。自分がファンであることも隠し、とっくに読み終えている京極夏彦の本(全五巻)を、何度も読み返して時間を潰すだけの毎日。
佐藤くんを「気持ち悪い」と罵ったあの言葉の裏には、最新のコンテンツで友達と盛り上がり、思ったことをそのまま口にできる彼への嫉妬心のようなものもあったのかもしれない。
自分はずっと心のどこかで、“仲間”を求めていたのだ。
今まで酷い疑いをかけていたことを、謝らなければならない。まずは手始めに、彼女の手を取ろうとして、
「「ただいまー」」
突如、玄関の方から声がした。音に反応して、アクアとMEMちょが同時に振り替えると、そこには、
「……あれ?」
「姉ちゃん客?」
そこには、ランドセルを背負った自分と同じくらいの年齢の少年が二人。――紛れもない、ショタコン誘拐犯の物的証拠が立っていた。
「…………」
「ねえ待ってアクたん。今何考えてるの?」
「…………」
「ちょっと待って! それは心の中に留めるか、お姉さんにだけ――」
「お前達だけでも逃げろぉぉぉっ!!」
MEMちょが口を塞ぐよりも早く、アクアは行動を開始した。被害者二人だけでも逃がそうと、必死に叫ぶ。
一瞬でもこいつを信じた自分が馬鹿だった。既に犠牲者が二人。しかも、自分を「姉ちゃん」と呼ばせるところまで洗脳されているとは。
「だから違うってぇぇぇぇ!!」
アクアを羽交い締めにしながら、MEMちょが悲痛な悲鳴を上げる。
二人が彼女の実の弟だとアクアが信じるまでには、それから一時間ほどの時間を有した。
3
そこからは、これと言って問題のない時間が続いた。 MEMちょとB小町のライブ映像を二人で食い入るように鑑賞したり、二人の弟たちの遊びに付き合わされたり、夕食だってご馳走になってしまった。絶望から始まったアクアの一日貸し出しも、予想と反して普通に楽しく、いつの間にか不安はなくなっていた。そうして一通りの騒ぎが落ち着いた頃には、すっかり夜になっていた。
結局、落ち着きを取り戻してから再度連絡を取ったところ、俺がここにいることはミヤコさんだけじゃなく、壱護社長も知っているれっきとした合法のものだったらしい。
「……ふぅ」
アクアは現在、布団の中にいる。
窓の外はもう真っ暗で、住宅街も静まり返っている。さっきまで騒ぎまくっていた弟たちも、疲れたのか、今は隣でぐっすりと眠っていた。――そう、アクアの隣で。
現在、アクアたちは一つの大きな布団を使って、河の字で仲良く寝ている状態である。まあ、只でさえ狭く部屋数の少ないアパートで、一つの部屋をB小町に占領されているのだから、それ自体は仕方ないことだと言えよう。
そう、問題は弟たちではない。
「……どうして、こうなった」
問題は――彼らと同様、自分の隣に寝ころんでいるMEMちょだ。
弟同士が隣り合って眠り、なおかつ自分とMEMちょが両端に陣取らなかったことで生まれた彼女との距離は、あまりにも近い。
手を伸ばせば触れられるどころか、少し寝返りを打つだけでも普通にぶつかってしまいそうなほどだ。今は必死に背中を向けて誤魔化しているが、それでも彼女の吐息が後頭部にかかっている気さえして――落ち着かない。
「……ねぇ、アクたん」
ふと、自分の世界で悶々としていたところに後ろから声をかけられた。どうやら彼女も自分と同様、まだ眠っていなかったようだ。
「……まだ起きてる?」
「起きてるけど……」
なるべく動揺を悟られぬよう、落ち着いた声で返事をする。さっきまで散々ショタコンだの罵っていた相手に今更ドギマギしているなど、ムカつくから覚られたくない。
「良かった~。じゃあさ、私が眠たくなるまで話相手になってよ」
くるり、と布団が擦れる音がする。どうやら彼女はこちらを向いたらしい。
別に、話相手になること自体は構わないのだが、何か話題があっただろうか……そうだ。
「んじゃ、こっちから一つ聞いていいか?」
「……いいよ」
隣で眠っている弟たちを起こさないよう、二人は声を潜めて話し始めた。
「なんで、家がこんなに狭いんだ?」
「……ん? そういうアパートだからじゃない?」
「そうじゃなくて、なんでもっといい場所に住まないのかって話だよ。人気配信者なんだし、それなりにお金もあるだろ」
アクアが口にしたのは、最初にここへ誘拐されてきた時に抱いた疑問だ。
当初は、犯罪の隠れ蓑にするには都合がいいからだ――などと、今思えばずいぶん失礼なことを考えていた。
だがその可能性が薄くなった今、単純な疑問として再び浮かび上がってきたのだ。
するとMEMちょは、少しの沈黙のあと、迷うように言葉を選びながらぽつりと口を開いた。
「……実を言うとね、うち、お父さんがいないんだ」
「――――」
「……だから、私は今この家の大黒柱なの。確かに一人ならもっといいとこ住めると思うよ。でも……家族の生活費とか、弟の将来の学費とか考えたらまだ贅沢はしてられないなって。……お母さんにも、倒れる前に夜勤とか辞めさせてあげたいし」
アクアは間抜けな声を漏らす事しかできなかった。
確かに、夜も遅いというのに両親の姿が見えないのは変だ。何故その違和感に、今まで気づけなかったのだろう。
「えっと……」
「ああ、ごめん! こんな話するつもりじゃなかったのに……今日、色々変かも」
予想外の話に上手く言葉を返せずにいると、MEMちょは慌てたように両手を振った。
……なんで、そっちが申し訳なさそうにしているんだ。無神経に話を振ってしまったのは、こちらの方だというのに。
思い浮かぶのは、昼間に友人と交わした会話だ。
彼曰く、彼女は苦労人で、不憫なオーラが滲み出ているが、それを隠して健気に笑っているのだと。
あの時は、単なるセルフプロモーションだろうと軽く流していた。だが、いざ実態を見てみれば、まだ高校生という若さで、金銭も、弟たちの面倒も、家のことをほとんど背負い込んでいる始末。
「なんか、本当に大変だったんだな」
「…………え」
自分でも無意識に零れた言葉。それが聞こえてしまったのか、背後の少女が息を呑んだ。
「……な、別に大変じゃないよ。高校だってちゃんと通えてるし、推し活だってできてるしさ!」
「そんなの、普通のことだ」
「普通?」
「そうだろ。高校に通うのも、趣味を楽しむのも、その年なら皆やってることだし。お姉さんが大変なことに変わりはない」
言葉に詰まるMEMちょ。きっと、こうやって面と向かって労われること自体、慣れていないのだろう。
たぶん彼女は、ずっと誰かを労う側だったのだ。環境のせいか、自分の問題を棚に上げて、他者を支えることに慣れすぎている。それ自体は美徳かもしれないが、弱音を吐くことすら、最初から選択肢に入っていないような姿勢には――腹が立つ。
「金の問題はシビアで、他人に任せられないってのは分かる。でも、たまに愚痴るくらいは、別にいいんじゃないか。……そこまで全部抱え込んだって、いいことないだろ」
「――――」
沈黙。アクアの言葉を聞いた少女がどういう顔をしているのかは分からない。
たかだがあって半日の自分がこんな説教くさいこと、鬱陶しいお節介に過ぎないかもしれない。らしくないことをしている自覚もあった。
「…………アクたん」
ふと、背後から声がした。同時に、背中側の布団が大きく揺れる。その違和感に振り返ろうとした――その瞬間。
「うわっ!?」
がばっ、と肩を掴まれ、強引に体をひっくり返された。
当然、鼻先がぶつかりそうなほどの距離に、MEMちょの顔がある。だが――、
「大変だったよ!?」
――そんなドキドキは全て、突然の少女の大声でかき消された。
「めっちゃ大変だったよ!? 何それ今更そんなこと言ってくるの!?」
「え、いや」
その豹変ぶりに、アクアは困惑を隠せない。
確かに愚痴をこぼしてもいいとは言ったが、これはなんだか予想していたものと違う。MEMちょはもう我慢ならないと言わんばかりに、タガを外してアクアの肩をぐらぐらと揺さぶってきた。そして
「ルビーはずっと泣いてるし、かなちゃんも強がってるけど元気なくてことあるごとに慰めなきゃいけなかったし、あかねなんてオカルトにハマりだすしさー!?」
そしてなにより、彼女の愚痴の内容が意味不明だ。
明らかに、今さっき話題にしていた家族や金銭の話ではない。なぜか俺の妹――星野ルビーの名前まで出てきている。理解不能なアクアを他所に、ギャアギャアとまくし立てているのだ。
「ちょ、声」
「私だってめちゃくちゃ泣きたいのに! お姉さんだからしっかりしなきゃって、ずっと我慢しなきゃいけなかったの! それを今更、カッコつけんな!!」
「おい落ち着け、弟起きる」
「うっさい! あれもこれも全部馬鹿なことしたアクたんのせいじゃい!! きえええ――!?」
……うわぁ、どうしよう。
よく分からないが、想像の数十倍は厄介な地雷を踏み抜いてしまったらしい。気安い気持ちで「愚痴ってもいい」などと言うべきではなかったか。
これ以上騒がれるのは色々マズい。そう考えどうにか宥めようと口を開いた、その時だった。
ぱたり、と。
意図が切れた人形のように、MEMちょの体が前に倒れこんできた。
「……え、は?」
慌てて受け止める形になり、アクアの体に少女が覆いかぶさる。反応がなく、一瞬、本気で血の気が引いた。まさか、死――、
「お姉さ――」
「…………すぅ、すぅ」
「…………」
聞こえてくるのは、規則正しい寝息。
「……寝てる」
どうやら、ただ眠ってしまっただけらしい。仕方なく再度布団に寝かせてあげると、さっきまで暴れていたとは思えないほど安らかな顔を晒していた。
「……なん、だったんだ?」
それを見下ろしながら、アクアは呆然と呟く。
ちょっと悲し気な顔をしたと思ったら、今度は急に情緒を爆発させ、次の瞬間には気絶したように眠りこける。理解不能にもほどがあるだろ。
「……情緒どうなってんだ、こいつ」
「わ、お姉ちゃんがこんな早く寝るなんて珍しい」
困惑するアクアに声をかけてきたのは、布団から顔だけを覗かせるMEMちょの弟たちだった。
……まあ、あれだけ騒げば起きもするか。
「悪い、うるさくしたな」
「いいよ。自分より先に寝てる姉ちゃんなんて、滅多に見られないから」
「……それは、仕事が忙しいからってことか?」
アクアの疑問に、二人は左右に首を振る。
そして眠りこけるMEMちょに近づくと、その頬を指でツンツンとつつきながら言葉を続けた。
「姉ちゃん、いっつも「先に寝な」って言うのに、自分はずっとボーっとしてる。寝ること自体、あんまり好きじゃねえのかな」
……そういえば、彼女は『睡眠薬』をポケットに携帯していた。
家族の面倒を見て、仕事もして、それでも、その薬に頼らなければあまり眠れない。
もしかしなくても、彼女の抱えている心労は、俺に話したことが全てではないのだろう。
「ありがとう、アクアの兄ちゃん」
「なんで俺に礼を言う。こいつが寝たのは、勝手にギャアギャア騒いで疲れただけだ」
「まあ、そうだね。でもさ、あんなに騒ぐこと自体、普段ならあり得ないよ」
「今日の姉ちゃん、なんか活き活きしてて面白かった。だから、ありがと!」
それだけ言うと、弟たちは満足したように布団へ潜り込んでいった。
部屋は再び静けさを取り戻す。その中で、アクアはもう一度、眠っているMEMちょの顔を見て
「……弟たちの方がしっかりしてんじゃねえか」
そう、呆れたようにそう呟き、アクアもゆっくりと横になる。静かな寝息だけが聞こえる部屋で、やがて彼もまた、眠りに落ちていった。
その日、少女は久しぶりに夢を見た。
女子高生のふりをして恋愛リアリティーショーに出演した時のこと。
アクたんに辛口なことを言われて、本気でムカついた時のこと。
ルビーやかなちゃんと一緒に、B小町として必死に頑張った日々のこと。
楽しかった記憶を、まるで旅をするみたいに一つずつ巡っていく。長いようで――けれど、一瞬の夢だ。
けれど、そんな夢でさえ、ずっと見るのが怖かった。
アクたんが死んでしまって。それから皆がおかしくなってしまった日から。過ごしてきた日々を、少しずつ――「間違いだったんじゃないか」と思うようになっていたから。
あの時、こうしていれば。私がもっとしっかりしていれば。そんな後悔ばかりが増えていくから。
だから怖かった。
次に夢を見た時、あんなに楽しかった日々まで――「間違いだった」と、自分で疑ってしまうんじゃないかと。
アクたんは、私が全部我慢して生きているみたいに言うけど。それは違うよ。
だって本当は、今日は、アクたんが下校した後に迎えに行くって、ミヤコさんと約束していたんだ。
それなのに、ちょっとだけ魔が差して、つい校門の前で待ち構えてしまった。
顔を見るだけのつもりだったのに。いざアクたんを見た瞬間、我慢できなくなって。思いきり抱きついたりもしちゃった。
そうでもしないと――顔から溢れそうな涙を、見られてしまいそうだったから。
今日一日、アクアと過ごして。久しぶりに同じ時間を過ごして。その果てに見た夢。それは――
……ああ、よかった。
夢の中の日々は、何一つ変わっていなかった。
楽しくて。
眩しくて。
どうしようもなく大切だった、あの時間。
それは今でも、確かに――私にとっての「輝かしい日々」のままだった。
4
後日、俺は無事五体満足で苺プロへと帰宅した――のだが。
「お、アクたん今日も学校お疲れ~」
「……なんで、まだいるんだよ」
事務所のソファに当然のように座り、スマホをいじっているMEMちょを見て、思わずそう突っ込んでしまった。
俺を送り届けた後は、そのまま帰ったものだと思っていたのに。それにここは来客用の部屋ではない。関係者以外立ち入り厳禁の、れっきとした仕事場だ。
「え? なんでって言われても……」
MEMちょはきょとんとした顔をしてから、まるで当然のことのように言い放った。
「ここ所属のユーチューバーになるからだけど?」
「……はい?」
「そんな顔されても困るよ~。前払い金と引き換えに、アクたんを一日借りたんだからさ。ね、ミヤコさん?」
そう言って、MEMちょは自分の向かい側のソファに視線を向けた。その先には、足を揃えて優雅にコーヒーを飲んでいる女性がいる。
アクアもまた、ゆっくりとそちらへ視線を移した。
「……マジなの?」
「大マジよ。彼女とは以前からそういう契約を進めてたの」
……なんで、俺にはそういう重要なことを伝えてくれないのだろうか。
俺のこと、大物配信者を引き込める引換券くらいにしか思ってないだろうな。後でもう一回、呪いの電話を入れてやろうと思う。
「じゃあ早速、誓約書にサインを――と行きたいところだけど」
彼女はそう言って、テーブルの上に茶色い封筒を置いた。
「まずはこれを受け取って頂戴」
「え? なんですか、これ?」
MEMちょが首を傾げながら封筒を手に取る。何気なくそれを開けて隙間を覗き込み――動きが止まった。
「……え、これ」
封筒の中にあったのは、綺麗に揃えられた札束だった。彼女は驚いたように、目を瞬かせる。
「受け取ってって……前払い金はないんですよね? しかもこんな額」
「ええ、ないわよ。それは――将来の先行投資」
「先行、投資……?」
何を言っているか分からない。そう言いたげに動けないMEMちょに、ミヤコは静かに言葉を続けた。
「あなた、もう一度あの子たちと組みたいと思ってるんでしょ? ルビーと、有馬かなと」
「――――」
「まだあの子たちはそこまで考えてないかもしれないけどね。でも私は、そうなると思ってる。だからこれは、そっちの先行投資」
二人の名前を聞いて、MEMちょの瞳が揺れる。封筒を握った手が強くなるが、その表情にはまだ迷っている様子が見て取れた。だから、ミヤコさんはひと際優しく微笑んで、
「それでお母さんの夜勤、減らしてあげなさい」
「…………あ」
「あなたがずっと二人を助けてくれていたこと、私も感謝してるんだから」
決定的なその言葉に、MEMちょは暫く俯いたまま動かなかった。だが次第に、指先が震え始める。
「……ミヤコさん。それ、反則ですよ」
やがて小さな声が漏れ、顔を上げる。その目には、うっすらと涙が滲んでいた。
「そんなこと言われたら……断れないじゃないですか」
ぽたり、と。頬を伝った涙が一滴、膝の上に落ちた。少しだけ笑おうとして、それがいつもみたいな作り笑いでないことに気づく。
私、馬鹿だ。
自分の周りにはこんなにも優しい人たちがいるのに、いつの間にか一人で頑張ってる気になっていた。
アクたんも、ミヤコさんも、支えようとしてくれる人が、こんなにも近くにいるのに。
そうだ、やっと気づいた。
ずっと支える側でいなくてもいい。
たまには、誰かに支えられてもいい。我が儘だって許される。
だって、私は――
「あ、でも契約はもうちょっと待って」
淡々とした声が、MEMちょの思考に割り込んだ。
「……え、なんで?」
MEMちょの疑問にミヤコは答えず、代わりにスマホを取り出した、そして画面を操作して――そのまま、少女の前に差し出す。
「…………」
瞬間、少女の涙がピタリと止まり、石になったかのように動かなくなる。
傍から見ていたアクアも彼女の豹変に違和感を感じ、ソファの後ろに回って、スマホの画面を覗き込む。そこにはあったのは、一枚のネット記事。
「……あなた、炎上してるわよ」
【悲報】人気JKユーチューバー、小学生を誘拐してしまうwww
「「…………」」
――わがままの代償に、登録者が十万人減った。