ショウは息を白く切らせて眼下に広がるヒスイを見下ろした。
偉大なる天冠山はその身を雪に染め、悠然としてそこにある。その頂すらを遥か下に置いて、どれほどの時間かショウはただ立ち尽くしていた。
ショウがこの地にやってきて三年が経っていた。神の座からヒスイの輪郭をなぞり、彼女が何を考えたか知れない。それは遮二無二駆け巡ったこれまでの日々のことかもしれなかったし、このヒスイという地そのもののことかもしれなかった。
降り積もるような静謐に、履き古した雪駄がふたつ。残されたそれが見つかったのはショウが消息を絶って三日後のことであった。
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というわけで、ショウは現代を満喫していた。
ベッドは新雪のように柔らかく沈み込み、それでいて寝藁なんかよりよっぽど温かい。お風呂に入るときなんかお湯が簡単に沸かせるし、向こうで貴重だった甘いお菓子だっていくらでも食べられる。それになにより、スマホがトゲトゲしていないのだ。
そうしてショウはゲーム機のコントローラを枕元に置き、伸びをひとつした。ヒスイも悪くはなかったけど、と言い訳めいたことを考えつつ。
さて、別段引き伸ばすことでもないのでショウが現代にいる理由はここで説明しておくとする。
とは言ってもコトは単純で、帰れるようになったから帰った、というだけの話である。
もともと、現代に戻るだけであればディアルガとパルキアを手に入れた時点で可能ではあったのだ。ショウがそれを選ばなかったのは、ひとえにヒスイで過ごした時間のせいであった。
伸び盛りの子どもにとっての数年というのはそれはもう大きい。
傷だってあちらこちらに残っていたし、姿そのままに戻った日にはなんらかの事件性を疑われて通報されること請け合い。少なくともショウはそう考えた。
神だとかいうポケモンによる拉致が十分に事件性を含んでいることは、まあさておくとして。
ともかく、ディアルガとパルキアの力だけではそのあたりが調整できなかったところ、打ち倒したアルセウスの力が加わることでなんとか元の姿に戻れるようになった。
フィールドに居るうちあまり感情を出さなくなった、という性格上の変化こそあるが、見た目の上では完璧に元の姿である。
であれば、休暇がてら現代に帰るのも悪くはない──そうして、ショウはイモモチを食べに行くくらいの気軽さで現代に帰った。ショウが実家のベッドで自堕落にしているのは、つまりそういうわけである。
ベッドの上で大文字に手足を投げ出したショウは、指先に触れたテレビのリモコンをなんとはなしに弄んだ。
観たい何かがあるわけではなかった。ただ無聊のなぐさめとして、適当にボタンを押してみただけ。
『──色違いのポケモン、赤いギャラドスの姿はひと目見ることも……』
チャンネルがぷつりと切り替わり、ショウははたと手を止めた。
赤いギャラドス。ショウにとって随分と懐かしい響きだった。
(結局、捕まえられなかった)
ショウはかつて、シンジ湖の上空を飛んでいた赤いギャラドスを見たことがあった。それどころか捕まえようと躍起になってボールを使い果たしさえしたし、最後には初夏のまだ冷たい湖へと滑って落ちている。
苦い思い出だった。思い返すだにくやしくて、ショウはベッドでほぞを噛む。
そのときのショウはまだウイングボールを使っていたし、コントロールもそれほどではなかった。今の私なら。ショウの頭をそんな言葉がよぎる。
(今の私なら、ぜったいボールは外さないし、出てきても身動きすらさせないのに……!)
枕を抱きしめてごろごろと寝返りをうち──不意にショウは身を起こす。ヒスイでは一度見たっきりとんと姿を見せなかったギャラドスだが、ここシンオウならばどうだろうか。
ショウにとっては幸いなことに、まだ見ぬギャラドスにとっては不幸なことに。ここフタバタウンはシンジ湖にずいぶんと近かった。
そんなことを考えてしまったものだから、捕まえるすべがないのも忘れてショウは
ベッドから雪崩のように転げ落ち、しかししなやかに床を蹴り。しんしんと降る雪よりなお静かに、それでいて吹きつける吹雪のごとく。
ヒスイで培った身体の動かし方を無駄に遺憾なく発揮したそれは、まるで天冠に吹くおろし風を思わせた……かもしれない。
☆
ところかわって、とはいえ大した距離もない。それどころかお隣さん──ジュンの家の前である。
ジュンはショウの幼馴染で、ヒスイに飛ばされる前などはほとんど毎日のように遊ぶ仲だった。
そのジュンが呼んでいるとのことで──ママ曰く『大急ぎ!』らしい──勝手知ったる友人の家、ショウはインターホンすら鳴らさずにドアに手をかけた。
その瞬間、内側からドアが勢いよく開く。おおかたジュンだろう、とショウはするりと体を引いた。
ヒスイに行く前のショウであれば『どんッ』とぶつかっていたかもしれないが、ここにいるのはかのアルセウスすら打倒したショウである。
体こそ小さくなったものの培った戦闘勘は未だ健在。多少すばやさの高い友人を避けるくらいわけはないのだ。
案の定、飛び出して来たのはジュンであった。そのまま走り出そうとしたジュンはすぐそばにいたショウを目に留めるなりたたらを踏み──勢いを殺しきれず、ごろごろと転がってゆく。
「なんだってんだよー!?」
これでこそ、とショウは頷く。当たり前だが変わらないジュンの姿に妙な感動すら覚え、拍手すら送りたい気分でいた。
転んだこともなんのその、ジュンはバネのように立ち上がる。洗ったばかりであろうオレンジと白のボーダーシャツは早くも砂埃とよくわからない草に塗れており、しかしそれを気にした様子もない。
「ってショウか!おい湖に行くからさ、はやく来いよな!いいか?遅れたら罰金100万円だからな!」
まくしたてるや否や、ジュンは湖へと駆け出した……かと思えば、
「忘れもの!」
と叫んで家の中へととんぼがえり。
ショウはそのジュンのせっかちさを
鬱蒼とした木々が開けると、湖があった。
シンジ湖は冷ややかささえ感じさせる澄んだ水をたたえ、差し込む日の光をゆらゆらと木々の梢に投げ返している。
白く光る水面を何かの影が跳ねる。水を飲みに集まったポケモンたちのざわめき、葉擦れ、通り抜ける風の音。深い緑にぽっかりと浮かんだ青はどこか荘厳な空気をまとい、訪れる者を神秘のベールで包み込むようだった。
そんなシンジ湖のほとりに、二人は今にも駆け出しそうな早足で踏み入った。
そのまま湖へ一直線、としたジュンの肩を叩き、ショウは目を細める。水気を含んだ黒土に大人と子どもの足跡が片道分。先客がいるらしい、とはジュンもすぐに気づいたようだった。
「博士、向こうも変わったことは何もないみたいですよ」
「うむ。そうか、気のせいかもな……どうも、昔とは何か違うようだが」
(デンボク団長と、テル?)
湖のふちに立って会話する老人と少年を見て、ショウはそう思った。
似ている。ギンガ団団長のデンボクと、先輩団員のテル。ヒスイの地で出会った、あの二人に。
「まあ、この湖が見れただけでよしとしよう……コウキ! では、戻るとするか」
「はい! それよりどうです、四年ぶりのシンオウ地方は」
「うむ、そうだな。シンオウ地方には珍しいポケモンが多い。それにアヤシシやイダイトウ……
そう言って老人と少年は、一瞬身をすくめたジュンとショウの横を通り過ぎていった。ショウはその後ろ姿を射抜くような視線で見つめ、口の中で小さくつぶやく。
「色違いデンボク……」
「あれ? ショウ! ちょっと見に行こうぜ!」
ジュンの声にショウが振り返ると、ジュンは先ほど老人が居たあたりに向かって歩き出そうとしていた。
何を、とショウは目を凝らす。見れば何かの荷物がそこに置いてあるようだった。
その正体を確かめるべく、ジュンは草むらへ足を踏み出そうとした。
草むらに入ったことは何度もある。だというのに訳も分からず心臓が跳ねる。それは自分がバネブーにでもなったのかと思うほどで、ジュンは無意識に胸の辺りを押さえた。
一方のショウはといえば、顎に手をやっていた。首を傾げ、捻り、頷く。数秒ほどの沈黙を経て、ショウは一つの結論に辿り着く。
(寄せ玉……か)
違う。大間違いである。当然寄せ玉──ポケモンを引き寄せるのに使う設置型アイテム──などではなく、あれは彼らの純然たる忘れ物。中に御三家の入ったナナカマドのカバンである。
しかしそれを寄せ玉だと確信したショウは、恐る恐るといった様子でカバンに近寄ろうとするジュンの服の裾を引いた。
「なんだってんだよ? さっきの人たち、何か忘れてったみたいだぜ?」
「そっちは危ない。近寄らない方が良い」
「なんだよ、草むらに入るなってか? ちょっとくらいならヘーキだって」
ショウの制止も虚しくジュンは忘れ物へと向かう。ヒスイに2、3年いたとてショウはシンオウ生まれ。ヒスイと違い、ここでは草むらの方が危険だと知っている。そこに寄せ玉まで置かれているとなれば、まず間違いなくポケモンが集まっていることだろう。
ヒトはポケモンに勝てない。文字通り痛いほどに知っている。だからこそ、ショウはジュンを追いかけて草むらへと入った。
「カバン、だ……届けた方が良いのかな? でもさっきの人たち──」
「ジュン、避けて」
「えっ? うわっ! なんだってんだよーッ!」
研ぎ澄まされたショウの感覚はヒスイと寸分違わずその身に迫る危険を察知した。突然のことに呆けているジュンを突き飛ばし、自身もまた転がることでポケモンの攻撃を躱す。
ショウはわずかに目を細めた。森から現れたムックルの攻撃、おそらくはたいあたり。躊躇などない本物の野性にどこか懐かしさすら覚えながら、ショウは背筋を走る感覚に身を震わせる。
(わたしはともかく、ジュンは。敵はムックルが二匹、襲ってきている。ヒスイのムックルは大人しいポケモンだったけど、寄せ玉のせい? それとも……いや、調査が足りない)
考えながらもショウは動き続ける。土を握りしめて即席の泥団子を作り、淀みのないフォームでムックルの顔めがけて投げつけた。
(命中。あまり効果はないか。でも怒らせることはできたみたい。このまま引きつけつつジュンとは逆方向……いや、ジュンは一人では逃げないだろうし、一緒に町まで逃げるのが良さそう)
もしここにいるのが私一人なら、動けなくなるまで泥団子をぶつけ続けてやるのだけど。そんな思考はおくびにも出さず、ショウはジュンに目を向ける。するとそこにはなぜかナエトルを繰り出しているジュンの姿があり──
「ショウ! こいつ、使え!」
「……!」
投げ渡されたのは赤と白の球体、モンスターボールだった。ショウにとって馴染みのないはずの滑らかな感触が、しかしショウの手に何より馴染む。
なぜジュンがそれを持っているのか、繰り出しているナエトルはどこから来たのか。そんな
目の前には敵がいる。自分の手にはポケモンがいる。ならばやることはただ一つ。そこに思考は必要ない。
透けた赤色のその奥に、ショウは翡翠のきらめきを見た。
「行こう──ポッチャマ」
「ポチャ、ポーチャ!」
怯えたように後ずさるムックルに、そうして一人と一匹が襲いかかった。
☆
結論として、ショウはナナカマドからポッチャマを譲り受けた。その上でポケモン図鑑を託され、旅すがらポケモンの調査をして欲しいとも。
これはショウにしても好都合なことだった。先ほど見たムックルのヒスイとは異なる行動。ショウは既に、ポケットサイズのメモ帳に滑りの良いボールペンを走らせていた。
ポケモンに対峙したとき図鑑を記すのは、ショウにとってもはや習性だ。それはいつでも、どこでも変わらない。それは当然、今この時もである。
「ポケモンを捕まえるには、こうして弱らせて……こう!」
ナナカマドの助手、コウキの声が二〇二番道路にこだました。変声期を迎える前の甲高い声は、やはりヒスイで出会ったころのテルに似ている。
「よし、捕まった! ……とまあ、こんな感じ。分かった?」
「問題ない。実際に見られて、よかった」
それは紛れもないショウの本心だった。これまで無数にポケモンを捕まえてきたショウだが、それはあくまでヒスイでの話。現代でのやり方なんて知らないし、分からない。
ポケモンは怖い生き物です、その言葉は今でもショウの頭の一ページ目に刻まれたままだ。
(知らないのは、分からないのは、怖い。わたしにとっても、みんなにとっても)
知らないものは避けられない。ショウは痛みで覚えている。
知らないものを人は怖がる。ショウは痛みで覚えている。
「ありがとう」
ショウが礼を言うと、コウキは照れたようにはにかんだ。その笑顔はやはりヒスイで見たテルのものとそっくりで、ショウはわずかに口角を上げた。
コウキはショウにモンスターボールをいくらか渡し、別れの言葉を言って去って行く。それを草むらから見送ったショウは、コウキがこちらを見ていないことを確認し──唐突にしゃがみこんだ。
音のしないローリング。そのままショウはカバンに手を入れ、体の力を余すことなく伝えた腕の振りから赤と白の球体を放った。狙うはビッパ、草むらに見えたその背中。
(……そういえば、煙は出ないんだっけ)
カチ、とだけ鳴る現代のボールを無感情に見つめ、ショウはそんなことを思った。
地面に落ちたボールを拾い、捕まえたばかりのビッパを繰り出す。捕まえられたことすら気づいていないビッパは、のんきな顔で自らの傍らに立つ少女に首を傾げて見せた。
ショウは薄く笑い、ビッパにボールの赤い光を浴びせた。そのボールをボールホルダーにセット、そのまま提げた鞄に右手を入れる。指の隙間にボールが四つ。
ショウは歩き出した。そのあとには、足跡さえ残らない。
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──もし、もしだ。もし……元居た世界に、帰れるとしたら。ショウは、どうする?
──わからない。
──でも。この先に、何が待っていたとしても。きっと──
セキは一面の白の中に一人の赤を認めると、その柳眉を深く歪ませた。
「……おい。戻るぞ」
「……」
平時であればコリンクのように噛みついて来る少女は、聞こえているのかいないのか、降り積もる雪をただ掻き分け続けている。
セキは白い息を吐き出すと、業を煮やしたように少女の肩に手を置いた。真冬のテンガン山にあってすら薄着で過ごしていた少女の肌は、今や雪に消えてしまいそうなほど血の気が失せている。
「おい」
「……」
「……帰るぞ。おめえまで倒れるなんて、ショウは望まねえだろ」
「うるさい! 離せ!」
濡れた水色の瞳が鋭くセキを睨んだ。少女──カイはセキの手を振り払うと、真っ赤に染まった鼻をすする。
「ショウ、ショウはっ」
カイの頬を涙が伝い、ぽろりと落ちた。がむしゃらに掘り返した地面に氷となった雫が二つ転がり、雪に埋もれて見えなくなった。
凍った時間の中で、途切れた言葉の続きをセキはただ待っていた。
「うう、うぅ……」
カイはその先をどうしても口にすることができず、小さくうめき声を漏らした。
セキはもう一度息を吐き出す。吹き付ける吹雪にまぎれ、吐いた息の色さえ分からなかった。
「いい加減にしねえか!」
突然大声を上げたセキに、カイはびくりと肩を震わせた。
「な、なんだよ、このバカ……」
「バカはおめえだ、バカ! いいか、ショウがどうなったのかなんて、今の俺たちには分かんねえんだ」
セキはカイの冷たくなった肩を掴むと、まくしたてるように言う。
テンガン山の頂上、光の階段を登った先。そこにショウが残していった雪駄を見つけたのはセキとカイの二人だった。
揃った靴が意味するところを、ヒスイに生きる二人は知らない。しかしセキとカイの胸の奥から途方もない不安が込み上げた。
もといた時代に帰った。あるいは。その想像が頭にこびりつくのは、そう不思議なことではなかった。
「シンオウさまに会って元の時代に戻ったのかもしんねえし、……帰れねえと分かって、あの高いとこから、飛んぢまったのかもしれねえ」
「セキぃっ! おまえっ、おまえっ!」
カイはセキの胸ぐらを勢いよく、しかし力なく掴んだ。かじかんで強張った手に熱はない。セキは眉をもう一度しかめ、続ける。
「だがよ、いいか。さっきも言ったが、ショウがどうなっちまったのかなんて俺たちには分かんねえ。てことはよ、今もどっかでポケモン捕まえて、いつもみたいに記録を付けてるかもしれねえわけだ」
「……そんなの、見たくないものを、見ないようにしてるだけだ」
「かもな。だから、言いたいのはそこじゃねえ」
セキは大きく息を吸い込んだ。冷え切った空気を吸い込んでなお熱い胸の奥から、声を張った。
「そんな捜し方したって時間の無駄だ。このヒスイって空間がどれだけ広いのか、おめえが誰より知ってるはずだろうが!」
カイは顔を上げ、セキの顔を見た。食いしばった口。赤い目元。カイと同じだった。セキがどれほどの想いでここにいるのか、カイには痛いほど分かる。
「コトブキムラに行くぞ。デンボクの旦那にも声かけて、人と情報を集めてもらってる。テンガン山に人をやるようにも頼んである。……シャクだが、あの行商人のことも捜してもらってる。なんせあのショウだからな。どんな環境だろうとどうせ生きてる。シンオウさまがほっとくとも思えねえしな。ショウを捜すのは、合流してからでも遅くねえ」
「……ああ」
足跡が二人分。雪に埋もれて、すぐに見えなくなった。