『
彼は幼い頃からずっと、ある夢をよく見ていた。父でも母でもない、厳粛な声の響く夢を。
彼には長らく、それが何のことなのかわからなかった。父や母に言えば、もしかしたら気が狂ったのかと思われてしまうかもしれない。子供ながらに大いに悩み、その苦悩はずっと彼の胸の内に秘められていた。
そんなある日、彼は一人の女性と出会った。紅玉を溶かしたような髪をした、自らを修道女と名乗る優しいほほえみを湛えた女性だった。
彼にはその女性といろいろ会話した記憶があるのだが、あまりよく覚えていない。
ただ、その時間はとても幸せだったことを彼はハッキリと覚えている。彼女が笑い、彼も笑う。とても充実した時間だった。
そして、その時はまもなく終わりを告げた。十重二十重と鳴り響く雷鳴が如く、空に鐘の音が響き渡った。街の皆は呆然と空を見上げ何事かとざわつく。彼のそこからの記憶は曖昧で、なぜ街の人間が誰一人いなくなったのか、なぜ自分が真紅の髪を持つ女性に抱えられているのか、全く覚えていない。
『不思議な子ですね。もしかしたら、また逢えるかもしれません』
女性はそう言っていた気がする。その女性ともいつどこで別れたのか、街で起こったことすらも全てが曖昧模糊でしかないが、そこからの記憶は嫌というほどよく覚えている。
幸いなことに、彼は貴族の息子だった。他の貴族の養子へ迎えられ、その貴族の地位向上のため騎士学校へ入学させられた。幼いながらも自分が駒として使われていると理解していた彼は、それでも努力を重ねた。騎士学校時代は、運よく近衛騎士団副団長の
結果として彼は騎士団長の従騎士として丸々五年仕え、最高の鍛錬や座学を教え込まれた。彼がちょうど二十一になったときに団長から一人前と認められ、近衛騎士団の一員として叙任された。
そこからの彼の活躍も目覚ましく、先陣を切って戦場へ駆け出す姿を雄々しい獅子に例えられ、〝
だが副団長叙任から間もなく、騎士学校へ入る頃から見なくなっていたあの夢を、また見るようになったのである。幼い頃はただ一言呟くように聞こえていた言葉が、成長した今、彼の心により多くを語りかけていた。
『汝、さだめを背負う男児なり。過酷を極める運命に、我らは天の力を授けよう』
『汝、魔を操る者を屠り、平安を世にもたらせ。長く険しい道のりを、我ら神は助けよう』
『覚醒せよ、抑止力。その身体に宿るは、人を超えた神の断片。天の使い、その所以』
『汝、その運命を《神の抑止力》という』
幾度もその夢を見続けるうちに、彼の身体に変化が起こり始めた。剣の一振りで大地が大きく抉れ、矢を放てば空を裂くようになった。その力に彼自身も戸惑い、また王も彼の強大な力に不安を抱えた。
やがて彼は王と謁見することになり、その身に起きたことを事細かに、嘘偽りなく伝えた。そのときの王は信じられないものを見ているような表情をしていたが、やがて静かにうなずくと彼に向ってこう言った。
「各地に早馬を出す。お前はお前の思う通り行動してみろ」
そこから話はトントン拍子に進む。この世界には、昔から大都市に限ってそこの住民が忽然と姿を消すという謎の現象も確認されており、それこそが天啓が教えてくれた『魔を操る者』の仕業だと王らは断定した。また便宜的に『魔を操る者』を、人里離れて孤独に暮らす人種の蔑称である〝魔法使い〟と呼ぶことにすると紙にしたため、早馬に乗せ世界各地へと通達させた。
これにより『魔法使い』という人類の敵が認知されるところとなり、また彼の受けた天啓により魔法使いたちが行っている『選定の儀』とはなんなのか、というところまで人々は知ることとなった。
さらに人間側の動きは続く。
彼を中心に国中の実力者が集められ、対魔法使い部隊〝
かくして、〝魔毀の剣〟の団長として叙任し、彼は魔法使いを滅ぼすための旅に出る。
心強い仲間たちと、自分にかかる大きな期待、使命感、そしてなにより彼の持つ正義感が魔法使いの存在を許すことができなかった。――そこに至り、彼は克明にとある女性の姿を思い出した。
紅玉を溶かしたような真紅の長髪が印象的な、あの女性のことだった。
彼はあの日あのとき起こったことが『選定の儀』だったのだと、今さらになって気付くことができた。ならばあのとき、自分を助けてくれた女性は一体何者だったのだろう。優しくほほえむあの女性は一体何者だったのだろう。魔法使いだったのだろうかと彼は考えたが、それでは自分が生きていることに説明がつかない。天啓で聞いてきた話では、魔法使いはすべからく殺戮者だ。魔法を使うために人間を糧にするような、人間を人間とも思わないような、人間を喰い物にする、ただの化け物だ。
もしあの女性が魔法使いだったとしたら、なぜ自分は生きているのだろうか。彼は何度も疑問を繰り返した。何度か反芻し、彼はとある考えに行き着いた。
ただ自分は、あの女性を魔法使いだと信じたくないだけなのではないのだろうか。
彼女がいれば、彼はその疑問を投げかけることができたかもしれない。だが彼女はここにはいない。彼の後ろにいるのは、彼と共に魔法使いを滅ぼすために剣を掲げた同志たちだ。こんな疑問を口に出せるはずもない。
疑心暗鬼を心に住まわせながら、彼は魔法使いへと初めて剣を向けることになる。
「行くぞ、初陣だ!」
天空を落とさんばかりの鐘の音が鳴り響き、三つ巴の戦いが始まる。
そしてそれは、彼の長い旅の始まりを告げる鐘の音でもあった。
後の世に『
――フレデリック・ギルバート。
《神の抑止力》。その運命に翻弄された、人類初めての人物である。