ガタガタ、と荷馬車が揺れる。
御者が隣に座る少女をチラリと横目で見ると、その視線に気づいた彼女はにこっと柔らかなほほえみを返してくれた。御者はそれにバツの悪そうな顔をしながら会釈して返すと、手綱をぎゅっと握り直す。
「行商は、もう長いのですか?」
「うん? ああ、そうだな。今年で十年だったか……」
「それはすごいですね。やはり、自分のお店を持つために?」
「どうだかな。こんだけ長いことやってると、自分の才能と限界ってのが見えてきちまうんだよな。そりゃあ、俺だって怠けてるわけじゃない。自分の店を持つために努力研鑽は欠かさなかったさ。だがな、わかっちまうんだよ」
「……」
今日初めて会った少女に何を話しているのか、と御者は馬鹿馬鹿しくなって頭を振った。
それ以上は少女も踏み込んで聞いてはこず、黙って隣に座っていた。特に申し訳なさそうな顔をしているわけではなく、ただ無表情に道の先を静かに見据えている。どこか憂いを感じるそれがまた謂れもなく美しく、御者は思わず彼女の横顔に魅入ってしまった。
その後半日は二人ともが黙り込み、時折御者の隣からあくびが聞こえてくる程度だった。
日も沈み、野宿の準備を整え、軽い夕食を摂っていたときだった。
「昼間の続きだが、あんたはどうなんだ。旅をして長いのか?」
「私ですか? そうですね、どれほど旅を続けてきたか……」
「おいおい、俺みたいなのでも自分がいつから行商に出たのは覚えてるんだ。あんたみたいな若いのがもう物忘れか? そんな調子じゃ旅も大変だろうな」
「あ、はは。おっしゃる通りですね。でも、忘れるくらいには長く続けてきましたよ」
「ふぅん? 修道女が忘れるほど長く旅を、ねえ?」
引っ掛かるところはあったが、御者は深く踏み込もうとは思わなかった。
そうでなくとも最近は物騒で、修道女の事情を聞くほど余裕はないのだ。商人仲間から伝え聞いた話だが、最近『神隠し』が多くなっているとのことだ。御者が行商を始めた頃は数年に一度聞くか聞かないか程度の信憑性の薄い噂話だったが、現在では『神隠し』を軽視するような行商人はいない。早いところでは王族が問題解決に向けて動き始めている国もあるらしい。
たった一日で都市にいた人間がいなくなってしまうという、『神隠し』。主に大きな都市を中心に起こっているらしいそれを回避するために、行商人は同じ街に一日以上は滞在しなくなっていた。それは御者である彼もまた同様。
だから、次に訪れる街では何を仕入れるかを道中で考えざるを得ず、ゆっくりと品定めする暇もなくなり、結果としていい商売ができなくなっているのが現状だ。
「そうだ、お嬢ちゃん。旅の中で、面白い話はなかったかい?」
「突然、どうしたんですか?」
「俺も行商でそこらじゅうを回ったが、まあ商売ありきの旅だからな。気を休めて楽しむってことがなかったのさ。だから、忘れるほど長い旅をしてきたお嬢ちゃんに面白い話はないかと聞いたわけだ」
「なるほど」
「それに、そういう面白い話があれば商売相手に取り入る切っ掛けが掴める。相手の財布の紐を緩めるには、まず相手の心を緩めないといけない。わかるか?」
「ふふ、商人らしい考えですね。嫌いじゃありません」
そうですね、と一言挟んでから、少女は記憶の中を探り始めた。
御者は冗談半分で言ったつもりだったのだが、彼女はえらく真剣に考えている。パチ、と火が弾ける音が寂しく響く。数分ほど黙りこくって考えていた彼女が、相変わらずのほほえみで顔を上げた。
「智慧ノ実、という果実をご存知ですか」
「ちえのみ? ほう、御伽噺かなんかか?」
「……ええ、そうかもしれません」
「ふむ。聞こうじゃないか」
「では、智慧ノ実という果実のお話……」
なんでも、この世には智慧ノ実という果実が存在するとか。
その存在を知る者は少なく、また食した者はそれ以上に少ない。
赤く、丸く、手の平に収まるほどの大きさしかないその果実は、林檎によく似ているのだという。しかし、香りは林檎のそれと比べることもおこがましいほど芳醇で、香りを嗅ぐだけで度数の高い酒を一気に呷ったような陶酔感が得られる。そしてその味が悪くないわけがない。味覚から全身が果実に支配されるかと思うほどの旨味が広がり、この世の幸福すべてを味わったような気分になれるという。
――だが、智慧ノ実の本質はそこにはない。
香りでも、味でも、その希少性でもなく、智慧ノ実の本質は全く違うところにある。
智慧ノ実の本質とは、その名が示す通り
ただし、ただの智慧ではない。この世に生きる限り知り得ることのない、逸脱した智慧だ。
その逸脱した智慧を手に入れた者は、同じく人の枠から外れ生きることを強要される。
しかしそれを嘆く者は誰ひとりとしていなかった。
その理由を語るために、智慧ノ実を口にした者たちの共通点を知る必要がある。
智慧ノ実を食べた者は、
しかし、ただ死に直面していただけではない。
確固たる願いを持ち、それがどれほど途方のない願いであろうと叶えようと強く覚悟し、そしてその願いが間違いでないと信じて疑わない者たち。
その者たちが死の間際に出逢える果実。それが智慧ノ実。
そう。智慧ノ実が授ける智慧とは、食した者が持つ願いを叶えるための力。
それが、智慧ノ実という果実の本質。
ゆえに、智慧を付けられた者は誰も嘆かない。
願いを叶えるための力を、誰も恨まない。
たとえそれが、常世を逸脱した智慧であろうと誰も恐れない。
彼らには、叶えなくてはならない願いがあったから。
「……それが、智慧ノ実という果実のお話」
「…………」
御者はその御伽噺を聞いて言葉が出せなかった。
淡々と語る修道女の言葉は嘘には聞こえず、それがすべて真実だと思えたからだ。
お互いに意識して踏み込まずにいた暗黙の了解を、御者は破るしかなかった。
「お前は智慧ノ実を食ったのか?」
「なぜ、そう思うのですか」
「作り話にしちゃケレンが効き過ぎだ」
「なるほど、そう言われればそうかもしれません」
「教えてくれないか、どうすれば手に入る?」
「何が、ですか」
「智慧ノ実だよ!」
御者はいきり立って怒鳴り散らした。
対して、怒鳴られた修道女はどこ吹く風と聞き流している。
「どうもこうも、これは御伽噺ですよ?」
「……っぐ、ぬ」
「すいません。私がこんな話をしたばかりに」
「…………いや、こちらも大人気ないことをした。そんなうまい話があるわけないか」
落胆を隠そうともせず、御者は大きくため息を吐いた。が、彼の瞳はまだ諦めの色を映してはいなかった。確信に近いものを御者は感じていたのだ。この修道女は何か知っている。何とかして、情報を聞き出し智慧ノ実とやらを手に入れたい。
「……本当のことは言ってくれないのか?」
「本当のこと?」
「智慧ノ実は、本当に御伽噺なのか? どうにも俺は、その話が嘘だとは思えない」
「物語で語ったことが全てです。御伽噺と割り切るも、真実と信じるもあなたの自由。ですけど、よく言いますよね。火の無いところに煙は立たない、撒かぬ種は生えぬ、と」
「――お嬢ちゃんは立派な商人になれそうだな」
「まさか、私に商才などありませんよ。私は修道女ですから」
ああ、そうだ。修道女は思い出したように手を叩くと、柔らかいほほえみを湛えながら御者にこう言った。
「世の中には、作家という者もいますよね」
「……こりゃあ、参ったぞ」
夜が更けていく。まるで、修道女の話す御伽噺の真実を隠してしまうように。
翌朝、御者が目を覚ますと修道女はすでに起きたあとだった。
爽やかな朝日に照らされた彼女のほほえみは昨日見た横顔よりも神秘的に見えて、だから御者は、昨日の御伽噺を信じることにした。商人特有の嘘を嗅ぎわける嗅覚、というものだろうか。とにかく、彼の商人の勘が「あれは真実だ」と告げていた。
しかし、もう修道女に詳細を問い詰めようとは思わなかった。彼女は「物語で語ったことが全て」だと言っていたからだ。つまり智慧ノ実を手に入れる方法も、味も香りも、そしてその本質さえ全てが真実に違いない。
「昼間には次の街に着くだろうよ。さあ、出ようか」
「はい。よろしくお願いします」
御者は手綱を握り、隣に修道女が座ったことを確認してから荷馬車を動かした。
この修道女は俺の知らない物語(タカラ)を多く持っている。やはり旅は楽しむべきだと気持ちを新たに、御者は再び彼女に頼んだ。
「なあ、お嬢ちゃん。面白い話はまだあるのかい?」
「そうですね、面白い話ですか……」
昨日と同じく、彼女は記憶から物語を引っ張りだし始めた。
修道女は意識していないのだろうが、御者にとってこの沈黙は歯痒い時間だった。早く聞きたい。もっと聞きたい。聞ける限り、物語を聞き続けていたい。
数分の思考のあと、優しいほほえみを浮かべながら彼女は言った。
「では、お話しましょう」
「待ってました。それで、次の物語は一体どんな……?」
フードの隙間から零れる流血のような赤髪を手でかきあげながら、修道女は稲妻を封じたような琥珀色の瞳をゆっくりと御者へと向ける。優しく、柔らかく、見ているだけで幸せに感じるほどのほほえみを湛えて彼女は語り始める。
「〝剣の山〟の魔女、というお話……」