Witch Craft   作:草之敬

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天使と芸術都市

 

 

 一年を通してほどよい湿度と気温を保つ場所に起こされた街がある。

 そこは俗に〝春陽の都市〟とも呼ばれ、また一般的には芸術都市として名が通っている。美術、文学、音楽、舞台とあらゆる表現者が集い、日々新たな才能が生まれ潰れていくその街の名は、ロゥ・オレ。『原石』という意味を持つ、世捨て人の巣窟。

 街を少し北に離れたところには大運河が流れており、この街へは主にその運河を使って訪れることになる。といっても、名所らしい名所もなく、名物らしい名物もない。これといって観光するに値しない都市ではある。強いて名物をあげるとするならば、ウォールアートやフロアアートという芸術テロが街のいたるところに描いてあるということくらいか。だが、それらは総じて早いうちに消されてしまうか、生き残ったとしても雨に流されてしまうかするので刹那的な名物でしかない。

 では一体誰がこの街を訪れるのかといえば、それはもちろん貴族が中心である。

 自分たちの肖像画を描かせ、それらの出来不出来でその貴族のステータスが決まってしまうような世の中である。より巧く、より美しいモノを創るための専属の美術家を求めるのは、ある意味常識といえるだろう。そして、何もそれは美術のみに限った話ではない。文芸者には己の武勇伝を書かせ、音楽家には己のイメージを音楽に抽出させ、舞台役者には日々の退屈を喜怒哀楽に塗り返させる。

 それを最低限の目標として、ここロゥ・オレに集った芸術家たちは日々励んでいる。

 では、それ以上の目標とは一体何を指すのかといえば、王族や教会のお抱えになることである。彼らはよっぽどのことがない限りロゥ・オレに訪れることはないし、また来たとしてもそのお眼鏡に適う技量や芸術性を持った者を見つけるかも怪しい。だがそれゆえに、成功すれば誰もが見上げるような地位を確立できるのみならず、自分の芸術性が世界に羽ばたくことになる可能性は大いにある。

 

「――なるほど」

「見たところ、シスターもそういった事情で?」

「ああ、いえ。私は違うんです」

「そうなのですか。……おっと、そろそろですな。では、私はこれで。失礼」

 

 恰幅のいい初老の貴族はそう言い、朗らかな笑顔のまま修道着を身に纏った女性を離れていった。その男性の姿が見えなくなるまで、彼女はそっと手を振り続けた。

 男性貴族が言った通り、水平線にはロゥ・オレ最寄りの商港が見えてきていた。

 しばらくすると客船の船員が出てきて、もうすぐ寄港する旨を大声で喚き散らしながら甲板を走り回っている。この船は一時間ほど寄港したのち、すぐに出港するらしい。

 それほど慌てる様子もなく、少ない荷物を整えながら修道女はため息を一つ吐いた。

 

「……芸術都市、ですか」

 

 さきほどの貴族の言葉を思い出しながら、ロゥ・オレの一般的な呼び名を口にする。そこに込められた意味を彼女はなんとなく理解していた。確かにかの都市は芸術家の卵が多く集まっている。だがだからこそ、なのかもしれない。

 商港へ降りた人物は商人と貴族で半々というところだった。割合貴族の方が多いように見える。その中に修道女が混じっているからといって、特に珍しがられることもなかった。貴族たちにとっては有象無象のひとつにしか見えないのかもしれない。

 その修道女はといえば、どうやら馬車に乗れるような金銭も持っていないらしく少ない荷物を担ぎ直しながら馬車が先を行く道を見据えていた。ここからロゥ・オレまでは歩いて半日ほどかかる。予定通りに到着することができれば、明日の朝には到着できる距離だ。

 それを苦に思うような様子もなく、修道女はほほえみを絶やさずに歩き始めた。

 

 

 翌朝、修道女はロゥ・オレへと到着した。

 街の入り口からぐるりと街中を見回しただけで、街全体がどこか浮足立った雰囲気を纏っていることに彼女は気がついた。貴族が訪れることなど日常茶飯事のはずなのでそれが原因とも思えず、近くを通りかかった貴族の一人を呼び止め理由を尋ねた。

 

「ああ、なんでも今天使様がこの街にいらっしゃっているそうだ」

「天使様? ……なるほど」

「天使様といえば、数々の魔法使いを屠ってきた救世主だろう? 誰もが彼を一目見ようと必死なのではないかな。かくいう私もその一人でね。そろそろ失礼させてもらうよ、シスター」

 

 早足に去っていく貴族の背を見つめながら、修道女はゆっくりとフードを脱いだ。フードの中に閉じ込められていた長髪がこぼれ落ち、彼女の存在感をより一層大きくする。道を急いでいた者たちは彼女の姿に足を止め、手の早い者は早速行動に移っていた。

 

「シスター、おお、シスター。麗しきシスター」

「ごきげんよう」

「あなたは美しい。月並みな言葉で申し訳ない。だが、言葉が出ないのだ。どうだろうか、私にあなたの美しさを筆で表現することを許してほしい。そしてその許しが通るのなら、どうか私のアトリエへあなたを招きたい!」

 

 口説いている相手が修道女だとは思えないほど情熱的なアプローチだった。

 

「あいや待たれよ! 貴殿の筆を貶めるわけではないが、その権利、私に譲ってもらいたく思う。シスターの麗しさはキャンパスなどでは狭すぎる。楽譜の上、延いては人々の心にまで届けるべきだとは君も思わんかね?」

 

 誰も許可を出した覚えはないにも関わらず、音楽家らしい男性は『表現する権利』について争い始めた。彼に続いて今度は彫刻家、小説家、俳優などが群がり始めた。数分もかからずに修道女の周りには人の群れが出来上がり、自警団が出張ってくるまでに騒ぎが広がってしまっていた。

 その中にいて、修道女はしきりに周囲を気にしていた。まるで人混みで迷子になった子供のように、忙しなくキョロキョロと首を動かしている。そして、彼女のお目当ての人物を見つけると同時にその人物から声があがった。

 

「街の玄関で何をしている。後ろを見ろ、馬車の通行が滞っているぞ」

 

 その声に促されるがまま、騒ぎを起こしていた者たち全員が馬車の方を向き直った。そこには、道を塞がれ立ち往生してしまっている馬車がいた。それも商人の馬車ではなく、貴族の乗る馬車だった。

 蜘蛛の子を散らすように群がっていた者たちは逃げていく。自警団は馬車に駆け寄り、どうにかして貴族の機嫌を取ろうとしていた。それに続くように声をあげた男も頭を下げた。

 

「お初にお目にかかる。どうか、ここは私に免じてお許し願えないだろうか」

 

 一瞬、貴族はその男に対し反論をする様子を見せたが、彼の身につけている装備を見た瞬間に顔色を変え「私も大人気なかったな」と苦笑いをしながらその場を去っていった。

 貴族の乗る馬車が見えなくなるのを見計らい、男は修道女に向かって歩き始めた。

 

「――、なに?」

「はい?」

 

 修道女の姿をしっかりと見た途端男の顔色が真っ赤になり、鼻息も荒く彼女に詰め寄ってきた。それに少々面食らいながらも、修道女は落ち着いて彼に対応しようと深呼吸を挟み、ほほえみを浮かべてから彼の言葉を受け入れる準備をした。

 

「以前に、私と会ったことはないだろうか」

「え……?」

「どうにか思い出せないか?」

「……ふむ」

 

 修道女はあごに手をあてながら自身の記憶の中に潜っていった。鋼の鈍さを彷彿とさせる()れた金髪に、猛禽を思わせる鋭い目とその中に収まった淡い色合いの碧眼。そして、装備の上からでもわかる鍛え上げられた肉体。

 じっと彼の顔を見つめるうち、修道女はとある面影に思い至った。だが、それをすぐに口に出してしまうほど修道女は不用心ではない。極めて自然に、ほほえみながら返した。

 

「いえ、今日初めてお会いします、天使様」

「……そう、か。いや、当り前だな。私の記憶でも、私が少年の頃に出会った人だ。もう三十年になるだろうか。もしや、あなたはあの人の娘なのやもしれないな」

「母、ですか」

 

 その言葉に修道女はもう一度考えを巡らせ、都合がいいと納得した上で彼の質問に肯定の答えを返した。

 

「もしや、瓦礫の街に一人生き残っていた少年、というのはあなたのことだったのですか?」

「なんと……! 本当に彼女のご息女だったのか」

「私の名は、ジュリエットと申します」

「ジュリエット。よい響きだ。私は〝魔毀の剣〟団長、フレデリック・ギルバート。あなたもご存じの、天使と呼ばれる者だ」

 

 そういうと男――フレデリックはすっと手を差し伸べてきた。友好の証として握手を望んでいるのだろう。修道女――ジュリエットはほほえみながら彼の手を握り返した。

 

「天使様は――」

「フレデリックでいい。私の恩人の娘なのだ、固いのは抜きでいこう」

「なら、フレデリックも崩してはどうです?」

「いや、もうこれで慣れてしまってな。もう元の口調など忘れてしまった。さて、立ち話もなんだ、私の泊まる宿に来ないか?」

「ですが……」

「心配するな。()()()()()()はないし、迷惑とも思わない。遠慮はいらない」

 

 ぐいぐいと押し込んでくるフレデリックに根負けする形で、ジュリエットは彼の泊まっている宿へ行くことになった。彼女自身、そのまま寝泊まりまでしてしまおうとは思ってはいないのだが彼がどう出てくるかはわからない。迂闊なことをしてしまったか、と一抹の不安を抱えながらも、ジュリエットはフレデリックについて宿へと歩を進めた。

 道中、一人でも目立つような人物が二人もいることもあり声をかけてくる者は少なくなかった。そうやって言い寄ってきた人をフレデリックは軽くあしらいつつ、歩みを緩めることはなかった。まるで、夕飯を心待ちに急ぎ足で帰る子供の様だと、ジュリエットは素直にそう思った。

 フレデリックが泊まっているという宿に到着すると、ジュリエットは驚きで思わず口をあけたまま呆けてしまった。これではまるで宿ではなく、貴族の屋敷ではないか。旅に出てから金欠続きだったこともあり、やわらかいベッドのある宿に泊まるだけで贅沢をしていると思っていたジュリエットにとって、すこし浮世離れした感覚があった。今までの彼女は一般的な人間の水準で生活していたが、なるほどこれが貴族の水準なのか、と改めて思うところがあった。

 フレデリックが泊まっている部屋に通されると宿を見たときほどではないにしろ、その立派な佇まいにジュリエットはここが宿であることを忘れてしまいそうになった。それに対して、フレデリックはこなれた様子でジュリエットをもてなしてくれた。

 ジュリエットの緊張が幾分ほぐれたところで、フレデリックは会話を再開した。

 

「さて、では何から話そうか。ジュリエットの母君はご健勝か?」

「いえ、もう随分会っていませんし、会えないでしょうから」

「……はしゃぎすぎてしまったな。すまない。では、今は何を? 修道服を着ているところから見るに、ここへは教会の使いで来たのか?」

「いえ、違います。旅の途中、ここに立ち寄っただけです」

「旅をしているのか」

「はい。その道中、天使様――フレデリックの噂もよく聞きました。幾人もの魔法使いを斃してきた救世の勇者だと。そして、この目で見て改めてその意味を理解しました」

「救世の勇者か。天啓に従い、神に与えられた力を振るう、人ならざる人。ゆえに人々は私のことを名では呼ばない。『救世主』『勇者』『天使』と呼ぶ。だが、考えてみれば私はそれに救われていたのかもしれない。人間では抗うことすらできない相手を屠る力が人にあれば、その者は一括りに化け物だが、幸い私は『天使』なのでな」

 

 自嘲の笑みをこぼしながら、フレデリックはそう独白した。

 やけに饒舌だな、とジュリエットは思った。命の恩人の娘(ロールプレイ)とはいえ、初めて会った相手にこれほどまでに自分の胸の内を曝け出すものなのだろうか。そこまで考えて、彼女はある一つのことに気がついた。

 先ほどのフレデリックの言葉からジュリエットは、彼は自分が人でなくなったことに憂いを感じているのではないのかと予想した。それをわざわざ掘り下げて聞くような真似を彼女はしないが、一つだけ言えることがあった。

 

「私が呼びますよ」

「……?」

「固いのは抜き、なのでしょう。()()()()()()

「あ、いや、これは参ったな。はは……っ!」

 

 単純に、自分を名前で呼ぶ者がいることが嬉しい。だが、それに気付かせられたきっかけが見た感じ二十近く歳の開いた少女だったという恥ずかしさもある。そんな嬉しさと恥ずかしさのないまぜになった表情を浮かべながら、フレデリックは照れ隠しとばかりに大声で笑った。

 そこからのフレデリックは、先ほどにも増して饒舌になった。ぽつりぽつりと話される話の端々に今まで彼が歩んできた道のりがどれほど厳しいものだったのかを、労せず理解するだけの抒情が込められていた。

 

「初陣で仲間は全員死んだ。世界中から集められた選りすぐりの騎士たちは、抗う暇もなく一瞬で魔法使いに喰われてしまった。あれほどの絶望は味わったことがない。恐怖と怒りでわけがわからず、気がつけば目の前に魔法使いが二人、横たわっていた。――〝魔毀の剣〟の一人には私が愛した女性もいた。この旅が終われば、一緒になろうと誓い合った人がいた。それすらも魔法使いは嗤って『糧』だと言った。その時の私はまだ拙い騎士だったから、復讐に燃えてひたすら魔法使いを殺して回ったよ。やがて私が救世主だ、勇者だと言われるようになり、ようやく気持ちの整理がついた。今はもう、復讐で剣を振るうことはなくなった。ただひたすらに人々を守りたいと思うようになった。私の剣は、そのために揮うべきなのだと誓いを新たにした――」

 

 そこまで言って、フレデリックは一旦話を区切った。彼が本当に言いたかったであろう、その後に続く言葉を飲み込んだようにもジュリエットには思えた。話が長くなった、と苦笑しながらフレデリックは続ける。

 

「今日泊まる宿は大丈夫か?」

「この街に到着してすぐここに寄りましたから、まだ取ってないんです」

「そうか。重ね重ね悪いことをしたな。この宿の一室を今から借りてこよう」

「そんな、それこそ悪いですよ。構いません、野宿でも」

「そう言わないでくれ。せっかくこうして出会えたのだから多少の面倒は見させてくれ」

 

 フレデリックの苦笑に問答をする気もなくなったジュリエットは渋い顔でうなずき、了解を得た彼はさっそく宿屋の主人に交渉をしに行った。フレデリックは数分もせず帰ってくると、出ていったとき以上の苦笑を湛えながらこう言った。

 

「部屋は借りられた。だが、なんというか、すまない」

 

 ジュリエットが案内された部屋は、王族の遣いの者たちや、高位の爵位を持つ貴族向けの部屋だった。天井は高く、部屋は視界に収まらないほど広い。絨毯の毛は柔らかく、足首近くまで伸びている。ベッドに至っては何の必要性があってそれほど飾り立てたのか理解に苦しむほどの装飾を施された絢爛豪華なものだった。それだけではない。インテリアから添えられた植物などに至るまで、どこに目をやっても高価なものが並んでいた。

 そのあまりにもあまりな光景に面食らっていると、いつの間にか自分の荷物を持ってきていたフレデリックがさらにとんでもないことを言い始めた。

 

「あの部屋から追い出された。――といえば語弊があるな。ここの主人、変な気を回して私とジュリエットを一緒の部屋に泊まらせると言い出してしまってな。その、なんだ。誓って、お前に変なことはしない。だから安心してくれ」

「いえ、まあ、そこは全く問題ないのですけど。その、本当に大丈夫なんでしょうか?」

「ああ、私もこういう感覚が麻痺していると自覚はしていたのだが、この部屋を見たときから余計に麻痺しているように思えてきた。だが、万が一に何があっても、ジュリエットにだけは責任がいかぬよう計らいはする。お前は安心してここで寝泊まりすればいい」

「……はあ。ありがとうございます」

 

 チラ、とジュリエットがフレデリックの顔を覗き見ると彼の顔は真っ赤になっていた。恋人がいた、というような話を先ほど聞いたばかりだったが、どうやらかなりプラトニックな関係だったらしい。いい歳をした男がこれでなかなか可愛いものだ、とジュリエットは彼に気付かれないようにほほえんだ。

 その後も、フレデリックは終始楽しそうにこれまでのことを語っていた。

 どれほど辛いことがあったか、悲しいことがあったか、だがそれらも今では得難い経験として役立っていると話すフレデリックの表情に嘘はなかった。この人物は、本当に何もかもを乗り越えてきたのだろう。まず始めに両親との死別を、そして仲間との死別、ひいては恋人との死別、そうして理解した自分はもう人間ではないという事実。話にはあげなかったが、それ以外にも彼の大切だったものはことごとく魔法使いに奪われていったのだろう。

「辛かったですね」とフレデリックに声をかけるのは簡単だったが、ジュリエットはそれをしなかった。それ以上に彼女は彼に伝えたい言葉があった。これまでの戦いに対する労いではなく、これからの戦いに対する励ましでもなく、これまでもこれからも、フレデリックが魔法使いを斃し続ける天使でいる限り、ジュリエットはその念を薄れさせることはないだろう。

 だから一言、ジュリエットは頬に涙を伝わせながら言った。

 

「ありがとうございます」

 

 急に感謝されたフレデリックは混乱し、ジュリエットの涙がそれをさらに助長させた。

 慌てふためくフレデリックを落ち着かせ、涙を拭き、もう大丈夫であることをジュリエットは主張したが彼はそれでもまだ心配らしく、そのうえ自分の話が原因で涙を流してしまったのだと思い込み始め、しきりに頭を下げていた。

 誤解が解ける頃には時計が正午を告げており、それならば、とフレデリックはジュリエットを食事に誘った。彼女は彼の意図を理解し、断るような無粋なことはしなかった。宿備え付けの食堂へ足を運び二人だけの昼食会(ランチョン)となった。その間にも、二人はお互いが経験してきた旅の記憶を語りあい、仲を深めていった。

 気分がいいと言って、フレデリックは食後酒も頼んでいた。彼はジュリエットにも飲むよう勧めたが、さすがに真っ昼間から飲むようなことは彼女もしたくなく、丁重にお断りした。少量とはいえ、アルコールを摂取していささか気が大きくなったのか、フレデリックはこの後街に出ようとジュリエットに申し出て来た。

 ジュリエットとしても、街の地理を知ることは必要だと思っていたところへ、フレデリックのこの誘いである。もちろん断る理由もなく彼女は二つ返事で了承した。

 街道は基本的に広く、広場もそこら中に点在している。街にいる人間、というのは早々一目で見分けられることは少ないのだが、このロゥ・オレでは違った。貴族やそれに近い立場の者と、自称表現者であるこの街の住人ではその服装にも顕著に違いが現れていたからである。それを見て、ジュリエットが思うことは多くない。

 ――飼い殺しか。

 

「今日はあまり見かけないが、この一ヶ月で見た頻度からすると、きっとジュリエットもウォールアートやフロアアートをしている者を見ることができるだろう。あれはなかなか面白かったな。私も一度、この街を訪れた記念として魔毀の剣の紋章を描いてみようかと思ったが、いかんせん絵心がないのであきらめてしまった」

「あの、フレデリック」

「なんだ?」

「この街の人々は、もしかしなくとも……」

「……あの短時間でお前が聡明であると見ていたが、どうやら間違いではなさそうだ。だが、ここでそれは言わない方がいい。彼らは熱狂的な信徒だ。もちろん宗教的な意味ではない。それを口にすれば、ジュリエット、お前がどうなるかくらいわかるな?」

「水を差すような真似をして申し訳ありませんでした。さあ、続きをしましょう」

「――ああ。さて、広場にでも出てみるか。今の時間なら、大道芸をしているかもしれん」

 

 そのような調子で、ジュリエットとフレデリックは日が暮れるまで街を歩いて回った。

 だいたいの地理とどこに人が集まりやすいのかを把握したうえで、ジュリエットが抱いたこの街の感想は「歪んでいる」ということだった。皮肉的と言ってもいいだろう。

 表現者たちは本気で自分が認められるために努力を重ねているのは間違いない。それを助けるための設備がこの街には溢れかえっている。救貧院と見紛うほどのアパートがそれに当てはまるだろう。食事が摂れる金さえあれば、この街にいる限り芸術に没頭できるようになっているのだ。この街に芸術家たちがこぞって集まってくるのは、そういうところがあるからなのだろう。

 だがそう考えるとこの街はおかしすぎる、ということに気がつける。この街は街として全く機能していないのだ。住人のほとんどが芸術に没頭しており、そんな彼らが住んでいる場所はほぼ無償で提供されている部屋。それを知っただけで、この都市がどれほどおかしいかがわかるというものだがそれだけではないから性質が悪い。

 芸術という火に群がり、燃え滓として散っていく蛾のような者たち。

 ――そういった光景を、楽しんでいる貴族たち。

 

「……歪みはすれども、それもまた美しき流れ。世を映す鏡のような人々の欲望。救いたいといえば偽善ですが、ただ眺めるだけというのも慙愧(ざんき)があります。ならせめて、彼らの創作に手を貸すことはできないでしょうか?」

「――なるほど。お前が修道女の格好をしている理由がわかったよ」

 

 このとき、フレデリックは皮肉ではなく彼女の態度に素直に感心していた。貴族らがそうであるように、どこの馬の骨とも知れない者に自分をモデルに創作をしてくれ、というのは懐が大きくなければなかなかできることではない。彼自身はただ付きまとわれるのがうっとうしいという理由で断り続けていたが、ジュリエットが言うような理由なら付き合ってやるのも悪くはない、と思えたのだ。

 夕方、宿に帰る途中に声をかけてきた一人の画家がいた。先ほど話していたこともありジュリエットとフレデリックは二つ返事で彼の誘いにうなずいた。持ちうる限りの言葉で首を縦に振らせようとしていた画家は、二人があまりにもあっさり「描いてくれてもいい」と言うものだから、拍子抜けしながらも次の瞬間には狂喜乱舞し始めた。

 実際、フレデリックという人物を描ける意味は彼にとってとても大きい。世に出るかどうかまでは二人も面倒を見切れないが『天使』という救世の勇者を描いた絵ということで、後の世で莫大な価値が見出される可能性もある。

 

「それでは明日の朝、私のアトリエでお二人をお待ちしております!」

 

 それからは誰に声をかけられるでもなく二人は宿まで帰り着き、夕食もほどほどに眠りにつくことにした。フレデリックはジュリエットに過剰とも言えるほどの気遣いを見せ、彼女が今まで泊まってきた部屋一つ分ほどはあろうかというベッドを叩き斬ろうとさえしていた。ジュリエットが聞くところによると、フレデリックは「結婚もしていない男女が云々」という信条を持っているらしく、父親と娘ほどにも歳が離れた彼女にさえそれは有効であるとのことだった。聞く人が聞けば潔癖とも取れるほどの徹底振りだが、本人は至って大真面目に事を捉えている。

 結局ジュリエットが先に折れ、別々に寝ることに決まった。

 

「では、私はあのソファで寝ますので」

「は? いや、何をいう。ジュリエットがベッドを使え」

「大丈夫です。あのソファ、私が今まで泊まってきた宿のどのベッドよりも寝心地がよさそうですから。フレデリックは気にせずそちらのベッドを使ってください」

「違う! 寝心地とか、そういうのを言っているわけじゃない。事ここに至って女性をベッドで寝かさなかったなど、騎士として、いや男としてあるまじき行為だ。そういうわけなのだ。どうかお前はベッドを使え」

「しかし……」

「何、お前も言っただろう。あのソファは、今まで泊まってきた宿のどのベッドよりも寝心地が良さそうだと。なら問題ない」

「……寝心地がどうとか、先に言ったのはフレデリックじゃないですか」

「残念だがこれだけは譲るつもりはない。男の意地だ」

「まったく。わかりました。では、こちらのベッドを使わせてもらいますね」

 

 やることなすこと一つ一つに悶着があるな、と思うジュリエットではあるが、そうしている間の自分がどことなく活き活きしていることにはもちろん気が付いている。純粋に楽しい、というだけならば今までの旅の中でいくつも経験してきた。だが、フレデリックといる自分がそれとはまた違った感情を抱いていることも確かなのだ。

 他の誰にも感じたことのないほど感謝を、ジュリエットはフレデリックに感じている。

 

「ありがとう、フレデリック」

 

 もう寝てしまったのか、ジュリエットの言葉が照れ臭かったのか、フレデリックからは返事がなかった。彼女もそれ以上は話しかけることなく、一日の疲れを抱きながらまどろみの中へと落ちていった。

 

 

 翌朝、二人は昨日出会った画家がアトリエとして使っているアパートの一室へと向かった。

 教えてもらった部屋番号を確認してから、ジュリエットがドアをノックした。

 

「ごめんください。昨日、モデルにならないかと声をかけていただいた者ですが」

 

 しばらく待ったが反応がない。もう一度ノックして、同じ言葉を復唱するもやはり反応はなし。朝早いこともあり、あまりノックと大声を出し続けるのも隣近所に迷惑になると思っていたところで、ようやく部屋の中から反応があった。

 ガタガタと騒がしげな音が聞こえ、バタバタと走り寄ってくる音も聞こえた。勢いよく扉が開いた先には、息を荒くした昨日会った画家がいた。目の下のクマを見る限り昨夜は遅くまで起きていたことが窺える。

 

「おはよう、ご両人。すまないね、ちょっと居眠りしてしまっていたようだ」

「おはよう。お構いなく。改めて、フレデリック・ギルバートだ」

「ジュリエットと申します。よろしくお願いします」

「こりゃ、オレみたいなヤツにご丁寧に。ミック・マクレガーだ。こちらこそ、あんたらみたいな人を描けると思うだけでワクワクするよ。よろしく」

 

 画家――ミックは、昨日とは打って変わったかなり砕けた態度だった。口説くために向こうも必死だったのかもしれない。立ち話もなんだ、と部屋の中に招かれ、ジュリエットとフレデリックの二人はミックに続いて部屋へと入っていった。玄関を抜けて部屋に入ると、すぐに油絵の具のにおいに包まれた。その慣れないにおいにジュリエットとフレデリックは顔を歪め、そんな二人の表情を見たミックは苦笑いを浮かべた。

 

「まずは紅茶でもどうかな。あまりいいものは出せないけどね」

「わざわざありがとうございます。フレデリックはどうします?」

「私は結構だ。気を遣わせてしまったな」

 

 ミックは「適当なイスに座って待っていてくれ」とだけ言うと、さっさと紅茶を淹れに行ってしまった。ただ待っているだけというのも手持ち無沙汰になってしまうな、と二人だけで残された部屋の中をジュリエットはぐるりと見渡してみた。汚い、というわけでもないのだが、おおよそここで生活しているというのが嘘に思えてくるような部屋だった。具体的には生活に必要であろうモノがないのだ。それは机であるとか、ベッドであるとか、紅茶を出すと言っていた手前カップはあるようだが、それ以外は怪しいものだった。

 その代わりというわけではないだろうが、部屋中に絵の具や筆が散見できた。食事も筆で摂っているのではないか、と疑いたくなるほどの使い込み具合で、ミックがどれだけ絵画に心血を注いでいるのかがよくわかる部屋だった。

 しばらくするとミックがカップに入った紅茶を二つ持って帰ってきた。それぞれをジュリエットとフレデリックに渡すと、説明する暇もなく彼はキャンパスと向かいあってしまった。テキパキと準備を進めるミックをボケッと見ていた二人に彼も気がついたのか、朗らかな笑顔を浮かべながらこう言った。

 

「オレはね、あんたらの自然な姿を見たいんだよ。モデルになってくれと言いはしたが、別にあんたらの自由を奪ってまで描こうなんて思っちゃいない。まあ、ここにいてもらわなきゃ描けないから、半日くらい軟禁するみたいになっちまうがね」

 

 わはは、とミックは豪快に笑う。もちろん、絵画が一日そこらで出来上がるとはジュリエットもフレデリックも思っていない。ミックが言っているのは、完成するまで毎日という意味なのだろう。

 

「じっとしているよりは、幾分かマシか」

「そうですね」

「そう言ってもらえると助かるね。じっとしてもらってもいいけど、人間動かないとどういう奴かわからんだろう? 口にしろ、身体にしろ、心にしろ」

 

 もう一度笑い、ミックは再び筆を構えた。キャンパスと向かい合った彼の目が、すうっと細くなる。乱暴にさえ見える筆運びで、油絵の具をキャンパスへと塗りつけていく。それを見たフレデリックは「案外早く終わりそうだな」とジュリエットに耳打ちした。

 だが、そうそう上手く事が運ぶはずもなく、日が暮れ始めた頃ミックが渋い顔をして「今日はもう終わりにしよう」と言った。フレデリックは自分がどう描かれているのかが気になって仕方がないのか、そそくさとキャンパスを覗きこむとミック同様渋い顔をした。

 

「あれだけ筆を走らせていたのに?」

 

 フレデリックが思わず、といった感じで口にした言葉の意味を知るために、ジュリエットもキャンパスを覗きこんでみた。すると、キャンパスには人の身体だったらしい絵が描かれてはいたのだが、フレデリックが言っていた通りあれだけ時間をかけて描いていたわりには絵としての体をなしていなかった。

 

「そう急かさないでくれよ。オレだってあんたらをあんまり拘束する気はないんだ」

 

 だから、もう少し付き合ってくれ。ミックは言外にそう言っていた。

 それからちょうど二週間、ミックのモデルとして二人は彼のアパートへと毎日通い詰めた。特に変わったことをしていたわけではないが、ジュリエットにとって充実した毎日だったことには違いない。

 朝、ジュリエットがフレデリックを起こし、二人で揃って宿を出る。ミックのアパートへ行くまでに一日分の食料を朝市で買う。ミックのアパートに到着すると、彼は一杯の紅茶を淹れて出迎えてくれる。ここしばらくのルーチンワークになった一連の朝の行動を終えると、ジュリエットとフレデリックは自由時間を満喫し始める。フレデリックは暇さえあれば装備の点検をしているし、そうでなければ街の地図を見ながらどこに魔法使いが潜んでいるかを考えている。ジュリエットはといえば、自作小説を売っていた作家から買った本を読んだり、床に転がっているキャンパスや筆、絵の具を借りて簡単な絵を描いていたりして暇を潰していた。

 何かすることがあれば時間の流れは大きく違うもので、二人がそうして過ごしていると二週間などあっという間だった。

 モデルを始めてからちょうど二週間後の昼を回った頃、突然、ミックは今にも泣き出しそうな顔をして勢いよくガッツポーズを決めて小躍りを始めた。上手く絵が描けないときの奇行は二人もよく見たが、それとはまた違った行動だったのでどうしたのかとミックに問いかけた。

 

「完成だ! いや、我ながらいいものが描けたと思うね!」

「ほう、そうか」

「お疲れ様です。それで、その絵は?」

「ああ、見てくれ。気に入ってくれたら、オレも描いた甲斐があるってもんだ」

 

 そう言って、ミックはジュリエットとフレデリックに描いた絵画を見せてくれた。

 そこには、当り前だが、二人の男女が並んで描かれていた。

 深い藍色をした修道服に身を包んだ女性は、すっと背筋をまっすぐに伸ばし、隣に立つ男性に寄り添うように描かれていた。対して男性は、軽鎧に身を包み〝魔毀の剣〟の紋章を刺繍した赤地のサーコートを誇らしげに着こなしている。二人には実際にそのようなポージングをした覚えはないのに、まるで見て描いたような現実味がミックの絵にはあった。

 心に響くような何かがあったわけではない。

 見惚れるような美しさがあったわけでもない。

 だが、まるで鏡を覗いているような、どこか不思議な感覚がその絵からは感じられた。

 

「自惚れとは違うと断っておくが、見ていて飽きないな」

「ええ、そうですね。なにか、不思議な心持ちです」

「……この絵のように、私もお前を守りたいものだな」

「大丈夫ですよ。ミックには、充分そう見えているようですから」

 

 ミックには、この二週間でジュリエットがフレデリックに大きな信頼を寄せていることが見て取れたのだろう。寄り添うように描かれている女性がその証拠だった。そして女性をそう見るならば、誇らしげに立つ男性も『天使』や〝魔毀の剣〟団長といった肩書ではなく、女性を守ることにこそ誇りを感じている、とも見ることができる。

 無論、それらは全てミックが感じたものであり、真実ではない。

 だが、限りなく真実に近くなければ、これほどまで現実味を帯びた絵を描くことなどできないだろう。それに気がついたからか、フレデリックは照れて顔を赤くし、そっぽを向いてしまった。

 

「どうしました?」

「いや、こんな歳のいった男の照れた顔など、見ても不快なだけだろう」

「そんなことありませんよ。少なくともそうやって照れてくれるってことは、思い当たる節があるってことでいいんですよね?」

「意地が悪いな、お前は」

 

 そうは言うものの、フレデリックはジュリエットの言葉を否定しなかった。

 そんな二人の様子を傍で見ていたミックは、思った通りだ、とでも言わんばかりの笑顔を浮かべていた。

 

「……ともかく、ミック。これで私たちの仕事も終わりということだな?」

「ん? ああ、そうなるかね。大した礼もできそうにないが……」

「そんな結構ですよっ。こんなに素晴らしい絵を描いていただけたんですから、お礼なんて」

 

 そうですよね、とジュリエットはフレデリックに尋ねると、彼は二つ返事で肯定した。そもそもの提案はジュリエットでありフレデリックは付き合っていただけなのだが、この絵を見れば文句の言い様がない。もちろん謝礼があるのならもらっていただろうが、無理に出してもらう必要はない、というのがフレデリックの正直な気持ちだった。

 

「そりゃこっちは助かるが……」

 

 本当にいいのか? とミックはフレデリックに視線を送る。

 その視線をもらってフレデリックは苦笑する。彼はジュリエットの意見には賛成だし、今さらそれを撤回する気もない。ただ正直な言葉を自分の口から言うのは恥ずかしいのか、一言、「連れが言うのだから、それでいい」と返しただけだった。

 

「二週間だけでしたが、お世話になりました」

「おっと、そりゃこっちのセリフだ。モデル、お疲れさん」

「ミック、絵はどうするつもりなのだ?」

「なんだい、やぶからぼうに。売ることも考えたが、アンタらみたいなモデルを描いたからか愛着が湧いちまってな。死ぬまで手元においておくことにしたよ」

「もったいない、と思うのは私が芸術を嗜んでいないからか」

「だろうな。オレにとっちゃ、売るってことがもったいないぜ」

 

 その言葉を聞き、フレデリックはミックに絵を描いてもらえてよかったと初めて心から思えた。これが私欲にまみれた画家だったのならば、臆面なく売名に使っていただろう。だが同時に、フレデリックはミックに対し疑問に思うところがあった。芸術都市であるロゥ・オレに来て絵を描いているということは、少なからず()()を望んでいるはずであり、そのために絶対的に有利になるだろう天使様と美少女という組み合わせを描いた絵は、この街にいる全ての芸術家垂涎のモデルであるに違いない。

 それにも関わらず、ミック・マクレガーという男はそれを「しない」と言う。

 不思議な奴もいたものだな、と心の中だけで呟き、フレデリックはジュリエットを伴って少し早い夕食を摂るため宿へと足を速めるのだった。

 

 

 結論から言えば、フレデリックは焦っていた。

 ジュリエットに付き合って画家に絵を描かせたはいいが、二週間は正直痛かった。

 半年前の天啓で知らされた今回の『選定の儀』は、もう目の前まで迫ってきていた。具体的には残り一ヶ月を切っており、これまでの経験から魔法使いを斃すための制限時間としてはかなり危なげなスケジュールになることは予想出来ていた。

 フレデリックがこの街に着いたのはちょうど一ヶ月と二週間前。初めの一ヶ月でロゥ・オレの地理はだいたい頭に詰め込んだが、いつものスケジュールならその後また一ヶ月をかけて路地裏などを見て回るところを、今回に限ってはジュリエットというイレギュラーが入った。結果として二週間が潰れ、人工の迷宮ともいえる街の裏路地を把握するには至っていない。

 その焦りはジュリエットにも伝わったようで、「手伝いましょうか」と提案をされてしまうほどだった。だが、たかだか修道女一人に手伝ってもらったところで何が変わるわけでもない。せっかくの申し出だが、フレデリックは丁重に断りを入れた。

 少し考えてみれば、一人で旅をしている修道女ということもあり、護身術程度なら身につけているだろうし、危機管理能力も人並み以上には持っているだろう。フレデリックはそんな考えに行き着かなかったわけではないが、それを含めても魔法使いという相手は規格外なのだ。

 魔法陣を一つ発動させただけで、ときに百を軽く超えるほどの人の命を容易く奪う。人はそれに抵抗することさえできない。まさに、人類の天敵と言える存在。だから、護身術程度を身につけているだけでは自分を守れないし、人並み以上の危機管理能力があればそもそも「手伝う」などというセリフは出てこないはずなのだ。後者はフレデリックを信頼しての言葉と捉えれば、そこまで諭せるようなものではないのだが。

 ともかく、フレデリックには時間がなかった。

 地図を見ただけではわからない、路地裏の把握を大急ぎで進めた。朝も昼も夜もなく街中を歩き回り、宿に帰らない日まであった。ジュリエットはそんなフレデリックのことを心底気にかけていたが、彼は絶対に手伝わせてはくれなかった。

 時間にして一週間。いつもの半分以下の時間で把握を終えたフレデリックは、心身ともに疲れ切ってしまっていた。なるほど、ゆっくり一ヶ月かける理由はこれか、とジュリエットはどこかズレたところに感心した。

 フレデリック自身は大丈夫だと言ったのだが、あまりの疲労ぶりにジュリエットが丸一日、彼を無理矢理ベッドに寝かしつけた。案の定フレデリックはすぐさま眠り、昼前に寝たというのに翌日の朝に目が覚めていた。

 

「……寝過ぎたな」

「そうですか?」

「時間がないことはもう話しただろう。残り一週間強。魔法使いの正体を暴き、住人の避難を行うには、寝る暇も惜しまなくてはならない」

「……ですから、私も手伝うと言っているじゃないですか。住人の避難程度なら私でも問題ないはずです」

「本当にそう思うのか? 言ってはなんだが、お前は修道女だ。私の言葉添えがあったとしても、頭の固い貴族どもが動くと思うか? もし動いたとしても、ここの住人である芸術家たちを誘導する、というような殊勝な行動を取ると思うか? 残念だが、人間誰しも出来のいい奴ばかりじゃない。私が動くしかないんだ」

「ですが……」

「お前が司祭ほどの権力を持っていたのなら話は別だがな。放浪修道女がそんな高い位階を冠しているとは思えないし事実なんじゃないか? だから、大人しく待っていてくれ。たぶん、ジュリエットには住人の避難と並行して街を離れてもらうことになる。荷物も近々まとめておくといい。いざというとき、慌てずに済むぞ」

 

 誰が見てもわかるほど、フレデリックはイラつきを隠そうともせずにそう言った。ほとんど八つ当たりに近い物言いだった。ジュリエットとしては、彼の目的が遅れているのは自分にも責任があると思ってのことなので「手伝う」といっているのだが、当のフレデリックは「役に立たないし危ないから大人しくしていろ」という。その割にはジュリエットに対して「お前のせいで」と責めるようなニュアンスまで滲ませている。

 これ以上問答を続けても意味はないとジュリエットは判断して静かに部屋から出ていった。ジュリエットが扉を閉める直前に見たフレデリックの顔は、今にも自害してしまいそうなほどに追い詰められている様子が窺えたが、彼女はそのまま黙って扉を閉めた。

 ジュリエットが宿のエントランスまで降りてくると、宿の主人がへこへこと媚びへつらいながら「お出かけですか?」と尋ねて来た。「少し散歩を」とだけ答えると、ジュリエットは早足でその場を離れ、一番賑やかな時間を迎えるロゥ・オレの街へと繰り出していった。

 相変わらず声をかけてくる者がいたが、ジュリエットはそれらを丁重に断りつつ都合一週間振りとなる()()()へと足を向けた。ドアをノックすると、すぐさま返事が返ってくる。

 

「ジュリエットです。突然すいません」

「おお、アンタかい」ドアを開けながら、相変わらずの表情でミックは続けた。「立ち話もなんだ。中へ入ってくれよ。またアンタに紅茶を淹れる日が来るなんて思ってなかった」

 

 油絵の具のにおいにはあの二週間で慣れたとジュリエットは思っていたが、一週間のブランクがあっただけでまた元通り、思わずにおいに顔を歪めてしまった。

 ミックから紅茶を受け取り、一口飲んだのを確認してからミックの方から口を開いた。

 

「それで、何の用かね。やっぱりモデル代か? それとも、もう一度モデルになってくれる、とかだったりしないもんかね? 天使様の手前言い辛かったんだが、やっぱり描くなら野郎よりもアンタみたいな美女がいいね、オレは」

「そういう話ではないのですが、頼みたいことがあるのです」

「頼みたいこと? ああ、いいともさ。礼代わりになるなら、それもいい」

「――()()()()()()()()()。この街の住人の避難を呼びかけてはくれませんか」

「おっと、こりゃまた。隠してたつもりなんだけどなあ……」

「フレデリックは気付いてなかったでしょうけどね。不思議な方、ぐらいの認識だったんじゃないでしょうか。まあ、彼はこの紅茶を一口も飲んだことはなかったはずですから、気付かないのも無理はありません。後で聞いたのですが、彼はコーヒー派なのだそうです」

「なるほどね。安い葉の紅茶は飲めたもんじゃないからな、自然とそういうのも高いものを買っちまうんだよ。修道女だからって高を括ってたら、まさか紅茶の味がわかるなんてな」

「他の方は存じ上げませんが、修道女だからといって紅茶を飲まないわけではないのですよ。それはともかく、ご協力いただけませんでしょうか?」

「理由を聞こう。まあ、大方予想はつくがね」

「フレデリックの作業が、あの二週間のために大幅に遅れてしまっているのです。その作業というのが、いわゆる魔法使い退治のための準備でして」

「大当たりだったな。まあ、そうだろう。アンタに礼を断られたときに正体を明かして無理矢理にでも手伝う流れにしとけばよかったって、今さらながらに思うね」

「なら……!」

「ああ、協力してやるさ」

「あ、ありがとうございますっ!」

 

 ジュリエットとミックのそのような会話の二日後、住人と貴族、そして行商人などの一斉避難が始まった。ミックが市長や他の貴族に呼びかけている間にジュリエットは彼について回っていたのだが、その時知った彼の爵位というのがなんと伯爵だった。曰く、家は息子にすでに譲っており、今は自由気ままな隠遁生活中ということらしい。

 避難場所に選ばれたのは、徒歩で半日ほどかかる最寄りの商港だった。初め商港だけでは収容しきれないのではないかとジュリエットは思っていたが、その心配は杞憂に終わった。貴族たちは我先にと船に乗り込み港を離れ、行商人も同じく脇目もふらずにどこかへ去って行ってしまった。となると残りは自称芸術家であるロゥ・オレの住人だけとなり、商港にある倉庫でも充分に収容できる人数となった。

 驚いたのは、住人(げいじゅつか)住人(げいじゅつか)だと思っていた半数以上がミックと同じ貴族であり、彼らも総じて余生を過ごす目的でロゥ・オレに滞在していた、ということだ。この事実にはジュリエットだけではなく、ミック自身も驚いていた。

 いよいよあの街の存在理由がわからなくなってきたな、と苦笑を浮かべてミックは言った。

 確かにその通りだ、とジュリエットもミックの言葉に首肯した。元は芸術家を育てているという建前の見本市だったというのに、その街にいた半数以上が自らの趣味で余生を過ごしていた貴族だというのだから、笑い話にもならない。

 丸々三日をかけて避難は行われ、ジュリエットがミックに相談した日から数えてたったの五日でロゥ・オレは人っ子一人いるはずのない、ゴーストタウンへと変貌した。途中、フレデリックとも顔を合わせており、この避難の理由も話しておいた。驚いた表情をしたのち、渋い顔をしながら、彼は「無茶をするな」とジュリエットを窘めるだけに収まった。あれほど侮っていた少女が、知恵を振り絞り住人の避難という難題を解決してしまったのだ。フレデリックにしてみれば褒めてやりたいところだが、立場上そうも言っていられない。避難を呼びかける途中、魔法使いに見つかって殺されていたかもしれない、ということを考えると、しっかりと彼女を叱っておかなければいけない、という親心のようなものが働いてしまったのだ。

 その後、フレデリックはミックに頼み、ジュリエットも港に連れて行ってくれるように言った。ジュリエットは渋々それを了承したが、港へ着くと同時に、ミックに向き直り「フレデリックに伝えなければいけないことがある」と言って、ミックの制止も振り切って走り出してしまった。もちろんそれは建前であり、彼女自身が魔法使いである手前、一週間後に開始される『選定の儀』の時にその場にいなければならないからである。だが、伝えなければならないことがある、というのは決して嘘ではなかった。

 それを知るはずもなく、ロゥ・オレへと戻ってきたジュリエットを見たフレデリックは、鬼の面のような表情になりながら彼女を静かに叱責した。

 

「どうして戻ってきた」

「あなたに伝えることがあったからです」

「……それは理由にならない。ここにいるのは、魔法使いと私だけだ。それが何を意味するのか、わかっていてここに戻ってきたのか?」

「充分理解したうえでここに戻ってきました。そして伝えたいことというのは、それを無視してでも伝えなければならないことなんです」

「なら今すぐ聞こうじゃないか。そして、言った後に必ず戻れ」

「戻ってしまえば、私は死にますよ?」

「……? どういうことだ」

 

 ジュリエットは、伝えなければならないことを、ゆっくりと口にした。

 

 

 一週間後、ロゥ・オレへは霧雨が降り注いでいた。

 街の入り口から続く広場には、フレデリックが一人で立っていた。霧雨に濡れた装備からは水滴が落ち、どれほどの時間、そこに立っていたかを物語っていた。

 

「……来たか」

 

 天を仰ぎながら、フレデリックが呟く。

 誰が答えるわけでもなく、ただ呟く。

 フレデリックが視線を街道へ戻すと、霧雨にぼんやりと人影が浮かび上がっていた。

 ゆっくりとこちらへ向かう足取りはまるで幽鬼であり、一目でそれが人外の者だということに気がつける。

 ――つまり、魔法使い。

 

「一週間ぶりか、ミック」

「……皆心配していたぞ」

「さて、その皆はどこにいるというのだろうな」

「どこ、とはどういう意味なんだろうね」

 

 瞬間、万雷のような鐘の音が天空から落ちて来た。

 数分間鐘の音は鳴り響き、余韻が残るなかで、ミックは淡々と語り出した。

 

「そうか、もうバレていると考えていいのかね」

「ほう。認めるのか?」

「認める? おいおい、何を認めるって?」

「お前は魔法使いなのだろう?」

「まさか、そんなはずないだろ。オレは人間さ」

「……探り合いも疲れるんだがな?」

「探り合い、か。探っているのはアンタだけだろ。疲れてくれるならこっちとしては助かるがね。だけどどうする? アンタがオレに斬りかかって、本当は魔法使いじゃなかったら」

「…………」

「事実が必要か? 理由が必要か? 今さら、人間を斬るのが怖いとでも言うのか?」

 

 飽きた、とばかりにミックが片腕を掲げ、瞬間、彼の足元に魔法陣が広がった。

 霧雨を吹き飛ばしながら、()()()()()()()()()()()()()()()()

 雨が降っていたおかげで土煙はそれほど激しく起こることはなかったが、代わりに風圧で飛んできた雨粒がフレデリックの肌をチクチクと刺激した。

 

「やはりお前か、ミック・マクレガー!!」

「そうだとも《神の抑止力(てんし)》様よ! オレが、魔法使いだ!」

 

 しかし、巨大な何かが落ちて来たはずだというのに、フレデリックにはそれが一体何なのかがわからなかった。それがあまりにも巨大なためでもあったが、姿()()()()()()()という理由もあった。落ちて来たとはいうが、地面から盛り上がってきた、と表現した方が、その物体の見え方からすれば適切なのかもしれない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()()()()()()()()()

 小山のように地面が盛り上がって見えるそれは、どうやら胴体らしい。その胴体らしき小山からは、大木が根を張るように、数本の腕らしきものをだらしなく伸ばしている。

 巨大な体躯の全容を観察するうちに、フレデリックは答えに辿り着いた。

 

「擬態か……。それにこの潮の臭いは、海洋生物?」

 

 霧雨のためにある程度の臭いは落ちて嗅ぎ取りにくいが、それをしても余りある磯の香りがフレデリックの鼻腔をくすぐる。そして、全ての思考が噛み合った瞬間、フレデリックの背筋が凍りついた。

 

「『魔物』を創り出したのか」

「ご明察。なるほど、伊達に魔法使い退治はしていない、と言ったところだな」

 

 その一声を皮切りに、ミックの後ろに待機していた魔物の腕が勢いよくしなり始めた。

 フレデリックは咄嗟にバックステップで距離を取った。どれほど距離を離せば安全なのかすらわからない状態ではあるが、あの巨体を見渡せる位置にいるといないとでは判断材料の数が段違いに変わってくる。

 

「甘いぞ、距離を離せば安全だとでも思ったか!」

 

 ミックの叫びにフレデリックが視野を広げると、前方の腕で隠れて見えなかった後方の腕が四本、石畳を抉り出し、こちらにむかってそれを投げつけてくる瞬間が目に入った。

 フレデリックは即座に佩剣に手を伸ばし、剣を引き抜く。両手に握りしめた剣を、渾身の力で横へと薙ぐ。剣閃は空を裂き、土石流のように流れ込む石畳を一振りで一掃した。破壊的な剣圧はそれでは足りないとばかりに中空でゆらゆら揺れていた魔物の後方の腕二本をも斬り落としていた。

 

「ちぃッ」

「甘いのはそちらだったようだな。私はこの程度で殺されはしない」

 

 ミックが歯軋りし、魔物に指示を出そうとした瞬間にはフレデリックは一気に彼の懐まで飛び込んできていた。怒りや憎しみ以上に、この瞬間だけは恐怖がミックを支配した。

 寸でのところで魔物の腕がフレデリックを横から殴りつけ、勢いそのままに建物の壁に直撃し、フレデリックは瓦礫の山に埋もれてしまった。だが、そこまでしてもミックの心は休まらない。今見た踏み込みは、尋常のものではなかった。魔法使いであろうと、あの踏み込みを真似ることなどできない。

 魔法使いは、あくまで人間がベースになっている。身体能力は魔法で強化することもできるが、直接魔法を使った方が効率的であるし、殺傷能力から言ってもその方が上だ。つまり、魔法ありきの戦い方をするしかないのが、魔法使いの弱みなのだ。

 その点《神の抑止力》である天使は、元々は人間だが魔法使いたちのように人間のまま、というわけではない。姿かたちは人間のままだとしても、生物としての次元は人間のままではないのだ。膂力と頑丈さに至ってはこの世に現存する何者にも負けず、そのうえ神の加護を受けているために魔法陣による魔力化は無効、そして魔法すらも砕く力を持っている。

 魔法という武器を身につけ驕りたかぶった、ただの人間である『魔法使い』。

 神という存在に祝福され、魔法使いを狩る使命を持った元人間である『天使』。

 本当のただの人間からすれば、そのどちらもが化け物と捉えられるほどの力を持った存在であるはずなのに、割合『天使』が人々に受け入れられているのは、フレデリックの人となりによるところが大きいのだろう。

 

「油断したか……」

 

 大きく吹き飛ばされたフレデリックが瓦礫に埋まった身体を何事もなかったかのように起こし上げる。

 魔物の腕は一本一本が大木ほどの太さを持ち、そしてそれそのものも筋肉の塊である。それに無防備なまま殴られでもすれば五体満足でいられるはずがない衝撃が身体を襲う。だが、それの直撃を食らったはずのフレデリックには、傷一つついていない。申し訳程度に埃が濡れた装備にこびりついたぐらいで、擦り傷一つ負ってはいない。

 

「化け物が……」

 

 ミックが呟く。それが聞こえたのか聞こえなかったのかはわからないが、怒りの感情を前面に押し出した顔をして、フレデリックが再び剣を構える。ずしり、と空気が重くなる感覚がミックを襲う。

 

「アイツを殺せ!」

 

 それを払拭しようと、ミックが声を荒げながら魔物に命令を下す。

 魔物はその命令を受け、残った腕をフレデリックへと殺到させる。一本の腕が地面を砕き、足元を崩したところへ三本の腕が三方から攻撃を加える。それに対し、フレデリックは右から迫る腕を斬り落とし、横跳びで残りを避けた。

 休む暇なく魔物の腕は動く。ミックの手前の石畳の地面を根こそぎ抉り出し、大地が津波のようにめくれ上がってフレデリックへと打ち寄せた。それを剣閃一つで押し返し、続けて懐へ踏み込もうとした彼の前に、家そのものが飛んできた。踏み込む態勢をすでに取っていたフレデリックは剣を振れず、そのまま家に押しつぶされた。

 ミックの怒声が響いたのは、それとほぼ同時。彼の声に応えるように、大気を震わせるほどに魔物の全身の筋肉が鳴動し、続けて振るわれた腕はフレデリックを推し潰した家を砕くだけに飽き足らず地面をも砕き、その強烈な衝撃は周囲に伝わり、街道沿いの家々すらも徐々に崩れ始めるほどだった。

その攻撃が二度、三度と繰り返されたときだった。

 瓦礫を突き破り、フレデリックが立ち上がった。先ほどとは違い、ふらつく足元を見る限りダメージは受けている様子だ。ただ、身体よりも先に装備に限界がきたらしく、グリーブやガントレット、胸当て(プレート)にはところどころヒビが入り、立ち上がった勢いに負けてボロボロと崩れてしまい、すでにつけている意味がなくなってしまっていた。

 その中にあって、フレデリックの握る剣だけは、今なお輝きを放っていた。

 

「さすがと言っておこうか。苦しくなる前にさっさとくたばることを薦めておくぜ」

 

 フレデリックが態勢を整える前に、再び魔物が彼に襲いかかった。

 複数の腕は多方向からフレデリックを殴りつけ、その合間を縫うように周囲の瓦礫や土砂を投げつけることを続けた。

 あまりの猛攻に攻めあぐねているのか、フレデリックは防戦に徹している。だが、先ほどまでの隙あらば攻めに転じる、という姿勢がなくなったぶん余裕が生まれたのか、ほぼ確実に攻撃を回避、ないし防ぎきっていた。

 しかし、この状況は決していいとは言えない。このままフレデリックが防戦を続ければ、やがて魔力切れを起こしたミックは魔物の制御を失い自滅するだろう。そうすればミックを斃すことなど造作もなくなる。

 そしてそれは、『人々を見捨てる』ことも意味している。

 これまでに、このような状況がフレデリックになかったわけではない。何度も経験し、その度に苦汁をなめてきた。戦闘が終わると、いつも彼は神に問う。

 

『これでよかったのか』

『私は間違っているのか』

()()()()()()()()

 

 その問いの答えは不変のものだった。ただ淡々と次の『選定の儀』が行われる場所を告げ、一言『迷わず進め』と背中を押されるだけ。最初のうちはその言葉に幾分かの救いを感じていたが、やがてそれだけでは足りないほどにフレデリックの心は摩耗してしまっていた。

 彼は何度となく自害しようと剣の切っ先を喉にあてがった。

 自分は本当に「人々を救う」ための剣を揮えているのだろうか。

 懐疑はやがて自己否定に移り変わり、「私はすでに人間ではない」と自らのことを受け止めることでフレデリックは非人道的な戦術もこなせるようになりつつあった。それでも、人々は彼を責め立てるように『救世の勇者』と称え続けた。だが、それもまた「私はすでに人間ではない」という思考に歯止めをかけ、彼を精神的に楽にしてくれた要因でもある。

 フレデリック・ギルバートという《神の抑止力》は、その力と運命ゆえに、なにもかもを失くしてしまう寸前だったのである。

 

「ふざ、けるな……!!」

 

 しかし、ジュリエットという少女とフレデリックは出会った。

 なぜだかわからないうちにフレデリックは彼女に自身の胸の内を吐露していた。娘と父親ほどに歳の離れた少女に、自分の懐疑を曝け出した。フレデリックは、決して答えを求めていたわけではなかった。

 ただ一言、それまで思ってもみなかった言葉が、フレデリック自身から出たのだ。

『人々を守るために、剣を揮う』という言葉。その発言に驚いたのは、他でもないフレデリックだった。顔には出さなかったものの、どうしてそんな言葉が出てしまったのか不思議でならなかった。

 

「私は……ッ!」

 

 彼は、心の中でその名前を大切に呟いた。ジュリエット。

 最初はジュリエットの母親に命を救ってもらった恩義に報いるため、と彼女に接していた。だがそれそのものが間違っていたのだと、剣を握り直した今改めてフレデリックは実感した。そんな殊勝な理由でジュリエットと過ごしてなどいなかった。自嘲ともとれる笑みを浮かべながら、フレデリックは思い至った。

 

 ――私は恋していたのか。

 

 十余年来、自分の口以外からは聞いた覚えのない名前を、彼女は言ってくれた。

 どこの誰に「フレデリック・ギルバート」という名を教えても、彼を呼ぶ名は『天使』だった。それをジュリエットは、当り前のように「フレデリック」と彼を呼んだ。

『天使』ではなく「フレデリック」と呼んでくれた。彼にとってはそれだけで充分だった。

 彼の名を呼ぶ者がいる。それはつまり、彼はまだ人間であるということ。

 

「聴け! 風に乗り謳われる我が名を。畏れよ! 天より授かった我が命を」

 

 津波のように押し寄せる土砂を、多方向から襲い来る数多の腕を、フレデリックは一閃の元に斬り伏せ、強烈な剣閃が生んだ衝撃が剃刀のようにミックと魔物に殺到する。ミックは魔物の腕二本を壁にして耐えるも魔物の腕は細切れになり、それでも止め切れなかった余波が彼の肉を深く抉り取った。

 

「ぐ、お!? おお、ぎ、ああああああ――――ッ!!」

「我が名はフレデリック・ギルバート。禍つ者屠る《神の抑止力》!!」

「きさまッ、きさまあ!」

「瞳に焼きつけるがいい! 貴様を屠る、この一撃を!!」

 

 突然の逆転劇に、ミックの思考は止まってしまった。

 今までの剣戟も常人離れした威力を持っていたが、今まさに揮われた剣戟はそれとも一線を画す破壊力を秘めていた。今までの剣がそよ風に感じるほどに、今全てを覆した剣は猛々しく吹き荒んだ。

 なぜ突然こんな力を発揮したのか。

 これが神の祝福だというのか。

 

「消えろ、魔法使い(バケモノ)!!」

 

 踏み込むフレデリックを阻むモノは存在せず、振り下ろされる剣を受け止めるモノも存在しない。時間と、光と、音が、全て剣閃に飲み込まれていくような感覚がミックにはあった。動いているのは剣だけ、見えているのは剣だけ、そして聞こえているのも剣だけ。それ以外のものは全て止まり、見えなくなり、そして聞こえなくなった。

 

 

「……ぅ」

 

 意識が戻ったあと、ミックが最初に驚いたのはまだ生きている、という事実だった。

 視線だけを動かして周囲を見てみると、そこら中に肉片が散らばっていた。どうやらミック自身のものではなさそうだった。次に彼が自分の身体を確認すると、左肩から右胴まで、ごっそりと肉が削げ落とされていた。こんな状態でもまだ生きていることに呆れたが、その原因が何なのか、ミックにはよくわかっていた。

『延命』の魔法陣が砕かれることなくまだ発動したままだったからだ。だが、血はすでに致死量を超えて失ってしまっている。『延命』の魔法陣も、しばらくすれば効力を無くし、ミックはこのまま死んでしまうだろう。

 

「起きたか」

「……ぁ?」

 

 ミックはかろうじて声を出せたものの、これ以上しゃべることは不可能に近い。それでも構わないのか、彼に話しかけた人物――フレデリックは一人語り始めた。

 

「お前に言っておきたいことがあったからな。とどめは刺さずに起きるのを待っていた」

「ぁ……い」

 

 甘いな、と言いたかったのだろう。ミックは絞り出すように声を出したものの、それ以上言葉にはならなかった。フレデリックも彼の状態はよくわかっているのだろう。死体に鞭打つようなことはせず、淡々と続けた。

 

「あの絵は、本当によかった。ああいう絵が見れただけでもこの街に来た甲斐があるというものだ。それだけだ。その礼というわけではないが、お前が死ぬまで、私が横にいる。眠るなら眠れ。意地を見せるなら意地を見せろ。私はお前を殺しはしないし、救いもしない」

 

 その言葉に偽りはなく、ミックの意識が薄れてもフレデリックは彼の隣にずっと座り込んでいた。薄れていく意識の中で、ミックはぼんやりと思考の海に浸かっていた。

 なぜ魔法使いになって、なんのために『神の器(マスターピース)』になろうとしていたのだったか、ミックは今になってはもう思い出すことができない。百年近く前から、人の寿命を超えて生きることが辛くなりはじめたことだけは心の隅で覚えている。絵を描き始めたのもちょうどその頃だったと彼は記憶していた。

 ミックはゆっくりと目を閉じ、死を享受する準備を始めた。

 ――ただ、このような男に殺されて死ぬのなら、長生きした甲斐はあったのかもしれない。

 遠く重くなっていく感覚のなかで、最後に彼は、鐘の音を聞いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 人の寿命を超えて生きた代償なのか、隣で寝ていたミックが死ぬと同時、それまでの時間を取り戻すかのように老化が進み、さっと吹いた風に身体を砂のように崩れさせ消えていった。

 

「終わりましたか?」

「ああ。ジュリエットも無事だったようだな」

「ええ」

 

 いつも通りの優しいほほえみを湛えながら、ジュリエットがゆっくりと近づいてくる。

 ちょうど雨も上がり、曇り空からは幾筋かの光が漏れ出している。その光に当てられて、ゆっくりとフレデリックに近づいて来るジュリエットは、彼を見惚れさせるには十二分の魅力を持っていた。

 雨の水気を吸った赤の長髪は、紅玉を溶かしたかのように艶やかで、口に含めばそのまま飲み干してしまえるのではないか、と思わせるほどに流麗なものであった。ジュリエット自身には雨上がりの光芒が差し込み、強いコントラストでジュリエットを瓦礫が散らばる景色から一際浮かび上がらせ、まるで天が彼女を祝福しているのではないかとも思えてくる。

 ジュリエットを初めて見たときからフレデリックは彼女がどこか浮世離れした雰囲気を持っていると思っていたが、今ほど強くそう思ったことはない。雨が降っていたせいもあって空気中のチリやゴミも少なく、彼女が純粋な光に照らされている分、余計にそう見えるせいかもしれない。

 

「ジュリエット、聞いてくれるか?」

「はい。なんでしょうか」

「お前と出会った日、私が胸の内を曝け出したことを覚えているか?」

「しっかりと。幾度もの苦しい想いや戦い、出会いに別れを話してもらいましたね」

「あの日、私が言えなかった言葉を今言おうと思う。いいだろうか?」

「遠慮なさらずに。私はいつでも聞きますから」

「助かる。ああ、そうだ。私はお前に救われたのだ。今日初めて、心から剣を揮うことができたのだと思う。『人々を守る』ための剣を、やっと握ることができたのだと思う」

「どういうことですか?」

「あの日、お前には『人々を守る』ために剣を揮うようになった、そう誓った、と言ったと記憶しているが、あれはその場で出た格好つけだ。そんな殊勝な想いで剣を握ったことなど一度もない。いつも私は懐疑していた。どうしても人々を犠牲にしてしまうこと、それに伴って私自身が人間からかけ離れてしまっていくこと、世界が求めた英雄は私ではなく、天使という肩書だったのではないか、とな」

「そんなこと……」

「そう、お前はそう言ってくれたな。フレデリック、と私の名で私を呼んでくれた。なぜだかわからないが、私はあのときどうしようもなく嬉しかった。今ならわかる。私はまだ、人間なのだと解ったから、教えてもらえたから、私の心は歓喜に震えたのだと。それに気付くと同時に、格好つけのためだけに口にした言葉を本物にしたいと思った。お前に恥ずかしい姿を見せたくないと強く思った」

 

 地面に座り込んだままだったフレデリックは立ち上がり、ジュリエットへと視線を向けた。どれだけ見ても飽きない彼女の淡い琥珀色の瞳と向かい合い、彼は続ける。

 

「そして今、私は運命を信じようと思う。『人々を守る』ために揮いたいと思っていた剣は、今は誰よりもジュリエットを守るための剣として揮いたいと、私は願っている。この願いを叶えるには今を以って他にない。天使でもなく、救世主でもなく、フレデリック・ギルバートという個として、誓わせてもらいたい」

 

 仰々しく佩剣を抜き放ち、柄を上に剣を十字架に見立てながら、フレデリックは跪いた。

 

「フレデリック・ギルバートは、あなたの剣となりたい」

 

 それは、誰が聞いても腰を抜かすほどの言葉だったに違いない。

《神の抑止力》として、『救世の勇者』として、世界を救う運命を背負った男がたった一人の少女のために生きたいと願ったのだ。世界を救うことよりも、少女の剣として生きることを優先したいと言ったのだ。

 ジュリエットの他に誰もいないことを考えても、冗談で言っていいようなことではない。もちろんフレデリック自身は本気なのだが、他にこの言葉を聞いた人物がいたとすれば「どうか冗談であってくれ」と神に祈るほど衝撃的なものであっただろう。

 

「答えをくれ、ジュリエット。オレはお前の剣として相応しいか、否か」

「そんなもの、答えなどなくてもわかっているんじゃないですか?」

「言葉が欲しいのだ。約束には言葉を交わすことが重要だろう」

「……そうですね。では、フレデリック。私は、あなたが私の剣となることを認めます」

「御意。あなたがあなたである限り、私は唯一無二の剣となり、盾となりましょう」

 

 フレデリックはゆっくりと立ち上がり、剣を鞘に収めた。彼はそのまま顔を上げ、広がる景色を目に焼き付けた。瓦礫の山に立つジュリエットを中心に、今までいた場所とは全く違う場所へと来てしまったかのような感覚が彼を襲う。今まで目にしてきたものがすべて曇っていたのではないかと思うほどに、鮮烈な色と突き抜けるような爽やかさが視覚から直接フレデリックの心を刺激した。

 

「さて、商港へ皆を迎えに行かねばなるまい。一緒に行こう、ジュリエット」

「そうですね。行きましょう、フレデリック」

 

 ――滅せよ。

 

「……!?」

「どうしました、フレデリック?」

「い、いや、なんでも……」

 

 ――滅せよ。汝、討つべき魔女は眼前に在り。

 

「な、に?」

「? もしかして、神様からの天啓ですか?」

 

 ――侮るな。滅せよ。その剣を魔女の心臓へ突き立てよ!!

 

「う、あああ! うおおおおおおおおお!!」

「ふ、フレデリック?」

「う、嘘だ。そんなはず、あるわけが……ッ」

 

 ――疑うべからず。滅せよ、滅せよ!!

 

「ジュリエット、嘘なら嘘と言ってくれ。いや、本当だとしても、嘘と言ってくれれば私はお前を信じ続ける。頼む、頼むから――」

 

 今にも倒れてしまいそうなほど青い顔をしてフレデリックは静かに剣の握りを握ったが、その動作がどこかぎこちなかったことと、途中でしゃべる余裕すらなくすほど力んでいたことからジュリエットは直感した。

 

「ジュリエット、逃げろ……ッ!!」

「フレデリック……」

 

 ガチガチと力みから生まれる鉄が擦れる音を鳴らしながら、フレデリックは鯉口を切った。

 現れた刀身は光芒の一つに照らされ、まるで血に餓えた獣の瞳のようにギラついていた。

 

「例えお前が魔法使いだろうと、私はお前を、手にかけたくなどない!」

 

 切羽詰まった様子で、フレデリックは絞り出すように声をあげた。彼の佩剣はまだ刀身の半分ほどが鞘に収まったまま、彼自身によって抑えつけられていた。そんなギリギリの状態になりながら、フレデリックはジュリエットに「逃げろ」と言った。

 

「私は《神の抑止力(てんし)》だ。魔法使いを、殺さなければ、ならない。だが、許されるなら……」

 

 抵抗むなしく、フレデリックは剣を抜き放った。まだ身体は奪い切られていないようだったが、それももうしばらくすればなくなる。

 下手をすれば、フレデリックの精神にまで入り込み、神は彼を操ってしまうだろう。

 

「許されるなら、私は人間としてお前を愛したい! ジュリエット、頼む、逃げてくれ!!」

 

 その言葉を口にしたと同時、フレデリックの身体が激しく震えた。まるで雷に撃たれ続けているような、操り人形を乱暴に振りまわしているような、そんな震え方だった。

 やがて震えは止まり、フレデリックは静かに剣を構えた。言葉も出せなくなったのか、それとも洗脳が終わったのか。彼の人形のような無表情からは、ジュリエットも何も感じ取れなかった。

 

「ふざけていますよ、それ」

 

 フレデリックの変貌の一部始終を眺め続けていたジュリエットが言った、最初の言葉がそれだった。

 

「ふざけてる」

 

 絞り出すように繰り返す。

 長い赤髪がジュリエットの感情に呼応して、より赤く燃え上がった。琥珀色の瞳にはいつもの優しさなど欠片も残っておらず、雷を迸らせているのかと錯覚するほどに激情に染まっていた。

 

「『喚起』」

 

 暴風が瓦礫を掬い上げ、土煙が舞う。その奥にはぼんやりと光る魔法陣が見て取れ、さらにその中心からは、一本の剣が現れていた。

 

「汝の願いは【死芳しき暴食(ベルゼブブ)】」

 

 王族が腰につけるほど豪奢な装飾と、一目見ただけでもわかるほどの質実剛健さを兼ね備えた刀身。柄頭には一対二枚、鍔には二対四枚、合計三対六枚の繊細な炎の翼が意匠されている。

 しかし、それほどの美しさを備えながら、その刀身からは黄土色の粘着質を持つ液体が流れ落ち、おそらくそこから臭うのだろう、肌が痛いと感じるほどの腐敗臭が発せられていた。

 フレデリックにまでその臭いは届き、肌が焼かれているのではないかと錯覚するほどの刺激が彼を襲った。そして、その刺激を攻撃と判断したのだろう。フレデリックは、全身に力を込めミックを斬り伏せたとき以上の踏み込みでジュリエットの懐へと飛び込んでいた。

 一瞬、バチリ、とジュリエットとフレデリックの視線が交錯する。

 

「グウォオオオオ!!」

 

 獣の咆哮だった。

 先ほどまでの鋭い剣閃は見る影もなくなり、残ったのはただ肉を引き千切るためだけに振り下ろされた猛獣の爪。人としての理性を欠片も感じさせない、神の下僕となり下がった男の姿だけだった。

 

「――ッヌオ!?」

「死は唐突に訪れます。自らの中から湧き出でることもあり、誰かから送られることもある。死は拒絶するほどに恐れるべきことであると同時に、誰もが受け入れなければならないこと。なら、そこに不平等など生まれるはずもなく、どのような死に様であろうとそれらはきっと美しい。愛すべき絶命。それが、人としての死に様であるはずなのです」

 

 結論から言えば、フレデリックの剣はジュリエットにまで届かなかった。

 大地をも引き裂き空すらも両断するほどの剣戟をしかし、ジュリエットは【死芳しき暴食(ベルゼブブ)】で受け止めたわけではない。間接的にはそれで受け止めたといえるかもしれないが、直接的に受け止めたのは、【死芳しき暴食(ベルゼブブ)】が振られた軌跡から尾を引くように続く、()()()()だった。

 豪華絢爛な外見とは対極に位置するような汚的な液体や異臭を放つだけでも充分なほどにその魔剣の異常性が解るというのに、さらにこの黒い空間である。

 

「その美しさを神様とやらは侵した。フレデリックから人としての愛すべき絶命を奪った。私に従ってくれた唯一無二の〝刃の意思〟を、貴様らが刈り取ったと言っているのですよ」

 

 ぐずり、と黒い空間が広がる。元からあった空間を崩すように、徐々に徐々に、黒い空間が世界を蝕んでいく。

 

「うォ、オオ! ウガァアアア!!」

 

 そのような異様を目の前にしてなお、フレデリックは剣を振ることをやめなかった。より正確に言うならば、やめさせてもらえなかった。彼の身体と精神はもはや神の手中であり、魔法使いを殺すためだけに動く人形でしかなくなっているのだ。

 だが、人を捨てさせられてまで振るった剣は、一つたりともジュリエットに届くことはなかった。全ての剣戟が黒い空間に遮られてしまったのだ。

 

「彼の者は問いました。『それは如何なる味や?』と。はたして、彼の者は本当に味を知りたかっただけなのでしょうか。いいえ、それはありえません。彼の者の食に対する意識は、味わうというところからすでに逸脱していたからです。彼の者の本当の願いは『ある物の味を知ること』などではなく、『ある物を取り込むこと』だった。面白い話でしょう? 彼の者の願いの魔剣を創っているとき、私の館にあったものはほとんど腹の中に収められ、魔剣を手に取った瞬間、彼の者はそれすらも飲み込んでしまった」

 

「ウ、ウウウウウウ……ッ!!」

 

 フレデリックが剣を振る中で、ジュリエットは淡々と語り続けた。

 その中で、ジュリエットの髪は毛先から赤色が剥げ落ち、彼女自身の元の髪色である黄金色が覗き始めていた。魔力すらもその食欲の前に平らげられていく。

 ――そう、ジュリエットが手に取った魔剣【死芳しき暴食(ベルゼブブ)】は、()()()()()()()()

 人も、動物も、海も、大地も、空も、そして時さえも。

 

「死は美しい。ゆえに、生あるものは醜い。惰眠を貪り、空腹を満たしてなお食らう。人を貶め蔑んで、その隣では笑って愛を語り合う。凍える空に身を震わせる者がいれば、壁一枚の向こうには恋人と身を寄せる者がいる。それら全ての不浄ごと、私と魔剣が喰らいましょう。さあ、もうおやすみなさい。あなたには必ず、穏やかな眠りを」

 

 髪の半分以上が金髪に戻ったときには、ジュリエットの周囲には景色が何も残っていない状態だった。空の見えない闇の底にも、底の見えない闇の淵にも見える黒い空間の中央に、ジュリエットだけが浮かんで見えていた。

 

「『喚起』」

 

 暴風は起こらない。無音、無光の世界に、ジュリエット以外の物質が顕現する。

 

「汝の願いは【導灯の鋼(グロリアス)】」

 

死芳しき暴食(ベルゼブブ)】にさえ並ぶ荘厳さで、その魔剣は輝いていた。

 まさしく、英雄譚に語り継がれることが相応しい姿をした剣だった。

 

「踏み出す一歩は、勇気の証。導く背中は、まるで夜を照らす灯台のよう。手を伸ばせば届きますよ、フレデリック。あなたは何も、悪くない。助けられなかった人々も、失ってしまった心も、人間である証も、私の剣として盾として、取り戻しなさい!!」

 

 今までその場から動こうとしなかったジュリエットが、その言葉を皮切りにフレデリックへ吶喊した。いつの間にか【死芳しき暴食(ベルゼブブ)】はその手から消え、両手に握るのは【導灯の鋼(グロリアス)】ただ一本のみ。

 

「はぁっ!」

「ウオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 膂力の違いは歴然だった。今のフレデリックにジュリエットが勝負を挑んだとしても、その圧倒的な力の前に斬り伏せられることは火を見るよりも明らかであった。

 だが、それは違った。

 フレデリックが持っていた元々の剣技が理性ごとなくなっているから、などという理由だけでは尋常の力で振るわれているわけではない彼の斬撃を、受け止めることなどできるはずがない。それにも関わらず、ジュリエットは鍔迫り合いに持ち込んでいた。

 フレデリックが力任せに距離を離すと、その反動を利用して息つく暇なく剣閃がジュリエットの首筋へ飛んでいく。これもまた、避けることはできるかもしれないものの、受けて立つことなど絶対にできるはずのない力で振るわれた斬撃だった。

 

「じゃッ!」

「ウ、オ!?」

 

 その斬撃に対し、ジュリエットは一歩踏み込み魔剣を振り抜く。その結果、力負けするはずのないフレデリックが、弾かれるように剣をかち上げられた。見た目からしておかしな話だった。筋骨隆々の男の渾身の一撃を、か弱い少女の一振りが大きく弾いたのだ。

 だが、所詮はそこまでだ。フレデリックは斬撃を繰り出し続け、弾かれることも気にせずに獣のようにジュリエットを襲い続けた。

 

「まだ届く! 手を伸ばして、フレデリック!」

「ウグアアアアアアアアアア!!」

 

 ジュリエットの呼びかけむなしく、フレデリックの理性は戻らない。

 相手は神という存在なのだ。そこから伸ばされた操り糸はそう簡単に切れるものではない。それでも、それがわかっていても、ジュリエットは叫び続けた。斬撃の嵐の中、徐々に押されつつある中、ジュリエットは諦めることなくフレデリックの名を呼び続けた。

『救世の勇者』としての彼ではなく、人としての彼へ向かって叫び続けた。

 まだ手は届く。この手を握って。取り戻しなさい。

 

「フレデリック!!」

 

 剣が打ち合う。火花が散る。

 怒りと優しさのないまぜになった表情をして、ジュリエットは魔剣を振るい続けた。彼の名を呼び続けた。語りかけ続けた。彼に人としての生き様を取り戻させるため、決して人形で終わるような悲しい運命を辿らせないため。

 

「フレデリック、フレデリック、フレデリック!!」

 

 男と女、天使と人間という超えきれない壁がジュリエットの前に立ちはだかり始める。彼女の体力は尽きかけており、フレデリックの猛攻に耐えきれなくなってきている。剣先は落ち、握る手の力が抜けていく。汗は滝のように流れ、息もうまくできない。あともう少し、と一振りのたびに自らを鼓舞し、フレデリックへの呼びかけを続ける。

 フレデリックが少しでも自らを取り戻さねば、彼を呼び戻すことができなくなる。

 

「もう一度話したい。あなたは人形じゃない。ちゃんとしゃべれる。そうでしょう!」

「ウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!」

「フレデリック! 私の剣! 私に誓いを立てたあなたは、決して人形なんかじゃない!!」

 

 一際甲高い音が鳴り、ジュリエットの握っていた【導灯の鋼(グロリアス)】が宙を舞う。

 すかさず大上段に剣を構えたフレデリックに、ジュリエットは最後の声をあげた。

 

「フレデリックは、私の騎士でしょう!!」

 

 ――その瞬間、フレデリックは動きを止めた。

 

「フレデリック……?」

「じゅり、えっと……っ」

「ああ、フレデリック!」

「こんな、わたし、でも、おまえの、きしで、いいのか?」

「あなたは私に誓いをくれた。それが証明じゃないですか」

「じゅりえっと……、う、ぐっ!?」

 

 動きを止めていたフレデリックが、突然苦しみ始めた。一時的に神の操り糸から解放されたとはいえ、完全に解けたわけではないのだから当然だろう。彼のこの状態は、おそらくジュリエットを殺すまで続く。下手をすれば、これからの彼は完全な神の操り人形と化してしまい、『救世の勇者』とも言われなくなるかもしれない。

 

「ふざけていますよね、こんなの。こんなことあっちゃいけない。私が目指す世界には、こんな悲劇は似合わない。誰もが人として救われ、私の元へやってくる。美しき絶命。それを守るためならば、()()()()()()()()!!」

死芳しき暴食(ベルゼブブ)】によって喰われた黒い世界を背に、ジュリエットは声高らかに唱えた。

 

「『覚醒』」

 

 ジュリエットの声と同時に、彼女の心臓を中心に魔法陣が広がった。

 そこから、ゆっくりと一本の剣が現れていく。

 シンプルな造形ながらも意匠は細やかで美しく、刀身には大きくこう刻まれていた。

 

「少女の願いは、【我が統べるは刃(ヴァナディース)】」

 

 ――ジュリエット・ヴァナディース。

 

 刃統べる魔女が持つ、究極の魔剣。

 そこに込められた願いは、〝刃の意思〟を統べること。

 誰もの幸せは私に在り、誰もの命が私に在る。ゆえに、生きとし生ける者は皆手を繋ぐ。

 己の幸せを守るために人を傷つけず、憎まず、羨まず、だが、葛藤の中に醜く生き、泥にまみれながらも前へ進む足を持つ。誰かを抱きしめる腕がある。明日を見据える瞳がある。

 すなわち、〝刃の意思〟とは生きること。生命を統べること。

 ジュリエット・ヴァナディースが望む、世界の再編。

 

「生まれ変われ、世界よ!」

 

 ジュリエットが叫ぶと同時、彼女の髪は全てが金髪へと戻り、地平線の彼方からは光の柱が何本も立ち上がった。これまでに彼女が旅してきた中で描き続けた魔法陣の発動も合わせて、初めてこの魔剣は未完ながらも始動する。

 彼女の背後に広がっていた黒い世界が音をたてて崩壊していく。そこに現れたのは何の変哲もない、黒く塗りつぶされる前と変わらぬ世界。だが、そこは確かに何かが違っていた。

 フレデリックはジュリエットに手を引かれ、彼は生まれ変わったのだという世界へ一歩足を踏み入れた。瞬間、フレデリックの中から何かが消え失せた。心が軽い。だが、同時に彼の身体を強烈な倦怠感が襲った。まるで、天使としての力をなくしてしまったような……。

 

「これは……、どういうことだ」

「ようこそ、私のフレデリック。小さいですが、ここは私の世界。ここには神様も天使も魔法使いもない。ただ、純粋に人が生きている。動物が生きている。草木が生きている。ただ、それだけの世界」

「……ジュリエット、お前が、神になったのか?」

 

 フレデリックがこぼした言葉は、誰が聞いても荒唐無稽なものだった。

 だがその問いに、ジュリエットは静かにうなずく。

 

「そうとも言えるかもしれません。ですが、この世界は未完成ゆえに不安定。【死芳しき暴食(ベルゼブブ)】によって時間からなにから全てを喰われた空間でしか存在できず、また、そう長くも維持していられない。この言葉の意味が解りますか、フレデリック」

「やがてこの世界は消え失せ、私の心にはまた神が巣食う。また、お前を殺すための剣を振るってしまう、ということか?」

「そうなるでしょう。殺そうと思えば、こんな回りくどいことをせずともあなたを殺せる魔剣を私は持っている。だけど、そうはしてあげたくなかった。人としての心を失ったままのあなたを、殺せるはずなんて、ない」

「……むずかしいことはよく解らん」

「なっ、ひ、ひどい言い草じゃないですかっ、それっ」

「解らんものは解らんのだ。勘弁してくれ」

 

 疲れの浮かんだ顔で、フレデリックは朗らかに笑う。

 まだ強い倦怠感の残る身体に鞭打ちながらも、フレデリックはもう一度ジュリエットの前にこうべを垂れ跪いた。そのままの姿で、フレデリックは言う。

 

「むずかしいことは解らん。だが、解ることもある。私は、この世界でならお前を愛し続けられるということだ。命の恩人の娘、いや、おそらくあれはお前本人だろう?」

「……ええ」

「そうか。ならば命の恩人として、私が尽くすべき主として、そして私の愛する女性として。私はお前を見ていられるということだろう。ならば今一度誓おう。この身を剣とし、盾とし、お前を守り抜くことを」

「わかりました。では――」

 

 ジュリエットは握ったままの【我が統べるは刃(ヴァナディース)】の刀身の腹でフレデリックの肩を叩き、それを叙任の儀式とした。叙任の儀式を受けたフレデリックはゆっくりと立ち上がり、複雑そうな表情をして言った。

 

「この世界がなくなれば、私はまたお前を殺そうと剣を握りしめるだろう。だから、どうか、この私の不義を、許してくれないか……」

 

 声は掠れ、眼から溢れた涙は頬と顎を伝い零れ、フレデリックは、子供のように泣きじゃくった。すまない、と何度も言って、今にも崩れそうな膝を支えながら、泣いていた。

 

「守りたかった……! お前のことを、お前に関わる全てを守り抜きたかった……!!」

 

 流れ出る感情に歯止めは効かず、フレデリックはただ、自らの不義を嘆いた。

 

「一緒にいてやれなかった。操られていたとはいえ、私はお前に剣を向けてしまった。このような体たらくで許してくれと口にする私は、なんと傲慢なのだ!」

 

 そんなことはない、とジュリエットはフレデリックに言ってやれなかった。彼の言っていることは正しいからだ。原因はどうあれ、誓いを立てた主にすぐさま襲いかかってしまった。騎士として半生を生きたフレデリックにとって、それはもっとも遠い行為でなければならなかったはずだ。

 

「私のために、あなたはそれほどまでに嘆いてくれるのですか?」

「嘆くとも! 私は、ジュリエット、お前を愛してしまったのだから……」

「フレデリック、私があなたにしてやれることは決して多くない。ありがとうを伝えることもその一つだと思います。だけど、それだけでは私の気持ちは伝えきれません。だから、この気持ちを伝え切れる日が来るまで、あなたには私の傍にいてほしい」

「だが、それは!」

「そう。この世界だからこうやって話していられる。だけど、この世界ももうすぐ崩れ落ちてしまうでしょう。だから、フレデリック。聞かせてください。あなたの望む、あなたの剣を」

 

 そう言って、ジュリエットは懐から一粒の鉄を取り出した。

 

「それは?」

「〝剣の種〟と言います。あなたの想いに応え育ち、より強く、より確かな願いを込めれば込めるほど、強く鋭い魔剣が形を成します。つまり、この剣が育てば、それはフレデリックの意思を継ぐ、願いの魔剣となるのです」

「――それを、私に?」

「フレデリックとは、もうずっと一緒にいることはできないでしょう。ですがせめて、これを育ててもらいたいと、思ったんです」

「……ああ、これ以上ない贈り物だな。喜んで受け取ろう。そして込めよう。私の一切合財の願いを、想いを、この種に継がせて見せよう」

 

 強い倦怠感でうまく動けないフレデリックの手に、ジュリエットはそっと〝剣の種〟を握らせた。彼女が数歩離れ、彼の様子を見守る。

 

「我が願いは一つ。ジュリエットを守ること。それは、あなたの望む世界を守り抜くことでもある。全ての人の幸福を願うジュリエットを、私は守りたい。つまらない想いも、この際すべて預けよう。私は、ジュリエットが魔法使いだと知って絶望した。殺さねばならないことを考えた瞬間、私の脳裏には血まみれのジュリエットの姿がよぎった。私が殺した、彼女の姿を見てしまったのだ。だがそのとき、私の中にはもう一つの想いがよぎった。使命や運命さえ無視して、彼女と過ごす一生を。それはもはや神さえ見下す傲慢と言えよう。そして私は、その傲慢を選び神に反逆する。神の手からジュリエットを守り、魔の手からもジュリエットを守り、降りかかる一切の害悪から彼女を守り抜く。それが私の、唯一の願いだ!!」

 

 瞬間、フレデリックの全身を疾風が包む。みるみるうちに彼の血色は悪くなり、筋骨隆々とした体型は頼りのないひょろりとしたものへと変貌を遂げていく。もし、ジュリエットに魔力の残りがあれば代替わりしてやれただろうがそれもできない。ゆえに剣を育てるための魔力(えいよう)はフレデリック自身がその全てを支払わなければならない。

 それはすなわち、彼の血肉を啜り、願いを受け継ぐ魔剣。

 生まれ変わりと言って差し支えはないだろう、真の魔剣に育つ。

 

「ジュリエット、私は愚かだ。お前に命を救われたときに気付くべきだった。そうすれば、お前を愛することなどなかった。逆に、お前を憎んでいただろう。であれば、こんな終わりもあり得なかった」

 

 もう舌を動かす筋肉も衰えてきているのか、彼の呂律はちゃんと回っていなかった。

 

「だが、私に後悔などない。《神の抑止力》という運命に弄ばれたのかもしれない。だが最後に私は、自らを取り戻すことができた。お前を愛したから。一緒にいることができないのは悔しいが、それはこいつが叶えてくれるだろう」

 

「フレデリック……」

「さあ、この剣を受け取れ。我が想いの結晶を、どうかその手に」

 

 もう持ち上げる力すらないだろうに、フレデリックは跪き、肩あたりまで剣を掲げ、恭しくこうべを垂れた。彼の手には一本の剣が収められている。まさしく、フレデリックの願いの結晶たる魔剣である。

 ジュリエットはゆっくりとその剣を持ち上げ、握りの部分をしっかりと握りしめ軽く構えを取って見せた。刹那、彼女の頭の中に魔剣の情報が物語として流れ込んでくる。フレデリックの半生、そしてそれを覆しかねないジュリエットとの出逢い。彼が剣に込めた願いに至るまでの葛藤。最後に、剣の銘が脳裏に浮かび上がる。

 

「汝の願いは【熾天突く傲慢(ルシファー)】」

 

 燃え盛る炎を模した意匠が黒い片刃の刀身に刻まれ、柄から伸びる赤地の細長い垂れ布には〝魔毀の剣〟の紋章が縫い込まれていた。決して華美とは言えない剣だが、一目見ただけで力強さと鋭さを感じ取れるような威圧感を絶えることなく放っている。

 剣から視線を外し、フレデリックの方を見ると、もうそこに彼はいなかった。

 別れの言葉を言うのに照れてしまったのだろうか、とどこか外れたことを考えながら、ジュリエットは【熾天突く傲慢(ルシファー)】を〝剣の山〟へ、【我が統べるは刃(ヴァナディース)】を自らの身体の中へと還らせていった。

 魔剣を全て消したことで、ジュリエットの望む世界も音をたてて崩れ落ちていく。

 景色はなにも変わっていないのに、空気的な何かが決定的に変わってしまっていた。

 次にあの世界を見ることがあるのなら、それは今度こそ本当に――。

 

「また逢いましょう」

 

 稲穂のような黄金色の髪をなびかせながら、ジュリエットは呟いた。

 これからも続く『選定の儀』に、彼のような犠牲者が多くないようにと、祈りながら。

 

 

 

 

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