これは一人の女性のお話。
生まれは異国人の父と日本人の母による自由恋愛。育ちは関東北部の人間だった。十五で両親が戦争で死んでからは疎開の追加労働者として集められ、厳寒の大地で生活することを余儀なくされた。
ある程度形が出来上がっている都市部ではなく、地方の野生溢れる未完成の街に送られた。妥当な判断だ。
有り体に言えばだだっ広いど田舎。いいように言えば未発見の資源が眠る広大で肥沃な土地。
トタン壁を貼り合わせた茅葺き屋根に住み、一から耕して町を作っていく。冬には死ぬ気で対策しなければ吹雪が入って凍死するほど寒く、夏に食える物を採りに山に行けばうっかり熊に喰われてしまう…そんな過酷な地。
先に住んでいた人達によりある程度拓かれていたものの、戦後から数年経っただけなので相応に貧しかった。
娯楽も何も無いこの地では憂さ晴らしに差別が横行し、特に髪の毛の色が皆と違う者は格好の標的だった。
垂れた稲穂のような綺麗な金色。それが無遠慮に踏んづけられたように、くすんだ土色に変化するくらいに差別をされていた。
それでも尚、いつか報いが訪れると信じて開拓に励むある日。
初期に比べたらどうにか住めるくらいには発展した地に、軍がわらわらとやってきた。
今更何の用だと勝気な誰かが叫べば、駐屯兵の増員と医者を用意したとのこと。
労働者が潰れては困るからと言って、本土の都市部から連れてきた医者だという。生気の無い全てを見下すような冷徹な瞳、機械のような無愛想な態度。密かに亜米利加製の絡繰だとかよく分からない噂が横行したが、なまじ腕の立つ医者だったために日を置かずして噂は潰えた。
その医者は始めに健康診断を行った。住人は余所者だなんだと自由に口にしていたが、まともな漢方すら手に入らないこの地では、薬は実にありがたいものだった。
日が傾き始めた頃、ようやくくすんだ金髪の子にようやく順番が回ってきた。
「よろしくお願いします。」
「…いきなりで失礼ですが、その髪色は…」
「私は
医者はハッと押し黙る。由来を察するには余りある一言。どうせこいつも異国人を敵とする、実に誉ある日本人だ、だから一々事細かく説明する必要はなかった。
「若いのに、こんな過酷な疎開地で大変だったでしょう。」
「…は?」
「今日は手指のひびに効く軟膏を処方します。患部を水で拭いてから塗ること。」
光の抜けた死んだような目は依然変わりないが、軟膏と一緒に同情を寄越された。
その後に行った診断はほとんどが不健康の枠に引っかかった。それもそのはず。主食は馬鈴薯など穀物に頼り、たまに罠に引っかかった雀や兎を獲って食べる。医師が理想とする栄養の満遍ない摂取は不可能。満点の方が少ないのだから。
「お疲れ様でした。今はまだですが、少しずつ、少しずつ良くしていきましょう。」
「そうやって境遇に漬け込んで、あいつらみたいに弄ぶ気?誰も私の心なんて分かりゃしない。」
「おれはそんな真似はしません。髪の色が何だって、國の言葉を喋れるなら立派なおれの患者です。」
ある意味平等な思想を持つ医者。春が近く、少しだけ暖かい日。表層の雪が微々たる程度に溶け、土色に透けた薄氷をじんわりと押し退けてふきのとうの芽が隙間から顔を覗かせた。
その翌朝、畑の様子を見に玄関を開くと、ずた袋から少しはみ出すほどの大きな豚の頭がこちらを向いていた。
「ひっ!?」
「おい外人!勿体ないからくれてやるよ、ぎゃはは!」
屠殺した後の余り物。それはれっきとした嫌がらせが目的だった。驚くのを楽しんでいるだけの愉快犯。堪らず彼女にとって一番頼れるであろう医者に泣きついた。
「どうしました。怪我ですか。」
「家の前に豚の頭が投げ捨てられていたの!」
「貴重なたんぱく源じゃないですか。」
あろうことか医者はあっけらかんとして言った。その態度に無性に腹が立ったが、この場において肉がどれだけ貴重かをこんこんと説明される頃には頭は冷えていた。
「───ですから、医学的に見ても捨てる部位が無いくらいに侮れないんです。切り分けた後に瓶に入れて塩漬けにすれば一年はおかずになりますよ。」
頭は冷えたが、今度は話が長すぎる。彼女はいてもたってもいられなくなり、話の矢印を曲げることにした。
「…先生は人を助けるのが好きなのですね。」
「はい。医者を志したのもそれが始まりでした。」
冷めた目は元来のもので、態度は人見知りが理由だそうだ。
会話が一段落した頃、医者は何もせずに帰らせるのは良くないと思い、検査を始めた。てきぱきと問診が終わり、触診に移る。
「じゃあ、まずは脈拍から。袖をまくって腕を。」
男性らしさのある筋張った手だが、農作業なんてした事も無いだろうにつるつるして綺麗だ。それが触診の為に、土と垢で汚れた肌に触れる。
きっと育ちの良い小綺麗な者が、小汚い農民に触れている。それが彼女の嗜虐心を一時滾らせた。
「胸、失礼します。」
次にそう言われたものだから、ただ従い服を捲ろうとしたがへそ辺りで制止された。服越しに聴診器を当てて心音を確認する。静謐な空間に鳴る心音は、常人より細い鼓動でもやけにうるさかった。
「はい、終わりです。えぇと、難しいことを言うようですが…栄養をつけてください。」
「それはそれは難しいですね。どうにかしてくれませんか。」
「うぅむ…むむ…」
項垂れてうんうんと梟のように首を捻っている。そうして一人では埒が明かないと判断したのか、医者は他を頼ることにした。
「ではこうしましょう。おれが手紙を出して、君は本土の病院に移ります。そして入院すれば回復が見込めます。」
「いいえ。行きません。」
「いいですか。このままでは、君が死んでしまう。」
「構いません。この時間だけは、皆に人気な先生を独り占めできるのですから。」
わざと痩せ細った腹に手を押し当て、栄養不足をこれでもかと理解させる。先程聴診器で調べさせたというのにも関わらず、さりげなく胸にも手を運ばせ心音を直で浴びせる。
「ここ最近、馬鈴薯しか食べてないの。」
「…分かりました。栄養剤を増やしてもらうよう本部に打診します。」
すっかり情が移った医者は、栄養剤が増えてからは配分を多くし、努めて健康でいられるように手助けをした。
その甲斐あってか、数ヶ月も経てば彼女は以前と比べて生気を取り戻せた。
しかしそれを目ざとく不快と思う輩も現れた。医者からえこひいきを受けているんだ、色目を使ったんだ。とか思いつく限り悪に仕立て上げる想像をして、力を振りかざす正当性を不確かに獲得した。
歪んだ衆の行進は止まらない。彼女は一般の民草はもちろん、短靴*1を履いて、息子に
数日に渡って一通りやりきり、衆は満足した。今頃折れて首でも吊っているだろうと、どぶろくを煽り下卑た笑いをひろげた。
それでも彼女は折れなかった。心の支えにはいつも医者がいたから。週一の通院を何よりもの楽しみにして、それがあるから瀬戸際でも何とかなっていた。
「これは…チョコレート?代用品でないものなんて久しぶりに見た。」
「根菜を食べるのは良いことですが、それでは糖分の補給は今ひとつですので。」
「…あまい。」
ひょいと含めば口の中で溶け、幼い頃に食べた懐かしい味がした。僅かに涙と微笑みが溢れた。
「う…うぅあ……」
「何時かはそれも何不自由なく食べられるでしょう。ここも変わりつつありますから、もう少しの辛抱です。」
ある日、いつまで経っても折れない彼女が尚の事特別扱いを受けていることが気に食わなかったのか、二人が検診をしている日に大勢で診療所に押しかけた。
「ちょっと!」
「なんでそいつだけ良くしてるんだ、不公平じゃないか!」
「…君たちはいつも元気に畑を走り回っているでしょう。でもこの娘は違う。おれは正しく医者として全うしてるだけです。違いますか?」
正論で返した。最後に風邪をひいておれにかかることの無いように。とだけ返し、ぴしゃりと窓掛けを締めた。
「とてもかっこよかったですよ。」
「……やめてください。」
以来、医者の言葉が彼らの腑にでも落ちたのか、この日を境に彼女への差別はぴたりと止まった。
やがて時が経ち、一家に三種の神器*2が一般に普及するくらいには豊かになり、新たな娯楽を手にしてそんな
長らく雌伏の年を過ごしていた彼女も平等に報われ、幾許か贅沢できるようになっていた。そうなれば当然医者にかかることも無くなった。
「健康状態も全て良し…と。もうばっちり大丈夫ですね、今まで本当にご苦労様でした。」
「え…?」
「どうかお大事に。」
それはもう事務的に冷たく退室を促された。彼女は何を言われたか一瞬理解できなかったが、特別が失われたのだと、後を追うように気づいた。
そう易々とこのぬるま湯を揺蕩うような心地よい関係が千切られてはたまったものではない。沸々と湧き上がる怒りをどうにか押し沈めながら家に帰った。
ぼすぼすと荷物を放り投げると布団に籠って何もせず、はっきりと、だがそれでいて名状しがたい感情の螺旋に囚われていた。
それから行動に移すのは早かった。
「先生が悪いのですからね。あれだけ私を嵌めておいて、軽く突き放した先生が。」
皆が寝静まった深夜。荒れ狂う激情に身を任せ、医者を寝込みの最中に何度も犯し、医者も気付かぬ内にひっそりと子を為した。
母体だからこそ医者を介さずに分かった。己が子宮に宿る生命の蠢きを。産まれる我が子に適応していく身体の作り代わりを。
まだ平坦な腹を撫でる。未来を想像するだけで笑みが止まらなかった。妊婦に襲い掛かるこれからをまるで苦とも思っていない。ここを生き延びたのだ。心体共にとても根性強かった。
「これで私は先生の妻……先生はどんな顔をしてくれるかな?」
数ヶ月が経ち腹が膨れた頃。嘘をついて医者に栄養剤を家まで届けさせ、腹の子に流し送る。硝子越しの光に照らされる顔はすっかり母の様相を持ち、慈しみを携えていた。
「ぅえぇぇあぁっ…うふ…うふふふふふふ…!」
つわりが起こる度に幸せを咀嚼し、更に耐えること半年。轡を噛み、声を押し殺して誰の助けも無しに産んだ。その日は吹雪が強く、がたがたと窓を激しく揺らす風の音で誰にも赤子の泣き声は聞こえなかった。
「あぁ……あぁぁっ!」
震える諸手ですくい上げ、滂沱の涙で子を迎えた。己の体液や経血など意に介さず頬擦る。だが、その直後に蓋をしていた忌み嫌う記憶が溢れ出した。
母として腹を痛めて産んだ、愛する医者との子への愛情が働いた。子を自身の二の舞にさせたくなかった。
「……おまえはきっと、先生に似るよ。」
まだ名前すら無い赤子を襤褸切れの毛布で包み、籠に入れた。診療所に行く道すがら、良心の呵責に苛まれながらも、涙ながらに知らぬ家の前に置いた。産声を上げる子に背を向け、託した。彼女はどこまでも母だった。
「…先生。」
「渡した栄養剤が無くなりましたか?」
「いや、そうではなくて…」
穀物を運ぶには海沿いを通る必要があるから、厳寒の中手早く終わらせるため手伝って欲しいと。その道が本当に運搬に使われることを知っていた医者は気に止めず、二つ返事で了承した。
外には布を被せた、見るからに重そうな荷を積んだ木の台車が一つ。
夕暮れに二人で海岸沿いを歩き、崖のある曲がり道に入ったところで台車を途中で止めた。
「どうしましたか。もしやお寒いですか?震えていますよ。おれの上着でよければお貸ししましょう。」
「本当に鈍いひと。」
「何をっ__」
孕むだけでは飽き足らず、とうとう募らせた恋慕は行き所を無くして身の内から食い破るように爆ぜた。その衝動に耐えかねて、芯まで冷えきった手で医者を掴むと凍える海に無理心中した。
「───────!!」
(逃げないで?)
海面に上がろうと藻掻く医者を、宥めるように抱きしめて離すまいと押さえつける。やがて体温を奪われ体力が尽きたのか、ざぷざぷと海面に弾けた気泡は白波に攫われた。
(あはぁ……あったかい。)
翌日、医者が居ないことに気づいた人々は捜索を行ったが、海の底にいる二人は見つかる訳もない。知る由もない。
崖に大小の木くずを山のようにたっぷりと積んだ台車が見つかりはしたものの、海に投棄しようとしたのだと推理づけられ真に迫る事は無かった。
人の噂も七十五日。これから始まるは日本が絶頂を迎えた最盛期。そんな些末な事、誰が覚えていようか。
強いていえば、とある夫婦の家に元気な子が贈られたと持ちきりになったそうな。
少しだけ余談です。
内容は変えましたが、豚の頭の場面は当時を生きた祖母から聞かせて貰った史実です。
昔はどこも食用の豚を1頭食用で飼っており、食いきれず余った頭を貧しい家に分けていたそうです。