ノース・フォートレス。
周りを鉱山に囲まれた場所に造られた大都市は、過去、天然の要塞としても機能していた。
四方を鉱山に囲まれている環境から、鉱物が多く採掘されており、その採掘量は国内一で、大陸的に見てもトップクラスである。
他都市との連絡は谷に造られた未舗装の道が一つだけ、と交通の便はすこぶる悪いが、それを補って余りあるだけの鉱物採掘量を誇っているのだ。
「――はぁ、やっと見えてきましたね」
その鉱山都市へ向かう道を、修道服を着た少女が歩いていた。被っているフードから少しだけ覗く髪は、血を流しているのかと見紛うほど鮮やかな赤色をしており、疲れで半分閉じかけた目には、琥珀のような明るい色の瞳が収まっている。質素な修道女とは真逆の派手な見た目を持つ少女ではあるが、その楚々とした顔立ちから、それらは決して下品には見えなかった。むしろ、
「やっと到着……」
谷に造られた道に入ってから丸々半日をかけて、彼女は鉱山都市の正門へと辿りついた。
正門を抜け、まず目に入ってきたものは賑やかな広場だった。鉱山で採れた鉱石を細工した装飾品を売っている露店が、所狭し並んでいる。
広場周りから街の大通りに建つ店はほとんどが交易所だった。食材関係や服飾関係など、いろいろなものが並んでいるが、やはり一番多いのは鉱物関係の交易所だ。
さらに大通りを進んでいくと、次は宿屋や飲食店、酒場がバラけて建っていた。
ちょうど仕事上がりの時間帯なのか、割合こちらの方が広場よりも賑やかだった。酒場からは陽気な歌声が聞こえ、宿では荷馬車を曳く馬の世話をする行商も散見できる。
そのうちの宿一軒に目途をつけ、彼女は足を踏み入れた。
「宿を取りたいのですが、お部屋の空きはあるでしょうか?」
「……ふん?」
宿の主人は彼女の格好を一瞥してから、パラパラと台帳をめくり、空き部屋があるかどうかを
「ないね。他を当たりな」
「そうですか。わざわざすいませんでした」
頭を下げ、彼女は残念そうにその宿を後にした。金のことを聞かれなかったあたり、最初から泊める気などさらさらなかったのだろう。それから彼女はいくつかの宿を回ったのだが、どこもかしこも最初の宿と似たり寄ったりな反応をするだけで、彼女の話を聞く気配すらなかった。このままでは今日は野宿になってしまう、と落ち込みながらトボトボと歩いていると、トドメと言わんばかりに、くぅ、と彼女のお腹が鳴った。
「お腹も空きましたね……」
宿を決める前に食事を摂ろう。彼女はそう決め、パッと目についた飲食店に入り、カウンターに立つ主人に話しかけた。
「お水か白湯を、このお皿一杯だけもらえませんか?」
自前の木皿を差し出しながら、彼女は主人に向かって二コリとほほえんだ。主人は彼女のほほえみに一瞬でれっと鼻の下を伸ばしたが、彼女の格好を見てそれはすぐに渋い表情に変わった。水も白湯も差し出さず、主人が差し出したのは手だった。
「銅貨二枚だ。それくらい払えるだろ?」
「二枚……」
ただの水に銅貨二枚。安い飲食店なら、それだけでパンが二、三個は食べられる。が、店の主人が銅貨二枚だというのなら仕方ないだろう。彼女は少ない荷物の中から、財布を取り出した。痩せ細った袋からは、金属のこすれる音などもちろんしない。
「……一枚しかありません」
「それじゃァ水はやれないね。残念だけどな」
「なら、せめて半分……」
「やれないねえ」
「なら、私働いて返します!」
「あいにく間に合ってるよ。金がねえなら帰りな」
取りつく島もなく、彼女は店から追い出されてしまった。彼女の背中には、飲食店からの笑い声がかかってくる。この調子では、今日の宿ももう決まらないだろう。最後の手段として、この街に教会はないか、と道ですれ違った人に聞くも、誰も首を縦には振ってくれなかった。
彼女は自分がどうしてこんな扱いを受けるのか、その理由はわかっていた。自分が修道女の姿をしているからだ。商売人でなくとも、ある程度の教養を持つ人物が見れば旅の修道士や修道女は〝小奇麗な物乞い〟にしか見えないのだろう。
事実、彼女は余計な金銭を持っていないし、足りない分は働いて返済するつもりだった。口ではそう説明しても、商売人からしてみれば信用に足る言葉ではないのだろう。宿などは最たるものだ。もしかしたら、金を払わずに逃げられるかもしれない、と。
街の入り口にある広間まで戻り、少ない荷物の中から、道中もしものためにと採っておいた木の実を取り出す。その数も、たったの三個。彼女も、こんなに早く「もしも」の場合が来るとは思っていなかったのだ。
「ひもじい……」
「ああ、そりゃひどいね」
突然の声に振り返ると、女性が一人立っていた。どこかの店の従業員なのだろう、エプロンドレスを着ている。ただ、そのエプロンドレスがひどく似合っていない。お世辞にしたって「似合っている」と言うのが憚られるほど似合っていない。
それというのも、高い身長と女性的特徴の欠如とも言うべき凹凸のなさ、バッサリと切られた黒の短髪、我の強そうな、力のある眼に原因があると思われる。声を聞かなければ、優男が女装をしていると見間違えてしまいそうだった。
「あの……?」
「ああ、悪いね。アタシの名前はミラ。ミラベル・ジュール」
「ジュリエットです。……それで、何か私に御用でも?」
「ああ、いや。困ってそうだったから声をかけたんだけど……」
「だけど?」
「あー、その、何かお困りですか?」
「ふふ。ええ、今日の宿も見つからず、食べる物も見ての通りなんです」
「金は?」
「銅貨が一枚」
「そりゃ決まらんね」
「不足分は働いて返そうと思っていたのですが」
「なるほどねェ……」
安易に「自分のところに来い」と言わないあたり、ミラも自分のことを信用していないのだろう、と彼女――ジュリエットは思った。
ミラはジュリエットのことを上から下へ、下から上へ舐めるように見てから、ふっとほほえんで冗談めかして言った。
「あいつらは神様よりも金を信じてるからね」
仕方ないさ、と呆れたようにミラは言った。ジュリエットもそれを解っていたので、苦笑でしか返せない。
しばらく向かいあったまま沈黙が続く。ミラは何かを言いたそうにしているが、ジュリエットはそれに気付かないふりをし続けた。こちらから訊いても、本当のことを言ってくれるとは思わなかったからだ。そういう理由で黙っていたジュリエットも、さすがに相手がいるのにしゃべらないでいると口が寂しくなるのか、彼女は持っていた木の実を、ミラに断りを入れてから一つだけ口に運んだ。
と。
「あ、それ一つもらってもいいかな?」
「ええ、構いませんよ……?」
「ありがと」
言いたいことはそれだったのだろうか。ジュリエットが思っていたこととは違っていたことに肩すかしをくらいながらも、彼女は木の実を一つ、ミラに手渡した。「悪いね」とミラが苦笑した。
「……んじゃ、これ前金代わりね。ついておいでよ」
そう言うと、ミラは受け取った木の実を口に放り入れ、振り返って歩き始めた。なるほど、とジュリエットは納得し、彼女の後について歩いていく。ミラは決してジュリエットのことを信用していなかったわけではなく、言い出すきっかけがなかっただけなのだろう。何かしら理由をつけないと、恥ずかしかったのかもしれない。見た目に反してなかなか可愛い性格をしているな、とジュリエットは静かにほほえんだ。
ミラは
ペンションにつくと、ミラはさっそく「父さんに交渉してくる」と言って、ジュリエットを食堂に置いて、彼女の父親がいるのだろう厨房へと入って行ってしまった。
手持ち無沙汰になったジュリエットは、店内をぐるりと見渡した。明るく清潔な店内は客で溢れ、賑わいがあり雰囲気はとてもいい。客がウエイトレスやウェイターに気軽に話しかけているところを見ると、客の割り当ては宿泊客よりも食堂の常連がほとんどのようだった。
そして、案の定、一人娘であるミラが連れてきたジュリエットにも好奇の視線が送られる。ジュリエットはその視線に常にほほえみを返していたが、内心では出来るだけ早くこの状況から抜け出したいと願っていた。
そろそろほほえみ続けるのも疲れてきた、というところで、表情を険しくしたミラが戻ってきた。
「父さんが呼んで来いだって」
「わかりました」
ジュリエットはある程度こうなるだろうことは予想していた。いくら一人娘の頼みだからと言って、旅の修道女を宿泊させるうえに雇うなど、そう易々といくはずがない。だが、一人娘の頼みだからこそ、ここまで来れたとも言える。あとはどこまでジュリエット自身の誠意が伝わるかだけだった。
「つれて来たよ」
「初めまして」
「座れ」
ぶっきらぼうにそう言ったのは、恰幅(かっぷく)のいい中年男性だった。見た目は太っているように見えるが、どうやら筋肉太りをしているだけで、肥満ということではなさそうだった。
ジュリエットは勧められたイスに座り、改めてその男性と向き合った。
「ジュリエットと申します」
「……ファミリーネームは?」
「神の御名は口にできません」
「……ミラ、お前は本当にやっかいなヤツばかり連れてくるな。こいつエバ信仰者だ」
「え? なにそれ」
自分の父親の呆れ様に、ミラは思わず面食らった。面倒くさそうな動作で彼女の父親は彼女の方に向き直り、ジュリエットの方をチラリと窺ってからミラに説明を始めた。
「エバっつう女神を信仰してる奴らのことだ。神の名を自分の名に降ろすことで、より高みに在る人間を目指すとかいうモンだ。二十年くらい前に王族や貴族のお怒りを買っちまって、信仰者狩りが行われたんだ。下手すりゃ今でも処刑されるかもしれない奴らなんだよ」
「
ジュリエットの言葉に、ミラとその父親は虚を突かれたように眼を丸くして驚いていた。自らが所属する方の肩を持つものだとばかり思っていたのだろう。
「実際、信仰者の中にはそれ以外の者を見下す者がいたのも確かなのです。ですから、私は王族や貴族の方々が処刑に繰り出したのも致し方のないことではないかと思っています。どちらが悪いか、なんていうことは、誰にも言えないと思うのです」
「……ジュリエットってば懐広いなァ」
ミラは呆れるように、だけどどこか感心したようにうなずいた。
「そんなことないですよ」
「いいや、お前さんならなれるかもな。『
ミラの父親も、つられて彼女のことを称賛した。
「褒めすぎですよ。私はそこまで高尚な人物などではありません」
意外なところで褒められて座りが悪いのか、ジュリエットはそれに苦笑で返した。
「あいにくとコイツが着てるようなのはなくてな。エプロンで我慢してくれ」
「父さん、じゃあ!」
「まだだ。ちゃんと働けるかどうかを見て決める。足手まといになるくらいなら、俺は容赦なく切るぞ。本人を前にして言うのも気が引けるが、アンタはエバ信仰者でもあるんだ。できることなら厄介事は抱え込みたくないんでね」
「それで構いません。このようなチャンスを与えてくださったことに感謝します」
ジュリエットは彼からエプロンを受け取り、手際良くそれを身に纏い、ではさっそくと食堂へ向かったところを、ミラに止められた。
「待って待って! フード取らなきゃ、汚れたら大変だよ。ほら、頭巾貸してあげる」
「あ、ああ。そうですね。意気込みすぎてしまいました……」
バツが悪そうに笑ってから、ジュリエットはフードをゆっくりと脱いだ。フードに詰められていた彼女の流れ落ちていく髪を見て、ミラは背筋にゾクリと悪寒のようなものを感じた。それというのも、元から血が流れていると見間違いそうなジュリエットの髪が、まさしく血のように流れたからだ。
「すごい……」
「はい?」
「あ、いや、何でもないよ。ほら、頭巾つけてあげるね」
「あ、わざわざありがとうございます」
ミラが頭巾をつけてあげると言ったのは建前だった。初めはジュリエットに自分でつけてもらおうと思っていたのだが、おそろしく美しいジュリエットの髪を一撫でしてみたくなったのだ。頭巾を被せるために彼女の髪を梳くと、しっとりとした手触りで心地よかった。いつまでも梳いていたくなるような髪質だ。ミラはそんな欲を抑えつけ、表面上は平静を装い、ジュリエットに頭巾をさっさと被せてやった。
ズレていないか確認している最中も、ミラが考えていたのはジュリエットの髪のことだけだった。頼んだら触らせてくれたりするだろうか。思わずそれを口に出しかけて、元々しゃべっていた「似合ってるよ」という言葉が詰まりかけてしまう。
「それじゃあ、今度こそ腕の見せ所ですね」
「そういうこと。頑張ってね。解らないことがあったら、私に聞いてくれたらいいから」
「はいっ」
ジュリエットは意気揚々と食堂へ繰り出した。それとほぼ同時に、どよ、と食堂が沸く。ミラにはその理由がなんとなくわかっていた。ジュリエットのあの髪は魔性だ。フードに隠れていたときは全然なんともなかったのに、フードを脱いだ瞬間あの美しさにミラの心は囚われてしまった。
今いる客もミラと同様だろう。彼女がジュリエットをつれて来たときにはただの修道女としか思わなかったはずなのに、修道女のシンボルの一つであるフードを脱いだだけであれほどまでに『女』として強調されてしまうのだ。ざわつくのも無理はない。
「私も髪伸ばそっかな……」
「そうだなあ。あの子の一割でも女らしくなりゃァ、嫁の貰い手もあるだろうに」
「悪かったね、男みたいで」
「そこまで言っちゃいないさ」
ため息をひとつ吐いてから、遅れてミラも食堂へ戻ることにした。夕飯時はまだまだこれから。今いるのは仕事を早く切り上げた連中だけで、これから来る客も合わせると多いときには表通りにまでテーブルを出さなければならない。
願わくは、ジュリエットがどんくさい子であってほしくない。先ほどまでとは違い、ミラは切実にそう願っていた。この時間に面倒を増やされることは彼女の美貌を鑑みても許してやれる気にはなれなさそうだったからだ。
――しかし、一時間も経てばミラはそれが杞憂だったと思い至る。
テキパキと仕事をこなすジュリエットは、往年の従業員と並ぶ働きを見せ、彼女の名前を覚えて帰る常連客も少なくなかった。その思っていた以上の活躍にミラが驚いていると、厨房から彼女の父親が顔を出し、くつくつと笑った。
「こりゃスゴイな。見た目もいいとくれば、看板娘の座も危ないかもな、ミラ?」
「別に父さんの娘ってだけで、店の看板娘ってわけじゃなかったし……」
その後、ジュリエットは閉店まで変わらぬ活躍をし続けた。
物覚えはいいし、接客態度も柔らかい。何よりも、ジュリエット自身の見た目が大きい。彼女ほどの美人が汗水垂らしながら一生懸命働いている姿は、鉱夫たちの胸にくるものがあったのだろう。調子に乗った常連はいつもよりも数本多く酒瓶を空け、いい感じに酔い潰れて帰っていく者がほとんどだった。
閉店し、店の片付けも終わったというところでジュリエットはミラに呼ばれた。
「どうしましたか?」
「どうしましたかって、合格したかどうか聞きに行かなきゃでしょ」
「合格……?」
「……なんていうか、ジュリエットってズルイね」
「え?」
「雇ってもらえるかどうか、確認しなきゃでしょ?」
「あ、ああ! そうでした!」
本当に忘れていたらしいジュリエットをつれ、ミラは自分の父親に会いに厨房へ向かった。むこうもちょうど明日の仕込みも終わりこちらに向かうところだったようで、厨房に入った瞬間、ミラと彼女の父親はぶつかってしまいそうになった。
「ちょうどよかった。文句はない。この街に滞在してる間、住みこんで働いてもらう」
「おお、やったねジュリエット!」
「それと、いつまでもミラの父親じゃわかりづらいだろ。デールだ。デール・ジュール」
ミラの父親――デールはジュリエットに向かってぎこちなく笑って見せた。笑顔はあまり得意ではないのだろう。彼はミラに、ジュリエットを空き部屋に案内するように言った。
「ああ、そうだ。ジュリエット。お前、いつまでこの街にいるんだ?」
「二ヶ月ほどの予定です」
「……そうか。わかった」
「そんなの聞かなくても、いる間はずっと雇ってあげたらいいじゃん?」
「一応聞いとかないとな。こいつは旅してるんだ」
デールのその一言でミラも彼が何を言いたいのかを理解したのか、少し寂しそうに返事をしていた。ジュリエットは旅の修道女なのだ。それはつまり、彼女の言葉通りなら、二ヶ月後には別れがある。
正門前広場で出会い、ジュリエットの大まかな性格を知ってから、ミラは彼女のことを妹のように感じていた。ちゃんとした年齢はまだ聞いていないので本当に年下なのかはミラにはわからないが、少なくとも、ミラは彼女のことを年上とは考えられなかった。
何やら小難しいことを言ったと思えば、どこか少し抜けている。見た目とのギャップもそうだが、割と掴みどころのない性格をしているジュリエットにミラはとても惹かれていた。
空き部屋に着くと、ミラは冗談めかしてジュリエットに言った。
「やっぱり修道女なんてやってると、人に尽くす方法とか自然と身に着いちゃったりする?」
半日ジュリエットの働きを見ていたときから、ミラがずっと思っていたことだった。どこか浮世離れした職業である修道女があれほどの接客をしてみせたのには何かあるのではないか。ミラはそう睨んでいた。
だが、返ってきた言葉はミラにとって予想もつかないものだった。
「人に尽くす方法など、私は知りません。ただ私は、誰もが愛しいだけなのです」
「……それって、博愛とかそういうの?」
「そうかもしれません。生物、特に人間を、私は愛しているんです」
そういえば、調子に乗った酔っ払いに尻を撫でられたときも怒らずに注意するだけに留まっていたか。ミラは今日あったことを思い出し妙な納得をした。私なら殴ってた。
「ジュリエットってさ、許せないものとかなさそうだよね」
「とんでもない。私にだって、許せないものはあります」
「へえ。何?」
「私が許すことのできないものは、略奪や強奪。自らの意思で離れていくのなら仕方ありませんが、奪うこと……。私はそれを許容することができません」
「……例えば、戦争とか?」
「最もたる例です」
先ほどまで優しくほほえんでいた少女が、今は憤然としている。このジュリエットが許せないと言っている手前、それは相当なものなのだろう。明日の朝食で、イタズラ代わりにおかずの一つでも取ってやろうと思っていたミラは、その様子を見て予定を変更することにした。
ジュリエットにはもう、何かを聞けるような空気じゃないな。ミラはそう判断して、今夜は休むことにした。おやすみ、と言って部屋から出る。
まだ、二ヶ月もあるのだ。ミラはそう思ったが、それが短いのか長いのか、個人の感覚では計りかねる残り時間だな、と苦笑した。
ニ、三日も経つとジュリエット目当ての客がねずみのように増えていた。ジュール親子、特にミラは「彼女がいなくなった時の反動が怖い」と常連客に笑い話を提供するほどだ。
昼を知らせる鐘がなるなり、今日もまた地獄の亡者のような客が波のようにやってくる。客層が主に石や土ばかりを見ている鉱夫である手前、若く見目麗しいジュリエットは目の保養にもなるのだろう。
休む暇もほとんどなくペンションの従業員一同ヘロヘロになるまで働き、ようやく一日が終わる。食堂でジュリエットとミラがへばっていると、思い出したようにミラが言った。
「そういえば、ジュリエットってなんでこの街に来たの? 布教?」
「ミラはデールからの私の信仰する宗派の説明を、ちゃんと聞いていましたか?」
「……あ、そっか。ごめん」
エバ信仰者は、その信仰内容が王族や貴族の逆鱗に触れ、今でも処刑対象となりえるほどの〝嫌われた宗派〟である。その布教をするということは、すなわち自殺志願にも等しい。より高みを目指し精進するエバ信仰者が、その命を軽々しく散らせるとは考え難い。
「『神の器』たるには、より優れた人間でなければいけません。そのためには、五感すべてで世界を知る必要があったのです」
「つまり修行ってことだよね」
「それが一番近いかもしれません」
「……この街には何で来たの?」
「ここノース・フォートレスは世界上位の交易力、特に輸出のある都市です。次にどこへ向かうべきなのかを、よく吟味できると思ったのですよ」
いつもの柔らかなほほえみを浮かべながら、ジュリエットは楽しそうに言う。
ミラはそれが悪いとは思わないが、ジュリエットはエバ信仰にどっぷり浸かりきってしまっているのだ。ミラにとって妹のように可愛い少女であるジュリエットは、もちろん愛おしい。だがそれとは別に、自分の立場を理解している手前出過ぎた真似をしていないだけで、ジュリエットは自分のことを馬鹿にしているんじゃないか、という不安があった。
男そのものの見た目で、言動も乱暴。自慢といえるものもなく、何を考えて生きてきたわけでもない。ミラはどうしても比べてしまうのだ。正反対に位置する、ジュリエットという少女と自分自身を。
こうして表面上仲良く振舞っているだけで、心の中では罵倒の数々を唱えているのかもしれない。そう思うと、ミラはいつも気が気ではなくなった。
「……ミラ? どうかしましたか」
「ん。いや、なんでもないよ。ちょっとブルー入ってた」
「わかります。私もまさかここまで大変だなんて思っていませんでしたから。それをこれまで毎日ミラはこなしているんですものね。本当に素晴らしいことだと思います」
「冗談でしょ」
「心外ですね、本心ですよ。それとも、私がそんな嘘を言うと思っているんですか?」
「あ……、ごめん。その、そんなつもりじゃなかったんだ」
ジュリエットは演技ではなく、本気で怒っていた。少し自棄になって言葉を吐いていたミラは、彼女の強い感情の吐露を受け、深く反省した。このニ、三日でもうわかっていたはずだ。ジュリエットは自分を偽ってまで他人を見下すような人物ではないのだと。
「ホントごめん。私、なんか変なこと言っちゃったよね……」
ジュリエットはそれには答えず、柔らかなほほえみをミラに返すだけだった。
それでもミラは思うのだ。ジュリエットは私なんかよりもずっと遠くにいる人なんだ、と。
早いもので、ジュリエットがノース・フォートレス、延いてはジュール親子が経営するペンションに厄介になり始めてから一ヶ月半が過ぎようとしていた。しばらく前から、彼女は昼や夜の忙しさに目を回すこともなくなり、ようやく本来の目的のために街を歩き回れる余裕ができた。
ノース・フォートレス。四方を鉱山に囲まれた世界有数の鉱物採掘都市。
過去の戦争では、その都市の特徴から天然の要塞として、不落を誇っていた。この近辺地域の戦争はもう数十年前に終わっているが、「不落の天然要塞」という逸話としていまだに語り継がれている。その名残が、街を囲う二十メートルを軽く超える高さの外壁である。外壁には門が四つある。唯一の外界との連絡路に直接繋がっている南門を正門、東・西・北にもひとつずつ門があり、それらは鉱夫たちが鉱山へ向かうためにくぐるための通用門である。
正門はもちろん、各門の前には広場が設けられている。特に正門前広場は最も出入りが激しく、露店や商人たちで日中はずっと賑わい続けている。様々な種類の交易所が固まっているのもその正門前広場である。
外壁の内側に沿って、この街の商業区がある。鉱山で採れた鉱物を加工する工場や、鉱夫の集会所、正門前広場にある交易所の倉庫などもここに建てられている。それらに囲まれるようにして街の中央には行商人たちのための宿泊施設や飲食店、ノース・フォートレスに住む人々の居住区が存在する。
「……昼前でしたか」
ぼそり、と静まり返った夜の街に言葉が落ちる。ジュリエットだった。
ジュリエットは正門前広場まで来て、遠目から正門を見つめていた。門番はいない。
正門から続く連絡路は未舗装で、夜進むには危険すぎるから夜には誰も来ることはないと思ってのことだろう。門番たちの詰所には宿直がいるのだろうが、寝てしまっているか、酒を持ちこんで酔っ払っているかのどちらかだろう。ジュリエットが見た限り、詰所には灯りがあったので後者だと考えた。
ジュリエットは音を立てないようにして門の前まで近づき、早速作業を始めた。来る儀式のために、まずは檻を作らなければならない。連絡路に魔法陣を描くことも無理ではないが、未舗装の道に魔法陣を描くのは手間が過ぎると彼女は判断し、それならば、と門を閉ざすことを思いついた。
五分ほどかけて、ジュリエットは門を閉ざすための魔法陣を門の扉に直接描き入れた。
発動条件は『選定の儀』が始まり誰かが門をくぐった瞬間に設定しておけば、あとは勝手に魔法陣が働いてくれる。不落の要塞を護ってきた正門が、今度は何者をも逃さぬ檻となる。
それから、ジュリエットは二日をかけて各門にも同じ魔法陣を描き入れることに成功した。その途中で、ジュリエットは正門を除く東・西・北門それぞれに自分のものではない魔法陣を見つけた。
どれも血を数滴垂らせば数ヶ月は発動するような簡易的なものではあったのだが、その中身が問題だった。その魔法陣を踏むことが条件で、踏んだ瞬間、別の魔法陣を踏んだ者の足裏に張り付け運ばせる『引用転写』という魔法だ。ジュリエットはそれを見てすぐにわかった。今回の相手は、鉱夫たちを主な魔力として扱うつもりなのだろう。
「……だいぶ前の魔法陣ですね」
ジュリエットは『選定の儀』の数ヶ月前に現地入りすることが常となっているが、そんなギリギリに現地入りする魔法使いは彼女の他には存在しない。普通ならば場所と時間の天啓を受けた時点で行動を開始し、『選定の儀』の約五年前には現地入りするのが常となっている。なぜならば、『魔法陣を描く』という作業に、それだけの時間を要するからである。
各門に施した簡易な魔法に分類される『檻』の演算術式(まほうじん)にしても、ジュリエットはものの五分程度で片付けたが、平均的な魔法使いならば一時間近くをかけて完成させる術式なのである。
ジュリエットは、数が少ないのならば鉱山まで赴いて魔法陣を消して回ることを考えたが、この『引用転写』の魔法陣を設置していた時間を考えれば、それは畑に群がるアブラムシを一匹ずつ潰して回るようなものだと判断し、その案を頭の中から消し去った。
「それにしても、稚拙な魔法陣……」
敵性魔法使いのことも考え、自分が描いた魔法陣には上書き防止の演算も描き入れておくものなのだが、この『引用転写』の魔法陣にはそれがない。相手がジュリエットでなければこれほどうまく事は運んでいなかっただろう。
ゆえにジュリエットは、今回の相手はまだ魔法使いになって日が浅く、おそらく今回の『選定の儀』が初陣なのだとも予想をつけていた。
相手が素人で油断したという理由ではないが、ジュリエットはこの後にするはずだった街中の魔法陣設置を明日の夜まで先延ばしにすることに決めた。その日、それ以上の作業を続けるには、心の中があまりにも怒りの感情に支配されていたからだった。
翌日から、ジュリエットは『選定の儀』までの準備を急ピッチで仕上げていった。
その入念さたるや、相手が素人とは思えないほどのものだった。それほど多くはないだろうが、相手の手札全てを完膚なきまでに叩き潰すつもりでジュリエットは準備を進めていく。
『選定の儀』までの半月が経つ前には、ノース・フォートレスはジュリエットが管理する檻として、完璧な仕上がりを見せていた。
翌日に『選定の儀』を控え、ジュリエットは街に描いた魔法陣に不備はないかと調べ回り、それが終わってペンションに戻ると、ペンションの前にミラが立っていた。
「ミラ、どうしたんですか?」
「ジュリエット……、ああもう、心配したんだから」
「心配?」
「なんていうか、話したくなって部屋に行ったらいないから」
「すいません。散歩してたんですよ。こういうのは日中と日が落ちてからでは全然印象が違いますから、楽しいですよ?」
「そんなのんきな……。ジュリエットは美人なんだから気をつけなきゃ」
このままここで話すわけにもいかず、二人は一旦ジュリエットの部屋へ行くことにした。
ミラがジュリエットと話したくなったのはこれが初めてではなく、これまでにも何度かミラが部屋に来ては、どちらかが眠くなるまで話すことはあった。今回もそうなのだろう。
「もう二ヶ月経つね。どこに行くか、決めた?」
「いえ、まだですよ」
「じゃあ、もう少しここにいる?」
「そうですね。もう少し、ここにいます」
ジュリエットの言葉に、ミラはほっとした様子でうなずいた。
その態度に得心がいったジュリエットは、そっとミラに近づき、彼女を抱きしめた。
「寂しいですか?」
「ジュリエットは寂しくないの? やっぱりさ、情って移っちゃうじゃない」
「わかります。私も、あなたのことが愛おしい」
「変な意味じゃないよね?」
「変な意味とは……?」
「い、いや、なんでもないよ。でも、そっか。じゃあ、大丈夫だよね。私もジュリエットも、お互いのことが好きならさ、離れたって大丈夫だよね……?」
「離れなどしませんよ。これからもずっと一緒です」
「え? でも、ジュリエット、旅が……」
「ミラはどういったときに〝離れた〟と感じるのですか? 相手のことを感じているのなら、それはきっと離れたなんてことにはなりませんよ。ずっと、ずっと一緒です」
「ジュリエット……」
それでも、会えなくなってしまうのは悲しいのか。ミラは静かに涙をこぼした。
泣かないで、とジュリエットが言えるはずもなく、だからこそ、彼女は今まで世話になったミラに、何か特別なことをしてあげたいと思い始めていた。
それを何にするか、ミラの頭を撫でながらジュリエットは考えた。『選定の儀』が無事に終わっても、ミラが無事でいられる保障などどこにもない。敵性魔法使いの魔法陣は街の中にもチラホラと見受けられ、しかし、例によって上書き防止の演算は描き入れられてはおらず、見つけたものは全てジュリエットが上書きして発動できなくしておいたのだが、もしかしたら見落としがあったかもしれない。それ以上に、ジュリエット自身の魔法陣発動のための魔力として運用されてしまうかもしれない。
ミラには、私の戦いを最後まで見届けてほしい。
それがせめてものお礼だとジュリエットは思いついた。全てが終わってから、彼女に全てを話して、この身に受け入れてあげること。それが、ジュリエットにとっても、ミラにとっても幸せに違いない。
ジュリエットはそっとミラから離れ、自分の荷物の方へと向かった。離れるとき、ミラが寂しげにジュリエットを見たので、彼女はいつも通りほほえんでミラを安心させた。
「ミラ、これを」
「なにそれ」
ジュリエットが荷物の中から取り出したのは、くすんだ色をした種のようなものだった。
ミラはそれをジュリエットから受け取った。大きさは指の先くらいしかないのに、ずしりと重い。ミラは改めてこれは何か、とジュリエットに訊いた。
「〝剣の種〟という、人の意思を受け取り育つ金属です。強い意志ほど成長を促し、より力強い剣を育てるでしょう。――という建前のお守りです」
「へえ。これもエバ信仰者の何かなの?」
「関係性は皆無ではありませんが、それほど深く関わっているわけでもありません。なので、私からのプレゼントとして気軽に受け取ってください」
「うん。大事に育てるよ」
ジュリエットがミラに渡した〝剣の種〟は、実際にお守りというわけではもちろんない。
この種は、事実育つ。想いの強さにもよるが、最速で数秒、遅くとも二年で剣としての機能を持つに至る。宿主の想いの強さに比例して、宿主の血肉を啜りながら育つ金属である。
魔法陣を組み込んだ、特別な金属、『魔法金属』。それが〝剣の種〟。
「これを私だと思って、肌身離さず持っていてください」
「離すもんか」
涙を流しながら、ミラはぎこちなく笑って見せた。その笑顔を見て、彼女の容姿が二ヶ月前とはずいぶん違って見えることにジュリエットは気がついた。バッサリ切られて短かったミラの髪の毛はいくぶん伸び、健康的な色香を醸し出している。ある程度伸びてジュリエットもやっとわかったことなのだが、ミラの髪色は濡烏(ぬれがらす)だ。このまま伸ばして丁寧に手入れをすれば、ジュリエットの髪質に勝るとも劣らない美しさを手に入れられるだろう。そうなればきっと、我の強い目も彼女の魅力として花咲かせるに違いない。
だが同時に、それ以上に、ジュリエットは彼女の幸せを曲解していた。
否。ジュリエットにすれば、
すなわち――。
夜遅くまで起きていたので、寝坊するかとも思っていたが、そうもならなかった。
ジュリエットは自分の部屋で静かに読書をして過ごしている。これから殺し合いをしようとする人物には見えないほど、その様子は落ち着き払っていた。今朝一番、ジュリエットはデールとミラに向かって、今日旅立つと伝えてある。
この二ヶ月、いつもなら開店の準備でてんやわんやしているのだが、今日だけは違った。
ジュリエットは本来の落ち着きを取り戻しつつ、静かに開始の合図を待った。
殺し合いの合図。
より優れた人間であることを証明するための合図。
『選定の儀』開始の合図を、静かに、ページに目を落としながら待っていた。
そして、昼の鐘がそれを告げるよりも早く、その音は轟いた。
まるで万雷のような鐘の音。家の中にいても外の空気の振動がひしひしと伝わってくる。数分鳴り響き続けた鐘の音と交替するように、今度は低い地鳴りが聞こえ始めた。しばらくすると、それに悲鳴が混じり始める。外が騒がしい。バタバタと走る音が何百人分も聞こえる。軍隊ほど整然とした音ではなく、大粒の雨が安い屋根を叩くような足音だ。
やがて、足音の一つがジュリエットの部屋へ近づいてきた。その足音の主は勢いよく扉を開けると、弾んだ息を整えることもせず叫ぶようにまくしたてた。
「のんきだなぁ! 外が大変なんだ、ジュリエットも早く逃げなきゃ!!」
ジュリエットが足元に置いていた少ない荷物をゆっくりと持ち上げると、少々怒った様子のミラが無理矢理彼女の手を引いて、外まで引っ張りだした。
街の北周りに東から西、すなわち、鉱山方面にそれらはいた。要塞の名残である二十メートルを超える壁を軽く跨げてしまうほどの巨体ながら、その数が一つや二つどころではない。軽く十を超える数が、肩を揃えて並んでいる。
巨人。
それらをそう言わずして、何と言おう。
「やはりゴーレムでしたか。なるほど、素人の考えそうなことですね」
「は? 何言ってるのさ。ほら、ジュリエット逃げるよ!」
「ええ。あと、詳しい状況も説明してくださると嬉しいのですが。それから、昨日渡した種は絶対に手放さないように」
「それはもちろん。昨日のうちに巾着に入れて首にかけてるよ」
その後、ミラから説明された内容はこうだ。
頭がおかしくなるかと思うくらいの鐘の音が終わったあと、街の北側にあの巨人が次々に姿を現してきたのだという。巨人には何も動きはなかったが、その巨大さと数とに住民は混乱を極め、我先にと正門を目指して逃げて行ったのだという。
おおよそ計画通りだとジュリエットはほほえんだ。ありがとう。ミラにお礼を言ってから、二人は正門へ向かって走るスピードをあげた。
正門前広場に着くと、そこは人間で溢れかえっていた。怒号や悲鳴が空間に満ちている。門を直接見ることができない人らは「どうした!」と前を急かし、門の目の前にいる人らは「どうして?」と涙を流しながら、門を叩いている。
「ど、どうしたんだろう……。なんで門が閉まってるの?」
「閉まっているんじゃなくて、閉められているんですよ」
「へ? な、なんで……?」
「だって、開けたら逃げられちゃうからじゃないですか?」
その証拠に、ほら。ジュリエットは門へと群がる人だかりを指差した。ミラはさぁっと血の気が引いて行くのを感じ、反射的にジュリエットから離れた。
「? どうしました」
「あの巨人は、ジュリエットと何か関係あるの?」
「あるといえばありますし、ないといえばありません」
「ちゃんと答えてよ!」
「ちゃんと答えたところで、混乱を招くだけですよ。今はただあるがまま、見たままを受け入れてくれれば私も嬉しい」
「……ジュリエット?」
毅然として佇むジュリエットに、ミラは一抹の不安を覚えていた。今のジュリエットは、私が知るジュリエットとはまるで別人のように感じられる。ミラが抱いた不安はある意味で正しいのだが、ある意味では間違っている。
ミラという個人を通して見たジュリエット、という意味でなら、間違いなく彼女は別人。
だが、ジュリエットという個人を見るだけならば、それは間違いだ。
ジュリエットという魔女は始めから一人だけ。変わってなどいないし、別人などでもない。
「あ、アイツだ! あの女だ!」
騒然としていた周りが、男の声に一斉に静まり返った。全員の視線が、ジュリエットに集まっている。その中に晒されていても、彼女は依然として毅然な態度を崩さなかった。
男の声が続けた。
「お、俺は聞いたぞ! お前、エバ信仰者だってな!」
どよめきに似たざわつき。比較的若い者たちは、いまいちわかっていないのか、困惑の表情を浮かべている。対照的に、当時の様子を知る者たちは、今にもジュリエットに詰め寄ってきそうなほどの気迫をまとい、敵意の視線を向けていた。
「お前の仕業だろう……っ」なおも男の声は続いた。「あの巨人も、お前の仕業に違いない!」
「その証拠はどこにあるというのですか」
「エバ信仰者はおかしな力を使うと聞いたことがあるぞ! あれもその一つじゃないのか!?」
ジュリエットはその質問に押し黙った。しかし、焦っている様子でも、怒っている様子でもない。ただ静かに、柔らかくほほえんでいた。叫び散らしながらジュリエットを責めていた男の声も、もう何も言わない。
再び静寂が場を支配する。ピリピリと空気が張り詰めている。
「……ち、がう」
その静寂を破ったのは、ミラだった。
「違う? 何が違うっていうんだ!」
「ジュリエットは、エバ信仰者かもしれないけれど――」
ミラが言い切るよりも早く、背後に佇む巨人の一体が動いた。巨人の身体を形成する岩石の一部が、正門前広場めがけて飛来する。広場に集まる人々が叫びをあげて逃げようとするが、門は一向に開こうとしない。
絶体絶命。誰もが死を覚悟した。
が。
「『喚起』」
暴風を伴いながら、ジュリエットの右目を中心に眼前に魔法陣が展開される。
それを見た人々が驚くよりも早く、魔法陣から一振りの剣が現れた。
魔眼。〝剣の種〟と同種の魔法体系。金属ではなく、己の眼球に魔法陣を組み込むことで魔法陣を描く手間を省き、魔力さえ注げば瞬時に魔法を発動することができる。
ただし、万能というわけではもちろんはなく、魔眼を運用するための魔力は外部のモノを使用できないという制約がある。つまり、人間を直接魔力として運用できないのである。ジュリエットの場合、魔眼を発動するための魔力は、自分の髪の毛に滲み込ませた数十万人分の魔力から、その都度魔法陣に適量注ぐというかたちで運用している。
そうして喚起された剣を握り、ジュリエットは振り向きざま岩石を薙ぎ払った。
刃が岩肌に触れた瞬間衝撃は加速し、岩石を硝子細工のようにいとも容易く叩き砕いた。
「汝の願いは【
大道芸のような、流麗な剣捌き。落ちてくる岩石を次から次へと打ち砕いていく。
岩の雨が止むと同時、ジュリエットはミラの方を向き、彼女に真摯な視線をやった。ミラはその視線と表情に思わず心臓が高鳴るのを感じた。今やミラにとってジュリエットは得体の知れない何かでしかないはずなのに。一緒に仕事をして、食べて、寝て、笑ったジュリエットの面影はある。だがそれ以上に、ミラには彼女が化け物か何かにしか思えなかったはずなのに。
――ああ、なるほど。
ミラは納得したように心の中で呟いた。
だからジュリエットは、こんなに、恐ろしいまでに美人なんだ。
「私は言いました。略奪や強奪こそ、私が最も許せないものなのだと」
誰にいうでもなく、ジュリエットは呟くように言った。それとほぼ同時、正門前広場全体に描かれていた魔法陣が輝き始める。浮かび上がる魔法陣に、広場にいた全員が愕然とする。逃げるためにやってきた正門が、本当は得物を待ち構える獣の口の中だったのだと、そこにいる全ての人間が理解した。
我先にと魔法陣の外へ駆けて行こうとするも、全てが遅かった。
「『刃ノ騎士(ゴス・ブレイド)』」
広場にいた人間が、ミラと一人の男を残し、忽然と姿を消した。
叫び声も、泣き声も、何もかもが一瞬のうちに掻き消えてしまった。
数千人の血肉を啜り、輝きを増した魔法陣は幾重にも重なり、まるで塔のように上空へと伸びていく。
ジュリエットはその場に残ったミラと、一人の男――デールを見た。
「やはり、あなたでしたか」
「…………っ」
「父……、さん?」
「魔法使い自身に組み込まれた『延命』の魔法陣には、元から上書き防止の演算が描き込まれている。ゆえに敵性魔法使いの魔法陣の中にいても、その身を魔法陣に喰われることはない」
「いつから気付いていた……」
「最初から。あなた『神の器』のことを、思わず『
苦虫を噛み潰したような表情で、デールはジュリエットのことを睨んでいた。
「ちょ、ちょっと待って……? 私、何にも知らない。何? 何が起こってるの……?」
ただ、やはりミラだけは状況についてこれていなかった。ジュリエットは彼女に優しくほほえんでから簡潔に、かつ残酷に説明した。
「私とデールは、今から殺し合いをするんですよ」
「……え?」
ジュリエットは手に持っていた魔剣を、空に向かって伸び続ける魔法陣に向かって投げ入れた。重力に捕まり落ちてくるはずの剣は、しかし中空で固定される。休む暇もなく、次の瞬間には魔法陣から身体ごと舞い上げられそうな暴風が吹き出した。
「魔法とは、意思ある
「なんだと……?」
「あなたの魔法は、ただの魔法です。さしたる目的も持たずに振るう力は、暴力と何ら変わりありません。あなたの魔法は、ただの暴力。そんなくだらないことにこの街の鉱夫たちは犠牲となった。私から彼らの命を奪った。私は怒っているのですよ」
「俺に目的がないだと? ふざけるな! 俺にはコイツを、ミラを幸せにしてやることと、妻を蘇らせるという目的がある! 家族揃って、『
「……呆れて物も言えないとはこのことですか。想いの強さは認めてあげましょう。なんといっても、あなたは資格を手に入れたのだから。だけどそれだけ。
上空に固定されていた魔剣が、ドクン、と強く脈動した。
徐々に大きく、そして早くなる脈動。やがて、大きくなりすぎた脈動が魔剣を粉々に砕き散らしてしまった。それを見たデールは、ジュリエットを鼻で笑う。大きな口を叩いたくせに所詮はこんなものか、と。
「偉そうなことを言って、そらみろ、魔法が失敗したぞ!」
デールがそう叫び散らした瞬間塔のように伸びる魔法陣が一気に収縮し、幾重にも展開していた魔法陣が一つの広大な魔法陣へと再構築された。魔法陣に込められた魔力が、突風となって大地を叩く。力を抜けば風に圧し潰されてしまいそうな強烈な圧力が三人を襲う。まるで竜巻だった。
そして、苛烈な風を纏いながらそれは大地へ降り立った。
「な、あ……!?」
デールは驚きのあまり顎を外すほど大口をあけていた。
北門に佇む巨人たちよりも、一回り小さな巨人。だが、その容姿には雲泥の差があった。岩石と土塊を積み上げただけの無骨な北の巨人たちに対して、三人のすぐ傍に立つ巨人のなんと絢爛なことか。豪奢な剣を鎧に変えて身に纏ったような、鋭く尖り、力強くもスマートなシルエットは、まさしく〝刃ノ騎士〟の名に恥じることのない姿といえよう。
「我が統べるは刃。剣も槍も、意思さえも」
ジュリエットの名乗り口上も聞かず、デールは巨人たちに向かって突撃の命令を下した。
地震のような震動と轟音をたてながら外壁を蹴り破り、デールの操る巨人たちは驀進する。
デールはジュリエットの表情を窺った。たったの一体で何ができるというのか。そんな、期待のような誤魔化しのようなデールの視線と思考が、ジュリエットのほほえみひとつで完全に潰れた。彼女が浮かべていたのは、いつもの優しく柔らかなほほえみではない。
ジュリエットが初めて見せた、冷徹なほほえみだった。
「汝の名は【
その言葉と同時に『刃ノ騎士』は駆け出した。その巨躯からは想像もつかないほどの、とんでもない速度での踏み込み。衝撃波を纏いながらの右拳の一刺し。巨人を構成するための核である魔法陣ごと貫いて、一体目の巨人を瞬く間に屠ってしまった。風圧に目を閉じていた一瞬で、巨人が一体消えてしまったのである。デールは何が起こったのかを理解できないでいた。その戸惑いが他の巨人にも伝わったのか、『刃ノ騎士』を前に残った巨人が二の足を踏んだ。
余裕を見せるジュリエットと同様に、『刃ノ騎士』までもが優雅に佇む様子を見て、デールはたまらず激昂した。戸惑いを振り切るように、彼は出さなくともいい大声を張り上げ、巨人たちに命令を下す。
「くそっ、潰せ! そいつを潰せ!」
ぶっきらぼうでも、比較的温和な性格だと思っていたミラにとって、その姿はジュリエットの変わり様以上に衝撃的だった。物心つく頃から見てきた父親という像が、ミラの中で音をたてて崩れていく。
「魔法使いとは」独白するように、ジュリエットは言った。「すべからく超越者でなくてはなりません。友人、恋人、家族。そんなつまらない繋がりに捕らわれることのない、確固たる個であらねばなりません。それはすなわち、愛すること。すべての生命を愛すること。誰も恨むことなく愛すること。世界とはすなわち、私が愛するために在るべきなのです」
ミラはそれを聞き、漠然とジュリエットに対して抱いていた不安が何であったのかを直感的に理解した。略奪や強奪が許せないと口にしていたのに、広場にいた数千人の命を何のことはなく、息をするように殺してしまったジュリエット。矛盾だと思っていた言動が、今の彼女の言葉で全ての辻褄が合った。
――
そしてそれは、まったくの正解であった。
付け加えるなら、私のために生き、死ぬことこそが誰もの幸せなのだと彼女は思っている。
呆れるほど独善的な博愛者。それが、
「妻を生き返らせる? ミラを幸せにする? 狭い。狭すぎます」
すでに五体の巨人を砕いた『刃ノ騎士』は、六体目の巨人に突進した。突進の勢いのまま腕を振り切り、巨人の上半身を核ごと吹き飛ばす。『刃ノ騎士』が構え直そうとしたところに、数体の巨人から散弾のように岩石が発射され『刃ノ騎士』は防御もままならずに大量の岩石に押し潰されるように吹き飛んだ。
鉱山の山肌にもたれるようにうずくまった『刃ノ騎士』に、トドメとばかりに巨人が殺到する。――が、『刃ノ騎士』は素早く立ち上がり、殺到する巨人に真っ向から立ち向かった。一番前にいた巨人と取っ組み合い、後続の巨人に押し込まれ鉱山に徐々にめり込んでいく。デールが勝利を確信した瞬間、数体重なった巨人を二本の刃が貫いた。土煙をあげ崩れていく巨人。その煙の中から、『刃ノ騎士』が悠々と姿を現した。『刃ノ騎士』の両腕部のガントレットからは、肉厚のある無骨な剣が伸び出ていた。
ありえない。デールは慄いた。どれほど精緻で狂いのない魔法陣を描けば、あれほどのゴーレムが造り出せるのかが彼には全く理解できなかった。そしてそれは、やがて身を蝕む恐怖に変わっていく。
「デール。あなたは〝
「うるさい! 俺は、俺は……ッ!!」
「――もう、いいんですよ」
残った巨人は三体。今までの戦闘を見ていれば、これがどれほど頼りない数字なのかはデールにもわかっていた。敵であるジュリエットが、理解の範疇を超えた存在であることもわかった。だが、デールは負けを認めない。彼は、自分の願いこそが叶えられるべきなのだと信じて疑っていないのだから。
三体の巨人から、一斉に岩石が撃ち出される。『刃ノ騎士』相手に近接戦闘は不利だと考え、遠距離から封殺しにかかったのだろう。決死の悪あがきだった。
ジュリエットの心に巣食っていた怒りの情念が、表面化し始める。
山一つ分の質量にも匹敵するだろう岩石の散弾に向かって、『刃ノ騎士』は構えを取った。目を疑う暇もなく、『刃ノ騎士』が放った幾重もの剣閃によって岩石の散弾は粉々に砕け散ってしまった。刹那、追撃の意思さえ与える暇なく『刃ノ騎士』は三体の懐に踏み込んだ。
「もう、いいでしょう?」
「な、にを……」
渾身の力で振り下ろされた刃によって瞬く間に二体の巨人が斬り捨てられ、最後に残った巨人めがけ、『刃ノ騎士』はゆっくりと歩き始めた。申し訳程度に放たれる岩石の散弾も、『刃ノ騎士』の鎧に当たる頃には斬り刻まれ、ただの石つぶてになっている。勝敗は決した。
まだ負けを認めず、そのうえ見苦しく叫び散らすデールに向かってジュリエットは言う。
「これ以上の問答に意味はありますか? 私はあなたに改心してほしくていろいろと言っていたわけではありません。わかりますね? 私は、今、怒っているのですよ」
ジュリエットの右眼を中心に、もう一度魔法陣が展開され、二本目の魔剣が取り出される。
一本目の【
「汝の願いは、【
その声に連動して、『刃ノ騎士』もゆっくりと刺突の構えを取った。巨人にはもはや反撃する手段すら残されておらず、防御も回避もままならない。その攻撃を、ただ甘んじて受けるしかない。それは、ゴーレムの創造主であるデールも同様だった。
「や、やめて、ジュリエット!」
久しく口を開けていなかったミラから出た言葉は制止。だが、それで止まるような怒りならば、ジュリエットも初めから持ってなどいない。ジュリエットの視線はミラの声に戸惑うことなく、まっすぐにデールを捉えていた。
『刃ノ騎士』は巨人の核たる魔法陣を。
ジュリエットはデールの核たる『延命』の魔法陣を。
情け容赦なく、それぞれがそれぞれを、貫く。
最後の一撃が、重く鋭く、一人の魔法使いの幕を降ろす。
間近でそれを見ていたミラの口から、絞り出したように、「あ――」と声が漏れた。
巨人は崩れ落ち、デールは貫かれた魔剣にその身を啜られる。
あとに残った者は、ジュリエットと啜り泣くミラだけ。周囲に人気はない。街中を探せば数百単位で生き残りは見つかるだろうが、その生き残りももう間もなく、ジュリエットが糧として魔力へと変えてしまうだろう。
「なんで……? どうして……っ!?」
「憤りを感じますか? 大丈夫。ミラ、あなたには私がずっとついていてあげます」
「どの口がそんなこと言うんだ! 返せよ、父さんを返してよぉっ!!」
「私と一つになりましょう。それが、今のあなたの一番の幸せ。あるいは、デールとも逢えるかもしれません」
「私は――、私はもう、あんたなんかと一緒にいたくない!!」
ミラはそう言って、逃げるように正門に向かって走り出した。
空からは、ジュリエットの勝利を祝福するかのような鐘の音が優しく響き渡っている。その音に溶けるように、『刃ノ騎士』の巨躯も風にさらわれる砂上の楼閣のごとく崩れていった。
「くそっ! くそぉっ! 開け、開けよ! なんで開かないんだよぉ……!!」
ミラは泣き叫びながら正門を叩き続ける。だだをこねる子供のように、ただひたすらに門を叩く。おそらく、無意識のうちに理解してしまっているのだろう。もはや自分にできることはこうやって無様にあがくことだけなのだと。
そして、二ヶ月間一緒にいたミラのそんな姿を見てジュリエットは無性に悲しくなった。彼女は自分の元から離れていく人だったのか、と落胆する。しかしそれを、ジュリエットは止めはしない。逃げられるのならば、ジュリエットは彼女を逃がしていた。
だが皮肉なことに、門にはまだ『檻』の魔法がかけられたままだった。
「私の中で泣きなさい。悲しみなさい。憂いなさい。私はすべて受け入れましょう」
その言葉を引き金に、ノース・フォートレスの外壁に沿って描かれていた魔法陣が輝き始めた。ミラはなおも門を叩き続けている。顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、泣き叫んでいる。
「いやだよぉ! 開いて、お願い開いてよ!」
「泣き疲れたなら眠りなさい。悲しみ疲れたなら笑いなさい。憂い疲れたなら喜びなさい。そうしているうちにきっと、泣くことも悲しむことも憂うことも少なくなるでしょう。心穏やかに、さあ、私と一つになりましょう」
魔法陣の輝きに、視界がにわかに白く染まる。
やがて光がおさまり、ノース・フォートレスにはジュリエットがただ一人残った。
山から吹き下りてくる風は冷たく、火照った身体に心地よい。ジュリエットは静かに興奮を静めていた。ふと、先ほどまでミラがいた正門の前へ視線を向けると、そこに巾着が落ちているのに気がついた。
「……そういえば、巾着に入れていると言っていましたね」
ジュリエットは巾着に向かってゆっくりと歩み寄り、それを手に取った。軽く巾着を握りしめると、手の平にチクリと痛みが走る。巾着の口を開け中を覗くと、ジュリエットは思わず声をあげて驚いてしまった。
「芽が……。ふふ、もっと早くに彼女に渡していればよかったかもしれませんね」
巾着から〝剣の種〟を取り出しながら、ジュリエットはほほえんだ。
少ない荷物を整え終わると、ちょうど空から響いている鐘の音が止んだ。同時に、天啓が降りてくる。頭の中に響く声は、粛々と告げた。
―― 八年後。海路繋げる島で待つ。
荷物を持ち上げ、ジュリエットは正門からノース・フォートレスを見渡した。
目につく建築物はほとんどが崩れ、人間ももういない。ノース・フォートレスほどの交易都市ならば、早ければ数時間後にはこの惨状を目の当たりにする者がいるだろう。
十中八九、ジュリエットが連絡路を戻って行く最中にも彼女は誰かとすれ違うだろう。
だが、そんなことを気にするジュリエットではない。すれ違えばほほえんで会釈するし、話しかけられれば嫌な顔をせずに対応する。そうして、何も疑わずに街への通路を進んでいった者たちは皆、この光景に愕然とするのだろう。
虫さえいない、崩れ落ちた静かな街に絶望を見るかもしれない。
「そろそろ出発しましょうか。さて、今度はどんな街なんでしょう……」
楽しみですね、と呟きながら、ジュリエットは歩き出す。門にかけていた魔法を解き、そこをくぐると街に来たときに見たままの、未舗装の道が谷に沿って延々と続いていた。
いつ終わるとも知れない『選定の儀』を続けながら、ジュリエットは旅をする。
今度はどんな人に逢えるのだろうと、淡い期待を抱きながら。