【アンサング・デュエット】リプレイ 『郷愁の都、幻のあなた』〜天上の楼閣   作:mizumega

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逃走

 

 

 

深度6【きさら】

 

 

 ふたりは、怪異に相対していた。

 顔のない女に。

 

 狭い道の、奥が暗く見えない場所で。

 

 その姿は確かに上前津きさらを思わせた。

 

 しかし、『彼女』が人間ではない証拠に、顔面の部分がスッポリ抜け落ちている。

 黒く塗ったのではない。お面を被っているのでもない。

 そこだけ空間が切り取られているのだ。

 無くなった部分の向こうは、闇。

 闇というか、渦。

 何かの色が複雑に混ざり合い、絶えず回っているのが、かろうじて見える。

 そして、その『顔』を覆うように、ザワザワと鴉の濡羽色の髪が立ち上がり、ざわめいていた。

 

 視界がレンズ状に歪む。

 『それ』に焦点を合わせたかのごとく、周囲の景色が歪曲され、ぼやけた。

 

《あおい……》

 

 ザワリ、と衛の鳥肌が立った。

(きさらさんの声だ)

 似ているというより、本人そのもの。

 ただ、その声はどこか歪で、雑音が混じっている。さっき聴いたレコードのようにパチパチと音が爆ぜ、顔の穴の向こうから響いているようだ。

 

 スッ…

 と、手を差し伸べてくる。

 

《お帰りなさい…》

 

 あおいが一歩、身を引いた。

 顔が真っ青だ。

「あおい」

「あの人じゃない…」

 震えながら答える。

「あんなものが、きさらのはずが…」

「だいじょうぶ?」

 衛があおいを支えるように手を握った。

 

 女の姿が突然崩れた。

 あちこちからボコボコと瘤が生まれ、白い膿を流し始める。体が軟体動物のように曲がり、足の部分が分裂して無数の触手になっていた。

 

(なんだアレ…!)

 吐き気をこらえ、

「あいつ、怪物なのか…!?」

「まもるちゃんも見えるの?」

「ああ。あおいの手を握ったら見えるようになった」

「わたし、最初分からなかった…おねえちゃんの姿を見せられて、一瞬つけ入れられた。まもるちゃんが腕を取ってくれなかったら…」

「一応聞くけど、倒せる?」

 そう言っている間にも、ジリジリと後ずさる。向こうが少しずつ迫ってくるからだ。

「触れた瞬間に終わりね」

 額に汗を浮かべながらあおいが首を振る。

「あいつみたいになるってこと?」

「たぶん」

「じゃあ…逃げるっきゃない!」

 

 ふたりは走り出した。

 怪物は焦らない。ゆっくりと追ってくる。

(振り切れるか?)

 衛が思った時だった。

 

「ーーーあおいちゃん…」

 

 ふいに、耳元で声がした。

 甘く、美しく、切ない響き。

 

 振り向くと、きさらがいた。

           

 完璧な姿の。

 

 生前のきさらと同じ、女神のような立ち姿。

 いつもと違っているのは、和服を着ていることだ。ごく自然な立ち姿で。

 和服ならではの色気に満ちている。

 首筋のほつれ毛。

 長いまつ毛。

 顔は微かに憂いを帯び、極上の微笑みを浮かべている。

 

 その唇を見た時、再び衛は総毛立った。

 けれど前と違うのは、その美しさにゾクゾクしたからだ。

 うなじを優しく舐められるような快感。

 背骨を小さなスパークが駆け抜ける。

 淫らで、それでいて清らかな、究極の『美』。

 それが圧倒的な量感で迫ってきた。

 

 グイッ、と手を引かれた。

 

 あおいが、目を見開いて、『きさら』を見ている。

 目の色が変わっている。

 魅入られている。

 あの化け物の本体を見ていながら、堕ちていた。

(嘘…!)

 凄い力で引っ張られた。

 あおいが衛を引きずるように、『きさら』へ引き寄せられてゆく。

「…おねえちゃん……」

 どこか淫蕩な、欲情しているかのような声。

 頬が紅潮し、目が潤んでいる。

(そうなのか)

 衛は唐突に理解した。

 

 これが【シフター】の弱点なのだ。

 相手の本質が見えていながら、誘惑を防ぐことができない。

 そして怪異は、シフターの最も心惹かれるものを魅せることができる。

 惹き寄せ、捕まえ、取り憑き、同化する。

 そして、同化したシフターもまた…

 

「あおいいい!!」

 衛は引っ張り返した。

 足を踏ん張り、腰を落として。

(負けてたまるかぁ!)

 カアッと腹が熱くなる。

 そう簡単に盗られるか。

 こんな醜い化け物に。

 それより、あっさり騙されるあおいに腹が立つ。

 この自分がそばに居ながら。

 手をつないでいながら…

 【シフター】が魅入られるなら、【バインダー】は…!

「あんなくだんないモノに引き寄せられてんじゃねえええ!」

 

ーーーズルッ。…ズルッ。…ズルッ。

 

 停まらない。

 あおいを停められない。

 衛の体重ごと引きずってゆく。

 信じられないパワーだ。

 普段のあおいからは想像もつかない膂力を発揮している。

 あきらかに異常だ。

(いや…待てよ…おかしい)

 衛は足裏に奇妙な違和感を覚えていた。

 靴底に地面の感触が伝わらないのだ。

 踏ん張っているはずなのに、硬い石の床を感じない。

 妙に薄っぺらな、油を敷いたような、抵抗感のなさ。

(ひょっとしてこいつ…)

 

 『きさら』は動かない。

 ただジッと突っ立って、獲物が釣れるのを待っている。

 その瞳に、間違いなく嘲りの色が見える。

 衛の努力を憐れんでいるのだ。

 

(この野郎)

 思いつつも、あおいを停められない。

 あと10メートル。

 手は痛いほどあおいの手首を握っている。自慢の80㎏の握力を持ってしても、切られそうだ。

(そうか…やっぱり…コイツの力は、心のパワーなんだな…!?)

 惹き寄せているのは精神の動き。

 誘惑される者の心なのだ。

 物理的な力は役に立たない。

 異界にはそういうルールが存在するらしい。

 今、あおいが一足飛びに『きさら』の胸に飛び込まないのは、衛への想いがあるからだった。

(えーーっ!? あたし、きさらに負けてんの!?)

 いや、確かに鬱陶しい時はあるけど…。

 用事がある時に絡まれるのマジ困るし…。

 自分がそうされたいわけじゃないけど、次から次へと男子に告白されてるの見るとイラッとするし…。

 だけど、偽物と比べて自分が劣るなんて、断じて許せなくない?

「ちょっ…もぉ…!」

 今や両手であおいの左手首を握っている。なのに、足はズルズルと前へ引きずられてゆく。鮫を釣り上げる人みたいに。

「幼馴染なんでしょ! ちょっとはこっちを向いてよッ!」

 

ーーー ピクリ。

 

 あ。

 今、ちょっと、ためらった。

 微かだが手応えあり。

「幼稚園でよく喧嘩したじゃない!」

 ズルズルズルッと。

 コレはダメなのか。

「小学校じゃよく遊んだじゃん!」

 ピクピク。

 こっちは正解っぽい。

 けど、やっぱり、進んでゆく。

 

 あと5メートル。

 

「あたしたち腐れ縁なんだって! 離れられないんだよ!」

 あまり言いたくないが、心の底で想っていることを言ってしまう。

 ズズズ…ッ。

 かなり効いた…か?

(…あとほら、え〜と、ん〜と、アレだよアレ)

 こんな場合じゃなけりゃ絶っっっっ対言いたくないこと。

 言うべきか。

 言わざるべきか。

 と、あおいがいっそう力強く引っ張った。もういくらも距離がない。 

 『きさら』に手が触れそうだ。

(ええい、もうっっっ)

「あたしのお嫁さんになるって言ったじゃん! 忘れたのッ!?」

「ーーーー …えっ!!!!!????」

 即答。

 あおいが『きさら』の手前1メートルで停まった。途端に、

 

ーーーーーー グィ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ンンンンンn .....!!!!!!

 

(うわわわわわ)

 空間が、急激に後退する。

 動画の逆回しみたいに、今まで進んできた道が一挙に開いた。風景が凄い勢いで通り過ぎてゆく。のみならず、通ったことのない道までビュンビュン過ぎてゆく。あまりに速くて、目で追えないほど。

(なんだなんだなんだ)

 あおいと衛は一歩も動いていない。

 風景の方が遠ざかってゆくのだ。

 そしてあおいはというと、まだ驚いた顔で衛を見つめていた。

 

 ……… グニャン、……ーーーーーー

 

 

 やっとストップする。

 停止する直前、辺りが水溜まりの水紋のように揺れ、元通りになった。

 それでもあおいは動かなかった。

 

「…………覚えてたんだ」

 

 心底驚かされた、というように呟く。

「そりゃあ覚えてますよ。あんだけネチネチ言われりゃあね」

 衛が不機嫌に答える。

 

 幼い頃のあおいが、どんなに執拗に衛へ結婚を迫ったか、当の本人はあまり覚えてないらしい。それはもう毎日「はいはい」と、あおいが納得するまで、何度も何度も約束させられたものだ。トラウマの一歩手前まで困らされた。その習慣がようやく止まったのは、小学校高学年のクラス分けで、別々になってからだった。

 それなのに、あおいは異界へ来てから、一番ビックリしていたのだった。

 

「てっきり忘れたのかと…」

「うんざりするほど約束したよ」

「ふぅん…そぅ…そうなんだ………」

 自分一人で納得している。

 そして、ふいにニコリとした。

「じゃあ、許してあげる♪」

「はぁ?」

 なにがどういう理屈でそうなるのか。

 自分も女だけど、女って分からん…。

「まあ、そういうことにしますか…。で、だけど。アレさ、もう追い掛けて来ないの?」

「あ…そういえば」

 完璧に忘れてましたね…。

 あおいは周りをキョロキョロ見渡し、そこがまだ浅草であることを確認した。そして首を振った。

「…ううん、違うと思う。ここが『浅草という異界』である限り、どこまでも追ってくるはずよ。今はだいぶ距離が開いたけれど…」

「それじゃ、どうやって逃げる?」

「そうね…」

 あおいは思案顔で注意深く辺りを観察した。

「ーーーあそこに、」

 と空を指差す。

「時空の歪みがある。『ボルテックス』とも言うけど」

「ぼるてっくす?」

「ほら、見えない? あそこ」

 衛が目を凝らした。

 

 スモーキーグリーンの爪の先、指し示す空に、雲が浮かんでいる。

 しかし、その雲は奇妙に捩れ、渦を巻いていた。

 白い渦は音もなく回っている。

 とても小さくて、一見しただけでは分からない。あおいのシフターの能力が見つけたのだろう。

 

「…ああ、確かに。変な雲」

「あの近くは…」

 そばに建っている赤煉瓦の塔。

「浅草十二階、か…」

「あそこまで行ければ、もしかして」

「行こう。愚図ってる暇無いよ」

 振り向くと、長細い路地の奥から、『きさら』が近づいてくる。

 音もなく、足を動かさず、少しずつ…。

 衛は返事を待たず、あおいの手を取って走り出した。

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

深度7【路面電車】

 

 

 

 路地を抜け、通りに出た。

 広い通りだ。

 4車線を挟んで高い建物が連なっている。繁華街だった。

 人通りは多く、自動車が行き交っている。

 ただし、車も人も建物も、やはり古めかしい。目の前で動いているものの、異界に慣れてきたあおいと衛の目にはどこか薄っぺらな感じがした。生気に乏しいというか…。

 

 衛はあおいの手を引きながら、人混みへ紛れるように歩き始めた。

「…追ってくる?」

 聞かれたあおいが歩きながら振り向く。首を振ったものの、

「気配はするわ…見えないけど」

「こっちの足取りは分かるってことか…」

 なぜ見えないのに分かるのか、とは問わない。すでにあおいが異界に共鳴し、様々なものが見えるのが分かったから。

「あいつって何なの?」

「分からない。仮に分かっても、言葉で説明できるかどうか…」

「きさらの姿をしてたよね」

「ええ」

「じゃあ、その…もしかして、異界に同化した…」

「違うと思う」

 キッパリとあおいは否定した。

「きさらなら、あんな風に現れないと思う。それに顔が無かったでしょう?」

「でも次は顔が…」

「だいたい、きさらが異界に取り込まれて、わたしたちを誘ったなら、こんな手の込んだやり方をしなくてもいいもの。入った時点できさらのフィールドになり、手も足も出なかったはずよ」

「なら何なのさ」

「たぶん、だけど。わたしたちの記憶を探ったんだと思う」

「記憶を?」

「異界のやり口は、その人間にとって忘れられないことや、大事なことを掘り起こし、突きつけることなの。死んだはずの人が現れたり、今は失われた思い出の場所だったり…」

「あたしらの思い出を読んだってこと?」

「ええ。わたしたちの心の中に焼き付いているものを探り出し、再現してみせた。…ただ、最初はきさらの顔を作れなかった。そこが弱点ね」

「きさらって、一度見たら忘れない顔してるけどなあ」

 あれだけ印象深い容姿なら、すぐに再現できそうなものだが…。

「そうかしら。じゃあ、きさらがどんな顔かちゃんと言える?」

「それは、え〜と…」

 衛は言葉に詰まった。

(どんなって言われても)

 確かに強烈な印象を残すが、正確に再現しろと言われれば、かなり難しい。

「…細面で、唇は薄くて…。鼻は、高い…いやそうでもない? 低くはないけど。眉がこう、曲がってて…」

 言ってる先から、きさらの印象がこぼれ落ちてゆく。

「う〜んう〜ん」

「あの顔だってずいぶん劣化したものだったわ」

「そんなこと言って。簡単に騙されたくせに」

「それは…」

 あおいが顔を赤らめる。

「なにかこう、胸の中に手を入れられて、グッと引き寄せられたような…だから細かいことは気にならなくて…」

「"手を入れられた"?」

「透明な手がスウッと…」

「うひゃ」

 あまり想像したくない場面だ。

 それより、異界にいるものが平気でそんな事ができるのに寒気がする。今までは遊び半分で関わってきたが、いざ現場に立つと危ないなんてものではない。

 けれど衛はちょっぴり不満だった。

「あんなモドキより、あたしがそばにいるのに〜」

 自分があおいのアンカー役なら、何かあった時頼りにしてくれても良さそうだが…。

「ええ、うん、わかってる。だから…す、隙を突かれたの。不意打ち」

「なるほどねえ。ま、そういうことにしときますか」

 

***

 

 しゃべっている間にも、東京の街中をぐんぐん通り過ぎてゆく。

 しかし、その配置は現実とかなり異なっている。

 さっきは浅草にいたと思ったら、今は銀座を歩いていた。いつの間に紛れ込んだのか。

 銀座といっても、もちろん現実のお洒落な街とは違う。高層ビルや大型百貨店などどこを見渡してもない。お洒落はお洒落だが、建物は今よりずっと低いし、歩道脇に等間隔で木造りの電信柱とガス灯が連なっている。ガス灯、すなわちガスの火で照らす照明器具だ。電気式の街灯などどこにもない。

 走るのは馬車にタイヤを付けたような自動車で、男はスーツ姿にカンカン帽、女は和服かロングスカート。

 松屋銀座や三越デパートが往時とあまり変わらぬ風情が…いや、違うか。こっちの方が古いんだった。

 とにかくそんな調子なので、通りの広さと賑わいがなければ、古い田舎町を歩いているような気がしてくる。あるいは日本に似た外国か。

 

 あおいと衛は絶えず『きさらもどき』の姿を探しながら、ひたすら歩いた。

 凌雲閣はなかなか近づいてこない。もしかすると、意図的に距離を離しているのでは…と疑いが頭をもたげる。

「もしかするとね」

 あおいは頷いた。

「正しいルートを辿らないと、いつまでも辿り着けないことだってあるわ」

「着けなかったら?」

「死ぬか…異界の住民になるか」

「どっちも嫌だな。正しいルートって、どうやって探すの?」

「兆しがあるのよ」

「きざし?」

「何か、ふと目につくこととか、妙に気になることとか…。あるいは、看板や標識、ポスターとか、そういうのにどこか不自然なところがあって、それがヒントになることもある。例えばこのマンホール……」

 何気なく足元を指さしたあおいは、そこで立ち止まった。

 そのマンホールの蓋には『→』という印が彫られていた。

「なんだこの蓋?」

「たぶん、こっちの方なんだと思う」

 その方向へ歩き始める。

 

(えらくタイミングがいいな)

 衛はふと思った。

(…いや待てよ。偶然じゃなくて必然だったら? あおいのシフターの力が異界からヒントを貰ってるんじゃないかな)

 これは注意しておこう。

 

 人混みが次第に多くなってゆく。

 銀座にしては異常な混みようだ。渋谷の交差点前のような混雑ぶり…いや、そうじゃない。

 衛は辺りを見回した。

 人が、徐々に集まってくる。自分たちを中心に。

「…あおい。あいつがどこにいるか分かる…?」

「ううん。気配はするんだけど…」

「もしかして、もしかしなくても、あたしたちヤバそう…」

 衛の言葉に、あおいはハッとした。

 そしてすぐに状況を理解する。

「気配が強くなってる」

 

「ーーーいた!」

 衛が指差す先に、あの女が。人の頭の波に紛れて。

 前髪が異様に長く、胸から腰あたりまで垂れている。顔は再び崩れ、穴ではないが言葉にできないほど変形していた。

 その距離3メートル。

(いつの間に!)

「走るよっ」

 衛があおいの手を取って駆け出す。が、人の壁ができていた。密集する人間の間を泳ぐように掻き分け、無理やりこじ開けて前進する。

 だが、衛の強引な進み方に、誰も文句を言わない。というか、誰も言葉を発していなかった。何千何万もの人がいながら、一言も発していない。

 ゾッとしながらふたりは必死に走った。

 『きさらもどき』は執拗に追ってくる。

 歩いているようにしか見えないが、あおいたちとほとんど変わらない速度で進んでいた。

(…追いつかれる!?)

 衛が思った時だった。

 

♪…待〜てぇ〜〜ど 暮らせぇ〜ど 来ぉ〜ぬひぃとぉを〜〜…♪

 

 …どこからか歌が聴こえてくる。

(さっきと同じ…?)

 衛がどこから聞こえるのか見回すと、

「“歌”だわ…」

 あおいが呟いた。

「まもるちゃん、歌! 歌が道しるべになってる!」

「それを追えってか!?」

「そう!」

 ふたりは走りながら耳を澄ました。

 

♪…暮ぅ〜れて河ぁ〜原に星ひぃ〜とつぅ〜… 宵〜待ぃ〜草の〜花が〜散るぅ〜〜…♪

 

「あそこ! あの電車!」

 あおいが路面電車を指差した。

 チョコレート色の木造電車。

 それが今ちょうど、カーブを曲がって停車場へ向かうところだ。

 歌はそこから微かに流れてくる。

 沈黙の群衆の中で、その歌はやけに明瞭に聴こえた。

「すみません、ちょっと!」

 衛があおいの手を引きながら人の群を掻き分けてゆく。わざとなのか、偶然なのか、人が集まるせいでひどく走りにくかった。まるで肉の壁だ。

(なんでこんな時に限って)

「どいて!」

 しまいには怒鳴りながら肩を捻じ込むように道を開けていった。それに比して、路面電車はひどくのんびりと走っているように見える。電車にからかわれている気がして、衛はますます腹を立てた。

「痛っ。まもるちゃん、落ち着い…」

 釣竿に引っ張られるようにあおいがもがく。どんどん押し寄せる人混みは、衛が開けたそばから閉じられ、あおい目掛けてぶつかってきた。衛が痛いほど手を握っていなかったら、とっくに人波で溺れていたに違いない。

 無表情にすれ違う人々から悪意の匂いを感じ、あおいはゾッとした。

(さっきは触れないように通り過ぎていたのに…やっぱりアレが指示しているんだわ)

 無数の人の頭に見え隠れしている『きさらもどき』は、着実に距離を縮めてくる。消えたと思ったらまた現れ、そのたびに顔が大きく見えた。

 また、フッと消える。

(…撒いた?)

 長い間見えないので、ひょっとしたら振り切ったのでは…と思い始めた時 ーーーーー

 

 ヌッ。

 

 いきなり、肩越しに『アレ』が現れた。

(ひっ)

 鼻と鼻がくっつきそうな距離だ。

 なのに、その顔はぼやけてはっきり見えない。

 何か鼻らしきものや、口らしき裂け目はある。が、目に相当する部分は凹みがあるだけだった。

 のっぺらぼうに近い。

(ひいいい)

 あおいの頭が恐怖で真っ白にn

「ーーーどっせいぃ!」

 ドカン!とすぐ横から足が飛んできた。

 それは真っ直ぐあおいの脇腹をすり抜け、背後の『アレ』のお腹をまともに打ち抜いていた。

 『アレ』が紙のように吹っ飛び、後ろにいた人間を巻き添えにして倒れ込む。

 衛は横蹴りを引っ込めながら、

「…一応当たるんだ」

 と妙に感心していた。

「け…」

 

(…蹴った!?)

 あおいは驚きのあまり、さっきまでの恐怖を忘れていた。

 怪異に遭遇したことは何度もあるが、それを「蹴り飛ばした」人間は一人もいない。

 接触した時点で拘束され、そのまま生け贄になるのが普通なのに…。

(なんて人なの)

 きららもバインダーだが、力づくで怪異を押し除ける人間など聞いたことがない。

 

「来るよ!電車」

 衛の言葉にハッと我に返る。

 今まさに路面電車が停車場へ滑り込んでゆくところだ。

「走れ!」

 衛が力を振り絞って人混みからあおいを引っこ抜く。そのまま怒涛の勢いで停車場へまっしぐら。

 あおいは引きずられながら、なんとか転ばないよう必死で足を動かした。

 『アレ』が追ってくるかどうか振り返る暇もない。

(わ、わたし、体育2なのに…っ)

 唯一の弱点を思いながら、すぐ先にいる茶色の車体目掛けて走る。が…

 

 ーーーー チンチンチン…♪

 

 無情にも、電車は動き出した。

「こんのぉ!!」

 グイッ、と凄い力で引っ張られる。そして腰が抱えられ、いきなり重力が無くなった。

「??!!!」

「せえ〜のっ!」

「ひゃあっ!?」

 足をバタつかせながら、あおいは宙を飛んでいた。

 目の前に茶色の車体が迫ってくる。

 そして、なす術もなく飛んでいたあおいが膝からもろに床へ落ちた。

ーーードスンッ!

(痛っ!)

 四つん這いの格好で着地していた。膝にジィン…と痺れが走る。

 しかし、体はコトトン、コトトン…と揺れる車内にいる。

(まもるちゃんは!?)

 痛みも忘れ振り向くと、電車のすぐ脇で衛が必死こいて走っていた。

 いかに運動神経抜群といえど、電車と競走して勝てるのか…。

 喘ぐ衛は、走るあまり顔色が青くなっている。

「ーーーまもるちゃん!」

 手すりを握りながら、あおいは車体の外へ手を伸ばした。

 衛のすぐ後ろには、『アレ』がいる。

 もはやきさらの姿すら崩れて、なんだかわからないグニョグニョの塊に見えたが、速度は間違いなく衛よりわずかに速い。

 乗り遅れたら間違いなく助からない。

「がんばって!」

 今にも電車から落ちそうになりながら、あおいは限界まで腕を伸ばした。

 衛も右手を伸ばす。

 ふたりの指が触れ合い、また離れる。

 『アレ』が衛の背中へ覆い被さる寸前…

 指が絡み合った。

「ーーーー!!*⭐︎%$&#"!!!!」

 人間離れした気合いがあおいの口から迸る。

 ググンッ!

「おわぁ?!!」

 突き飛ばされたように衛が宙に浮き、電車の中へ転げ込んだ。

 

***

 

……コトトン、……コトトン、……コトトン、……コトトン、

 

「…………………。」

「…………………。」

 見つめ合っていた。

 衛はあおいを。

 あおいは衛を。

 互いに瞳を覗き込んで。

((… すごい…… 綺麗……… ))

 ふたり同時に想う。

 まるで今日初めて相手の顔を眺めたように。

 そして、あおいがふぃ…と目を逸らした。

「…………どいて」

「…えっ?」

 衛は初めて気がついた。

 自分が、あおいへ覆い被さっているのに。

 飛んだ勢いで押し倒してしまったらしい。

「あっ、ご、ごめん!」

 ピョンと跳ね起きた反動で、柱に後頭部をゴツンとぶつける。

「…もう。慌てんぼ」

 クスクスあおいが笑う。

「へへ…」

 照れながら衛は手を差し伸べ、あおいを助け起こした。

 

 車内から外を見渡す。

 『アレ』の姿はどこにもなかった。

 ただどこまでも線路が続き、その上を淡々と電車が走ってゆく。

 両脇の光景はやはり大正時代の街並み。

 どこか牧歌的で、どこか不穏な…

「逃げ切れた、かな」

「ううん…まだ」

「どこに行くの、これ?」

「そうね…」

 あおいは車内を見た。

 ふたりが乗っている路面電車は、木造の1両編成だ。単車で走っている。

 ドアはなく、両端に開口部があり、どちらの側にも運転装置があった。

 ひどく簡素な造りで、スピードを加減する大きなハンドルと、前進・後退の切り替え器、ブレーキくらいしかない。座席はなく、立ちっぱなしで運転するらしい。

 出入り口に扉がないので、そのまま乗り込めたのだ。

 中に人はいない。

 ついでに言うと、今ふたりは後部から後ろへ流れる風景を見ているのだが、前部の運転装置にも人がいない。

 どうやら自動運転らしい。

 車内は狭く、客が2、30人も乗れば満員になりそうだ。

 通勤電車と同じく両側に赤色布張りの長座席があり、白塗りの天井から茶色の桁が走り、吊り革がぶら下がっている。

 窓は正方形のはめ込み式で、今のように大きな一枚窓ではない。

 ひどくレトロで、何かホッとする眺めだ。

 無人の座席に、蓄音機がポツンと置いてある。

 

♪… 更ぅけてぇ〜はかぁ〜ぜもぉ〜… 泣ぁくそぉぉうなぁぁ〜〜… ♪

 

 例のパチパチ雑音を混ぜながら、おっとりした声が響き、やがてレコードが止まった。

 かたわらに紙のジャケットがある。

 『POLYDOR RECORD 草待宵』

「高峰三枝子…」

 あおいはレコードを取り、ジャケットに入れて、バッグにしまった。

 ふたりで蓄音機のそばに腰掛ける。

 窓から差し込む日差しがぬくい。

「静かだね…」

「ええ…」

 言葉少なに会話した。

 

……コトトン、……コトトン、……コトトン、……コトトン、…

 

 間延びした振動が心地いい。

「結局…罠、ってことかな…。異界に呼ばれたの」

「どう…かしら。違うと思いたい…けど」

「もし、だよ」

「ええ」

「もし、きさらが異界に消えて、でも、まだ同化していなかったらどうかな」

「ええ…?」

 あおいが眉をひそめる。

「いや、あたしはトーシロだから分かんないだけど」

 衛が頭を掻いた。

「ふと、ね。ふと、もしかしてきさらは、人間のままで異界に居て、助けを求めてるんじゃないかなあ…って」

「え、ええ。そう思って、来たのだけれど…」

 

(思ってもみなかったわ)

 あらためてハッキリ言われると。

 あおい自身、きさらが人間のままでいることを信じていなかったのだ。

 5年も前に異界へ消えた人間が、いまだに無事でいることを。

(そもそも異界に居るのかという話なのだけれど)

 もうとっくに異界化していてもおかしくない。

 さっきの『アレ』のような化け物になっていたとしても。…いや、『アレ』がきさらではないのか…?

(ーーー違う)

 あおいは言下に否定した。

 理屈ではなく、直感でそう思う。全身で。

 シフターとしてのあらゆる感覚が、『アレ』はきさらではないと告げていた。

 だったら、姉は今どこに?

 少なくとも一つだけ分かることがある。

 異界はきさらに接触しているのだ、最低一度は。

 でなければ『アレ』がきさらの似姿をとるはずがない。

 いくらあおいの記憶から引き出したとしても、あれほど正確に本人の姿を再現できるとは思えない。人間だってそうそう異界に頭の中身を見せるわけではないのだ。

 ましてや自分はシフターだ。きさらが異界化したなら、いち早く気づかないはずがない。

(そうだわ。まもるちゃんが言うように、誰かが何かを教えようとしている…)

 

「…そうね。たぶんそうだと思う」

 確証はないが、あえてあおいは楽観論に頷いた。

 少しでも悲観的になれば異界につけ込まれる。

 それに衛が間違っているという証拠はない。

(賭けたんだもの。きさらが無事でいる方へ)

「何が手掛かりになるか分からないけど、きっとこの世界に何かあるのよ」

「だろうね。散々走らされて何もないじゃ、骨折り損のくたびれ儲けだもんな」

「また古いことわざを知ってるのね」

 

 グン…と電車の速度が落ちてきた。

 外を見ると、別の停車場が近づいてくる。

 今度は待ち客が大勢いた。

 そして、頭上にそびえる塔 ーーーーーー

 

「浅草十二階…」

 あおいは呟いた。

(とうとう着いたんだわ)

 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

深度8【摩天楼】

 

 

 

 空は薄暗く、雲が渦巻いている。

 普通の動きではない。

 見た目はゆっくりだが、雲の千切れ方にしては早過ぎた。

 しかもクルクルと回っている。

 ゴッホの『星月夜』のように、雲が互いに交わり、幾つもの渦を作って旋回していた。

 頭がおかしくなりそうな眺めだ。

 

 歪な空をバックに、12階建の塔がそびえている。

 高さにすれば50メートルほどしかないので、現代の建物に比べればそれほど高いとはいえない。

 が、軒並み低い大正の街並みの中では、その塔は異様なまでに目立っていた。

 空が暗いこともあり、塔の天辺は闇に包まれていた。

 そこに何があるのか、あおいと衛には分からない。

 

「ーーー 到着ですか」

「…え?」

 停車場のホームから見上げていたあおいと衛は、声の方を振り向いた。

 ホームといっても30メートルほどの短い高台で、そこに待合客がひしめいている。

 声を掛けてきたのは、その一人だった。

「着いたばかりなんですか」

 その男はグレーのスーツを着たサラリーマン風だった。紺のネクタイを締め、黒い革靴に、アタッシュケースを持っている。顔立ちは平凡で、別れて5分もすれば思い出せないくらい特徴がない。

 しかし、どこか不自然だ。

 サラリーマンは愛想の良い態度で聞いてきた。

「女子高生とは珍しいね」

(…あれ? この人…)

 そこで初めて、衛たちは違和感の正体に気づいた。

 彼は現代風なのだ。

 というか、衛たちが来た世界と同じ服装をしている。

 どう見ても大正時代には居そうにない人間だった。

「あの…あなたも異界に迷い込んだんですか」

 あおいが聞くと、

「迷い込んだ? いや違うね。私は来たんだよ」

 うれしそうにサラリーマンは言った。

 そして愛おしそうに周りを見る。

「ようやくここへ来れたんだ…長かったな」

「どうやって?」と衛。

「変なことを聞くね。願ったら来れたんだよ。君たちもそうでしょう。いやあ、こんな場所があると知っていたら、こんな物はぶら下げてないんだがねえ」

 鬱陶しそうにアタッシュケースを振る。

「習性ってやつかな。もう関係ないのに手放せないんだ。愚かなもんだね」

「自分で望んで来たというのですか」

「当たり前ですよ。みんなそうでしょ? 嫌な世間と縁を切ってさ、何もかも捨てて…ほら」

 と、待合客たちを示す。

 男も女もいたが、皆現代風の服装をしていた。サラリーマンもいれば学生も主婦もいる。中には何の職業か分からない風体の怪しげな人間もいた。

「理不尽な世の中で真面目に生きるなんて馬鹿らしいじゃないか。だから連れてってもらうのさ」

「連れてく? どこへ?」

 衛の問いに、サラリーマンは眉をひそめた。

「君…ひょっとして何も知らないでここへ来たのかい?」

「一体何を待ってるんだ、あんたたち」

「電車だよ」

 当たり前の事を聞くなと言わんばかりの態度。

「それに乗るために居るんじゃないか」

「それに乗ったらどこへ行くんですか」とあおい。

「素晴らしいところさ」

 サラリーマンが恍惚の笑みを浮かべた。

「憂いなどない、完璧な世界へ行けるんだ。約束の地へ…」

 あおいと衛は顔を見合わせた。

 

 ーーー この男はおかしい。

 というか、ここで待ち合わせている客たちはみんな。

 顔に生気というものがない。皆灰色の表情でひたすら待ちぼうけている。

 カルト宗教にハマった連中みたいだ。

 

(関わらない方がいいよ)

 衛が頷き、あおいも同意した。

「…そうですか。楽しみですね。それじゃ…」

 当たりさわりのない笑みで別れの挨拶をする。

 サラリーマンの顔が曇った。

「どこへ行くんだね」

「どこって、降りるんだよ。ホームから」

 ぶっきらぼうに衛が答えた。

「なに? 電車に乗らないのか」

「電車はもう乗った。先があるんで、じゃあ」

「ーーー 待て!」

 鋭い声でサラリーマンが制止する。その顔はもう穏やかとは言えなかった。

「なんで降りようとする。君たちには乗る義務があるぞ」

「ええ? なに勝手に決めてんのよ。こっちにはこっちの都合があるの。あんたの都合なんて知ったこっちゃないね。自分だけで乗りゃいいじゃん」

 衛はもう相手にしなかった。階段のないホームを軽く飛び降り、あおいに手を貸す。

 サラリーマンが怒鳴った。

「脱走だ!」

 

 ーーー ザッ!!!

 待合客が一斉に振り向く。

 ロボットのようだ。

 しかしその見開かれた魚のような眼は、間違いなく敵意を含んでいた。

 

「…わ、ヤバい!」

 また追いかけっこかよ…と思いつつ、衛はあおいの手を取って走り出した。

 走りながら振り向くと、ホームから人がボロボロ降りてくる。皆無表情で、現代風の衣装をしていた。

 ドドドド…と集団で駆けてくる姿は迫力があるが、大正時代の通行人は誰も関心を示さない。ぶつかった人間もおとなしく突き飛ばされ、抵抗しなかった。まるで空気の塊だ。

「イカれてるのは異界の人間だけじゃないの!?」

「あれは魅入られた人たちよ! 捕まったら同化させられるわ!」

 あえぎながらあおいは答えた。

「あいつらどこへ行くつもりなんだ!?」

「知らないけど天国じゃないと思う!」

 今や50人ばかりに膨れ上がったカルト集団は、ふたりを執拗に追ってきた。

(なんか異界へ来てから追っかけっこばっかな気がする〜)

 衛が心の中で愚痴る。

「…で、一応聞くけど、凌雲閣でいいんだよね!?」

「たぶん、だけど!」

「…行き場がないよりはましか!」

 さっきはあれほど行きにくかった塔が、今は目前に迫っている。

 衛は一瞬(ひょっとして罠か?)と思ったが、カルト集団は扇状に広がって退路を断っていた。今さら別の道へ行けない。

「ーーーんもぉ! 女は度胸だッ」

 やけくそで叫びつつ、衛はあおいを連れて凌雲閣のある通りへ飛び込んでいた。

 

***

 

 浅草十二階の周辺は様々な建物がゴチャゴチャ詰まっていた。多数の幟が立ち、妙に派手な造りの家が不規則に建ち並んでいる。チンドン屋が店の前に立ち、チンチンドンドン♪派手に銅羅や太鼓を叩きながら宣伝していた。

「寄ってらっしゃい見てらっしゃい♪驚天動地とはこのことだ♪見なきゃ一生の損だよぅ♪…」

 最初すぐに着くと思いきや、道は迷路のように曲がりくねって、すぐそこに塔がありながら、なかなか到着しなかった。しかし、そのおかげで、追いかけるカルト集団を迷わせることができた。

 

(これが凌雲閣か)

 やっと辿り着いた塔を見上げると、さすがに高い。

 赤煉瓦の壁にアーチ窓が並んでいるところは、さながら中世のお城のようだ。天辺は高過ぎて見えない。

「ちょっと待ちな」

 入り口のそばで声がした。

 そこは駅の自動改札口のようになっていた。機械の代わりに人が立っている。昔の駅の切符切りのようだ。入り口は鎖で塞がれていた。

 受付係の男はぶっきらぼうに手を出した。

「お足」

「え」

「お足だよ、お足」

「なに?」

「…お金払えって」

「あ、ああ。…幾ら?」

 すぐ後ろに群衆が迫っている状況で、衛は舌打ちしそうになった。

「8銭」

「はあ?」

「お前、銭も持ってないのか」

「…1円の100分の8」

(あるかそんなの!)

 

 ーーーー ドドドド…! 足音が聴こえてきた。

 

「ああもう、これでいいでしょ」

 1円玉のアルミ貨幣を2枚、料金箱へ投げつける。

 係員は訝しげに取り上げ、目を剥いた。

「…い、一圓!? これ本物!?」

「払ったからなっ」

 面倒とばかり衛は鎖の上を跳んで中へ入った。そしてあおいを抱えると、強引に持ち上げて入らせる。

「あ、おい!」

 と、殺到したカルト集団が入り口で団子状態になり、鎖が見えないかのように手足をバタバタさせる。その上に這い登り、後続の者たちが塔へ侵入する。切符係は何か叫んだが、大勢の人々に巻き込まれて見えなくなった。

 タッチの差でカルト集団は止められた。とはいえ、数分しか持つまい。

「どっち?」

「エレベーター!」

 あおいが指差す先に四角い箱がある。そばに係の女性がいた。腰に大きな巾着のようなバッグをぶら下げている。

「こちらは1銭でございまぁす」

「釣りはいらないよ!」

 1円玉2枚を握らせ、目を白黒させる女を放っておいて、勝手に扉を開ける。

 

 エレベーターはずいぶん変わっていた。

 箱型の木造で、広さは3畳ほど。表のドアは蛇腹の格子戸になっていて、開くと縮む。その他は壁だった。ドア以外の3つの壁に赤い布を敷いた箱型の座椅子がある。なぜかドアの真向かいの壁に姿見が付けられていた。

「早く出して!」

「ではぁ、出発しまぁ〜す」

 腹が立つほどのんびりと係員がスイッチを押す。

 ゴトン!

 グワングワン、ガアァァァァ…!!!

 箱の底から凄い音が床を震わせた。そのわりに、なかなか動き出さない。

「うるっさい」

 思わず耳を塞ぎたくなる。

「これ、日本初のエレベーターなんですって」

 冷静にあおいが解説した。

「動くんだろうね?」

 動いた。

 …が、カタツムリが這うように、ゆっくり、ゆっくり、昇ってゆく。

「1秒間に10センチなんだって」

「だあああ!」

 頭を掻きむしりたくなる。その時、背筋に悪寒が走った。

 

 ーーーゾクリ…

 

 振り向くと、姿見に女が見える。

(係員?)

 一瞬思ったが、この高さで彼女が見えるはずはない。

 女は、『きさらもどき』だった。

「「?!!」」

 ふたりが硬直する。

 姿見の女は頭をうな垂れ、長い髪を前に垂らしていた。その黒髪の間から目がジッとふたりを見ている。

 ニタリと女が笑った。

「こいつ!」

 衛が姿見を蹴った。鏡に割れ目が走り、『きさらもどき』は消えていた。

「戻れぇぇ」

 カルト集団が駆け寄ってくる。そのうちの一人がドアの格子にしがみつき、そのまま引きずられた。悪あがきでぶら下がったそいつは、ドアと天井の隙間に挟まれて、手がブキリともぎ取られていた。

「きゃあ!」

 顔をそむけたあおいを、衛が見えないように抱きかかえた。

 千切れた両手はしばらくブラブラしていたが、力を失って落ちていった。

「頭完全にイカれてるな…」

 衛も青くなる。

 そして、状況はなお悪くなっていた。

「あのさ。この速さだと、階段昇った方が早いよね…?」

「え、ええ…」

「じゃあさ、着いた先に待ち構えてるってことは…」

「じゅ、十二階もあるから、そんなに早くは着かないんじゃないかしら」

 

 ーーー ガチュ〜ン…………

 

 エレベーターが停まった。

 まだ5階途中で。

「言った途端にこれだよ…」

「降りられないわ」

 階の間なので、ドアは壁に阻まれていた。

「仕方ない」

 衛は座椅子の上に登ると、天井板に付いている整備用の小扉に手を掛け、開けた。

「ここから上がるしかないよ」

 軽くジャンプして扉の穴へ飛び込み、両腕で体を支えた。

 見上げると、四角い空間が頭上へ続いている。

 衛は体をエレベーターの天井へ引き上げ、それから手を伸ばしてあおいの手を握った。

「うん、せっ!」

 ほとんどぶら下がったあおいの体を力一杯引き上げる。

「ひえ〜〜〜…異界って疲れるなあ」

「…まもるちゃんって、頭はともかく力は頼りになるわね」

「頭も、って言って…」

 エレベーターの縦穴は四隅に箱を支える鎖があり、太い鉄柱があった。整備用の梯子からふたりは昇っていった。

 5階ドアのそばへ来ると、梯子から離れ、壁に沿って走る横桁をカニの横這いで歩く。幸い、縦横に走る補助桁が手すりの代わりになった。

 

 …ガキキキィィ……!

 

 突然、エレベーターが運転を再開する。下から箱が迫ってきた。

 このままでいれば、箱の天井に乗せられて縦穴の天辺に挟まれるか、壁の隙間に潰される。

 慌てて衛はドアに手を掛け、開いた。またもあおいの手を掴むと、後ろへ倒れながら引っ張る。転げるようにあおいがドアを抜けた瞬間、さっきまでノロノロ運転だったエレベーターが凄い勢いで通り過ぎていった。

「トラップだらけじゃん…」

 あえぎながら衛が吐き捨てる。

「わたしたちを帰したくないんだわ」

「どっちかっていうと、あおいが狙いなんじゃない?」

 と助け起こす。

「まもるちゃんも強いから、逃したくないはずよ」

「ふたりまとめてか。うれしいね」

 

***

 

 凌雲閣の中は、中央にエレベーター用の空間があり、その周りに展望窓や出店があった。土産物の売店が並んでいる。銘菓や凌雲閣の模型、テナント、絵葉書など。

 店は並んでいるものの、ガランとしている。客も店員もいない。

 外で見たほど中は広くなかった。

 ふたりは手を繋いで円形の回廊を走り抜けた。壁際に階段があり、下から多数の足音が聴こえてくる。

 ふたりは階段を昇り始めた。…とはいえ、体力に自信のないあおいは、ここへ来るまでにかなり消耗していた。

「わ、わたし階段の昇り降りは…」

「しゃべると力減るよ」

 一方の衛は汗だくになりながら、無理やりあおいを引っ張ってゆく。途中であおいがしゃがみ込み、それを滑らせながら移動したほどだ。

 階段はご丁寧にも入れ違いのが壁の反対側にあり、いちいち回りながら昇らないといけない。5階、6階、7階と通り過ぎる間に、土産物店や玉転がしの大道芸一座、落語みたいな高段で誰かが長唄を呻吟するなど、見せ物がデタラメに並んでいた。

「あれ、なに?」

 走り過ぎながら衛が並んでいる立て看板の写真を横目で見る。立看にはモノクロで和服を着た女たちが写っていた。

「美人コンテストなんですって」

「美人…」

 ちょっと立ち止まって眺めてみる。

 微妙な感じ。

 美人と言うなら、あおいの方がずっと良いのに…。

 あおいがあえぎながら言った。

「客寄せの、企画、みたいよ…」

「なんでもありだねえ」

 休憩終わり。

「「「ん待てぇぇええぇ」」」

 とうとう奴らが追いついてきた。

「先に行って!」

 衛は8階への階段の途中で立ち止まり、あおいの背中を押した。

「まもるちゃん!?」

「すぐ行くから!…来い!」

 身構えて啖呵を切ってみせる。

 ア〜ウ〜言いながら走ってきたカルト集団は、階段へ殺到した。が、幅がないので、1人ずつ昇るしかない。それでなくても狭いのに、奴らは全然考えず我先に昇るものだから、押し合いへし合い互いに邪魔になっていた。

(な〜んちゃって)

 いかにも戦闘ポーズを取っていたが、

「…えいっ。」

 追ってきた先頭の奴の顔を軽く蹴ってやる。梃子の原理でバランスを崩された男が足を滑らせ、背中から転げ落ちた。当然、後ろにいた連中もドミノ倒しに倒れてゆく。面白いように人の列が次々に重なった。

(だ〜れが真面目に相手するかよ)

 

***

 

「あおいちゃん」

「しばらくは追いついてこれない。ほんの数分だけど。…ここは?」

「8階目。あと4階あるわ」

「走れる?」

「なんとか」

 ふたりが8階を回りながら走る。…と、中央のエレベーターが、

 

 ーーー チン…

 

 と鳴った。

 ドアが開き、『きさらもどき』が現れる。

(げえっ!)

 鉢合わせしそうになり、衛はあおいの手を取ってダッシュで通り過ぎた。フワッ、と風圧がすれ違いざまに起こる。

《あをぃ…》

 不気味な声を響かせ、『もどき』が追ってきた。

(ちっくしょう、あと一息だってのに)

「全力で走るっきゃない!死ぬ気で走れ!」

「わ、わかった…!」

 9階…10階…

 さすがに息が切れてきた。ふくらはぎが震えている。あおいはというと、走るというより前に倒れる勢いでフラフラ歩いている。

 エレベーターのシャフトの壁に例の美人画写真が貼り並べられている。おっとりした澄まし顔の女たちへ妙に腹が立った。

 『きさらもどき』は獲物を追い詰めたと確信しているのか、ゆっくりした足取りで追ってくる。

 下の階はカルト集団。

 窓の外は空中。

 逃げ場はなかった。

 

 11階 ーーーー

 フワッ…と風が吹いてくる。

 フランス窓が開いて、外の廻廊へ繋がっていた。

 そこから出てみると、手すりの向こうに東京の街並みが見渡せた。木造家屋がどこまでも広がっている。遠くに富士山のぼんやりした山陰が見える。

 大正の東京は、スカイツリーの展望台から覗いた時より、街はずっと身近に、それでいて不思議な異国情緒があった。

 

(ーーー …懐かしい)

 再び、衛の胸に郷愁が湧く。

 初めて見るのに、妙に懐かしい…。

 そのまま見惚れてしまいそうだ。

 あおいの手が触れた。

 

 ハッと衛は我に返った。

 自分を見つめるあおいの瞳。

 それはキラキラと星のように輝いていた。

(か………)

 「かわいい」と言いそうになって、危ういところで今の状況を思い出す。なぜなら、階段の下から『アレ』が現れたから。

「ーーーー そこよ!!」

 あおいが宙を指差した。

 凌雲閣の頂上のそばに、雲が渦巻いている。

 …いや、空間そのものが蠢いていた。

 浅草の遠くから見ていた、奇怪な雲の動きだ。

「あれがポータル。出口だわ!」

「え、あれが?」

 どう見ても空中ですけど…。

 しかも、さらに上へ行かないと届かない。

 12階 ーーーー

 凌雲閣の最終階だ。

 

 『きさらもどき』が迫ってきた。

 ザワザワと髪を振り乱し、蠢かせ、ふたりに近づく。顔は闇のように黒く、2つの裂け目が不気味に輝く。

「先に行って」

 衛があおいを促す。

「でも…」

「いいから! ここで捕まりたいの!?」

 空手の構えで『もどき』に向かい合った。

「…すぐに来て!」

 11階中央の螺旋階段を昇りながらあおいが叫ぶ。

(…とは言っても、無事に済むかどうか…)

 衛の額に汗が浮かぶ。

 ここへ来るまでにかなり消耗している。

(まさか漫画みたいな闘いになるとは)

 護身術の教室へ通ったことはあったが、本格的な武術を習ったことはない。喧嘩はいつも勢いだ。異界の化け物に通用するか自信はなかった。

「…来い!」

 あくまで時間稼ぎなのを自覚しつつ挑発する。

《ま・も・る、ちゃぁぁん…》

 嘲笑うかのごとく『もどき』が近づく。足がほとんど動いていない。滑るように接近していた。

「ーーーーーえいっ!」

 裂帛の気合いで正拳突きを見舞う。腰を落とし、足を踏ん張って、拳を捻りながら突いた。

 トスン、と変に手応えのない衝撃があり、『もどき』がよろめいた。数メートルもスゥ〜ッ…と後退する。

「……あれ?」

 真っ正直に突いたから、てっきり交わされると思っていたのに。

 いくら護身術の先生から「筋がいい」と褒められたにせよ、人を殴って後退させるほど威力はない。

 あまりにも軽かった。

 『もどき』がまたスウッ…と寄ってくる。パンチが効いているのかいないのか、表情?に変わりはない。

「せやっ!」

 今度は蹴った。

 また、『もどき』が後退する。

 またも手応えがない。

 そのかわり、当てた足裏に痺れに似た何かを感じる。力を吸い取られるような…

(まさかこいつ…)

 また、『もどき』が来た。

 また、殴った。

 また、後退した。

 また、殴った腕から力が少し抜けた。

 

 マズい ーーーー

 

 コイツは、自分の力を吸収しているのだ。

 攻撃力はないが、ダメージを受けていない。

 そして、こちらが攻撃するたびに、力を盗んでゆく。

 殴れば殴るほど衛の方が弱くなってゆく。

 しまいにどうなるか考えたくもなかった。

「こんのぉ…」

 頭に血が昇る。

「たぁああああっ」

 一気に畳み掛けた。左右の拳を連打し、『もどき』を追い詰める。そして外の廻廊まで押した。

「ーーーーてやっ!!」

 渾身の力で飛び蹴りを見舞う。人形のように軽い『もどき』が欄干から空中へ飛ばされ、落ちていった。

「…はぁ、…はぁ、…はぁ、」

 短い間だったが、恐ろしく疲れた。

 

 …ダダダダ……

 

 そして、またもカルト集団だ。諦めるということがないらしい。

「はあっ!」

 11階への階段の昇り口に差し掛かった先頭の女に、肩から体当たりする。カルトたちは足を泳がせて団子状態で転がり落ちていった。

 衛は肩で息をしながら、螺旋階段を昇っていった…。

 

***

 

「まもるちゃん…!」

 あおいが出迎える。

「大丈夫? 真っ青よ」

「いやぁ…ちょっと…大活躍だったもので…」

 汗だくの衛がヘラッと笑う。

「…で? ここが最上階ってわけ?」

「ええ…」

 

 12階はさらに狭く、塔の上にはとんがり屋根がある。ここから眺めると、空中へ突き出されるような錯覚を覚える。

 四方のフランス窓は開いていた。

 そのうちの一つの向こうに、渦巻く空間が見える。距離は3メートルほど。手を伸ばせば届きそうだが、そこへ行くには間違いなく空中へ出なければならない。

 

「…マジに行くわけ?」

「う…うん。そう、思うけど…」

 さすがのあおいもためらった。

 自分が間違っていれば、ふたりとも死ぬ。

(わたしはともかく、まもるちゃんは…)

 100%の確信がなければ行きたくないところだ。

 

 …スウゥッ……

 『渦』のそばで、雲が捻れた。

 捻れは形を変え、塊になって、人の姿になった。

「…き………」

「きさら………?」

 それは、白い衣をまとった、白い女だった。

 透き通るような…いや、実際に透き通っている。体の後ろの空色が透けて見えるから。

 女は純白の髪をなびかせ、微笑みを浮かべた。

 衛たちが知っている、不思議な笑みを。

『あおいちゃん… まもるちゃん…』

 スッ…と白い手を差し伸べる。

 

「あれって…きさら、かな…」

「そう、かも…」

「さっきの『もどき』じゃないの…?」

「わたし…」

 胸の前で手を組む。

「なんだか…信じたい」

「じゃあ…」

「まもるちゃん」

 後ろから、あおいの声がした。

 振り向いた衛の前に『あおい』がいた。

「………は?」

 一瞬、状況が分からない。

「何してるの、そんなところで」

 小首を傾げながら『あおい』が聞く。紺のセーラー服に身を包み、学生鞄を持って、不思議そうに見ていた。

「あ…あおい?」

「そうだけれど。変な衛ちゃん」

(あれ???)

 思考が停止した。

 何かおかしいが、何がおかしいのか分からない。

「一緒に帰ろう。まもるちゃん…」

 手を差し伸べてくる。

 

 ゾクリ ーーーー

 

 あおいの全身が総毛立った。

(『もどき』だわ)

 衛が倒したと思っていた。11階の手すりから、そいつが宙へ落ちてゆくのが見えた。

 しかし、死んでいなかった。

 そもそも異界の異形に生死などあるのかという話だが。

 倒されたと見せかけて、隙を伺っていたのだ。

 自分という、最強の弱点を突いて。

 カッとなった。

「まもるちゃんッ!!」

 我知らず怒鳴った。

「そいつに騙されちゃダメ!」

 衛の手を掴む。

 ビクともしない。

 力では完全に負けている。

 『あおい』に魅入られた衛と争えるはずがない。

『あおぃちゃん…』

 一方では、「きさら」が呼んでいる。

 パニックになりそうになった。

(どうしようどうしようどうしよう)

 ズルッ、と引きずられる。

 衛が『あおい』へ近づいてゆく。

 そう。

 暗黙のルールとして、異界は自ら接触できない。人間の方から近づかなければならないのだ。だから誘惑し、堕として、仲間にする。

 腕力では衛を止められない。さっきの自分のように。

(馬鹿っ………)

 頭が沸騰した。

 そして、普段なら絶対にしない行動を取った。

「ーーーまもるちゃんっっっ」

 手を離し、衛の前へ出る。

「そんな女になに浮気してるのっ!!?」

 

 チュッ。…………………

 

 衛の唇に柔らかいものが触れた。

(………え?)

 気づいた瞬間、衛の頭が大混乱へ陥った。

(あれ?あれ?あれぇ???)

 今、セーラー服のあおいと帰ろうとしていたけど…

 なんであおいとキスしてるの!?

 そのまま押し切られる。

 唇を重ねたまま、後ろへ押された。

 抵抗できなかった。

 あまりにも甘酢っぱかったから。

 ファーストキスが、想像の100倍も気持ちよかったから。

(…女の子の唇ってやわらか〜ぃ…)

 ついでにすごく良い匂いもする…

 このまま目を閉じて眠たいような…

「ーーーーーえいっ」

 

 体重がなくなった。

 

 一切の重さが。

 

 そして耳元で風が鳴っている。

 

(〜〜〜〜〜〜〜!!!??)

 

 ふたりは、宙を飛んでいた。

 あの渦に向かって。

 周りの風景が歪み、透明な渦巻きになって、蠢いている。

(…あの中へ!?)

 しかし、急に落下感が襲ってくる。

 背中が引っ張られた。

 当たり前だ。空中にいるのだから。

(ダメだッ)

 手を伸ばすも、わずかに届かない。…と思った時、白い手が衛の手を掴んだ。

(きさら!?)

 握られた途端、フワリと感覚がなくなる。

 そして渦の中へ引き込まれた。

 最後にチラリと見た時、からかうようなきさらの微笑みが通り過ぎていった………

 

 

 

 

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