【アンサング・デュエット】リプレイ 『郷愁の都、幻のあなた』〜天上の楼閣 作:mizumega
深度5【カチューシャの唄】
ーーー 噴水の周りを古い建物が囲んでいる。
寺だ。
幾つものお寺が周囲に建っていた。
駅前ビル群が、一瞬で瓦屋根に変わっている。
広場の中央に大きな社殿が建ち、それを囲んで日本家屋が周りを取り囲んでいるのだった。
津久美駅前の広場にあった見慣れた商店街は消えていた。5、6階建のビルや、マクドナルドや、電機店など、馴染みの物は一つもない。
そして建物自体も変わっている。
コンクリートの灰色の壁ではなく、ほとんどが木造や煉瓦造り。
電柱は木の柱。
看板は逆向きに文字を並べている。例えば横向きに『大塚商店』と書くところを『店商塚大』といった具合。
窓も木枠で、全面ガラス張りのショーウィンドーなどはまったくなかった。
「な…」
衛は、絶句した。
(何も感じなかった)
変化を告げるような前触れは、何も。
ただあおいと噴水を巡っただけで、いつの間にかここに居た。
あまりにも自然過ぎる。
あおいと目を合わせた。
彼女は驚いていない。
目を見開いてはいるものの、突然場所が変わっても別段うろたえている風ではなかった。
辺りを探るように見回している。
「異界って…こんなふうなの?」
いささか間抜けな声で聞いてしまう。
「異界にも色々あるわ」
あおいは目の前を通り過ぎてゆく人たちを見ながら答えた。
あまりにも落ち着いている。
「というより、これが異界ですっていう決まりはないの。現実と少しでも違っていれば、そこが異界かもしれない」
「少し?」
「机から落ちた消しゴムがそのまま消えてしまう、なんてこと」
「それ…本気?」
衛の戸惑いは大きくなってゆく。
「とにかく来たことだけは確かよ」
「なるほどって言えばいいのかな…」
ふたりは噴水池の縁に腰掛け、しばらく周囲を観察した。
その噴水も形が変わっていて、例のヘンテコな岩ではなく、石塔の上に仁王様のような像が乗り、水を撒き散らしている。噴水の直径も広がり、古めかしい西洋風の枠囲いになっていた。
目の前を通り過ぎてゆく人は、だいぶ変わった格好をしている。
たいていは和服で、羽織袴の学生らしき人や、洋風のスーツの上から小さなマントを羽織った男、女学生はチマチョゴリか成人式に着るような学生風着物と言ったらいいのか、そんなのを着ている。
髪型も古臭く、時代劇のようだ。
男は短髪がほとんどだが、女は髪を和風に結い上げている。日傘を差し、カラコロと下駄を鳴らしている様子は、一昔前の風情だった。
男は男でシルクハットを短くしたような帽子を被っている。加えて、道端で堂々と煙草を吸いながら談笑しているのがちらほら見受けられた。のみならず、吸殻を地面に捨てて靴で踏み消している。禁煙家が見たら目を剥きそうだ。
古いファッションに囲まれて、衛とあおいは途轍もなく場違いに見えた。
けれど、道行く人々はふたりに目もくれなかった。まるで空気のように…。
「ねえ、さ。ここって、過去なのかな…」
衛が呟くように言う。
「タイムトラベルしたってこと?」
「どうかしら。でも、大正時代に見えるわね」
「大正…それって何年?」
「1912年から1926年」
「うは…」
思わず笑っちゃう。
「大正ときたか」
「場所は…そうね、浅草かな」
「浅草ぁ?」
衛は顔をしかめた。
以前、東京へ遊びに行ったことがある。有名なスカイツリーを昇る前に、浅草にも寄った。けど、ここは似ても似つかない。
唯一思い当たるといえば、向こうのお寺が浅草寺にそっくりだ。
「津久美から東京まで飛んだわけ? ポンと」
それだと100キロ以上を移動したことになる。東京へ行こうと思えば、特急を使って2時間近く掛かるのだから。
「異界の原理はわからないの。どういう時間と空間で繋がっているのか。だから何があってもおかしくないし、こんなのはおかしいという話が通じない場所なの」
平然と言うあおいに、衛は表情を曇らせた。
「あおい。まさか、だけど。異界へ来たの初めてじゃないよね…?」
あおいは目を伏せた。
「あるよ…何度も」
「おい」
衛があおいの腕を掴む。
「危険過ぎるだろ」
「今までは…」
「うん?」
「今までは、お姉ちゃんがいたから」
あおいが顔を上げる。
「お姉ちゃんが連れてきてくれたから。行く時も、戻る時も」
「きさらさんが…」
「わたし、特異体質らしいの」
自分の胸に手を当てて言う。
「異界に同調しやすい人間…霊感ってあるでしょ。それに似ているかも。そういう人を【シフター】って言うのよ」
「しふたー?」
「そして、きさらお姉ちゃんやまもるちゃんのことを【バインダー】と呼ぶの」
「えっ…ちょっと待って、なんであたしまで?」
***
【シフター】
正式名称は『シェイプシフター Shapeshifter』。
「位相空間」を意味する「シェイプ」と「変化・移動者」を意味する「シフター」の合成語。
物理学の用語でもあるが、こちらの意味とは違う。
ファンタジー用語で言うと、相手の似姿になるモンスター。「ドッペルゲンガー」などもその一つ。対象とそっくりの姿になり、いつの間にか本体を取り殺す。
そしてこの場合、シフターとは「異界が見える者・異界へ引き寄せられる者」のことをいう。
ある空間が通常のものとは違うことに気づける者。
毎日通う道のそばにあった家が、ある日突然全く違う物に変わっている。
通勤で走る道路がその日に限ってなぜかいつまでも果てしなく続いている。
学校に居るはずのない生徒がいつの間にか紛れ込んでいる。
小さな小さな、誰も気づかないような変化を察知し、その向こう側にあるものを見つけられる者。
シフターの能力は生まれつきというわけではないらしい。
突発的に発生し、その場だけで消えてしまうこともある。
特に異界と現実の接点があり、その『場』(ボルテックスともいう)の力が強ければ、普通の人間でも異変に巻き込まれることがある。
しかし、シフターの中には、生まれてからとりわけ霊感が強く、超能力を持ち、日常的に異界を感知できる者がいるのだ。
あおいはその一人だった。
彼女が都市伝説にこだわるわけは、彼女自身がその一部だから。
【バインダー】
「バインド」すなわち「結びつける者・引っ張る者」として『バインダー Binder』と呼ばれている。
こちらはシフターに対し、「異界から帰る者」だ。
普段は現実から異界へ行けないが、いざそこへ入れば、なんとかして現実へ戻ることができる。
シフターは異界に呼ばれるが、バインダーはそうではない。
二つは互いに相反する性質を持っていた。
***
「…シフターは、異界という渦へどんどん飲み込まれるの」
うつろな目で周囲を見ながら、あおいは言った。
「放っておけば簡単にあちらへ引き寄せられてしまう。そしてめったなことでは戻ってこれない。でもね、」
と衛を見、
「バインダーがそばにいれば現実へ帰ることができる」
「それがあたし…ってこと?」
コクンとあおいは頷き、それからポフンを衛の胸に額を当てた。
「ごめんなさい。まさか本当に来られるなんて…やるんじゃなかったわ」
上げた顔が青ざめている。
「きっと失敗するから冗談のつもりで笑おうと思ってたの。それからまもるちゃんとデートするつもりで…だけど、来てしまった。
まもるちゃんがバインダーだなんて…」
「あ〜〜〜…」
目をうるませるあおいに、衛は頭を掻き、少し赤面した。
(弱ったなあ)
こういう場面に弱い。
どうしていいかわからない。
「まあその…」
辺りを見回しながら、
「少し歩こっか」
「え?」
「せっかく来たんだし。来ちゃったもんはしょうがないじゃん」
キョトン…とするあおいに笑いかけ、
「デートのつもりだったんでしょ」
「あ………うん、そ、そうね…」
あおいが赤らんだ。
「珍しいからさ。見物しようよ、大正時代」
「もう…まもるちゃんったら」
あおいは微笑みながら(さすがね。これがバインダーなんだわ…)と頭の片隅で思った。
唐突な変化にも動じない精神力。
あやふやな都市伝説の儀式を一回行っただけで異界へ来れる能力。
なにより、ここまで一度もあおいを責めない優しさ。
すべてバインダーの貴重な力だ。
きさらがそうだったように。
前から衛の素質に気づいてはいた。
でも、それを確かめるのが怖かった。
なぜって、彼女がバインダーなら、消えた姉と同じ運命を辿るかもしれないから。
もし、衛が異界へ消えてしまったら、自分は正気を保てるだろうか。
自信はない。
ほぼ確実に精神が崩壊するだろう。
しかし、今だに『うつろ道』からきさらのささやき声が聴こえてくる限り、それを確かめねばならないのも分かっていた。
そして異界から生還させられる者がいるとしたら、今は衛ただ一人。
親友を人身御供にしての冒険…。
途轍もない賭けだった。
もし衛が異界へ飲み込まれたら…
自分も同じ運命を辿ろう。
あおいが衛の腕に絡む。
「?」
衛が怪訝な顔をした。
「だってデートだもん」
ちょっと反抗的なあおい。
「あ。そ…そうだったね」
衛が照れる。
あおいがニコニコする。
「ほんと、まもるちゃんって…」
「うん」
「お人好しだねっ♪」
「おい。」
***
あおいと衛は界隈を歩いて行った。
軒の低い、狭い道が続いている。
道はアスファルトではなく石畳で舗装されている。もうそれだけで古い。
ブゥ〜ン…と車が横を通り過ぎた。
ひどく真四角な車だ。
黒い箱型の車体から鼻が突き出るようにフロント部分がある。タイヤは剥き出しで、上に泥除けのカバー。カエルの目玉のようなフロントライト。今ならヴィンテージ物のクラシックカー。
それが、当たり前のように走っていた。
今どきの滑らかな流線型の自動車など、どこにもない。
それどころか馬車や人力車まで普通に走っている。
(面白いなあ)
衛は素直に感心した。
昔はこんな風だったのか…。
同じ日本なのに、異世界にいるみたいだ。
いや、異世界に違いないが、これほどリアルで存在感のある世界があることに驚く。
すれ違う人々もやはり昔風の格好をしている。100年前の写真が動いているような不思議な感じ。
時折現代風なファッションをした男女(それでもかなり古めかしいが)を見掛ける。
「モボとモガね」
あおいが指差す。
「なにそれ。モゴモガ?」
「『モダンボーイ』と『モダンガール』。最新流行のスタイル」
「へえ。最先端ってやつか」
周りが和服ばかりだと、モボ・モガは異様に目立っていた。
もっとも、あおいと衛ほどではないが。
浅草寺はあまり変わっていなかった。
仲見世通りもそのまま。
雷門の巨大な赤提灯は健在だ。というか、こっちの方が時間的には新しいのだが。
左右に連なる出店に挟まれた道を進む。宣伝の幟(のぼり)が何本もはためいている。
この界隈を歩いたことがあるが、あの時の雰囲気と違わない。建物は古めかしいし、売っている物も今と違うが、賑やかさの点では同じだ。
時間が経っても変わらないものがあるということか。
「すごいなぁ」
「ええ」
あおいも珍しそうに歩きながら見回している。
「あおいは前に来たことないの?」
「異界はとっても広いのよ」
あおいが苦笑する。
「広いというか無限ね。同じ風景に出会ったことがほとんどないわ。ここも今日が初めて」
「ふうん。じゃあ、どこに出るか分からなかったってわけ?」
「ええ。けっこうギャンブルなの」
「うへえ。なら運が良かったのかな、昔の日本で」
歩きながら衛は気づいた。
自分たちが完璧に無視されていることに。
まるでその場に居ないかのように、誰も目を向けてこない。たとえ向けたとしても、視線はこちらを通り越して向こうを見ている。
この当時の風俗からすれば、自分たちは相当変わった格好をしている。目立たないはずがない。
しかし、誰も顔をしかめたりはしない。
それに、これだけ客で混雑しているのに、誰にもぶつからない。
空気のように通り過ぎてゆく。
かといって実体がないわけではない。
手を伸ばせば人間でも建物でも触れる。でも、触れた人間がこちらを向くことはなかった。
試しに袖を握ってみようかと思ったけど、なぜかスルリと抜けられてしまう。文字通り掴みどころがないのだ。
「あまり触らないで」
あおいが注意を促す。
「必要なら仕方ないけど、自分から積極的に触れると異界に同化してしまうかもしれないから」
「そうなの?」
「最初は何も感じないけど、徐々に侵食されてゆくの。おねえちゃんみたいに…」
「じゃあ、これも食べられないのか」
軒先で売っていた饅頭を買おうと手に持ってみた(とはいえ、値段が『弍銭』と見たこともないものだったので、買えたかどうか怪しい)のだが。
戻した時、
ーーードクン。
一瞬、胸が波立った。
(………えっ?)
ざわざわと、胸の奥で、何かが湧いてくる。
(なんだ?)
衝動は、すぐに去っていった。けれど違和感が残る。
「なに?」
あおいが振り返る。
「いや。…なんでも」
「ない」を省略して首を振る衛。
あおいは一瞬目を光らせたが、「そう」とだけ言って、また楽しそうな様子に戻った。
浅草寺の本堂へ上がると、皆と同じくお賽銭を投げて手を合わせる。
(なにとぞ無事にあおいと戻れますように…)
衛が祈ると、
「きさらの事お願いした?」
と、あおいに聞いた。
「うん」
あおいは頷き、
「でも、大金投げちゃった」
「えっ、幾ら?」
「10円」
「なんだ」
「知らないの? ここの1円って、わたしたちの時代の1万円くらいするのよ」
「えーっ」
衛は目を丸くした。
(物価ってそんなに変わるんだ)
ってことは、自分も5円=5万円投げたことになる。
ふたりは階段を登った向拝から周りを見下ろした。
「…いないね、きさら」
「うん…」
探そうにも参拝客が多過ぎて見分けはつかないのだが。
「あのさ。あおいがここへ来ようとしたのって、きさらがいるかもって思ったからでしょ?」
「うん」
「それは、どうして分かったの?」
「う〜ん…」
あおいが顎に手を拳を当てる。
「夢をね、見たの」
「夢…」
「すごくリアルで鮮明な夢。でも、自分が夢の中にいるというのは分かるのね」
「うん」
「そこで、わたしは『叫び岩』の噴水にいたの。そして噴水の周りを回っていた…。
それから、この場所へ急に変わって。
なんだろうって思ったら、目が開いて。
目が覚めてもはっきり覚えてて。これはメッセージだって気づいた。異界からの」
「向こうから…」
「すぐに叫び岩の都市伝説に気づいたの。だから…」
「なるほど」
衛は欄干に手を掛けた。
「きさらを見たわけじゃないけど、何かが呼んでいた、と」
「きっと何かあるんだって」
「あおいがそう感じるなら、そうなんじゃない?」
「うん。だと…いいけど」
「罠ってことはないよね」
軽い冗談のつもりで言ったが、あおいは眉をひそめた。
「それは…ううん、分からない。罠かもしれない。異界ってシフターを呼びたがるから…」
「グレート。やれやれだぜ」
衛がどこかで読んだ漫画のセリフを真似る。
「ま、挑戦されたからには受けて立たにゃね」
「まもるちゃんて、時々お気楽ね」
「お褒めにあずかり光栄至極」
「あっ……」
あおいが向こうを見た。
「浅草十二階…」
「うん?」
「あっちに」
と、あおいが指差す。
その先に、赤い塔があった。
今いる浅草は、みんな建物が低い。せいぜい3階もあればいい方だ。だもので、あおいたちの時代に比べればずいぶん見通しがいい。
その低い屋根から、異様なほど高い塔がニョッキリと生えていた。
「あんなのあった?」
「この時代には。『凌雲閣』って言って、12階建ての展望台なの」
「ふぅ〜ん。スカイツリーの代わりに『りょううんかく』か…」
衛が妙に感心する。
「でも方角が変。本当は、そっちの方に…」
と、花屋敷のある方角を指す。
「あるはずなんだけど。それに距離も遠い。『本物』はもっと近くにあるはずなのよ」
「そういえばさ…」
衛も辺りを見回し、
「大正時代っていうけど、なんかちょっと違うよね、『この浅草』。うまく言えないんだけど…」
「ええ。とてもよく似ているけれど、細かなところで違うみたい。例えばあそこの池」
「大池だね」
「でも、大正の頃は違う池があったの」
「えっ」
「瓢箪池っていうのがあって。戦争が終わって埋め立てられるまで、その池があったはずなのよ」
「詳しいね」
「来る前に一応調べておいたから。予備知識は大切よ」
「なるほど。で、昔の池はなくて今の池がある、か…ややこしいな」
「場所によって微妙なズレがあるみたい」
「じゃあ、よく似てるけど、別な場所ってことか…」
「タイムスリップしたのであれば、凌雲閣のある時代に大池が存在するはずはない。だから、異界の模倣だと思う」
「なんでそんな真似しますかねえ」
「行ってみない?」
「あれへ?」
衛も凌雲閣を指差す。
「それも夢で見た気がするから」
「あてどなく彷徨うよりはいいか。行こう」
***
あおいと衛は浅草寺の境内を離れ、浅草の下町を歩いて行った。それが浅草であれば、だが。
…どこかで風鈴の音がする。
涼やかな、軽やかで乾いた音が…
いつの間にか人の姿は消え、遠くから雑踏の音が微かに聴こえてくる…。
細い路地が曲がりくねり、両脇に木造二階建ての家がどこまでも連なる。それは間違いなく迷路だった。
道を覆うように屋根が突き出、路地に鉢植えが置かれ、2階の窓は開いて小さな木のバルコニーがある。
朝顔を植える綱。
奥へ引っ込んだ玄関の両脇に格子状の窓。開けっ放しの玄関に暖簾が吊られている。
アスファルトののっぺりした路面と違い、石畳の小道は1枚1枚に表情があるようだ。その上に涼むための手水を撒いた跡がある。
低い塀から覗く柿の木。
1階の軒上に猫が居座っている。
生活感漂う古き日本の風景。
(なんだかいいなあ)
衛は思った。
自分が生まれたずっと前の時代なのに、なぜだか知っている気がする。
ずっと歩いていたいような…。
「着かないね。凌雲閣」
「ええ」
あおいは念の為スマホに地図をダウンロードしておいたので、ネットに繋がらなくても(ちなみに圏外だった)現在位置は確認できる。
しかし、現実の地図と異界の地形は一致しなかった。
浅草寺辺りはまだ現実と似通っていたが、そこから離れれば離れるほど道が錯綜してゆく。あるはずの通りがなく、ないはずの道がある。突き当たりへ何度も阻まれ、それほど遠くないように見える楼閣は一向に近づいてこなかった。逆に遠ざかっているのではと再三思わされる。
次第にふたりは過去の迷宮の中に囚われていった。
「疲れたね…」
「うん…」
言葉少なに会話を交わす。
いつしかふたりの間で言葉が途切れ、ひたすら歩き続けていた。
(落ち着け…落ち着け…呑まれるな……)
そんな事を衛は心の中で呟いていた。
何時間も歩いているのに、なぜか太陽は傾かない。午後を思わせる陽差しが停まり、固定された影が路地を覆っている。
不気味なほど静かだ。
そろそろ足が棒になりそう…と思った時だ。
目の前に一軒の店が現れた。
木造2階の1階部分を喫茶店にしたものだ。
今どきの全面ガラス張りのファストフードとは対極の、薄い板を重ねた古めかしい壁に小さな窓が収まっている。ドアは木で出来ていた。もちろん自動ではない。
ふたりは唐突な出会いに面食らったが、休めそうな場所が見つかったので、中へ入ってみる。
ドアを開けるとカラコロと鈴が鳴った。
店内も無人だった。
5つのテーブル席も、カウンターも、からっぽ。
どこからかパチパチと小さな雑音が鳴り、声が聴こえてくる。
♪ …カァチュ〜シャ かぁわぁい〜や、別れぇのぉ辛ぁさぁ〜〜…♪
おっとりとした美声。
ゆっくりとした曲調。
ひどく古臭いのに、郷愁を感じさせるメロディ…。
「蓄音機だわ」
あおいが音のする方へ行き、奇妙な機械の前で立ち止まる。
ラッパを大きくしたような拡声器と、その下に繋がる四角い箱。箱の上でターンテーブルが回り、重ねられた黒い円盤も回っていた。円盤にはごく細い溝が同心円状に引かれ、その溝に小さな針が触れている。円盤は真っ平らではなく、所々歪んでいて、その上を針が踊った。
ザザ…という雑音とともに、拡声器からあの声が流れてくる。
♪ …せめぇ〜て又逢〜ぅ〜、そぉれぇ〜ま〜で〜は〜…♪
ーーードクン。。。
(………っ!?)
今度は、はっきりと感じた。
衛の心に(懐かしい)という想いが急激に広がってゆく。
胸が重くなるほど。
それでいて、これは自分の感情ではない…という自覚もある。
♪ …同〜じ姿ぁ〜でぇ、いてた〜もぉれぇ〜…♪
ドクン、ドクン、、ドクン、、、
(なんだ!?)
衛の額に汗が浮かんだ。
空間が捻れて球体へ歪曲してゆく。
視界がグニャリと歪む。
違う、空間自体は変わっていない。自分の感覚が狂っているのだ。
「…まもるちゃん…?」
あおいの声が遠くなる。
♪ …ひろ〜い野ぉ原ぁ〜を、とぼ〜と〜ぼ〜と〜…♪
足元が何かに引きずられてゆく。
(まさか…これって…)
自分の肉体はここにあるのに、強烈に後ろへ引っ張られてゆく。
「…!!」
♪ …ひとぉ〜り出ぇ〜てぇ〜y、
ブツリと歌が途切れた。
「…はっ!?」
衛が汗だくの顔を上げる。
あおいが、針を持ち上げていた。
円盤が虚しく回っている。
あおいは針をそっと脇に置くと、蓄音機を止めた。
静寂に包まれる。
「まもるちゃん」
「……ぁ……ん…だ、だいじょう…ぶ」
衛が汗をぬぐう。
「なんか急に…めまいが」
「『呼ばれた』のね」
「!」
あおいは黒い円盤を取り上げると、蓄音機に立て掛けていた紙のカバーへ入れた。
そのカバーに『オリエントレコード』と書かれていた。
「呼ばれた…」
「異界があなたを呼んでいるの。たぶん」
「これ…一体何?」
「レコードよ」
「レコード…コレが」
聞いたことはあるが、実物を見たのは初めてだ。
「S P版っていって、昔の物なの。今の歌は松井須磨子っていう人の『カチューシャの唄』」
「カチューシャ、かあ…」
衛はしげしげと眺めた。
たった今感じた強烈な感情は、もう消えていた。
しかし、腹の底にシコリが残っている。
触れても分からないほど小さな小石のような…
プゥン…
香ばしい匂いがした。
「…あれ?」
蓄音機を挟んでしばし呆然としていたふたりは、そちらの方を見た。
テーブル席にコーヒーカップが2つ置かれている。
そばにはチョコレートケーキ。
入った時は確実になかった。
あおいと衛が顔を見合わせる。衛が肩をすくめた。
席に着くと、
「食べていいんだよね?」
念のため行ってみる。
「ええと…たぶん…」
聞かれても仕方ないのだが、あおいが頷いた。
「食べたらオバケになるとか」
「そういう話はなかった気がする。…たぶん」
「おい」
と言いつつ、衛はすでにカップを手にしていた。鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
「う〜む…ブルーマウンテンですかねえ」
「銘柄なんて知らないくせに」
「じゃあ、あおいは知ってるの?」
「そうね…」
クンクンとあおいは嗅ぎ、
「間違いなくコーヒーです」
「あ〜、了解」
一口啜ってみた。
美味い。
「だいじょぶみたい」
衛がポットから角砂糖を3つ入れる。
「え、そんなに入れるの?」
「あおいは」
「ミルクだけで十分です」
意外に甘党じゃない…。
あおいはミルクポットから少量垂らして、掻き混ぜた。
チョコレートケーキも試してみる。
しっとりまろやか。甘さもくどくない。スポンジも柔らかくて舌触りが良い。
「異界ってさ、」
「うん」
「罠に嵌めるかと思ば、こういう事もするわけ?」
ちょうど疲れていたからタイミング的にはピッタリだ。測ったようなもてなし方。
「うーん、そこもよく分からないというか…夜中で道に迷ったら神社の境内に行き着いて、そこで野宿しようとお堂の中に入ったらなぜかご飯が置いてあって…」
「神様親切」
「食べて寝たら朝になってて、今度は簡単に戻れたっていう話もあるし」
「そうか。敵もいれば味方もいるらしいと」
「敵味方って単純な割り振りはどうかな。でも、そういう事も起こるって」
「あおいはあった?」
「ええ。以前、きさらと行った時、道に迷ったけど看板に出くわして助かったわ」
「看板?」
「通行止めの標識と、一方通行の矢印」
「へえ。戻れたの?」
「ここにいるじゃない」
「ふうん…異界ってよく分かんないな」
コーヒーを飲み干してケーキを食べ終わったら、なんだか元気が湧いてくる。
衛は財布を取り出した。
「あんまお金ないんだよな〜」
「しょっちゅう助っ人するくせに」
「あれは物々交換ですよ。現金でやり取りしたら捕まるっしょ。あくまでも善意っつうのが建前」
「はいはい」
「今は大正だし、このくらいでいいかな」
と100円玉を1枚置く。
「マスターがいたら飛び上がって喜ぶかもね」
あおいも同じく硬貨を置いた。
*****
ふたりが喫茶店を出た時 ーーーー
ザワリ、
と悪寒が走った。
「「……!?」」
路地の奥から冷気に似た何かが漂ってくる。
暗く、冷たく、歪な何か。
ザワリ…ザワリ…
黒い髪の毛がどこまでも伸びてくるような。
触れば触れられそうな気配。
路地の暗闇がグニャリ、と歪んだ。
コーヒーにミルクが混ざるように、グルグルと形を変えてゆく。
その形が、だんだん人型になってゆく。
ほっそりした体型。
沁み入るようなワンピースの白。
雪のように白い手足。
長い、長い、髪の毛。
「きさら………」
呆然と、あおいが呟いた。
無意識に一歩出る。
その腕を、がっちりと衛が掴んだ。
「…?」
「違うだろ」
「え、でも。あれ、おねぇちゃ…ん」
「よく見ろ!あれがきさらか」
あおいが目をしばたたいた。
そして路地裏の女に目を凝らす。
しかし、女が自分の姉かどうか分からない。
なぜって、その女には顔がなかったから。