Witch Craft   作:草之敬

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若燕と鉄道都市

 

 朝は汽笛の音が目覚まし代わりに鳴り響く。

 寝ている最中に乱れた赤の長髪は、軽く梳いただけで頭から血が流れているのかと見紛うほどの鮮やかさを取り戻した。前髪をヘアバンドであげ、顔を洗う。彼女が顔をあげると、鏡には白い肌に馴染んだ、琥珀のような明るい色をした瞳が映った。修道女として振舞っているにしては派手な見た目が目を惹くが、彼女の清楚な顔立ちからそれらは決して下品には見えず、むしろ()()()()()()()()()()()と思うほどに似合っていた。顔を拭き終えてから、髪留めに使っていたヘアバンドをそのまま首の後ろまで回し、そこで長い髪をひとまとめにする。

 ソファの上で寝ている青年を素通りして、自分に譲られた部屋に入り着替えを始める。修道服だと仕事がしにくいだろう、という理由で渡された制服代わりの作業着(ブルゾン)を着て、ジーンズをはく。仕事柄ラフで動きやすい格好が好まれているが、あまりに飾り気のない服装だった。もちろん、元々修道女である彼女にしてみればこれでもだいぶ着飾っている方であり、実際、彼女が着るとどこか垢抜けて見えてくる。

 簡単な朝食と昼の弁当を作ってから、ソファの上で寝ている青年を起こしにかかった。

 

「朝ですよ、カイル」

「ん……ぁあ。おはよう、ジュリエット」

 

 若干青みがかった癖の強い黒髪に、深い緑の瞳が覗く。カイルと呼ばれた少年は身体を起こし、軽く伸びをしてから食卓についた。ジュリエットはその対面に腰を下ろし、軽く祈りを捧げてから食事に手をつけ始めた。

 

「ごちそうさま!」

「いつものことながら、早いですね」

「ジュリエットが来るまで、出社ギリギリに起きてたからさ。急いで食べるのに慣れたっていうか、急いで食べなきゃならない癖みたいなのがついたんだよ」

「なんだか損してるみたいで私はあまり好きじゃありません」

「時は金なりって言うじゃん。ささ、ジュリエットも早く食べないと遅刻するぞ」

「せっかくご飯作ってあげてるのに、そんな言い草ないと思います」

 

 ジュリエットが食べ終わるのを見計らったようなタイミングで、カイルは身支度を整えてリビングに顔を出した。後片付けを二人でしてから家の戸締りを確認し、家を出た。

 ステイト・ステイション。

 都市としての機能を持つ、巨大な駅。蒸気機関車の線路が何百と並び、一日に出入りする機関車の数は万を超えている。出入りする機関車は、もちろん客車を牽引する機関車も見かけるが、ほとんどの場合貨車を多く目にする。

 大陸中央に造られた駅であり街であるステイト・ステイションは運搬の要所としても機能しており、大陸中から貨物が運び込まれ、同様に大陸中に向けて貨物を送り出す。

 

「おはようございます」

「おはようございまーす」

 

 ジュリエットとカイルが勤めている運搬会社『スワロウ』は、ステイト・ステイション内の貨物運搬を担う会社である。東から来た貨物を西に向かう機関車に積み込む、などが主な業務内容になっている。

 というものの、ジュリエットはもちろんカイルも入社してまだ半月ほどしか経っておらず、主要な貨物運搬業務は任されていない。事務仕事だったり、簡単な宅配をするだけの日々が続いている。

 二人が出社すると、機嫌の悪い従業員に出迎えられた。彼は簡単にジュリエットとカイルの今日の仕事を説明すると、さっさと自分の仕事に戻って行ってしまった。今日はステイト・ステイションの住人への宅配が主な仕事だという。荷物は倉庫にあるので、運搬車に運び入れて全て今日中に運び終わるように、とのことだった。

 倉庫へ入ると、その一角に高く積み上げられた荷物が目に入った。

 ご丁寧に『ジュリエット&カイル』と書かれた張り紙がされており、配達先を書いたメモもその張り紙に留められてあった。

 ジュリエットとカイルは顔を合わせ、まずは荷物を運搬車に運び込むことから始めた。半時間ほどかけて荷物を積み込むと、カイルが運搬車の火室に石炭を供給し始めた。大陸間を移動するような大型の蒸気機関車とは別に、ステイト・ステイションには運搬車と呼ばれる小型の蒸気機関車を見ることができる。都市内の運搬事業に特化した小型汽車であり、ステイト・ステイションの住宅区画で一般的に見られる汽車は大半がこの運搬車になる。

 ボイラーの蒸気溜まりに充分な量の蒸気が満ち、ジュリエットとカイル、荷物を積んだ運搬車は走り始める。『スワロウ』の車庫を出発し、ステイト・ステイションの環状線路に乗り替えると、カイルは運搬車を一気に加速させる。

 二人が乗る運搬車の横を、それ以上のスピードで客車を牽引する汽車が通っていく。窓から手を振る乗客に向かって手を振り返し、運搬車の汽笛をさよならの代わりにする。

 

「さて、今日もお仕事がんばりますか!」

 

 カイルは笑顔を浮かべながら、楽しそうにそう言った。

 

 

 午前中で半分ほどを配達し終え、運搬車をゆっくりと走らせながらの昼食となった。

 それほど味にも見た目にも凝った弁当ではなかったのだが、カイルは毎度のことながら嬉しそうにサンドウィッチを頬張っていた。家で摂る朝食や夕食ではそれほど喜んで食べるといったこともないのだが、彼は主に外で食べる昼食のときだけやたらとジュリエットの料理を称賛したり、大げさにお礼を言ったりするのだ。まるで『ジュリエットは俺の女だ』と主張するかのように。

 当のジュリエットはそんなことを気にする風でもなく、「ありがとうございます」といつもの調子で返すだけだった。それが逆に、対外的に二人の仲を疑われる原因になっているのだが、本人がそれに気付くことはない。

 

「ごっそさん。今日も美味しかった」

「ありがとうございます。じゃあ、お昼のお仕事ですね」

「おう。速度あげるから、落ちるなよ」

 

 カイルはそう言って、火室にシャベルですくった石炭を放り入れた。

 残った配達物を午後いっぱい使って配り終え、二人は帰路についた。ステイト・ステイションは暖かな茜色に包まれ始め、吹き抜ける風もどこか柔らかく感じられる。

 流れる汗を風にさらし一日働いて火照った身体を冷ますのは、カイルのお気に入りの時間だった。まだ半月しか一緒に仕事していないのだが、ジュリエットという女性といることも含めてカイルはこの時間に幸せを感じていた。

 

「ジュリエットは、修道女なんだろ」

「そうですね」

 

 色の無い返事が返ってくる。ジュリエットも疲れているからだろう、とカイルは納得して、だが、話しかけることはやめなかった。

 

「旅する必要がある宗派なんて、聞いたことないんだけど……」

「私もないです」

「はぁ? じゃあ、なんでジュリエットは……」

「私がそうしたいからですよ。じゃあ、カイルはなんでこの仕事をしてるんですか?」

「そりゃ、運搬車が好きだったから。子供の頃から一日も欠かさず見続けて、憧れて、そんだけだよ。理由なんて大層なもん、持っちゃいないよ」

「同じです。私は人が好き。一日も欠かすことなく人を見続けていたい。愛し続けていたい。それだけ。理由なんて言葉だけじゃ、うまく言い表せませんから」

 

 話題をすり替えられた気がしないでもなかったが、カイルにはそれがとても嬉しく感じられていた。話題をすり替えられたのだとしても、根本では自分とジュリエットが似通ったものを持っているということを知ることができた。そうして彼はまた、ジュリエットに強烈に惹かれるのだ。

 まだ直接口に出すことに勇気は持てないが、いつかはきっとと、カイルは思っている。だが同時に、いつか(・・・)などと悠長なことを言っている時間がない、ということもわかっている。

 

「宗派はなんてところ?」

 

 不安を誤魔化そうと、カイルは話題を戻した。ちゃんとした理由は話してくれないかもしれないが、宗派くらいなら教えてくれるだろう、という彼の安易な考えから出た質問だった。

 

「あまり口に出したくはないのですが、エバ信仰と言います」

「エバ信仰……。聞いたことないな。メジャーなとこ?」

「宗派にメジャーもマイナーもない気がしますが……」

「あはは。……でも、本当に聞いたことないな」

「まあ、無理もないですよ。おおよそ百二十年近く前に淘汰された宗派ですから」

「百二十年!? なんでそんな昔の宗派を……」

「私の家系は、代々エバ信仰を続けてきましたから。百年前当時も、身を潜めて事なきを得たそうです。それからはほっそりと世の裏で生き続けてきましたが、それでは信仰内容に沿わないし、いけないと思ったんです」

「なるほどな。それでジュリエットは旅してるってことか」

「建前としては、そうなります」

「じゃあ、さ。なんつーか、その……」

 

 言い淀むカイルに、ジュリエットは優しくほほえんだ。彼女にしてみれば「遠慮なく言ってください」というサインなのだが、カイルにとっては緊張の原因にしかならない。完全に口を閉ざしてしまったカイルは、緊張を誤魔化すために鳴らす必要もない汽笛を一度鳴らした。

 

「もっと、言えるようになってから言うよ」

「そうですか?」

 

 一度閉じてしまった口からは、そうそううまく言葉がでてくるはずもない。カイルはため息をひとつ吐いてから、石炭を火室に放り入れた。

 

 

 翌日。ジュリエットとカイルは、いつも通り、ここ半月代わり映えのない仕事を淡々とこなしていた。仕事の約半分を配達し終えて少し遅めの昼食を摂っていると、カイルが思い出したように声色を明るくしながら「ジュリエットの旅の話が聞きたい」と彼女に言った。

 

「それほど面白い話もないですよ」

「それでもいいからさ。俺、生まれてからあんまりこの街から出てないから知りたいんだよ」

「そうですか? じゃあ、あんまり面白くないかもしれませんけど……」

 

 そう言って、ジュリエットはこれまで回ってきた主要な都市のことをぽつぽつ話し始めた。もちろん全てとはいかないが、彼女の思い出に残る街を語るだけで相当の数があった。

 世界中の傭兵が集い、己の腕を競い合う闘技都市。大きな盆地に作られた、天然の要塞たる鉱山都市。昼も夜もなく、一日中金貨で光り輝く遊戯都市。見上げるほどの絶壁が続く場所につくられた、峡谷都市。

 そして――。

 

「あれは素晴らしい出会いでした」

 

 ジュリエットが最後に話したのは、大河に面する芸術都市の話だった。カイルは、それを話すジュリエットの顔が今まで見たことのないものに変わったのを見逃さなかった。少しばかり胸が痛んだが、気を取り直して彼はジュリエットに話を続けるよう促す。

 

「カイルは知っていますか。《神の抑止力(てんし)》という存在を」

「て、天使様に会ったことがあんのかよジュリエット!?」

「ええ。とても素敵な人でした」

 

神の抑止力(てんし)》。

 魔法使いではない人間の間では、もっぱら神の天啓を受けた天の使いとしての側面が強いが、ジュリエット達魔法使いにしてみれば天敵といえる存在に相当する。

 五十余年ほど前に、この世界に『選定の儀』の存在を知らしめた者であり、それに参加する魔法使いという人種を〝人類の敵〟と定義付けた者でもある。世界各地で『選定の儀』を受ける魔法使いを何十人と葬った、いわば救世主のような存在。

 ジュリエットはその天敵との出会いを、素敵なものだったという。

 それもそのはずで、ジュリエットにとって魔法使いという存在は〝自分の物を奪う者〟であり、受け入れ難い嫌悪の対象なのだ。その魔法使いを《神の抑止力(てんし)》は斃して回っていたのだから、彼女にとって《神の抑止力(てんし)》は〝自分の物を護る者〟という位置づけになるのである。

 ゆえに、魔法使いである自身の事情を入れて考えてもジュリエットにとって《神の抑止力(てんし)》とは、深く愛するに足る存在になっているのだ。

 

「天使様か……」

 

 ジュリエットが話している間、彼女の様子を見ていたカイルは複雑な気持ちを抱え始めていた。彼女の様子からするに、特に恋愛対象として見ているわけではなさそうだったが、相手が悪い。

 天使との出会い以上に、俺はジュリエットに素敵な出会いだったと言ってもらえるような男なのだろうか。まず始めにそんなことをカイルは考えた。それを考えたとき、彼はすでに自分の思考が「良い思い出」方向に向かっていることに気付き焦りを覚えた。そうじゃないだろう、とカイルは心の中で自分を叱責する。

 

「ちょっと長くなりましたね。そろそろお仕事に戻りましょうか」

「あ、ああ。そうだな」

 

 落ち込みかけていた気持ちが、ジュリエットのほほえみ一つで帳消しにされる。自分はどうしようもなくジュリエットに惑わされている。そう自覚しながらも、カイルは想いを止められない。

 綺麗に晴れた青空が、今だけはカイルの心をいわれもなく不安にさせていた。

 

 

 

 

 

 それから一週間が経ったその日、ジュリエットとカイルはいままでよりも二時間ほど早い時間に『スワロウ』へ出勤していた。二人が到着すると、挨拶を交わす暇もなく仕事に駆り出される。現場へ向かう途中、先輩から仕事内容の説明を受けた。

 

「わかったか? 一時間だ。荷物を積んで、東歩廊(プラットフォーム)から、南歩廊(プラットフォーム)へ積荷を運ぶ。運んだ先で南行きの貨車に荷物を積む。それを一時間で片付けろ。ボサボサしてる暇はねえぞ。三十分後には東に戻って、今度は西に運ぶ荷物が待ってる。詳細はそのときに話す。それが終わったら、午後からはいつも通りの宅配に戻ればいい」

 

『スワロウ』が有する運搬車が数台ならび、線路の上を忙しなく駆け抜けていく。ジュリエットとカイルにとっての初めての貨物運搬業務ということで今回二人の運搬車には先輩の一人が補助として乗りこんでいた。

 まだ日も昇らない街中を運搬車で走ること自体カイルにとっても初めての経験らしく、先輩の説明もおざなりに聞き流している様子だった。実際、ジュリエットも初めての仕事内容以上に、東の空が白み始めた朝の空気に興奮を覚えていた。

 だが、その朝の空気に酔いしれていられるのも東歩廊へと到着するまでの短い時間だけだった。補助の先輩がいなければ、荷物を積むだけで半分以上時間を食われていたかもしれないというほどの量の積荷を積み込み、その後は大急ぎで運搬車を南歩廊へと飛ばす。いつも以上の積荷の重さに、カイルは先輩に怒鳴られながら速度調整に苦戦していた。

 南歩廊へ到着するとすぐさま積荷を降ろす作業に移った。貨車の作業員にそっちじゃない、あっちじゃないと怒鳴られつつ、なんとか一時間以内に作業を終えることができた。今までの宅配以上の重労働と、予想以上の精神的疲労が重なり、このたった一時間でジュリエットとカイルは一日分働いたような気になりそうだった。

 少し休憩と運搬車に腰を降ろした瞬間、補助の先輩が運搬車に乗り込み、二人を急かし始めた。ちょっとだけ休ませてください、とカイルが弱音を吐くと、朝言ったことをもう忘れたのか、と怒鳴りつけられていた。

 ジュリエットとカイルを含む『スワロウ』が東歩廊へととんぼ返りすると、また休む暇もなく荷物を積み込む作業が始まった。それが終わったとき、ジュリエットはともかく運搬車の操作もしていたカイルはすでに虫の息であり、西歩廊へ向かうための運転は先輩に任せるかたちになってしまっていた。

 カイルは、昨日から「ようやく信頼を得て仕事を任せてもらえるようになった」とはしゃいでいたのだが、それがどれほど気の抜けた考えだったのかを痛感していた。泣けることなら泣いてしまいたいほど自分を情けなく思っていたが、これ以上ジュリエットの前で情けない姿をさらすわけにもいかないとも思っていた。

 それをジュリエットが知るはずもなく、彼女は座り込んでいるカイルをそっと励まし続けていた。その気遣いは今のカイルにとってひどく辛いモノではあったのだが、なんとか八つ当たりだけはしないように、と感情を抑えつけていた。

 西歩廊へ到着し、積荷を貨車へ移す作業が始まった。その頃にはカイルも体力が回復し、誰よりも張り切って積荷を運んでいく。作業が全て終わると、ジュリエットとカイルはいつも通り宅配の業務に戻るよう言われた。

 

「……情けない」

「え?」

「やっと信用もらって、ちゃんと金も稼げるようになったと思ったのに……」

「そんなにお金を稼ぎたいんですか?」

「ま、まあ、あって困るようなもんじゃないし」

 

 ジュリエットの質問に、しどろもどろになりつつカイルは答えた。だが、そうやって答えた答えに、ジュリエットは同意を示した。

 

「そうですね。あって困るものじゃないですから」

「へえ?」

「な、なんですか」

「いや、なんていうか、修道女って金にも禁欲的かと思ってたから」

「そういう人もいますけどね」

 

 私は違います、とジュリエットは言う。

 いわく、修道女とかそういうものとは関係なく旅をしているので、常に金欠なだけだとか。自然と禁欲的な生活を送らざるをえないだけなのだという。そのために宿屋ではだいたいうっとうしがられるし、食べ物を買うだけで苦労することだってあるという。今回の街では運よくカイルという青年に会えたことで仕事場も宿泊する場所も労せず見つけることができた、ということだ。

 

「そりゃあ私だって余裕があるなら寄付ぐらいしたいですけど、あいにく長くても半年くらいしか街に滞在しないので、そこまでの余裕ができないんですよ」

「なるほどね。まあ、それならそれでいいんじゃないか?」

 

 どれだけ気が沈もうと、カイルにとっての即効薬はジュリエットだった。落ち込んでいた気持ちが、このやり取りだけで彼の中からスッキリなくなっていた。こんなことなら抑えずにぶつけてしまえばよかった、とカイルの顔には苦笑いが浮かぶ。

 昼休みを挟み、二人は宅配業務を再開した。午前中の忙しさを経験したからだろうか、いつもよりも楽に思えてしまった。なるほど新人に任せる仕事なだけはある、と帰り道にジュリエットとカイルは笑い合った。

 帰路の途中、(エール)とつまみを買い込み、家に帰ってからそれらをテーブルの上に並べた。

 新人に毛の生えた程度の半人前ではあるが、それでも仕事内容の変化は喜ぶべきことだ。昨日は妙に浮かれていたせいで祝い損ねたが、今日こそは祝おうということで酒盛りの用意をしたのだ。

 カイルはもちろん、ジュリエットに酒は個人的にも宗派的にも飲めるかどうかはすでに聞いている。それに対するジュリエットの返答は、個人的にも飲めるし、そういうのを規制するような宗派でもない、とのことだった。

 グラスにエールを注ぐと、独特のフルーティーなかおりが部屋に充満する。

 二人ともがグラスを手にとって、杯を交わす。

 

「それじゃ、乾杯!」

「かんぱい!」

 

 それからは、肴をつまみつつエールの瓶を何本と空けていった。

 他愛のない会話。ジュリエットのこれまでだとか、カイルのこれからだとか、二人はどうするだとか。そんな難しい会話は交わされない。あそこの誰それは面白い、あの店の料理はまずい、明日も仕事が大変そうだ。――本当に、他愛のない会話。

 

「ん……、おいしいですね」

 

 ジュリエットは先ほどからエールを飲んだ後、必ず唇に指を這わせていた。口の中に入ったエールの美味しさを封じているように、すっと指を這わせる。つややかで、柔らかそうな唇が指に押しつぶされてかたちを変える。ほんのりと朱色に染まった肌がより性的魅力を高めているようにも見えて、正面から彼女を見据えているカイルにとってはある意味拷問のようなものだった。

 カイルにはジュリエットの笑顔がいつもより気持ち崩れているようにも思えた。いつもの柔らかなほほえみよりも、ずっと隙だらけのように見えていた。見た目にはよくわからないが、やはりジュリエットも酔っているのだろう。カイルの中で渦巻く情欲が、とんでもなく大きく膨れ上がっていく。

 カイルは食欲を満たすことでそれをごまかし、空いたグラスにエールを注ぎ直そうとしたところで、ジュリエットがソファに丸まって眠っていることに気付いた。

 瞬間、カイルの全身が硬直した。

 酔っている風には見えなかったジュリエットだが、仕事の疲れのせいでカイルが思っていた以上に酔いが回っていたのだろう。すうすうと可愛らしい寝息をたてながら、あまりに無防備な姿でソファの上に転がっていた。

 

「これは……、それにしても油断しすぎだろ」

 

 帰ってきてから着替えもせずに飲み始めたから、ジュリエットは作業着のまま寝ていたのだが、それでもハッキリと身体のラインが浮いて見える。すらっと伸びた長い脚、あまり強い主張はせずとも美しい曲線を描くくびれ、全体のバランスを決して崩さない適度な大きさの胸。肌は火照ってうっすら赤い。寝息をもらす唇はアルコールに濡れてかすかに光っている。長めのまつげ。そして彼女の象徴ともいえる、流れ出る血のような髪。毛髪一本一本に血が通っていると言われても、それを素直に嘘だと言い切れないほどに鮮血の色に似ている。

 

「…………」

 

 ふとカイルが思い出したのは、先輩たちからの茶々入れだった。

 ジュリエットとはどうなってるんだ、とカイルはよく先輩たちから言われる。上手くいってるのか、と不要な心配までされる始末だった。彼女とはそういうのじゃないですよ、と弁解するたび、誰か一人は俺が落とすと意気込み始める。

 冗談で口にできても実際に誰も行動に移そうとしないところをみるに、ジュリエットはやはり誰にとっても高嶺の花なのだろう。それはカイルも少なからず感じていることだった。だから、というわけでもないが、男女がルームシェアリングをしているというのに、今の今までそれらしいことは一切起きていなかった。

 だが、今日は違う。カイルもジュリエットも酒が入っている。それ以上に、あと一ヶ月とちょっとしかジュリエットと一緒にいることができない、という思いがカイルを焦らせていた。たった一ヶ月。それだけの時間で彼女に心変わりを起こさせることはできるのだろうか。カイルは自問自答を始めた。

 まだまだ誰かを養えるだけの儲けはない。外見も中の上には入るだろうが、そこまで人目を惹くとは思えない。ジュリエットという比較対象がいると、カイルはなおさらそう思わずにはいられなかった。

 ここにずっと、一緒にいてくれ。

 俺もその旅に、一緒に連れて行ってくれ。

 どちらにしろ、望み薄なのは間違いない。強い使命感を持って、ジュリエットは旅をしている。それをやめさせるだけの魅力を自分は持っているのか? それについていくだけの覚悟を自分は持っているのか? ――カイルはその答えをちゃんと知っている。むしろ、だからこそカイルはジュリエットと一緒にいたいし、一緒に旅をしてみたいと切に願っているのだ。

 好きだから。

 

「……好きなんだ」

 

 まだエールが残っているグラスをテーブルに置き、カイルはジュリエットが眠るソファへゆっくりと近づいた。より近くで見るジュリエットは、カイルの中の情欲を抑えきれなくするのに充分な魅力があった。

 ジュリエットにゆっくりと覆いかぶさり、彼女の唇へカイルは自分の唇を近づけていく。ほんのりアルコールの香る寝息が、カイルの唇にかかった瞬間だった。

 

「――、え」

 

 カイルの喉ぼとけに、冷たいものがあてがわれた。混乱するカイルを、ジュリエットはその明るい琥珀色の瞳で見上げていた。

 

「ジュリ、エット……」

「何をしているんですか」

「ご、ごめん!」

 

 動けば危ないと頭で理解していても、カイルは即座に身を引いてしまっていた。離れて初めて、カイルは自分の喉にあてがわれていた物体の全貌を見た。大きさはそれほどでもなかったが、見ただけでズシリと重いのがよくわかる造りの短剣だった。

 

「こちらこそ、すいません。思わずこんな物騒な……」

「なんでジュリエットが謝るんだよ。お前は悪くなんかない」

「……ありがとうございます。それでも、すいません。起こしてくれようと、してたんですよね? こんなところでお酒を飲んで寝ちゃったら風邪ひきますもんね」

「え? あ、いや……違う」

「え?」

 

 しまった、とカイルは口を手で隠した。話を合わせておけば万事解決していたはずなのに、カイルの中の「それでは悔しい」と思う心が邪魔をした。それでも、思わず否定を口にしたことを今さらながらカイルは後悔した。

 

「え、と。違うんですか?」

 

 恐るおそるといった様子で、上目遣いにジュリエットが尋ねる。

 

「いや、その、違うような、違わない、ような……」

「どっちなんですか?」

「……あー」しばし逡巡したあと、カイルは言った。「……違う。結果的にはそりゃ起こしちゃうだろうけど、起こすこと自体は目的じゃなかった。ごめん。なんていうか、その、いやらしいこと、しようとしてた」

 

 その言葉の意味をうまく理解できなかったのか、ジュリエットは目を丸くしていた。カイルもそれ以上詳しい説明をする気にはなれず、彼女の理解が追いつくのをじっと待った。やがてジュリエットは合点がいったように、表情を明るくさせた。

 

「でも、どうして?」

 

 そこにカイルを責めるようなニュアンスはなかった。ただ純粋に、ジュリエットはそう思ったのだ。カイルにとってこれを説明してしまうことは告白も同然だったのだが、もうすでにその覚悟は済んでいたのだろう。彼はその言葉をアッサリと口にした。

 

「好きだから。ジュリエットのこと、本当に好きなんだ」

「……そう、ですか」

「いくら好きだって言っても、やっていいことと悪いことはあるよな。ごめん、反省してる」

「好きというだけなら、今までも何度もこういうチャンスはあったと思います。他になにか理由があるんじゃないんですか?」

「それは……。あるけど、情けなくて言えやしない」

 

 ジュリエットはカイルのことをじっと見つめた。理由を話してくれるまで視線は逸らさないと彼女の目が語っている。しばらくはカイルも黙りこんでいたが、やがて根負けして、口を開いた。

 

「ずっと、一緒にいたいって思ったんだ。でも、もうあと一ヶ月ぐらいでジュリエットはいなくなる。俺にはお前を惹きとめるだけの魅力もないし、旅についていていけるような覚悟だってない。たったの一ヶ月で、それが揃うなんて思わない。じゃあもう、既成事実っていうかそういう関係になれば、望みはあるんじゃないかって思ったんだ」

 

 カイルは言い切ってから、おずおずとジュリエットの表情を窺った。複雑な顔をしていた。ほほえんでいられるよりはよっぽどマシか、とカイルは彼女の表情の解釈に落としどころを見つける。この表情こそが、ジュリエットの答えなのだ。

 謝罪も、感謝も、そのどちらともを我慢している表情。それがジュリエットのカイルに対する答えなのだ。ごめんなさい、と謝るほど傷つけたわけでもなく、ありがとうございます、とお礼を言うほど心に届いていない。

 最初からジュリエットには、そのつもりは微塵もなかったということだ。一緒に住み始めてからもそれは一切変わらず、カイルなど初めから相手にされていなかったのだ。

 ジュリエットの生活態度を見ていたのならば、それはすぐに気付くべきことだった。誰にでも愛を振りまく彼女の姿は、暗に誰か一人だけを愛することはないとハッキリ訴えているようなものだった。

 ジュリエットは「人が好きだ」と言っていた。それは人間という枠の中で見る好きなどではなく、一歩踏み外した場所から見た好きだったのだとカイルは今になって思う。全ての人を俯瞰して言う、愛だったのだと。

『彼女を惹きとめるだけの魅力』『旅についていくための覚悟』。そのふたつに加え、そしてそれ以上の重さでのしかかってきた新たな問題。

 もし彼女の愛を一身に受け止めることになったとして、その重さに耐えきれるのか。

 今まで全ての人に向けられていた愛を、この身ひとつで受け止めきれるのか。

 平等に降り注いでいた光のような愛を、この身ひとつで受け止めきれるのか。

 到底無理な話だった。

 

「悲しみ疲れたなら、笑うといいです。笑いつかれたなら、たくさん泣くといい。泣き疲れたなら眠ればいいし、寝疲れたなら起きて笑いましょう。あなたには、感情を表現できる立派な心があります。私はカイルのこと、嫌いじゃないんですよ」

「でも好きでもないんだろ! やめてくれ、同情なんて」

「カイル……」

「……寝る」

「……おやすみなさい」

 

 カイルはそう言うなり、肩をいからせながら自分の部屋へ行ってしまった。

 残ったジュリエットはソファに寝転び、カイルのことをぼんやりと考えながら、またいつの間にか眠りに落ちていた。

 ついて行きたい。一緒にいたい。

 連れて行けない。一緒にはいられない。

 答えは最初から出ていた。それでもジュリエットが迷ってしまうのは、カイルのことをちゃんと好きと思っているからだった。カイルにとって惜しいのは、ジュリエットのその感情は彼が抱いている感情とはまったくの別物だということだろう。

 普通の人間から見れば、それはジュリエットの欠陥とも取れるものだった。

 ジュリエットは誰か一人を愛することはできない。なぜならば、誰もが彼女のために生きていると信じているから。誰もが自分のために生きてくれているのなら、私も誰ものために生きるべきなのだ、とジュリエットは考えている。ゆえに、『愛』という感情を誰か一人に向けることは、彼女のために生きる人々を裏切る行為に他ならないと思っているのだ。

 カイルも、私から離れて行くのだろうか。

 ジュリエットの一抹の不安は、夢の中に静かに消えていった。

 翌日は、昨日と同じスケジュールで進んだ。場所に違いはあれど忙しさに違いなどなく、ジュリエットとカイルの二人は話す暇すらないほど昼までの時間を働き詰めた。

 ようやく落ち着いたと思っても、カイルからはジュリエットを避けているような雰囲気が彼女にはひしひしと伝わっていた。その空気の中無理に話しかけてもうまくいくはずがない、とジュリエットも黙ってしまったものだから、結局仕事が終わるまで二人が会話をすることはなかった。

 とはいえ、仕事が終わってさっそく話したというわけではなく帰宅するまでずっと黙ったきりだった。カイルにとってもジュリエットにとっても、一緒に生活し始めてからはじめてのことであり、どう解決すればいいのかがわからなかった。

 

「……あのさ」

「あ、はい?」

 

 自宅のドアをあけ、中に入る前にカイルは振り向き、この日初めてジュリエットに話しかけた。突然のことに彼女は驚き、目を丸くしてカイルのことを見つめ返した。

 

「なんですか?」

「昨日は、ごめん。なんていうか、話せなくなる方がキツイな」

 

 力なく笑いながら、カイルはそう言う。

 

「カイル、その……」

「いいんだって、もう。あと一ヶ月しかないのに、その間中ずっと今日みたいな空気になるなんて、それこそ本末転倒だろ。嫌でも毎日顔あわせるんだからさ。いや、別にジュリエットと顔をあわせるのが嫌とかそういうのじゃなくてな?」

「ふふ。ええ、そうですね。私も、カイルと話せないとつらいです」

 

 ジュリエットの言葉に、カイルは苦笑いで返した。思わず勘違いしてしまいそうになるセリフだが、カイルにはその言葉にそれらしい意味が含まれていないということはしっかりと理解していた。ジュリエットという女性は、博愛が過ぎるために魔性なのだ。

 

「だからその、これからもよろしくっていうか……。そんな感じ」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 そうは言うものの、カイルは決して諦めたわけではない。ただ、このまま話もしないまま日々が過ぎていくことの方がなによりも苦痛だったのだ。いつか必ず、ジュリエットの愛を受け止められるほどの男になって、そのとき改めて告白し直そう。カイルはそう考えていた。

 ジュリエットは旅立つ。旅立つが、この街は大陸の移動や運搬を中継する重要拠点だ。もう一生訪れない、なんてことはないに違いない。ジュリエットはまたここに帰ってくる。帰って来たときにまた会おう。焦る必要などなかったのだとカイルは安心した。

 だから今は精いっぱい一緒に笑おうと、彼はそう決めたのだ。

 

 

 ジュリエットがステイト・ステイションへ来て、約二ヶ月が過ぎた。

 カイルから告白されたのが、だいたい一ヶ月前になる。あれからジュリエットとカイルの関係は少し変わった。それは周りから見ても同じらしく、以前とは違いジュリエットのことでカイルをからかうということが少なくなった。

 どこに行くにしてもジュリエットについて回っていたカイルはもういない。

 夜の風を受けながら、ジュリエットは遠く昔のことのようについて回っていたときのカイルを思い出して笑った。たった一ヶ月前のことなのに、本当に昔のことのように彼女は感じていた。それほどまでにカイルは雰囲気が変わったのだ。

 普段立てることのない線路の上に立ち、ジュリエットは空を見上げた。

 

「それはいいのですが……」

 

 カイルのことが済んでも、ジュリエットにはもう一つの問題があった。相手の魔法使いの魔法陣が一つも見つからないのだ。それを見つけることに尽力しているわけではないので見落としがあるのは確かだが、一つも見つけていないという状況がジュリエットには不思議でならなかった。

 なぜなら、魔法陣を描く場所はだいたい決まってくるからである。人が多い場所、もしくは人が逃げる先に魔法陣を描くのが基本的な魔法陣の描き方。

 たとえば、このステイト・ステイションなら東西南北に位置するそれぞれの大きな歩廊に魔法陣を描くのが基本になるだろう。ジュリエットもその例にもれず、東歩廊にいくつかの魔法陣を描き込み本日の活動を終了しようとしているところだ。

 どれほど巧妙に魔法陣を隠していても、見つかる時はアッサリと見つかる。絶対に見つからないということはまずありえない。なぜならば、基本的な魔法陣の描き方をするというところに問題があるからである。魔法陣を隠すことは描く場所以上に基本的なことだが、それ以上の基礎中の基礎として、魔法陣の上書き防止がある。

 新たに描き込むことができないようにするための対策は、ときとして魔法陣の露見に繋がってしまう。つまり、『自分の魔法陣』と『相手の上書き防止付き魔法陣』が重なってしまうと上書き防止の術式が働き、その場所に自分の魔法陣が描けなくなってしまうのだ。

 今回の街では、ジュリエットにそれが一度も起きていないのだ。どれほど広大な歩廊とはいえ、それなりの大きさの魔法陣を描けばどこかで引っ掛かってしまうものだ。だというのに、それが起きない。

 考えられる可能性は三つ。

 相手の魔法使いが街に来る前に何らかの理由で死んでしまったか。

 もしくは、基本を無視して誰も描き込まないような奇抜な場所に魔法陣を描いたか。

 可能性としてならば、前者の方が若干高い。相手がまだ練度の低い魔法使いということも考慮すると、後者がないとも言い切れないからだ。

 

「それとも何か特別な場所に魔法陣を描き入れたか……」

 

 第三の可能性は、何らかの作戦でその作戦に都合のいい場所に魔法陣を描き込んでいるという可能性。こちらは二つ目とは違い、それなりの練度を持つ魔法使いだと考えられる。

 

「……これ以上考えても時間の無駄ですね」

 

 ジュリエットが考えた可能性は、やはり可能性でしかない。相手が誰であろうと彼女は元から許そうなどとは考えていないのだ。確証も持てない推論に時間を割くのはナンセンスだとして、ジュリエットは夜風を楽しみつつカイルの家へと足を向けた。

 ジュリエットが家へ戻ると、カイルがキッチンに立って何かをしていた。ただいま、と彼女が声をかけると、カイルはゆっくりと振り向いておかえり、と返事をした。

 

「散歩は楽しかったか?」

「はい。やはり、夜の街はいいですね」

「俺は賑やかな昼の方が好きだけどな」

「別に昼が嫌いだというわけでは……」

「わかってるって。昼は昼の、夜は夜のいいところがあるんだろ? 何回も聞いた」

「それで、何を?」

「ホットミルク。なんか、寝付けなくてな」

「……もしかして、私のせいですか?」

「あながち間違いじゃないなぁ」

 

 カイルを含む『スワロウ』関係者には、明日から旅を再開するという理由でジュリエットは今日限りで仕事を辞めると伝えてある。「もう少し働かないか」と引き止める者もいたが、ジュリエットの意思とは関係なく、彼女は明日旅立たなければならないのだ。

 すなわち、『選定の儀』当日。

 魔法使いではない一般人からは『選定の儀』は最悪の天災と言われている。街一つ分、数万単位、多い場所なら数十万単位の人間が数時間のうちに消え去ってしまうのだ。それの発生を恐れずして何を恐れるというのか。ゆえに、それを食い止めていた《神の抑止力(てんし)》という存在は尊ばれ、人々からの絶大な信頼を勝ち得ていたのである。

 そうして世に広まってしまった『選定の儀』がこのステイト・ステイションで明日始まることを、カイルたちはその時まで知ることはない。

 

「ジュリエットのことは諦めてないんだから、こうして別れるのはそりゃ悲しいさ。俺じゃなくても眠れなくもなるよ」

「……はい」

「あー、まあ、なんだ。もしかして、なんだけどさ。この頃夜中に散歩に出かけるのって、俺と別れるのを少しでも悲しいって思ってくれてるから、とかだったりして?」

「ふふ。さあ、どうでしょう」

「自惚れすぎって思うか?」

「……いえ。あながち、間違いじゃないかもしれません」

「え?」

 

 ジュリエットの言葉に呆けてしまったカイルの横を通り過ぎながら、彼女は彼におそらく最後のおやすみなさいを言って、借りている部屋へと戻って行った。カイルはしばらくそのまま固まっていたが、沸騰するミルクなど無視して次の瞬間にはたがが切れたように喜び始めた。

 だがその言葉のせいで、カイルはその日、興奮のあまり寝付けなくなってしまったのはまた別の話。

 

 

 

 

 

 翌朝。まだ朝日が昇って間もないというのに東歩廊には人が溢れていた。

 ジュリエットは一人、少ない荷物を持ちながらベンチに座りながらその時がくるのを静かに待っていた。結局、彼女は相手の魔法使いが描いた魔法陣を一つも見つけられなかった。それが勝負を決める決定的な要素足り得るかはまだわからないが、その問いの解答はもうじき出ることになる。ジュリエットか相手方の魔法使い、どちらかの死という結果に伴って。

 

「――あら」

 

 髪を梳こうとして、ジュリエットはあることに気がついた。しばらくぶりに袖を通した修道服のお腹のあたりに、少しばかり余裕ができたようだ。元からそれほど太っていたわけでもないのだが、ここ二ヶ月の労働でほどよく痩せることができたらしい。ただ、それが嬉しいのかと問われれば、彼女はなんとも思っていないと返すだろう。

 

「動きやすいのはありがたいことですけどね」

 

 次の街に着いたら何か美味しいものでも食べようかと思案して、ジュリエットの顔がほころぶ。決してステイト・ステイションの料理がまずかったわけではなく、仕事柄手軽に食べられるものばかりを食べていたせいもあり、少し手の込んだ料理が恋しくなってしまっただけなのだ。

 もうそろそろ、とジュリエットは空を見上げた瞬間だった。

 空が割れるかと思うほどの鐘の音が降り注ぐ。万雷にも似た、大気を震わせる轟音だ。

 歩廊を行き交っていた人々の時間が止まったように、誰もが目を見開き空を見上げている。やがて鐘の音は鳴りやみ、歩廊のみではなく街全体に静寂が訪れた。どれほどの間その静けさを保っていたか。

 止まっていたように思えた時間が、徐々に進み始める。

 声はなかった。叫び声も、助けを求める声も、泣き声さえもその場にはなかった。ただ怒濤のように押し寄せる足音だけが街を支配していた。

 そのただなかで、ジュリエットはベンチに座ったまま人が逃げる様を眺めていた。誰もが声一つ出さず逃げている状況で、彼女以上におかしな景色もなかっただろう。それでも誰も彼女のことを気にしないのは、逃げることに文字通り必死だからなのだろう。

 逃げなければ、確実に死んでしまう。

 やがて、声の聞こえなかった街にぽつぽつと怒声が響き始めた。どうやら、汽車の発車を急かしているらしい。我先にと人が群がるものだから汽車も発車できないのだろう。悪循環が続いていた。

 ジュリエットは人々の逃げ惑う様を見ながら、相手の魔法使いが動くのをじっと待った。

 と、人波をかき分け、一際大きな声でジュリエットを呼ぶ声があった。

 

「ジュリエット!」

「カイル?」

 

 ここ二ヶ月毎日欠かさず見ていた顔を忘れるはずもない。若干青みがかった癖の強い黒髪に深い緑の瞳。はつらつとした表情はなりを潜め、今の彼は真っ青な顔をしていた。

 

「何してんだ、逃げるぞ!」

「いえ、逃げなくても大丈夫ですよ」

「何がだよ!? いいから、早く来い!」

「あっ……」

 

 カイルに強く手を引かれ、ジュリエットはそれ以上何も言わずに従った。

 人の波に逆らいながら、どうやらカイルは『スワロウ』へ向かっているようだった。汽車はもうしばらくは動かないと踏んでいるのだろう、運搬車で逃げるつもりのようだ。

『スワロウ』へ到着すると、二人はすぐに車庫へ向かった。仕事で出張っていたことを鑑みてもカイルと同じ考えを持っていたのは一人や二人ではなかったのか、運搬車はあと一つしか残っていなかった。しかし、その残っている運搬車というのが、カイルが扱ったこともないような貨車や客車を牽引する汽車と比べても一回りほどしか変わらない大型のものだった。

 

「冗談じゃねえ……」

 

 思わずカイルはつぶやいていた。運転方法に違いはないが、速度の加減がまったくわからないのだ。下手をすれば速度を出し過ぎてカーブで脱線してしまう可能性だってある。速度を抑えて運転すればその心配は全くないのだが、速度を落とせば落とすほど、魔法使いの戦いから逃げられる可能性が低くなってしまう。

 

「迷ってる暇はないか」

 

 ジュリエットに「乗れ」と乱暴に言い放ち、カイルはさっそく火室に石炭をくべ始めた。ボイラーの蒸気溜まりにどんどん蒸気が送られていく。汽笛を一度鳴らし、カイルは大型の運搬車を発進させた。

 いつも運転している運搬車よりもはるかに重い挙動。じっくりと速度を上げていきながら汽車は環状線路へと乗りつけた。慎重に速度をあげつつ、カイルは街の様子をじっと観察していた。戦いが始まればジュリエットを守ることができるのは自分だけだ、と覚悟を決めておく。たとえ、自分がどうなろうともジュリエットだけは生きて逃がすのだと、カイルは心に刻む。

 

「東に向かえばいいんだよな?」

「ええ。それで構いません」

 

 ジュリエットは適当にうなずいて、カイルと同じように街の様子に気を割いていた。先ほどからジュリエットもところどころで『見敵』の魔法陣を発動させているが、一向に相手の魔法使いが見つかる様子はなかった。それどころか、相手の『見敵』の魔法陣すら発動した気配がない。おそらく、相手の魔法使いはすでにジュリエットが戦う相手だと判っているのだろう。

 自分の魔法陣を描き終えてから、毎晩歩廊近くで見張っていたに違いない。ジュリエットはそう考えていた。

 

「なんだアレ……?」

 

 慣れない大型車両を操りながら東歩廊に戻り、その光景を先に見たのはカイルだった。逃げだす直前まで我先にと汽車に乗り込もうとしていた人々が、やけに減っているのだ。そのためか邪魔のいなくなった他の汽車も続々と発車している。

 

「おかしいですね。あれほどの暴動だったのですから、こんな短時間で治まるとは……」

 

 ジュリエットがカイルの疑問に答えていると、ある汽車で視線を固定した。

 ただ見ただけでは特におかしなところがないように思える汽車だった。一般的な、客車を牽引するだけの蒸気機関車だ。それをジュリエットが気にしたのは、いまだにその汽車にだけ人が群がっているからだろう。注目してみると、ところどころおかしなことに気がつける。

 

「なんだ、汚ねえ窓してんなアレ。ちゃんと整備してんのか?」

 

 ジュリエットがその汽車を注視しているのに気付いたカイルは、彼女に倣ってその汽車を見てそんな感想をもらした。彼が言った通り、その汽車の窓は泥やほこり、雨風にさらされたままずっと放ったらかしにしてあったかのように、あまりの汚らしさに客車の中が見えないほどに曇ってしまっている。

 だが、逃げようと必死な人々にとってそれは些細な問題だ。次々と汽車に乗り込み、群れていた人数も加速度的に減っていくのがよくわかる。そして、()()()()()()()()()()()のも、あるいは必死だからなのかもしれない。

 ジュリエットはカイルに止まるよう指示して、じっとその汽車の動向を眺めていた。やがて汽車は()()()()()()()()()()()()()()()()、ごちそうさまとばかりに汽笛を鳴らし、北歩廊に向かって発車した。

 

「カイル、追って」

「え? いや、でも逃げないと……」

「いいから、追ってください。おかしいとは思いませんか? いくらなんでも、あんな人数入り切るわけがないでしょう」

「そういえばそうだけど……。まさかあれ、魔法使いの汽車なんじゃ……!?」

「十中八九そうでしょうね。早く追って」

「なんでだよ! 逃げた方がいいに決まってるだろ!」

「なら、私一人でも追います」

「……っ、わからずやめ! わかったよ、追えばいいんだろ!」

 

 気取られない程度の距離を保ちながら、前方を走る汽車を二人は追う。二十分ほど走り続けて汽車は北歩廊へと到着した。東歩廊とは違い、北歩廊はまだ混乱の真只中だった。ジュリエットは騒ぎに巻き込まれないよう貨車用の線路に乗りつけるようカイルに伝えて、件の汽車を遠くから観察し始めた。

 人々は最初、汚らしい汽車だと少し気後れした様子だったが、やがてそれは些細な問題だと割り切ったのだろう、次々と乗客を飲み込む汽車に疑問すら覚えずどんどん乗り込んでいく。結果として、半時間足らずで北歩廊は東歩廊のような状態になっていた。群れる人のせいで発車できなかった汽車も、次々とステイト・ステイションを離れていく。

 そして確信。東歩廊の人数でも許容人数を超える人間を乗り込ませておきながら、北歩廊でも同様に、とんでもない人数を詰め込んで溢れる人間が一人もいない。間違いなく魔法使いの仕業であるとジュリエットは確信した。それはカイルも同じで、不安げな視線をジュリエットに送っていた。暗に「まだ追うのか」と聞いてるようでもあった。

 

「南に向かいましょう。先回りをします」

「な、何言ってんだ! 先回りしてなにするつもりだよ!?」

「迎え撃ちます」

「迎え撃つって……」カイルはそこでハッとして、改めてジュリエットを見た。「もしかして、ジュリエットって天使様なのか……?」

 

 旅には一緒に連れて行けない。ここでずっと一緒にいることもできない。そして、ジュリエットの性格。さらには、天使に会ったことがあるという話。カイルからしてみれば、それは確信に近い直感だった。世界中に跋扈する魔法使いを斃し、人々を救う天使という存在。それが、自分の目の前にいるジュリエットという女性なのではないのか。カイルは期待を込めた目で彼女を見ていたが、ジュリエットはかぶりを振ってそれを否定した。

 

「私はあなたが言う天使様じゃないですよ」

「じゃあ、なんで魔法使いを……」

 

 そこまで言って、カイルはもう一つの可能性に気付いた。天地がひっくり返ったような衝撃が彼を襲う。壁を支えにしているとはいえ、彼は倒れなかった自分を褒めてやりたいくらいだった。

 ゆっくりと顔をあげ、心配そうな表情をしているジュリエットをカイルは見た。

 

「ジュリエット……」

 

 呟いたカイルの様子で、ジュリエットも察したのだろう。

 カイルから一歩ほど離れて、いつものほほえみを絶やさずにジュリエットは告白した。

 

「私は《神の抑止力(てんし)》ではありません。魔法使いですから」

「……そう、か」

「怖くないんですか?」

「え?」

 

 ジュリエットに言われて、カイルは初めて気付いた。ジュリエットにとってもカイルの反応は未知のものであった。この世最悪の天災と呼ばれている『選定の儀』の、そのさらに核たる魔法使いを前に薄い反応を示すだけで逃げようともしないカイルは、誰が見ても異常としか映らないだろう。

 

「驚いたけど……、なんで逃げてないんだ、俺?」

 

 それはカイル自身も同じようで、逃げようともしないことを自分自身でも不思議がっている様子だった。

 

「信じられませんか、私が魔法使いだってこと」

「……さあ。そうかもしれないけど、よくわかんないっつーか」

「……ふ、ふふっ。うふふふっ」

「な、なんだよ」

 

 カイルは少しばかり身体を強張らせながら、珍しく声をあげて笑うジュリエットを見た。彼女の笑い声は次第に大きくなり、走る汽車にも負けないほど大きくなっていった。

 

「あふ、あー、おかしい」

「なんだってそんなに笑うんだよ」

「そうですね、すいません。でも、そう、カイルは私が魔法使いだっていうことよりも、私だっていうことの方が大事なんでしょうか。ちょっと嬉しいです」

「……俺みたいなやつなんて、他にもいたんじゃないのか?」

「いませんでしたよ。みんな私の正体を知ったら、逃げるか襲いかかってくるか、ちょっと外れたところだと崇められたりしたこともありますよ。でも、逃げたり襲いかかったり、崇められたりもせずにそのまま一緒に立っているってことは、今まで一度もありませんでした」

 

 いつもよりもずっと崩れた表情で、ジュリエットはほほえんだ。その笑顔に、カイルは思わず見惚れてしまう。瞬間、カイルの口からは本人すら思いもよらない言葉が出ていた。

 

「認めてくれよ。俺はそれくらい、お前のことが好きなんだ」

「カイル……」

「逃げないし、殺そうなんて思わない。崇めたりも絶対しない。俺はただ、お前とずっと一緒にいたいんだ。これまでみたいに仕事して、酒呑んで、笑って。ジュリエットとなら、きっと最高の人生にできる。だから、もう一度言うよ。俺は、ジュリエットが好きだ」

「ありがとう、ございます」

 

 カイルの告白に、ジュリエットはそう言い、ただほほえんで返すだけだった。それがどういう意味なのか、カイルにはなんとなくわかってしまった。カイルはそれに悔しくなって、手が真っ白になるまで握り拳を固めた。

 

「ならせめて、最後まで付き合わせてくれ。これくらいならいいだろ?」

「ええ。相手は汽車ですから、カイルがいないと戦えませんよ」

「一人でも追うって言ったくせに。まあ、任せとけ。お前を絶対、死なせやしない」

 

 カイルは進路を南歩廊へ取り、運搬車を加速させていく。途中、カイルとジュリエットの間には会話はなかった。運搬車の走る音と、汽笛の音色、風を切る音。言葉がない分、他の音がその隙間を埋めようとごうごうと鳴り響く。

 南歩廊へ到着すると、驚いたことに人の姿がなかった。ジュリエットが不思議そうに辺りを見回していると、思い出したようにカイルが言った。

 

「南歩廊の近くにはステイト・ステイションの流通を統括してる役所があったな。たぶん、そこの職員が出張ってたんだろ。じゃなきゃ、こんな早く混乱が収まるはずないからな」

「なるほど。それで先ほどから南歩廊に描き込んだ魔法陣の発動だけがやけに鈍かったんですか。納得しました」

 

 カイルはそのまま南歩廊の一角に運搬車を停止させ、西歩廊方面からやってくるはずの魔法使いが駆る汽車を待った。

 不気味なほど静まり返った歩廊に、カイルはそら恐ろしいものを感じていた。人や流通の中継地点として発展してきたステイト・ステイションが、一時間と少しだけでこれほどまで静かになってしまうのか、と。『選定の儀』が最悪の天災とまで呼ばれる理由を改めて実感してしまったのだ。カイルの顔色は、一気に青白く変わっていった。

 それに、とカイルは横にいるジュリエットを見た。彼女は先ほどから「魔法陣を発動させている」と言っていた。それはつまり、大勢の人間を糧に魔法を発動していたということ。ジュリエットもあの汽車を操る魔法使いと同様に、すでに数十人、多ければ数百人単位で人を殺しているのだ。

 だが、それを思うとカイルは不思議と嫌な気分ではなくなった。

 他の魔法使いに殺されてしまうのは業腹極まりないが、ジュリエットに殺されるなら、つまりジュリエットのために死ぬことができるなら、決して悪い気はしない。カイルの憤っていた気分が、その考え一つですっきりと軽くなったのだ。

 どれほど待っただろうか。遠くで汽笛の音が空気をつんざいた。先に反応したのはジュリエットだった。カイルに発車の準備をしておくよう指示を出して、西へ続く線路を注視した。

 

「……きた!」

 

 カイルはジュリエットに確認も取らず、その言葉を聞いた瞬間に運搬車を走らせた。ちょうど南歩廊の端に達したとき、異様な威圧感をまとった汽車が二人の視界へ入ってきた。見た目はどこにでもあるような蒸気機関車と変わりはない。だが、雰囲気があまりに異常なのだ。汽車の周りにだけ、粘着質を持つ空気が漂っているのかと思うほどに気味が悪い。

 

「カイル、もっと速く!」

「やってるよ!」

 

 歩廊を完全に抜け、線路だけが広がるステイト・ステイションの外周部へ出る。最初に見たときには二百メートル近く空いていた距離が、外周部へ出た頃には数十メートルにまで縮まっていた。

 

「とんでもなく速いぞ、なんだコイツ!?」

「慌てないで、ちゃんと前を見て。あなたは運転に集中して」

 

 後ろ数十メートルをぴったりとくっついてくる汽車にカイルは焦りを炙られながら、ジュリエットの言葉だけを頼りに運転に集中しようと努めた。完全に焦りがなくなることはなかったが、カイルは幾分落ち着きを取り戻し、脱線なんていう失敗だけはしないようにと、運搬車と向き合った。

 

「『喚起』」

 

 運搬車に吹きつける風にも負けないほどの暴風が吹き荒れ、一振りの剣がジュリエットの手に握られた。

 

 ――だがそれは、おおよそ剣と形容できるような形はしていなかった。まるで鉄板。長方形に切り取られた、分厚い鉄板だった。かろうじて刃がついていることだけがその鉄板が剣として認識できる唯一の特徴だった。

 その剣を見た瞬間、カイルは身体の震えを抑えられなかった。恐怖ではなく、あまりの興奮に震えが止まらなかったのだ。これが魔法なのだと、目前で起こった剣の『喚起』に感動せずにはいられなかった。

 

「汝の願いは【激動する感情(エクスプロージョン)】」

 

 ジュリエットがその言葉を口にした瞬間、鉄板が沸騰した。ボコボコと音をたてながら、刀身が熱に染まっていく。鉄が沸騰するような熱であろうとも刀身が溶けださないのは魔法の力かとカイルは思っていたが、すぐにそれが間違いだと気付いた。

 決して刀身が沸騰しているわけではない。小さな爆発が刀身上で繰り返されているのだ。

 

「カイル、速度を思い切りあげて。巻き込まれますよ」

「なにするんだ?」

「牽制します」

「――っ、りょ、了解!」

 

 カイルは返事すると、火室に石炭を放り込みはじめた。ボイラーの蒸気溜まりへ蒸気が限界まで詰め込まれていく。それに伴って、運搬車の速度もぐんぐんあがっていく。後ろを走る汽車との距離も徐々に広がり、充分な距離だとジュリエットが判断した瞬間、手に持った魔剣を大きく距離の開いた後続の汽車に向かって、横薙ぎに振り切った。

 だが、それ以上のことは何も起こらない。カイルが不思議に思っていると、その轟音は突然響いた。音と強風がカイルとジュリエットの全身を打ち、熱が肌を焼く。真っ赤な爆炎と黒煙が視界を埋めていく。そこからジュリエットは続けざまに二度、三度と魔剣を振るい、それと合わせて爆炎も二度、三度と唸りをあげた。

 

「やったのか……?」

「まさか。牽制をする、と言ったじゃないですか」

 

 そう言いつつも、ジュリエットは魔剣を振るうことをやめない。汽車ではなく、爆炎そのものに追いかけられているような錯覚を覚えてしまう。ジュリエットはそのまま魔剣を素早く大上段に構え、思い切り振り下ろした。刹那、音が消し飛んだ。あまりの轟音と衝撃と熱風に、カイルは一瞬気を失ってしまいそうになってしまう。それをなんとか耐え、ふらふらする身体を気力だけで立たせる。

 小さな火山が噴火したような爆炎と黒煙。後ろをついてきていた汽車は、もう追ってきてはいない。ふとカイルがジュリエットの手に視線を移すと、魔剣【激動する感情(エクスプロージョン)】はいつの間にか消えてなくなっていた。

 それを終了の合図と勘違いしたカイルは、運搬車のブレーキに手を伸ばした。が、ブレーキを引く数瞬前、ジュリエットに行動を手で制された。

 

「終わったんじゃないのか?」

「だから、牽制です。速度は決して落とさないで。ここからが本番ですよ」

 

 ジュリエットがそう言うのを待っていたかのように、黒煙を引き裂いて巨大な鉄塊が姿を現した。その鉄塊を視界に収めたのと同時、カイルは背筋に冷たい汗が流れていくのを感じた。首の後ろが、あまりの緊張でチリチリと燃えているように熱くなる。

 

「なんだ、あれ……」

「客車内に魔法陣を描き、乗ってきた乗客を片っ端から糧へと変え、汽車の中へと魔力を蓄えていく。魔力はやがて汽車の血肉となり、意思のなかった鉄塊はやがて意思を持つ。あれはもはやただの汽車ではありません」

 

 言われるまでもなく、カイルはあれを汽車だとは認めたくなかった。唸りをあげながら運搬車にぴったりと追いすがってくるあれは、まるで《鉄の蛇》のようだ。レールに乗って走ってはいるものの、今にでも蛇行して追ってくるのではとさえ思う。

 ジュリエットには、敵の魔法使いがほくそ笑む顔が容易に想像できた。

 

「『喚起』」

 

 再びジュリエットの手に魔剣が握られた。だが、先ほどとは違う意味で、おおよそ剣としての機能を持っているようには見えない外見だった。標準的な刀身の形ではあるのだが、その刀身が氷のように透き通っているのだ。

 

「汝の願いは、【抑圧する理性(フリージング)】」

 

 その言葉と同時、刀身から凄まじい冷気が漏れ始めた。透き通っていた刀身は一瞬にして白く染まり、白雪の如く光を反射している。ジュリエットが静かに魔剣を掲げると、刀身が通過した空間に、尾を引くように燐光が残った。

 先ほどの魔剣と同じく、ジュリエットが中空を撫でるように一振りすると、ワンテンポ遅れて空間を凍てつかせ、巨大な氷塊が姿を現し道を塞いだ。彼女は重ねて魔剣を振るい続け、氷塊を後ろに張り付く《鉄の蛇》との壁とした。

 それはどれほど軽く見積もっても運搬車数台分の重量を持っているとわかる氷塊だった。

 しかし、その氷塊の山を前にしても《鉄の蛇》は驀進をやめない。砕き、割り、穿ち、削り、氷塊を破壊して突き進んでくる。その姿は正真正銘の化け物だった。

 だが、ジュリエットにとってそれは特に驚くべきことではない。化け物といえば自分もそうだと彼女は自覚しているからだ。ただ、だからこそジュリエットは人々の営みを眺めることが好きなのであり、体験することもまた同義なのである。

 魔法を駆使すればもっと楽に、より化け物らしく生きることも簡単だ。だが、ジュリエットは決してそれをしない。一時のまぼろしのような時間であろうとも、笑い、泣き、寝て、食べて、愛して、愛されてをこれからも繰り返すだろう。なぜなら、全ての人々はジュリエットのために生きているのであり、その日常の流れを彼女が知らぬなどあってはならないからだ。全ての人々はジュリエットがために生き、そしてジュリエットは彼らがために生きる。

 

「『喚起』」

 

 振るい続けていた冷気を放つ魔剣はいつの間にか消えてなくなり、替わりに彼女の手に握られていたのは、無骨というよりも無精な印象を受ける細みの長剣だった。柄はボロボロの布で巻かれ、鍔もなく、刀身からは金属独特の光沢はなくなり、刃はところどころボロが目立つ。

 だが、そんな剣にさえカイルは惹かれていた。無精な外見とは裏腹の、その剣が持つ異様な威圧感が彼を惹きつけたのだろう。

 

「汝の願いは【奔放な鋼(ヴァガボンド))】」

 

 先の二本のように、銘を言ってからも特に変化はなかった。カイルが今度は何をするのだろうかと胸を躍らせていると、ジュリエットは手に持った魔剣を一瞥してから、おもむろに《鉄の蛇》に向かってそれを投げてしまった。投擲したわけではない。ハトに餌をやるような気軽さで、ひょいと投げてしまったのである。

 

「なっ!」

「問題ありません」

 

 驚くカイルを横目に、ジュリエットはしれっとそう言う。

 カイルは思わず運転も忘れ、その魔剣の描く軌跡を目で追った。猛追してくる《鉄の蛇》に当たってしまえば、どれほどの名剣であろうと粉々に砕かれてしまうに違いない。何の意味もなくジュリエットが魔剣を放り捨てるとはカイルも思っていなかったが、あまりに奔放すぎる扱いに戸惑ってしまっていた。

 が、その認識も次の瞬間には上書きされることになる。

 どれほど重かろうが三キロもなさそうな魔剣が《鉄の蛇》へ当たった瞬間、巨人の腕にでも叩きつけられたかのように強烈な衝撃が《鉄の蛇》を襲った。先頭車両、つまり《鉄の蛇》の頭部に位置する部分は地面へめり込み、後ろに続いていた胴体――元の客車がその衝撃で中空へ放り出されてしまった。

 

「カイル、止めてください」

「お、おお!」

 

 ブレーキをかけ運搬車を急停止させると、ジュリエットは線路へ降り、《鉄の蛇》へ向かって歩いていった。カイルもついて行こうと身を乗り出したが、飛び出す前にジュリエットに手で制される。

 地面にめり込む頭部へと到着し、そこに深々と突き刺さる魔剣を引き抜くと一言、中にいるであろう魔法使いへ向かってジュリエットは言った。

 

「あなたは侵してはならない罪を犯した。唇を噛み締め滲む血を味わいながら、拳が白むほど手を強く握り締めながら、心から悔いなさい。それがあなたにできるただ一つの命乞いです」

 

 瞬間、ジュリエットの右目を中心に暴風が吹き荒れた。暴力的なその風にまぎれ、何十、何百、何千、という〝剣の山〟に存在する魔剣が召喚されていく。大地に突き刺さっていく剣群が作る景色は、まるでここが〝剣の山〟へと変化を遂げていくようですらあった。

 その中央に佇むのは、〝剣の山〟に棲む刃を統べる魔女。

 徐々に完成していく〝剣の山〟の中央で、ジュリエットにも変化があった。彼女の毛先から順に、鮮血のような赤色が剥がれおちていく。そこから現れてきたのは、穂のような黄金色の髪。ジュリエット本来の髪色である。髪全体の二割ほどを金髪へ戻すほどの魔力を魔眼に注ぎながら、ジュリエットは〝剣の山〟を完成させた。

 そして――、

 

「【嫉妬深き蛇(リヴァイアサン)】」

 

 圧し潰されそうな暴風を纏いながら、ジュリエットの左目を中心に超大な魔法陣が展開されていく。大蛇に首を絞めつけられているような息苦しさと圧迫感が遠目に眺めていたカイルにさえ伝わっていた。そのあまりの重圧に、彼の心臓が早鐘を鳴らす。そのまま運搬車で逃げたくなる気持ちをなんとか抑え、カイルはジュリエットをじっと見据えた。逃げるなと自分に言い聞かせ、目を逸らすなと鼓舞した。

 ここで感情のまま逃げてしまったとしたら、ジュリエットが話してくれた、逃げたり、襲いかかったり、崇めたりした連中と一緒になってしまう。それだけは嫌だとカイルは精いっぱい踏ん張った。

 

「ジュリエット……」

 

 カイルが見つめる先に佇む魔女には、彼の声など届かない。あまりに距離が開き過ぎているのだ。心も、身体も、そして覚悟さえも。だからこそ、彼女の本性を知った者は誰もが逃げるか、恐れるか、崇めるか、そんなことをしまうのだろう。

 だが、ここにいる青年は違う。憧憬と愛おしさで彼女を見据えている。

 その彼の横を、ごう、と突風が吹き抜けていく。荒野を吹き荒ぶ風は剣群へと向かい、方々から吹きつける暴風は束ねられ、巨大な竜巻と化した。大地に突き立っていたはずの剣群はその竜巻に巻き上げられ、やがて巨大な蛇の姿を成し始める。

 魔剣の一本一本が鱗となり、牙となり、体内に竜巻を孕む《剣嵐(けんらん)の蛇》。鱗たる魔剣は竜巻に乗り常に流動し、牙たる魔剣はギチギチと刃を擦り合わせながら餌を待つ。

 

「後悔は済みましたか。蛇の腹で死ねるなら、あなたも人に生まれ変われることでしょう。そのとき私は、きっとあなたを愛します。罪を犯すなとは言いません。ですが、犯してよい罪を見極めなさい。あなたには、それが足りなかった」

 

《剣嵐の蛇》を背負い、ジュリエットは淡々とそう言う。彼女が腕を振り上げる動作と連動して、《剣嵐の蛇》も首をもたげ、《鉄の蛇》へ狙いを定めた。

 

「眠りなさい。来世はきっと、いい世になります」

 

 ジュリエットには《鉄の蛇》の中から悲鳴が聞こえたような気がした。きっと意地汚く「助けてくれ」とでも叫んでいるのだろうと当たりをつけ、表情をひとつも変えることなく、振り上げた腕を下へ振り抜いた。

 それを待ちかねていた《剣嵐の蛇》は、《鉄の蛇》へ頭から殺到した。

 この世の音という音が聞こえてくるようだった。《剣嵐の蛇》として集まった剣は、一本一本が何らかの『願い』を込めて創られた魔剣であり、その『願い』に準拠した何らかの特殊能力を秘めている。それらの魔剣が《鉄の蛇》へ抉り込むと同時に効果が発動され、燃え、凍え、帯電し、風化し、錆びつき、侵蝕され、斬り、突き、抉られていく。

 やがて、《鉄の蛇》を咀嚼し終えた《剣嵐の蛇》は荒野の露と消え、残ったのは微かなそよ風と、鮮血色の長髪の先端を黄金に輝かせるジュリエットだけだった。

 ジュリエットが空を見上げると、それを待っていたかのように彼女の勝利を祝福する鐘が鳴り響いた。それが鳴りやむまで、ジュリエットはじっと空を見つめていた。

 

「……勝ったんだよな」

「カイル」

 

 その彼女の傍らに、カイルは歩み寄った。彼は複雑そうな顔をしていた。ジュリエットが問うまでもなく、その心の内はカイルが口に出して告白してくれた。

 

「おめでとさん。どういう仕組みかよくわかんないけどさ、これでお別れってことだろ?」

 

 ステイト・ステイションの遠く、四方八方から汽笛が聞こえ始めた。『選定の儀』が終わったと判断した人々が、ゆっくりとこちらへ向かって汽車を走らせているのだろう。

 

「いいえ。お別れなんかじゃありませんよ、カイル」

 

 静かに、風の音にさらわれてしまいそうなほど小さな声でジュリエットは言う。

 汽笛の音がどんどん大きくなってきていた。早いものだと、もう汽車の姿を確認できるところまで近づいてきていた。

 

「あなたは、私とひとつになるんです。私の中で、気持ちのいい眠りにつくんですよ」

「そりゃ、いいこと聞いたな。なあ、最後に俺の運搬車で走らないか?」

「いいですね。時間はまだあります」

 

 二人が運搬車に乗り込むと、その横を大型の客車が通りすぎていった。客車の窓からは大喜びする人々の姿が見て取れた。ジュリエットとカイルに気がつくと、窓から落ちそうなほど身を乗り出し手を振ってくれた。

 その後ろを、カイルが運転する運搬車はゆっくりと進み始めた。

 

「これからどこ行くんだ?」

「ここからずっと北。大陸を横断した、とても寒い場所」

「東って言ってなかったか?」

「天啓があるんですよ。次の舞台はいつのどこだって。でも、まずは東に向かいます」

「遠回りするのか?」

「ええ。東の方へは、この百年一度も行ったことありませんし、興味があるんです」

「……予想はしてたけど、ジュリエットっていくつなんだ?」

「あら、女性の年齢を聞くのは失礼じゃないですか?」

「そりゃそうかもしれないけど」

「あなたから見た私の年齢が、私の年齢でいいですよ」

「ずるいぜ……」

 

 二人が東歩廊へ戻ると、そこにはすでに人々が溢れかえっていた。口々に祝福の言葉を言い合い、積荷であるはずの酒や食べ物もおかまいなく、飲めや歌えの大宴会が始まっていた。

 東歩廊の隅へ運搬車を止めると、ジュリエットは改まった態度でカイルに頭を下げた。

 

「この二ヶ月、本当に楽しかったです。なにより、私を受け入れてくれた初めての人がずっと一緒にいてくれたから」

「やめろよ、恥ずかしいな。礼をいうのはこっちだ」

「……もうそろそろ頃合いです」

「宴もたけなわだってのにな。ま、悪い気はしないってのはさっき言った通りだよ」

 

 その言葉を聞いて、ジュリエットがステイト・ステイションを囲む巨大な魔法陣を発動させようとしたときだった。カイルが思い出したように口を開いた。

 

「カイル。カイル・ガルブレイズだ。ちゃんと覚えといてくれよな」

「うふふっ、大丈夫ですよ。私は今まで出会った人たちの名前を忘れたことなど一度もありませんから。安心して、私の中で眠りなさい」

「ああ、おやすみジュリエット。身体壊すなよ。あと、お前はもっと食べろ。俺はもうちょっとふっくらしてた方が好みだ」

「女性に太れと? まったくあなたは」

 

 二人は笑い合い、静かに見つめ合ったあと、ジュリエットは魔法陣を発動させた。

 街全体が光に包まれた瞬間、祝福ムードだった街が一気に絶望へ叩き落とされた。阿鼻叫喚どころか、断末魔さえあげる暇なく、ステイト・ステイションは沈黙に支配された。ジュリエットの目の前に立っていたカイルという青年も、もうそこにはいない。

 そよ風がジュリエットの赤髪をいじった。その美しさに見惚れる者はすでにおらず、髪全体に鮮血色が戻ったことを確認できる者ももちろんいない。

 一抹の心残りを感じながら、ジュリエットは運搬車を東に向かって走らせ始めた。

 

「おやすみなさい。私を愛したいとし子よ」

 

 後ろ髪を引かれる想いを断ち切るように、ジュリエットはひとつ汽笛を鳴らした。

 

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