あの日から、私はノアの姿をあまり見なくなった。
勿論、セミナーでは時々見かけはするのだが...私から声を掛けたくなかったし、向こうからの行動も無かった。
私とノアの間に流れる微妙な空気が、梅雨の曇天のようにずっと続いている。
酷く、重たい。
何故、ノアはあんな顔をしたのか。その事が、私の頭の中を占めていた。
やっぱり、ノアも先生の事を想っていたのだろうか。そして、それを私が奪って──
これ以上は、考えたくなかった。
その代わりに、出来るだけ先生のことを考えるようにした。
その瞬間だけは、少しだけ心が楽になった。
でも、直後にノアのことが思い出されて、また苦しくなって...
負のループと言ってしまえばそれで終わりだが、どうやっても抜け出せない。
私は、酷く臆病だった。
「...ウカ君?」
結局、また数日が経っていた。
仕事にも、どうにも手が付かない。
どうすればいいのだろうか、それを相談出来る相手すら居ないのに。
「ユウカ君?」
「はっはい!!」
しまった、呼ばれていたのに気が付かなかった。
顔を上げると、先生が困った顔でこちらを見ていた。
「大丈夫か?疲れているなら休んだ方が良いと思うが」
「...いえ、大丈夫です!」
本当は、大丈夫では無いのだが。
この事を、当の先生に打ち明けるには、流石に勇気が足りない。
「そうか、君がそう言うならそうなのだろう」
「そ、それで、何か要件でもありましたか?」
慌てて取り繕うように、そう聞き返した。
先生は少し間を置いて、口を開いた。
「なに、ノア君の事だがね」
ノア。
その言葉に、また一瞬頭が真っ白になりそうになった。
「最近元気がないとコユキ君から聞いたから、君なら何か知っているかと思ってな」
「え、あぁ、いえ...」
知っている──とは言い難かった。まだ確証を得られていないのだから、などと自分の中で言い訳しながら、必死に言葉を紡ごうと口をもごもごさせた。我ながら変だなと思うが。
「知、らないですね...」
結局、それだけを言って言葉は終わってしまった。他に何かを続けるべきかと思ったが、先生は少し頷いて、そうかと短く答えた。
「ユウカ君が知らないのであれば誰にも分からんだろうよ」
そう言って、先生は珈琲を燻らせながら窓の外に目をやった。この人は時々こうして呆とすることがある。何故かは知らないし、多分聞かなくても良いのだろうと、勝手に納得している。
同じように外を見遣ると、日の差す隙間すらない程の曇天だった。こんなに暗いと矢張り気分が滅入ってしまう。
「...そうだな、見舞いにでも行こうか」
「え?」
外を眺めていた先生が突然そう言い出し、私はまたもや素っ頓狂な声を上げながら顔を上げた。
先生は、少し意外そうな顔でこちらを見返していた。
「いや、体調が優れないのなら見舞いの一つでも行ってやった方が良いのかと思ったが...違ったか」
「い、いえ...そんなことは...」
正直な所、一人で見舞いには行って欲しくなかった。
正確に言えば、ノアと二人きりになって欲しく無かったと言うべきだろうか。
もしそんな状況になって、ノアが先に先生に言葉を伝えれば──
それ以上は想像したくもなかった。
そして、そんな事を考えている自分にも嫌気がさして、一段とどんよりとした気分になった。
「...ああ、安心したまえよユウカ君。私から手を出すことは無い。男性の私がそう言っても説得力は無いのだろうがね」
勘違いしているのか、先生はそう言った。
それを不安に思っている訳では無いのだが...むしろ、振り向いて貰えないかもしれないとすら思われて、そのせいでより一層不安が加速した。
静寂の中をキーボードやペンの音だけがつんざく中、私の頭の中にあったことと言えば、矢張りノアの事ばかりだった。
結局、先生を止めることは出来なかった。仕事が終われば、意気揚々とノアの家に向かうだろう。それは──何としても阻止したかった。
でも、その動きを止めてしまう事は親友に対する裏切りでもあるように思え、それもまた厭だった。
その板挟みの中で、私はどうすることも出来ずに、ただ刻一刻と時が過ぎるのを、何にも手が付かないまま待つことしか出来なかった。
「お疲れ、ユウカ君」
そう言いながら、先生はコーヒーカップをトレーに載せながら、器用に車椅子を転がしてこちらに向かってきた。
もう、そんなに時間が経ったのだろうか。素直に聞くと、先生は少し笑いながら答えた。
「いや、君も疲れているようだからね。これを飲んで帰ってゆっくりと休みたまえよ、処理は私の方でやっておこう」
そう言いながら、トレーを机に置くとカップの内一つを取って、一気に飲み干した。
そして、私が何かを答える間もなく、出入口に向かっていった。
このままでは、先生はノアの元に向かってしまう。
このままでは。
このままでは.......。
気づけば、私は先生を背中から抱き締めていた。
これが、私の選択だった。
多分、この行動は親友に対する絶対的な裏切りであり、その先に待つ運命を受け入れられる気もしなかったが。
ただ、こうしなければならないような気がした。
「...どうしたんだね、ユウカ君」
先生は、何の感情も見せずにそう言った。
その平坦さに、私は漸く悟った。
嗚呼、この人は気づいていたのだろう。
私の気持ちに。私の想いに。私の覚悟に。
だから、私は──
「先生、好きです。付き合って下さい」
耳元で、そう囁いた。
その言葉を吐くと、直ぐに身体の力が抜け、腕がゆるりと先生の身体から解けた。
これで、全てが終わったのだろう。何もかも...。
「...私はね、ユウカ君」
先生は、振り返らずに言葉を紡ぎ始めた。
「恋慕とは、他者を己の中に入れ込み、あまつさえそれを存在理由にする恐ろしく愚かな行為だと考えている」
その突き放すような言葉に一瞬の絶望を覚えたが、それでもそれは予想通りではあった。
この人が異性に対して何らかの感慨を見せることは無かったから。きっと、そう思うには既に枯れ果てているのだろう。
でも、それでも告白したのは──
「だが、君のその感情も行動も、私には否定出来ない。
故に、私のその言葉に対する回答は無い。
デートに誘いたいなら誘えばいいし、私はそれを受け入れよう」
貴方のその優しさを、甘さを知っているから。私は、そこに漬け込んだのだ。なんて狡い人間なのだろうかと、一人で己を嘲った。
「じゃあ──」
「ただし」
私の言葉を遮るように、先生は続けようとした。
ただ、その言葉は詰まり、一瞬の溜息の後に漸く続いた。
「私はまた、枯れゆく花を君の世界の中心に据えて欲しくは無い。
いずれ花は枯れゆくものだが、桜花よりも寿命が短い様な花は、精々押し花として飾ってやるぐらいが丁度いいものだ。私に対する恋愛感情とは、則ちそう言うものなのだよ」
そこまで言って、先生は漸く振り返った。
矢張り無表情だ。だが、この言葉を意味を咀嚼している間に、先生は少し笑って続けた。
「ああ、すまない。少々比喩が過ぎたな。だが、これは君には伝えておくべきだと思ってな」
そこまで言って、先生は一瞬言葉を切った。
その間の静寂は一瞬の筈だったのに、無限に引き伸ばされているように感じた。
「私には──」
無限に収束する先で、先生が言葉を発した。
「私には、厨として生きる時間がもう残されていない。それで良いのなら、私は君の気持ちを受け入れよう」
先生は、ただ淡々と、無表情にそう言った。
陽の射さない部屋は、随分と暗く、その顔に影を忍ばせていた。
もしかしてめっちゃ駆け足なんじゃないか?
そして見ての通り、厨先生はめっちゃ比喩を好んで使います