アイにルビーが変だと連絡してから、およそ三十分。
「ただいまー……って、なにこれ!?」
リビングの扉を開けたアイが目にしたのは、凄惨な光景だった。
「ア、イ……ぐふっ」
ルビーに抱きしめられたアクアは、寝技を決められたプロレス選手みたいになっていた。最初は頑張ってルビーを押さえ込んでいたが、圧倒的な力の前に屈服するのに、そう時間はかからなかったらしい。
「うちの子きゃわー! ちょっと待って、写真撮るから!」
「いや、ちが。早くこいつを引きはがし……」
必死の訴えも虚しく、アイは懐からガラケーを取り出しておもむろに撮影を開始する。万事休すか。そう覚悟を決めるアクアの前で、その声を聞いたルビーの頭がピクリと動く。
「ママぁあああーーッ!!」
「うわっと」
そして、今度はアイに向かって猛スピードで突っ込んだルビーが、全力で体に飛び込む。アイが驚きつつも突進を受け止める一方、アクアはようやく締め上げる圧力から解放され、久々にまともな呼吸を再開した。
あと五分、彼女の帰宅が遅れていたら、間違いなく自分は天に召されていただろう。
「う、マジで……死ぬかと思った……」
四つん這い、肩で息をするアクアを他所に、ルビーはアイにしがみついて泣きじゃくる。
「ママぁ……ママぁ……生きてる……また会えたあ……ッ……」
「んん? 何それ、ママはピンピンしてるよ」
アイは少し驚きながらも、すぐにルビーの涙を拭って優しく頭を撫でた。
「……何があったの?」
「分からない。今朝起きた時からずっとこうなんだ。怖い夢でも見たんだと思うけどな」
流石に、今のルビーが普通じゃないとアイも理解したらしい。
だが、どうしていいかは分からず、アイは「怖かったねー」「甘えん坊さんだねー」とひたすらにルビーをあやす事しかできなかった。
そんな二人を見て、アクアはふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「……そういえば、よく仕事切り上げて戻ってこれたね。呼び出した俺が言うのもなんだけど」
アイは、仕事をキャンセルして戻ってきてくれた。それもこの短期間に。
簡単なことではなかったはずだ。ライブにしても、CM撮影にしても、そこには多くの人が関わり、スケジュールが調整されている。そう易々と休むなんてことはできない。
「……ああ~、えっと、それは」
「……?」
アクアの言葉に、何故かアイは視線を逸らす。まさか無断欠勤でもしたんじゃないかと一瞬心配するが、どうやらそうではないらしい。
「仕事は社長がキャンセルしてくれたんだけどね。なんか社長とミヤコさんの様子がおかしくて……。電話するなり「家で待ってなさい!」って、すごい剣幕だったの」
「……なんだそれ?」
「さあ? でもそろそろ戻ってくると思うよ」
いや、どう考えたって「さあ?」で済ませていい感じじゃないだろ。そう突っ込みたくなる衝動をぐっと抑える。アイの能天気は昔からで、人が言って直るものではない。
――なんだか、また嫌な予感がするのは俺だけだろうか。後の展開を予想して身震いしていると、
ガチャァン!!
玄関のドアがものすごい勢いで開き、その音が家中に響く。
「アイっ!! アクアっ!!」
現れたのは息を切らした苺プロの社長――斎藤壱護とその奥さん――斎藤ミヤコだ。二人はこちらを見たかと思うと、先ほどのルビーと同様、妙な空気を漂わせながら、
「アイっ、アクアぁ!」
「畜生やっぱりか!?」
その巨体をこちらに向け、全力で飛び込んできた。
俺とアイの体に腕を回す社長。アイは驚きから「わお」と可愛く声を漏らすが、アクアは可愛さもくそもない鳥を絞めたような悲鳴を上げる。
「夢じゃないよな!? 本当に、本当にお前らなんだよな!?」
「なんで私、さっきからそんな扱いなの?」
「は、離せええええええええええええ!!」
先ほどとは比べ物にならない質量に押しつぶされ、体力ゲージがゼロに向かって一直線。今度は些末な抵抗すら許されず、アクアはクマに伸し掛かられるハンターが脳裏に浮かんだ。
巨体に完全に埋もれ、必死に社長の体を叩きながらギブアップを要求していると、
「バイト君。二人とも困ってるわよ。とりあえず落ち着いて、一端離れなさい」
後ろから歩いてきたミヤコさんが社長を引きはがしたことで、なんとか命は繋がれた。なんで社長のことをバイト君って言ったのかは気になるところだが、今はそれを深堀する気力もない。
「……はぁ、助かった。ありがとうミヤコさ――」
スパアァン!!
そう思ったのも束の間。礼を言おうとしたアクアの声を遮って、乾いた音が部屋に響く。
「!?」
何が起きたのか理解するまで、数秒遅れる。顔に広がるじんとした痛み、振り切られたミヤコさんの掌。――俺は突然、彼女から強烈な平手打ちを喰らったのだ。
「……バカッ!! なんで頼ってくれなかったの!?」
「!?!?!?」
身に覚えのない怒りをぶつけられ、アクアは目を丸くして固まる。
ミヤコさんは涙をこらえるように顔をゆがめ、拳をぎゅっと握りしめながら言葉を続けた。
「どうして……ずっと苦しんでたのに、あなたはいつもそうやって、一人で……!」
「いや、さっきからなんの話を――」
出かかった言葉は、再びミヤコさんの抱擁に遮られる。
それはルビーや社長とは違う、力任せではない、壊れ物を扱うかような優しい抱擁だった。アクアは柔らかな感触と匂いに全身を包まれるが、そんなことは今どうでもいい。
自分の中にあるのは、ただ一つの感情だからだ。
「ごめんね……私が頼りなかったから。アイ、アクアぁ……」
……怖い。
急にぶん殴られたと思ったら抱きしめられた。カウンセリングや精神疾患は俺の専門外だが、これがDVの典型的な手法であることは知っている。
というかこの人、少し前まで俺たちのことを週刊誌に売ろうとしてただろ。なんでそんな親みたいな純粋な涙を流せるんだよ。どういう情緒してんだ。
「お前らぁ……ッ!!」
「アクアっ、ママっ!!」
ミヤコさんに便乗して再び突撃してくるルビーと社長。すぐさまおしくら饅頭が形成され、混乱はピークへと達する。その中心にいるもう一人の被害者、アイと言えば、
「???」
先ほど俺が叩かれたあたりで脳の処理が限界を迎えたらしく、今は仏像の如く微笑み、頭から煙を上げながら三人の成すがままにされていた。
「「「おかえりなさい! 二人とも!!」」」
「…………うん、ただいま」
諦めの境地で返事をするアクア。そして、この意味不明な状況は日が暮れるまで、決して終わらなかった。
2
窓の外は暗く、夜のとばりが部屋を包み込む。
アイとアクアの寝息が静かに響くリビングの一角で、ルビー、斎藤壱護、そしてミヤコの三人はテーブルを囲んでいた。
「……じゃあ、みんなも前の記憶があるんだね」
「ああ。お前のドームライブを見届けたと思ったら、気づけばここにいた」
その言葉に、場の空気は静かに重くなる。内容はもちろん、痛ましい記憶の数々を、この場の三人が共有してるという事実についてだ。
「やっぱり気になるのは、アイとアクアには、全く記憶がないってことよね」
ミヤコの言葉に、三人は静かに視線を落とす。
再会の喜びを分かち合えると思い、はしゃぎにはしゃいだ結果――アイとアクアは、身に覚えのない過剰な愛情に対し、完全にドン引きしてしまったのだ。
加えて言えば、疑問はそれだけにとどまらない。今起きている事は本当に現実なのか、はたまた唯の夢なのか。
転生や神様の存在を知っているルビーはともかく、他の二人にとって今起きている現象はどれも、到底信じがたい絵物語にすぎない。
「まあ、んなことは関係ねぇよ。全部後から考えりゃいい話だ。……重要なのは唯一つ。――俺たちは、やり直すチャンスを貰えたってことだ」
その言葉に、ミヤコとルビーは慎重な面持ちで頷く。
どうしようもない絶望と罪悪感に悩まされ、生きながらに死んでいた日々。ああしていれば、こうしていれば。そんな風に考えない時間は、一秒たりともなかった。だからこそ、
「二人は、私の未来を守ってくれた。だから今度は、私があの二人を助ける!」
強い決意のこもったルビーの瞳。それを見て、社長は感慨深そうに目を細めて頷くと、改めて表情を引き締める。
「んじゃ、まず差し当たって考えなきゃならねえのは――今から三年後だな」
「アイがドーム公演当日にストーカーに刺されて死ぬ未来……それを回避することが、最優先事項だ」
絶対に助ける。その決意が、三人の心の中で共有される。だが、この場に漂う空気には、希望よりもどこか焦燥感が強い。
どうしようもなく胸を焼く後悔、塗り消せない罪悪感。それが彼らを突き動かす。
アイとアクアを守るため――そして、同じ過ちを二度と、繰り返さないために。