激重感情短編集   作:五足歩行

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『送る手』

 

 

 

「んぁぁ…おはよう。」

 

「おはようございます。トーストとホットココア ならすぐご用意できます。召し上がりますか?」

 

「うん。マーガリンを塗って焼いてね。」

 

「かしこまりました。」

 

 俺は無資格未経験にも関わらず他人の介護をしている。

 

 始まりは、厳冬の中倒れていた隣人を助けたことからだった。

 

 色ムラのある鼠色に薄汚れた服、長い白髪は木の根のように地面に広がっている。顔立ちは人形のように綺麗だ。今まで見たことすら無かったが、こんな容姿だったのかと所感を得た。

 

 あまり遭遇したことの無い光景に固まりつつも、ドアの前に伏していた彼女を無視する訳にも行かず、手を伸ばした。

 

 幸いにも大事に至る程ではなく、コートを被せて回復体位にしてから数分で意識は覚醒した。彼女曰くたまたま起立性低血圧で立っていられなくなったそうだ。

 

 手持ち無沙汰で話を聞くに、生まれつき病弱体質だそうで、それを体現するかのように病的な程白い肌だった。身体も細心の注意を払わねば手折ってしまいそうな程軽く、よく一人で暮らせているものだと同情心を抱いた。

 

 突飛な話だが、その日が切っ掛けとなり彼女の介護に就くことになった。その時は恥ずかしい話だが職に溢れていた時期だったので、とりあえず食い付いてみた。

 

 一応言っておくが不純な動機は一切無いし起こしていない。将来の不安を案じただけの事だ。それで個人の介護を二つ返事で請け負うのもおかしい気もするが。

 

 彼女の肩を支えつつ、簡素に家…屋敷と呼ぶ方が正しいか。間取り等の説明を受ける。

 

 どうやら彼女は高名な画家だったようで、生活ゴミの他に空の絵の具や画材がそこかしこに散らばっていた。家具はどれも高そうなもので統一されているが、手入れがなっていない。有り体に言えばゴミ屋敷に近かった。

 

「これからよろしくお願い致します。」

 

「よろしくね。…どこに行くの?」

 

「ホームセンターです。」

 

 私生活は酷くても超売れっ子。金払いの羽振りが良く、初めは受け取るのを躊躇った程だ。それなら対価に見合った働きをせねば、と一層火がついた。

 

 初めは隣の自宅から通い、ひたすら家中を綺麗にした。面積が広い分、やり終える頃には1ヶ月が過ぎていた。

 

「些か物が多すぎます。断捨離をしましょう。」

 

「これとこれ…あとここのは全部いるかな。」

 

「ではそれを捨てます。」

 

「なんで!?」

 

 半年も経てば週の半分は泊まり込んで家事をこなし、一年が経った今では同棲のような形となって世話を続けている。久しく自宅には帰っていない。

 

「はぁ、疲れた。」

 

「お疲れ様でした。夕食はいつにしますか?」

 

「出来たときに食べる。」

 

 彼女は昼過ぎに起床し、毎日2〜3時間程度筆を摂って画室に籠る。それからは疲れたのか何なのかだらだらと俺に引っ付いたり、本の虫になっている。これでも生活リズムのサイクルは改善した方だ。

 

 元々は昼夜逆転は当たり前、好きな時に起床し、好きな事をやって眠くなったら就寝する。ある種の理想と言えば理想だが、俺からしてみればてんで腐り果てている。

 

 見ず知らずの他人の世話をする。もっと言えば堕ちるとこまで堕ちた画狂いの介護をする。当然当たり前が通じなかったし、逆に俺の思う普通が間違っているのかと苛まれることもあった。

 

 そうして一年をかけてゆっくりと矯正し、今に至る。自分で自分を褒め讃えたい。

 

「今日は何?」

 

「今日は一段と冷えますので、シチューとミネストローネです。」

 

「むぁー。」

 

 よく分からない感情の声を出しながら俺の背中に凭れかかってくる。

 

 意にそぐわなかったのか、ただの生返事なのか。俺はまだ分かる領域まで来ていないので適当に流す。

 

「危ないですよ。離れてください。」

 

「貴方がちゃんと注意を払ってくれるから、何も危険ではないわ。」

 

「もう少しで出来上がりますから、席について待っていてください。」

 

 そう言うと大人しくテーブルに向かっていった。出来上がったシチューを二人分よそい、隣に並んで食べる。

 

「いただきます。んぁー…」

 

「どうぞ。」

 

 俺の方を向き、口を開けている。シチューをすくって口に持っていく。

 

「んむんむ…あぁ、いつも通り美味しいよ。」

 

「ありがとうございます。」

 

「料理において愛はマスターピースだってよく聞くけど、まさにその通りだね。んっ。」

 

 再度こちらを向き、餌を待つ雛鳥のように口を差し出す。俺はスプーンで掬い、餌をくれてやる。

 

 それは恋人が惚気けてやる行為(あーん)。もう慣れたことだが、彼女は食事を自分の手で食べようとしない。

 

 訳を聞くに小筆より重い物は持てないらしい。冗談なのか本当なのか判断に困るが、彼女なりの甘え方なんだろう。高い給金を頂いている身分上、そういう事にしておいた。

 

 それでも始めは当惑した。彼女に対する憐憫の心と、俺の一存でどうとにでもなる征服感。一年も経てばそれらは義務感に落ち着いたが、依然として人助けという名のエゴを着ていることに変わりはなかった。そうして勤める正当性を得ているだけ。

 

「レシピ通り作っているだけなのですが。」

 

「それでも、外食や既製品とは訳が違うでしょう?幼い頃、キッチンから香ってくる親の手料理が暖かくて何よりも美味しかった。それと同じこと。」

 

「…ありがとうございます。」

 

 小さな口でもくもく咀嚼している間を縫って俺も食べる。隣で人参を口から直接俺の容器に吐いて移された。好き嫌いが激しい。

 

「ん、もうお腹いっぱい。ご馳走様。」

 

「…お粗末さまでした。」

 

 彼女は少食なのかいつも残す。それを見越して少なめにしているが、イマイチ完食のラインを掴めない。

 

 彼女の分まで俺が食い終わるのを横で確認すると、彼女は風呂場に移動する。食器を流しに置き、水につけて潤かし入浴の手伝いを行う。しかし俺は男であって彼女は女性。どうしても三大欲求の一つが立ち塞がる。

 

 そこで俺が編み出した方法は、彼女を何かそういう日本語を喋って動く謎の生き物だと努めて思い込む。そうすれば情欲は抑えられた。…自分でも馬鹿な手段だとは思う。

 

「えっち。」

 

「はいはい。」

 

「……むぅ。」

 

 後は関係の無い映像を脳裏に映し出して無心で洗う。そうすれば終わっている。というか終わらせる。

 

「お風呂上がりのアイスは?」

 

「今食べてしまうとお腹を壊します。ホットミルクならお作りしますよ。」

 

「じゃあそっち。」

 

 そう言ってテーブルの隅に置いてあった本を取り、読み出した。俺はホットミルクを彼女に与え、つけて置いた食器を洗う。就寝時間まで猶予があるので手慰みに軽く掃除をする。

 

「そろそろ就寝の時間です。行きましょう。」

 

「そう、栞をもらえる?」

 

「はい。」

 

 欠伸をしている彼女の手を引き寝室に連れていく。そのまま彼女も俺もダブルベッドに入る。以前に並んで寝ないとヤダと駄々を捏ねて聞かないから、こちらが折れる形で承諾して以来ずっとこうして並んで寝ている。

 

 雇用者と労働者を分けるせめてもの線引きとして、いつも俺は彼女に背を向けて寝る。

 

「……………っ………」

 

 寝間着を掴む手に力が籠った。

 

「けほ、げっ…ひゅぅぅっ、ひゅーっ…」

 

 寝息が気道を掠るような音から、次第に喘息症状に変わった。傍に置いてある吸入器を掴む。彼女の背中をさすりながら、口に当てる。

 

「吸入器です。焦らずにゆっくり深呼吸してください。吸って……吐いて……」

 

「すーっ……ふーーっ……はぁ、ありがとう。」

 

「水をお持ちしますね。」

 

 コップに注いだ水を零さないように少しずつ少しずつ角度をつけ、飲ませてやる。呼吸は落ち着きを取り戻したようだ。

 

「ね、お願い。」

 

「はい。」

 

 鳩尾から少し上、心臓の当たりを優しくタッピングしてやる。吸入を終えた後によくせがまれるが、こうすると寝付きが良く魘されることも無いらしい。

 

 安定した呼吸リズムの睡眠を確認してから、ようやく俺もベッドに入って入眠する。

 

 こうして今日も緩やかに過ごした。…今日も。

 

 …………。

 

 このままでいいのか?果たして立派に働いていると胸を張って言えるだろうか?半径20mにも満たない閉鎖的な空間だからか、やけに圧迫感を感じて縮こまる。

 

 もしかすると近隣住民から後ろ指を指されているかもしれない。金持ちに付け入ったヒモ野郎だと笑われているかもしれない。

 

 ……泥濘のような明日が来る。来てしまう。

 

 起こして、食事を摂らせ、食事の用意をしてまた摂らせ、入浴を手伝い、そして共に眠る。

 

 

 楽しいか?

 

 

 ………………。

 

 

 ふと代わり映えのない停滞を恐れ、俺は焦燥感に駆られて眠りにつくのが遅くなってしまった。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 更に数ヶ月が経った。まだ冬は続いているが、西の地域で春が先走りしているニュースを見る。

 

 辞職を伝えるタイミングは幾らでもある。しかし目が会う度に口を噤んでしまい、言葉が喉から出てこなかった。俺は悔しさに塗れて今日も世話を始める。

 

 起床時に彼女の調子を伺うと、最近は頗る良いそうだ。 確かに近頃は貧血や喘息はめっきり見られないし、食事を余す事も少なくなってきた。普通の人間として生きていけるだろう。

 

 第一、本当は彼女に恐怖しているのだ。赤の他人なのに、すぐ知れた仲のようにするりと気を許してしまう彼女が。力量差で勝てると確信していても、関係無しに食われてしまうのではと錯覚してしまう程の熱視線を送られている。

 

 間違いなく彼女は俺に惚れている。一個人として嬉しさは感じる。……が、いつまでもこの環境に甘えては居られない。

 

 いい加減腹を括れ。喉元過ぎれば熱さを忘れる、一度蛇口を捻れば勢いは止まらないから。

 

「…少しよろしいでしょうか。」

 

 画室から出てきたタイミングでいよいよその事を伝えた。たどたどしく飾り付けた言葉で辞職を表明し、返事を待つ。当然本心は隠して。

 

「……なら、私の作品を見てもらえる?丁度完成したから。」

 

 そういえば彼女の作品群を真剣に見たことがなかった。どんな作風なのかシンプルに興味が湧いた。土産としても相応しい。

 

 思えば画室に立ち入るのは初めてだった。様々な色で雑然とした部屋の中には2m×2mの大きなキャンバス。それを覆うように白い布がかかっていた。スポットライトの如く陽光が当たっている。

 

(まさ)しく画家らしい部屋ですね。塗料の匂い、作業効率を突き詰めた画材配置、大小様々な無垢のキャンバスが積まれた隅っこ。そしてこれが新作品ですか?」

 

「そう。本邦初公開、この処女を捧げるのは貴方って決めていたから。」

 

「言葉の綾だとしても間違いを起こされかねませんよ。」

 

「私は構わないけどね。」

 

 冗談めかして言った彼女はゆっくりと布を剥ぎ取った。徐々に絵画が露になる。

 

「貴方はこれを見てどう思う?」

 

 それは水の中、だろうか。手が水面を勢いよく割り、水底の細く歪んで捻れて(ほつ)れてしまいそうな揺らめく管のような何かを掴もうと懸命に手を伸ばしている。

 

 水面や腕に射し込む光の反射、腕の血管や細かな気泡一つ一つが非常に精緻に描かれており、まるで高解像度の写真を貼り付けたと言われても疑わないだろう。それ程に写実的な作品だった。

 

 実際に机に並んでいる数本の筆でこのサイズの大作を完成させているのだから、センスと技術は疑うまでもない。

 

「素人目に見ても大変素晴らしい事は間違いないのですが…どう表せば良いものか……すみません、陳腐な言葉しか…」

 

「無理に飾ることは無いよ。分かった風に小難しい言葉をつらつらと述べた長文よりも、一言「好き」と言って貰える方が嬉しかったりするから。」

 

 抽象的な絵よりも、ビルの風景だとか写実的な方が見ていて飽きないので、はっきり言ってこの絵画は「好き」だ。彼女の言葉にあやかるように俺はそう伝えた。

 

「ふふ…ありがとう、すごく嬉しいよ。でもまだ終わりじゃない。ここからがこの絵画の真髄さ、よく見ててね。」

 

 部屋の明かりを消してブラックライトで作品を照らした。するとどうだろう、水面を割る手にぼんやりと別の両手が包んでいる絵が浮かび上がってきたではないか。

 

「これは私と貴方だけが知るちょっとしたトリック。どう?」

 

 どうと聞かれても、俺はただ目の前の絵画に圧倒されることしか出来なかった。どう描けばそんな風になるのだろうか。

 

「無理に言わずとも、その反応で満足さ。……げほっ。」

 

 突如血を吐いてしまわれた。そのままふらついてしゃがみこんだので、焦って駆け寄る。

 

「大丈夫ですか!」

 

「ほら、捕まえた。」

 

 口から垂れた血を指で拭い、俺の首にゆっくりと塗りたくる。生きた熱が首から全身に広がる。いきなり何を…?

 

「貴方は優しすぎる。悪いけど、善意に付け込ませて貰うよ。」

 

「ん…」

 

 介抱している俺にキスをしてきた。柔らかい唇が触れ、驚き開いた口の隙を見逃さず舌を捩じ込まれた。甘美な感触はすぐに生臭い鉄の味で塗り潰された。

 

「───ぅふ、驚いた?それとも戸惑っているのかい?」

 

「……それはもう。」

 

 俺の反応を楽しむように、へにゃりと笑う。こぽ、と血が口の端を伝って流れるがまるで意に介していない。

 

「良かった。伝わるかどうか不安だった。」

 

 ……やめろ。それ以上口を開くな。それだけは言うな!

 

 

「───だって貴方のことが好きだから。何度でも手を差し伸べてくる暖かさが好き。蠢いて死にゆく私を人に治してくれた貴方が好き。好き。」

 

 俺の首に腕を回す。血で生臭い吐息が耳を擽る。

 

「好き。」

 

 抱きしめられる。

 

「好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。」

 

 

 ……あぁ、ついに確信は確定へと変わってしまった。

 

 俺を胸に確と抱き決して話さず、洗脳を試みるかのように「好き」と耳元で永遠と囁いてくる。ゲシュタルト崩壊を起こすまでにはそう時間はかからなかった。

 

「実はこの絵ね、貴方を題材に描いたの。描いていて人生史上一番楽しかった。もちろん誰にも見せる気はないし売る気もない。私と貴方の愛の結晶だからね、何人たりとも穢すことは許さない。分かる?子供なんだよ。貴方と私の。名前(タイトル)は貴方につけて欲しいな。」

 

 長い独白は尚も俺の耳元で続く。それに比例して増していく恐怖の感情。止める気は1ミリ足りとも起きる気がしなかった。虚空を見ながらガタガタ歯を震わせ終わりを只管祈り待つだけだった。

 

「思えばこの一年、短かったなぁ。画家として尽きていた衝動を、描く絵に意味を齎してくれた。意味とは画家にとって命と呼べるもの。私は心身丸ごと救われたんだよ、貴方に。もう貴方無しでは生きられなくなっちゃった。だから貴方も私無しでは生きていられなくなってもらう必要があった。」

 

「でもね、まさか辞めたいだなんて言ってくるとは思わなかった。そんなの許さない。許すわけが無い。」

 

「あの日助けてもらった日から、私は貴方に惹かれ始めていたのに。あの時は嘘偽りなく本当。心の底から感謝したし、優しさが身という身に染みた。」

 

「でも助けてしまえばそれで関係は終わり。なんて残酷な話だろうか。」

 

 終わっても良かった。終わっていればなんと良かったことか。

 

「だから私は何度も貴方の前でわざと不調になった。手のかかる隣人として、貴方の時間を奪うためだけに生き始めた。嬉しい誤算として、この計画は少し上手く行き過ぎた。」

 

「貴方は周りの目を気にしすぎるきらいがある。誰が見ていなくとも、私の身に何かがあれば貴方は偽善だろうと助けなくてはいけない。そうでしょう?」

 

 否定はしない。目の前で倒れている人を放っておける方がどうかしてると思うから。己の正常性バイアスに従って救助するのが体裁的にも良い事だから。

 

「病弱は生来のものだから演じるのは簡単だし、復帰だって別に難しくはない。少し動脈を圧迫すれば………」

 

 自ら首を絞めた。数秒も経たぬ間にフラリと崩れる。俺は反射的に手を出して支えた。彼女は俺の目をじっと見つめ、心底嬉しそうに徒に笑った。

 

「……ふふっ、あははは!ほらね?もう身体が勝手に動き出すレベルで私という存在は貴方に刻み込まれている。これがどれほど嬉しいか想像できる?」

 

 力が抜けへたりこんだ俺に跨り、鼻同士が触れ合う距離まで近づき頬をそっと撫でた。まだ温く濡れている血は跡となって紅い模様を残す。

 

「私はこんなにも胸が高鳴っているのに、貴方は怯えた目をしてる。ごめんね、もうこの気持ちは止められないの。」

 

 俺はその姿に蜷局を巻き、今にも獲物を飲み込まんとしている蛇を幻視した。途端にこの家が冷たい檻に見えた。汗が背筋を伝う感覚を覚えつつも、俺は彼女を振り払い脱出を試みる。

 

「ねぇ、どこに行く気?目を離してしまえば私が独りでに死んでしまうかもしれないんだよ?世界的に有名な画家は善意を被って接近してきた隣人によって殺害されてしまった。そんなレッテルを貼られた殺人者になるつもり?誰も貴方を助ける人なんていないのに。」

 

 ドアノブを捻る手が止まる。思考が落ち着かない。動悸が早まる。嫌だ。殺しの烙印を押され、それが一生消えぬまま生きていくのは!

 

「このまま二人でここに閉じ篭ろうよ。何も憂うことは無い。絵描きの腕は優れていると自負しているし、身バレの心配もない。界隈における私はジェーン(名無し)ドゥとして生きているから。貴方が心配するのは献立だけでいい。あ、今日は貴方の作ったミネストローネがまた食べたいな。」

 

 ふわりと、全体重を預けるように倒れ込みながら強くハグをしてきた。それは全幅の信頼を寄せた感情の表れであり、他意はないのだろうが言外に逃がさないと伝えてきている。

 

「服の上からでも分かるよ、緊張してるのかな?心臓の鼓動が大きく早くなってる。私と違って暖かくて力強い。」

 

 頬を胸に強く押し付ける。それでも視線はずっと俺の目を捉えて離さない。瞬きもせずにじっと。目だけではなく思考まで視られているかのような錯覚に陥る。

 

「私が貴方を必要としているように、貴方も私を必要としているのよ。私から離れないで。私は一生離れないってずっと前から決めていたから。」

 

「ここで一緒に暮らそう。くれた分の幸せには必ず報いるから。貴方が求めてくれるのなら何だってする。幸せになろう。」

 

 俺のような将来に不安を抱える者ならば飛びつくであろうプロポーズ。

 

 しかし応えたが最期、どうしようもない破滅を辿る甘言に聞こえる。俺はこの環境に甘える程堕ちてはいないと気を確かに保つ。まだ…俺は……

 

 感情曲線が限界を迎え、自然と涙が溢れてくる。口はパクパクと無様に空気だけを漏らし片言すら吐けない。

 

「お願い。愛しています。結婚してください。」

 

 確固たる意思は今や風前の灯火だった。

 

 どの道進退窮まってしまった。それが現実。決して行動を間違えたつもりは無い。ただの人助けに過ぎなかったのに。彼女が手を引き俺を奈落の闇に引きずり込んだのだ。

 

「ねぇ。」

 

 返答を急かされる。とうとう俺は情けなく上擦った声で「はい」と漏らした。

 

「嗚呼…嬉しいよ。この為にこの身体で生まれ、今生を耐えて来たと言っても過言では無いくらいに!今からでも遅くない、一年分の愛を返報する時がきた。あぁぁ…何故泣いているんだい、大丈夫、私は永遠に貴方の傍を離れないから…」

 

「……夕食を…ご用意してきます。」

 

 ざわざわと感情で波立つ心を押し殺して平静を保つフリをする。遣る瀬無い幽鬼のようにトボトボと歩き、キッチンに向かう。いっそ包丁で手首を掻っ切る勇気があれば良かったのだが、(彼女)の目に付くと欠片でも思ってしまうと脚が竦む。

 

 周りの目を気にしてしまったからこうなった。誰にも見られない環境なのに、あるはずの無い視線を感じて。俺はこんなにも甲斐甲斐しく介護をしてやっているんだぞというエゴを意味も無くアピールして。気付けば2人きりの隔絶された家が完成してしまった。決心が遅すぎた。

 

 走馬灯のように振り返る。思えば出会った時から呪いを植え付けられていたのか。呪いは虎視眈々と発芽の時を待ち侘びて待ち侘びて、とうとう俺の精神まで蝕む程に成長した。

 

 俺を題材とした片手に纏わりつく隠された両手の絵画。脳裏に鮮明にこびり付き、嫌でも忘れられない。

 

 

 手は水底の何かを求めているように五指を開いている。

 

 

()』は『何か(彼女)』を求めている。

 

照らされて初めて見える『()』を愛おしそうに包む『両手(彼女の愛)』。

 

両手(彼女の愛)』で『()』を閉じ込める。

 

 それは『()』を水底に引きずり込んでいるようにも見える二様の捉え方。()()()()()だとしても、なんて彼女にとって都合のいい解釈なんだ。

 

 俺には真意の判別はつかなかった。どうせ絵に意味なんて無い。造物主の意志、結局それが真実だから。

 

 

 

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