Hashirama Archive   作:アテナ18号

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エピローグ-2

 

 

 

 

 

 「あ!先生!もぅ、遅いわよ!」

 「ハッハッハ!すまぬな!ちと時間を食った!」

 「お疲れ様です、先生」

 

 夜も更けてきた頃。

 屋台の暖簾に隠れる見覚えのある背中を見て柱間が顔を出すと、その場の皆が顔を綻ばせて彼の来訪を歓迎する。場所は柴関ラーメン───なのだが、ここが屋外に構える屋台である理由は、先日美食研究会に半ば八つ当たりのように吐露したホシノの言葉に表れている通りである。

 

 「いらっしゃい!先生!久方ぶりだな!」

 「あぁ、大将も元気そうで何よりぞ。しかし…すまぬな、店の件は」

 「おいおい!アンタに頭下げられても困るだけだぜ。今日は祝賀会なんだろ?俺の屋台でんな顔はやめてくんな、ほら座った座った」

 「あぁ。ノノミ、隣、失礼するぞ」

 「はい!遠慮なさらず!」

 

 そう言って柱間が腰を下ろすと中々に高身長を誇るノノミが二回りも小さく見えるほどに座高の高い彼の、ふぅと肩の荷を下ろすようなため息が響き渡る。

 

 「しっかし皆んな、先日の件の打ち上げがウチの屋台で良いのかい?もっと良い所でパーッとやった方が良いんじゃねぇのか?」

 「ちょっと大将!そんな弱気なこと言わないでよ!私達は大将の店が良いからここにしたの!」

 「そうそう、おじさん達の実家の味って感じ。朝方にもゲヘナで食べたけど、やっぱここだよね〜」

 「言われておるぞ、大将。オレに言ったのだ、大将がそんな顔をしていてはいかんな!」

 「───ハッハッハ!こりゃ一本取られたな!よし!そこまで言われりゃラーメン道冥利に尽きるってもんよ!よし!今日はオレん奢りだ!カイザーの奴らを何とかしてくれた礼も兼ねてな!」

 「え、えぇ!悪いですよ!」

 「なぁに!元々その予定だったし気にすんな!皆んなの努力がなけりゃ今頃店自体畳んでたんだからよ!」

 「よ、大将。太っ腹」

 

 気前の良い大将が身を乗り出すように皆に注文を伺うと、遠慮しがちな皆に代わって───ではないが、遠慮のカケラもないシロコが欲望のままトッピングを全部盛って注文する。それを皮切りにして踏ん切りがついたのか皆が一通り注文を終えると大将が作業を始め、ラーメンが出るまでの間当然と言うべきか雑談が始まる───かと思われたのだが、

 

 

 「あの……今更なんですけど、私も混ざって良かったのかしら…?」

 

 

 流されるまま注文を終えたユウカが、目に見えて取り乱しながら視線を泳がせていた。

 

 「何言ってるの!ユウカさんはアビドスの件にいっちばん早くから付き合ってくれたじゃない!」

 「いや、でも先生みたいにずっといたわけじゃないし……その、ほら、他にもいっぱい協力者はいたじゃない?私だけって言うのはなんか気まず──「ユウカ」──せ、先生?」

 

 「遠慮するな、他人の感謝に謙遜する必要はない。皆お前がこの場にいてほしいのだ。オレも含めてな」

 「先生……こ、こほん。分かりました。……えっと、じゃあ、よろしくお願いします、皆さん」

 

 ユウカがそう言って軽く頭を下げると一瞬の沈黙の後、皆が一斉に笑い声を上げる。疑うこともなく自身の発言が要因だとわかる皆の声に先にも増して困惑したように手を右往左往させるユウカが、慌てて口を開いた。

 

 「え?え!?な、何かまずい事でもしたのかしら!?私!」

 「い、いえいえ……!ただ、少しおかたい感じでしたから…!…こほん、ユウカさん、そんなに畏まらないで下さい。私達の仲ですので。今日は楽しくいきましょう!」

 

 隣に座るアヤネがユウカに微笑みかけると、彼女の言葉に先ほどの自分の痴態を自覚したユウカが少し顔を赤くする。その後は彼女も交えて雑談が始まるのだった。ホシノのゲヘナでの仕事ぶりや、シロコやノノミの復興支援、ユウカとアヤネの借金に関する報告など。

 

 そんな折、当然と言うべきか先生にも話が回っていくのだが───

 

 「先生はおじさんとゲヘナで別れた後、どこ行ってたの?トリニティ?」

 「あー……トリニティではないのだが……」

 「そうなんですか?ではどちらに?」

 「まぁ……ちと野暮用でな、大したことではない」

 「あ!私もだんだん先生のことが分かってきたわよ!こういう風に話を濁す時は何か隠したいことがある時って!そうでしょ先生!」

 

 「う、うぅむ、やはりオレはそんなに分かりやすいか…?」

 「はい!すっごく顔に現れています!」

 「ん、先生にポーカーフェイスは無理」

 

 困ったように頬を掻く柱間が眉を八の字にするが容赦のないノノミとシロコの言葉責めにガックリと肩を下ろす。そんな彼を大声で笑うのはこの店の店主である柴大将。ドンとラーメンを柱間の前に置いて声をかけた。

 

 「ハッハッハ!言われてんぞ先生!ゲロっちまうか、それが嫌ならこれでも食って口閉じときな!」

 「ん、早いの。もう出来たのか」

 「先生、私達はお気になさらず先に召し上がってください、冷めてもいけませんので」

 「そうか?すまんな」

 「で、何があったの、先生」

 「ちょ、シロコちゃん、今の流れで聞く?」

 

 ズルズルとラーメンを啜る音が響く屋台で、割り込むように前のめり気味に問いただすシロコ。そんな彼女の言葉に麺を咀嚼する柱間がごくんと喉を鳴らした後一瞬目を閉じて何かを考えるが───

 

 「……何、取るに足らないことぞ。気にするな」

 「何よそれ!逆に気になるじゃない!」

 「ハッハッハ!さて、何だろうな?大将!彼女らの分はまだか?このままだとオレの耳にタコができてしまうぞ!」

 「はいよ!お待ち!」

 

 結局、答えは言わずにはぐらかす柱間。

 彼の答えを気にする者も、気にせず柴関ラーメンに舌鼓を打つ者も、皆等しく笑顔であることは変わりない。同様に───

 

 

 

───皆等しく、彼の上着の裾が焼けこげていることには気づく余地もないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ん……ふぅ」

 

 背伸びをする柱間が腰に手を当て空を仰げば、綺麗な満月が太陽に代わりアビドスを照らしていた。チラリと首を曲げて視線を外せば視界の端ではアビドスの皆とユウカが自動販売機の前で楽しそうに雑談に興じており、少し席を外すと言ってその場を離れた彼がいつもの満面の笑みではなく何処か哀愁を感じさせながら小さく微笑み口を開く。

 

 「……まったく……過ぎた幸福よな……」

 

 何に対してかは言うまでもなく、アビドスの皆の笑顔を見て脳裏をよぎるのはここキヴォトスに来てから過ごした先生としての日常の数々。サンクトゥムタワーで目を覚まし、初めて目にした光景に感動と衝撃を受け───先生として、希望に溢れる生徒達の手助けを行う日々。

 

 それは元の世で経験した策略や憎悪に侵されることのない純粋無垢な少女達の、まるで子供に読み聞かせる絵本のような一種の冒険譚に近いもので、多くの者を、そして何より───親友を手にかけ後の世代に禍根を残した、罪深き自身に許されるはずもない幸せに満ちた日常の数々。

 

 自分を純粋な瞳で聖人のように崇める彼女達に、よもや不安を抱かせるべくもなし。元より自身の過去を話すことについて無頓着な彼に関してそんな懸念などあってないようなものだが───チクリと、罪悪感に駆られるのはまた別の話なのだ。

 

 

────それでもなお、彼が生徒に対していかにして自然体に振る舞えるのかと問われれば、言うまでもなく──幸せだからなのだろう。

 

 こうして少し過去を逡巡する彼を以てして、手放せない幸福が目の前にある。生徒の手助けが地獄へ落ちた自身の過去の行いに対する尻拭いというのなら、神は送る先を間違えたのだろうと、そんなことを考えてフッと小さく声を漏らした。

 

 「どしたの先生、一人で物思いにふけっちゃってさ」

 「ん?ホシノか?どうした」

 「別に?ただちょっと先生と話に来ただけだよ〜。ふぅ〜……先生も立ちっぱなしは何だしさぁ、どう?ここ」

 

 「……そうさな、少し腰を下ろすか…」

 

 そうして、道の脇に置かれた石造りの長椅子に腰を下ろす二人。柱間の体にコテンと体を預けるホシノに何かを言うわけでもなく、またホシノも自身の頭を撫でる柱間の手に何も言わずに、ただただ嬉しそうに目を閉じ微笑んでいた。

 

 「……先生、ありがとうね」

 「気にするな、オレは何もしておらん。事実、今回の件を解決したのは生徒達でオレは何もしておらぬ。意気揚々と飛び出したはいいが結局カイザーに捕まりお前達の手を煩わせた。情けない話ぞ」

 

 「他人の感謝に謙遜する必要はない、でしょ?」

 

 「……ふふ、ハッハッハ!一本取られたな!」

 「まったくさぁ、先生がそんなこと言うもんだから、おじさんあの時笑っちゃいそうだったよ?どの口が言ってんのかな〜ってさぁ」

 

 先ほどの自身の発言を掘り起こされた柱間が、大口を開けて笑い声を上げる。そんな彼に、すっかり元の雰囲気に戻ったホシノがやれやれと肩を揺らして顔を振っていた。

 

 「……気にするな、なんて言わないで先生。感謝してるんだ、本当に。……過去に追われてただ借金を返済することだけに苛まれて……大事なことを忘れてた。……現実的に、借金返済なんて無理だって諦めもあったと思う。だからあんなバカな話に乗っちゃったしね」

 「………そうか」

 

 「……だからね……今みたいに、借金が緩和されて現実的に返済の目処が立って……皆んなも借金以外のことに意識を割けるようになって……何より────

 

 

 

────……その輪の中に、私がいる」

 

 「………」

 

 「そんな奇跡、あるわけないと思ってた。…考えすらしてなかった。ありがとう、先生。私をアビドスに戻してくれて」

 

 先ほどまで笑顔だった柱間が、ホシノの言葉に口を閉じて口角を下げる。そんな、自身のどこか暗い面持ちが柱間を曇らせると自覚してなお、ホシノも無理に微笑むことはしない。今の現実を幸福と享受してなお、自分を咎める彼女は半分自戒も混ざった自傷気味の笑みを灯し続けるのだ。

 

 「もう、奇跡ではない」

 「え?」

 

 「明日も明後日も、そのまた次も……貴様にとって夢のようだったそんな日常が続いていく。であれば、もう奇跡ではないのだ」

 「……うん、そうだね」

 

 柱間の言葉に、小さく微笑むホシノと、そんな彼女につられて微笑み返す柱間。彼がやさしく彼女の方を愛撫すると、嬉しそうに身を捩るのであった。

 

 「しかし……奇跡、か………」

 「……?」

 

 唐突に、自身から視線を外して空を見上げる柱間がボソリと呟いた言葉に反応するホシノ。自身が見つめていることに気付いた様子もなく、何かを見つめるように空を見上げたまま口を開いた。

 

 「……今更、オレの過去をお前達に語り聞かせることはないが──」

 「?……せ、先生?」

 

 瞬間、肩に回していた手で撫でることをやめ優しく彼女の肩を掴み、少し自身に抱き寄せる柱間。驚いたホシノが首を傾げて柱間を見上げると、先ほどまでの何処か虚空を見つめ哀愁を漂わせていた顔から一転し、いつものような満面の笑みになった柱間が口を開く。

 

 

 

 「───ただこうしてお前達と一緒にいられることが、オレにとっては奇跡みたいなものぞ!」

 

 

 

 

────ただ、こうしてホシノちゃんと一緒にいられることが、私にとっては奇跡みたいなものなの。

 

 

 

 

 「────────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…………の………しの……。

 

 

 

 

 「……ホシノ?」

 「───………え……?あ……あぁ、ご、ごめんね、先生。ちょっとぼぉっとしちゃっ、て……」

 「そうか…?まぁ、かなり遅い時間だしの……もうそろそろ、帰るとするか」

 

 一瞬、ホシノが自身を見つめて呆けていた様子に肩を軽く叩いて呼びかけると瞳が焦点を取り戻し、ハッとしたホシノが口を開く。どこか様子のおかしい彼女に何かを思わなかったわけでもないが例のアビドス砂漠での件を生徒にひた隠しにする自身のように、何かあったとしても今追及する話でもないかと話を切り上げる柱間が椅子から立ち上がる。やはりどこか未だ呆けている様子のホシノが慌てて自身も椅子から降りた。

 

 「……せ、先生!」

 「ん?なんぞ?」

 

 「……ぁ……いや、その……」

 

 

 

 

 

 「────ありがとうね、先生」

 「……あぁ」

 

 明らかに動揺していた彼女に、何も気づかないわけもなく───しかし、深く尋ねることはせず歩き出し、生徒達の下へ歩いていく柱間。そんな彼のおおきな背中が離れていき次第に小さくなっていくのを見つめながらアッと小さく声を漏らすホシノが手を伸ばし───手を引っ込め胸に手を当て、細く目を見開いたホシノがどこか悲しそうに───それでいて、幸福の狭間に苛まれるように小さく微笑み、口をついて出かかった言葉を飲み込んだ。

 

 大胆でズボラに見えて聡い人だ。おそらく、先ほどの自分の顔を見ただけでも何かを思ったかもしれない。だがそれでも追求しないのは、あの人なりの優しさなのだろう。

 

 だから、言ってはいけないのだ。そんな聖人ともいえる彼に、押しつけがましく呪いをかけるなど。

 

 

 「……また明日ね、先生」

 

 

────もっと早く、出会いたかった、などと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「………随分と感情が昂っているようですね、黒服。あなたにしては珍しい」

 「おや、そう見えますか?ゴルコンダ。余り顔には出していないつもりでしたが、やはりテクストに拘る貴方には不変のはずであるこの私の能面にも何かしらの記号を見出せるようですね」

 「そこまで遠回しなものでもありませんよ。教義の解釈ではなく人付き合いの延長線上にあるものです」

 「そういうこった!」

 「おや、テクストを読み取ることに心血を注ぐ貴方がよもや人間的な直感を語るとは……失礼、話が逸れましたね」

 

 持って回った面倒な言い回しを互いが互いに茶々を入れることなく相互理解の元会話がなされるのはゲマトリアという研究機関にて理解や共感はなくとも多少の畑の違いはあれど崇高に対しての仲間へやはりリスペクトが存在するからだろう。それがさも日常茶飯事であるように専門用語での殴り合いをある程度終えた黒服がこほんと咳を一つ吐いて、質問に答えた。

 

 「しかし、感情が昂っている、ですか。歓喜でもなく?」

 「はい。歓喜については見慣れたものですからね、直近で言えば……貴方の執着していた暁のホルスに関する研究などが良い例でしょう」

 「なるほど、つまりは───私から見たことのないテクストが読み取れる、と。……確かに、これは崇高に至るための道とも呼べれば、それを破綻に追い込むモノでもある。必ずしも喜ばしい結果と呼べる代物ではありませんからね。それこそデカルコマニーの言葉を借りるならば幸せや怒りなど安易に一意に定めることもできない、正しく根元の感情に近しいものかもしれません。まぁ軽々しく根元の感情などと使う方が安易かもしれませんが」

 

 「崇高?暁のホルスに関する研究が進んだのですか?」

 

 いえ、と否定する黒服が懐からUSBを取り出して差し出すと、無言でそれを受け取るゴルコンダ。おそらく彼の研究成果の一つであろうが、何も言わず頼んでもないのに自ら秘匿的な情報を差し出す彼に先ほどから続く珍しさを再び覚える。

 

 「これは?」

 「第三のセフィラ、デカグラマトンに関する戦闘データです」

 「……あぁ、アビドス砂漠を拠点とする、大三角の一角ですね。しかし、これがどうしました?以前にカイザーとの戦闘に関する報告ならお聞きしましたが」

 

 「シャーレの先生とぶつけました」

 「!……シャーレと言うと……」

 「えぇ、連邦生徒会長に呼び出された、大人のカードを持つ者。我々と同じキヴォトス外の領域のものでしょう」

 

 表情の見ることの叶わないゴルコンダの声に驚きの色を感じとる黒服が、それも当然の話だろうと言葉を続けた。

 

 「アビドスは……いえ、その様子を見るに何事もない、と」

 「えぇ。まぁ研究対象としての価値はなくなりましたので私としてはどちらに転んでも構わなかったのですが」

 「なるほど……かの預言者にも対抗し得るほどですか、噂に名高い彼の……戦術指揮は」

 

 

 

 「生徒はおりません」

 

 黒服の言葉に、今度こそ言葉を失うゴルコンダ。

 口の見えない彼の、容易に想像できる空いた口を茶化すこともなく黒服が言葉を続ける。

 

 「先生一人を、デカグラマトンにぶつけました」

 「……何があったのです」

 「元より彼に接触した私には貴方達よりも深く彼の神秘への理解があったことは置いておくとして……彼が単騎で新たなる神の信奉者を撃退した、ということです」

 

 「それだけではないのでしょう」

 

 問い詰めるようにゴルコンダが口を開くと、いつもの彼の笑い声が響く。

 

 「クックック……やはり聡いですね、貴方は。……まず前提として、これは音声と残存した映像から判断した、あくまで私の予想でしかないことをご理解下さい」

 「貴方は自身の目で確認しなかったのですか?」

 「それを試みたのですが……生憎と、戦闘が始まる直前先生に意識を奪われましてね。念の為にドローンを散りばめておきましたが───戦闘の規模が規模、また立地ゆえにライフラインに乏しく監視カメラなどもありませんでしたから」

 「……話の腰を折って申し訳ありません。前提は把握しました。それで、どうしたのです?」

 

 

 

 「おそらく、ですが───一時的に、かの預言者を調伏致しました」

 

 「───ばかな」

 

 

 可能性を追求する彼らしくなく、それを否定するかのような声を漏らすゴルコンダ。しかし無理もないと、その言葉を更に否定することはなくゴルコンダの言葉を待ち続ける黒服。

 

 「……失礼、しかしそのようなことが」

 「えぇ、しかし一時的、と言ったようにどうやら失敗に終わり以降は武力行使に至ったことが分かります。彼がビナーに対して何を行ったのか……それは定かではありませんが、ビナーが動きを止める直前に彼が何かを叫んでいたためソレを現在解析している最中になります。映像も飛び飛びで音も割れているため、残念ながら戦闘に関して詳細は把握できませんでしたので」

 

 「ただ、問題なのは───デカグラマトンのパスが一時的に上書きされた。これは観測できた紛れもない事実ということです」

  

 「……なるほど、大きな進捗を得られた貴方が単純に歓喜に沸かなかったわけが分かりました」

 

 黒服同様、ゴルコンダが表情を険しくさせる。

 彼らは考えやそこに至るまでのプロセスは違えど同じ崇高を求める探究者、しかしてソレらは生徒達へポジティブな影響をもたらすことはなく───新たなる神に並ぶかもしれない大きな神秘を持つ存在が、壁として立ちはだかる可能性が出てきたのだ。

 

 「貴方はシャーレの先生にどのようなアプローチをする予定で?」

 「幸いなことに、その力の持ち主であるシャーレの先生は人格者と言って差し支えない人物です。多少従来よりは牛歩の歩みとなりますが……表立って生徒に関与することなく、彼の目につかない範囲で研究を進めれば大きな影響はないかと」

 「……ふむ、となるとマダムが危険ですね」

 「えぇ、彼女は我々の中で唯一現地に自分の領地を確保しています。私達の計画にも必要な存在ですが……少々危ういかと。今回の件で先生はトリニティとも強いパイプを持ちました、先日も先生がトリニティまで足を運びアビドスの件について感謝を表明したと……おそらく、いずれエデン条約にも中立の立場として顔を出すはずです」

 

 二人の間に沈黙が生まれる。

 ベアトリーチェ───ゲマトリアの一員であり、彼らの中で唯一キヴォトスに自身の領地を持つ存在である。しかしその領地というのが───迫害されたアリウス自治区を洗脳に近い形で掌握したものになる。これがもし先生の目につけば事が事だろう。

 

 「ベアトリーチェに先生の話は?」

 「いえ、止めておきましょう。おそらく警戒心の強い彼女のことです。自ら干渉するかもしれない」

 「分かりました、マエストロにもその様に通しておきましょう」

 

 

 「……それでは、私はそろそろ失礼致しますね、別件がありますので」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「………え!?あ、明日から来ないの!?先生!何で!?」

 「オレも来たいのは山々なのだがな……」

 

 祝賀会より数日後。

 中々にアビドスの復興も軌道に乗り始め良い兆しが見えてきたところ、アビドスに悲報が訪れる。話があると言った柱間に対して、いったい何の話だろうと大して身構えることもなく彼女らに対しいきなり爆弾発言をかましたのだ。

 

 セリカが先生の服の裾をつかんで抗議するように腕をゆするが、柱間も困ったように頭を掻くのみ。見かねたユウカが代わりに弁明を行った。

 

 「ごめんなさい、セリカさん。元々シャーレはアビドスの暴力団について解決するために来たわけだけど、当初はここまで大きな問題になるとは思っていなかったの……」

 「まぁ、そこは本当にありがとうね、色々手伝っちゃってもらってさ」

 「つまるところ、ある程度アビドスに復興の目途が立ちシャーレの介入は不要と判断されたため、以前の業務形態へ戻る……と言ったところですか?」

 「話が早くて助かるの、アヤネよ。そういうことぞ」

 

 「う、うぅ……で、でもぉ!」

 

 涙目になってセリカが弱弱しく柱間を見上げると、彼が罪悪感に苛まれ小さくうめき声をあげる。連邦生徒会より通達が来た時には彼自身同様に頭を抱えたものだが、いざ自分が宣告する側に回るとこうも辛いのかと心を痛めていた。

 

 「……仕方ない、セリカ。十分お世話になった」

 「ですね!最後は笑顔で見送ってあげましょう!」

 「そうそう、んま別に今生の別れってわけでもないんだしさ~」

 「セリカちゃん……」

 

 「……分かってる、分かってるわよぉ……でもぉ……」

 

 「……セリカ!」

 「?なに……──わ!ちょ!先!?」

 

 いつまで経ってもクヨクヨして落ち込んだままのセリカを見て見かねた───と言うか、辛抱たまらなくなった柱間がいきなり彼女を抱き上げる。突然の抱擁に顔を赤くしたセリカが目の前に柱間の顔を見つけ、再び涙がこみ上げそうになる。

 

 「心配するな!また暇ができれば会いに来る!お前も、気軽にシャーレに来ると良い!」

 「先生……」

 「だから、今しばらくの別れぞ。オレがいなくともアビドスは問題ないと、オレに誓ってくれるか?」

 

 「……うん」

 

 そう言って自分の顔を隠すように柱間の胸に顔をうずめるセリカが彼の背中に手を伸ばす。その、赤子をなだめるような姿に周囲の人間も茶化すことなく暖かい視線を送っていた───のだが、

 

 「セリカ、赤ちゃんみたい」

 「ちょ、シロコ先輩!」

 「だ、誰が赤ちゃんよ!!」

 

 「───ハッハッハ!最後くらい、こういう雰囲気の方が良いの!」

 

 シロコのセリフに柱間の胸から飛びおりシロコへ食って掛かるセリカ。先ほどの態度からの変わりように瞬きを繰り返す柱間が、大口を開けて笑うと釣られてセリカとシロコを除いた一行がクスクスと笑い声を上げる。時計を確認したユウカが柱間へ声をかけた。

 

 「先生、そろそろ……便利屋の方々が引っ越しを終える前に」

 「ん?そうか」

 「え?便利屋の皆引っ越しちゃうの?」

 「あぁ、何でも風紀委員に場所が割れた関係上、もうアビドス自治区にいられないとかでな……彼女らにも一言挨拶しておこうと思っての」

 「そうですか……あの、私達も感謝していたと言っておいてもらえませんか?」

 「あぁ、勿論ぞ!…では、出るとするかの。お前達も、元気でな!」

 「はい!先生もお元気で!ユウカさんもありがとうございました!」

 「えぇ、こちらこそ。またシャーレ関係でお世話になることがあれば、その時はよろしくお願いするわ」

 

 「先生」

 「ん?」

 

 皆が各々別れの言葉を告げる中、ユウカと他生徒が会話をしているタイミングを見計らったようにホシノが短く先生を呼ぶ。それに反応した柱間がそちらを見ると、純粋な瞳で穏やかな笑みを浮かべ、一言。

 

 「……また来てね」

 「───あぁ、また来よう、必ずな」

 

 そう言ってユウカと共に車に乗り込み、アビドス校舎を去っていく。

 視界の先へと消えていくシャーレの車を見送る彼女らから───鼻を啜る音が響き渡るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 便利屋への別れの挨拶を告げた後、柱間とユウカはシャーレへと帰還しいつもの業務へと戻った。柱間からすれば久方ぶりのシャーレでの事務作業で、再び触るパソコンの操作に四苦八苦しながら仕事を進めたのは言うまでもないだろう。そんな彼が夜になると今日は客人がいると言って一人でユウカを家に帰し外へ買い物に出かける。中々に便利な世になったものだと、流石に電子レンジの使い方をマスターした柱間が上等な酒とつまみをかごに入れ再びシャーレへと帰還するため夜道を歩いていた。夜風に充てられるD.U.地区の中央通りはやはりアビドスとは違って夜になっても人どおりが激しく、眩く町全体が輝いていた。

 

 そんな、未だに眠ることのない夜の街の光景に顔を綻ばせる柱間が───シャーレの前で立ち尽くす、一人の男に声をかける。

 

 「───まさか応じるとはな」

 「おや、中々酷いことをお口になさる。誘ったのは貴方の方だというのに」

 「ハッハッハ!まぁ許せ。貴様の所業を考えるとこれくらいの軽口は流してもらわなくてはな」

 

 心にもないことを言うように黒服が肩を竦めておどけて見せるが、柱間からすれば感謝はあるもののホシノの件を見過ごすことはできない。

 それなりの軽口をぶつけた後、何も言わずにシャーレ内のエレベーターへと足を運び、黒服も何も言わず彼についていく。

 

 「片方、お持ちしましょうか?」

 「ん?悪いな」

 「いえ、お気になさらず。……ふむ、この後晩酌でもするので?」

 

 エレベータに乗り込んだ黒服が柱間の買い物袋を片方手に取り中身を確認した後尋ねると、いつもながらに奇想天外な発言をするこの男はまたしても黒服に突拍子もないことを言い出し彼を笑わせるのだった。

 

 「その通りだが……貴様にしては察しが悪いの」

 「?」

 

 「先日なにも見せてやることができなかったからな、その代わりと言ってはなんだが……良い酒だ、貴様も付き合え」

 「………クックック、時間を空けておけというものですから深刻な話かと思えば……本当にわからないお方だ」

 

 エレベーターの扉が開き、目的の階層までたどり着く。いつもの部室へ足を踏み入れれば意外と几帳面なのかそれなりに整理された部屋をジッと見渡す黒服が、柱間に倣って机の上に袋を置いた。その際、部屋の片隅に置かれた植木鉢に意識が向く。正直に言って観賞用の植物には見えず見栄えも悪かったが、他人の趣味にとやかく言うものではないかと視線を外した。

 

 「しかし、良いのですか?ホシノさんの件もある。あまり馴れ合いすぎるのも……」

 「勿論、水に流すことは許さん。だが酒と共に呑み込んでやるくらいならな。それと……馴れ合いなどと言う言い方はするな、オレの思想は語ったはずぞ」

 

 「……クックック、確かにそうでしたね。では───友人としての第一歩に乾杯するとしますか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「なに?カイザー理事が?」

 「えぇ。アビドスの件が公になりニュースで流れた直後───災厄の狐、狐坂ワカモによる矯正局への襲撃があったとのことです。いったい何故七囚人がそのような行動に移ったのかは定かではありませんが……その混乱に乗じて脱走した、と」

 

 酒を入れて緩く───なったかどうかは置いておくとして、いつもより気持ち饒舌になった舌を回して、言葉を交わす二名。と言ってもまさか黒服に限って思い出話に花を咲かせるわけもなく基本的に二人の間に飛び交うのはアビドスやカイザーに関する話。今は先日、カイザー理事が矯正局から脱走したニュースについて黒服が柱間に説明をしていた。

 

 「しかし、七囚人の……災厄の狐というと……」

 「おや?お知合いですか?」

 「いや、オレがここに来て初日に、一度顔を合わせてな。まぁその時は会話にすらならず、すぐさま何処かへ行ってしまったが……」

 「ふむ……ともかく、未だ理事は脱走中とのことです」

 「その…ワカモとやらが手引きしたということか?」

 「分かりません。私が調べた範囲では彼らが彼女とパイプを持つという話は聞きませんし……元より災厄の狐は誰かとつるむ傾向も見られませんからね。ただ、混乱に乗じてとありますが、まさか理事がその身一つで脱走できるわけもありませんから何者かの手引きがあったのは間違いないでしょう」 

 

 そこまで言い切りちびちびと小さく酒に口を付ける黒服。

 何か考え込むような柱間が、彼が酒から口を離すのを待ってから口を開いた。

 

 「……では、やはりワカモではないのか?」

 「勿論、その可能性も否定できませんが……おそらくカイザー本社の手によるものかと」

 「カイザーが?何でぞ。連邦生徒会に指名手配を受けた人間を今更本社に戻しても意味がないだろう。何かバレたら不味い機密事項でも持っておるのか?」

 「というよりは、放し飼いにする気でしょうね。アレでも元理事です。バカではトップは務まらない、自身の立場とその立ち回りも理解しているはずです。当分は身を隠しほとぼりが冷めるまで大人しくしているでしょうが……カイザーとしては何かしらの利用価値があるのでしょう」

 「……そんなものか」

 

 「それと連邦生徒会、並びにヴァルキューレへの嫌がらせですかね。ひょっとするとこちらが本命かもしれません」

 

 ん?と、余り聞きなれない単語に柱間が眉を顰める。

 このキヴォトスでヴァルキューレの名を知らないなどそうそうないのだが、ここに来て日の浅い柱間のことを考慮した黒服があぁと言って解説を行う。

 

 「ヴァルキューレ警察学校といって、連邦生徒会から認められた正規の治安維持組織ですよ。各自治区の風紀委員会と違って特定の自治区を持たず、色々な場所に拠点が点在している形ですね」

 「ふむ……しかし、アビドスやゲヘナでは姿を見なかったな」

 「それらの自治区は各学園に固有の自治権がありますからね。ヴァルキューレはその学園に帰属しているわけではないので、自治権が理由で行動が制限されているのですよ。彼女らの本業はこのD.U.地区の治安維持だったり……民間からの依頼だったりですね」

 「そうか……すまん、話の腰を折った。それで、嫌がらせぞ?」

 

 「はい」

 

 黒服に尋ねる柱間が、彼の言葉を聞きながら黒服の手に持つ椀に酒を注ぐ。

 

 「……ありがとうございます。……ふぅ。それで、カイザー理事の話でしたね。……えぇ、先に申した通りです。カイザー理事が脱走したことに関して、責任を追及されるでしょうからね。犯罪者が牢屋から逃げ出したと聞いて、非難を受けるのは犯罪者ではなくその看守でしょうから」

 「……その、管轄にあたる連邦生徒会も例外ではないということか」

 「えぇ、事実SNSではかなりの批判の声が上がってましたよ。ヴァルキューレと連邦生徒会はカイザーコーポレーションのようなグレーの組織からすれば目障りですからね」

 

 「……全く、事が終わったかと思えば……後味が悪いの」

 「おや、酒の席でする話ではありませんでしたか。申し訳ない」

 「いや、気にするな。把握できて置いてよかった」

 

 赤くなった顔を不快そうに歪めた柱間を見て軽く黒服が頭を下げたことで自身の失態を自覚した柱間が、弁明を行い軽く言葉を返す。そんな彼の隣には既にいくつも空になった一升瓶が並んでいた。それほどに酒の進む彼は元来の趣味という話もあるが、やはり聖人と言っても連日アビドスやシャーレの仕事、生徒との交流で心労がたまらないわけでもなく、こうしてストレスを発散する場と言うのは貴重な話なのかもしれない。

 

 「……ふぅ、黒服よ。改めて先日の件はすまなかったな」

 「いえ、ご心配なく。元より素直に拝見できるとは考えておりませんでしたので」

 「そうか…?……まぁ、なんだ。それに関して伝えておきたかったことがあってな」

 「伝えておきたかったこと、ですか?それはいったい」

 

 「うむ……まぁ、何と言われても見せなかったことは事実ぞ。それでは不義理だと思ってな」

 

 困ったように視線を落とし、左右に揺らす彼の珍しい姿にいつもの特徴的な笑い声を漏らす黒服。単に柱間の様子が面白おかしいだけでなく、彼の言葉から薄いながらも希望的観測を見出したためであるが、どうやらその予想は外れているらしい。

 

 「クックック……ならば今、お見せいただけるので?」

 「まさか。……そうではなくてな、貴様の俺の言った、オレの神秘とやら───

 

 

 

───とある場所に、残してきた」

 

 「……残してきた、ですか?」

 

 あぁ、と言った柱間がゴクリと一気に喉奥へ酒を流し込む。彼の体が一段と火照りを覚え、吐く息に熱が混じる。

 

 「……まぁ、正直な話貴様がソレを見つければ碌なことになる気もせんし、言いたくはないがな……一応、不義理を貫くのも性に合わん」

 「………ふむ」

 「だから、もしソレを見つけたとしても眺めるだけに徹してくれ。決して余計な真似はせんと約束しろ」

 

 いつもなら懇願するような態度の柱間にしては珍しく命令するような口調で空になった黒服の椀に酒を注ぎ入れながら彼に言い聞かせる。

 

 「……ふむ、いつになく強情ですね。酒の影響でしょうか?」

 「さてな、どちらでも良い。それで………その酒、飲んでくれるか?それとも、盆に返らぬ覆水と化すか?」

 

 

 

 「………ふぅ」

 「──そうか、感謝する」

 

 言葉で返さず、代わりに空になった椀とひりつく喉から発せられる熱い吐息で返事を行う黒服の、言葉にならない返事に満足した柱間がチラリと時計を確認する。既に時刻は深夜、今更にすぎないがあまり長居させすぎても失礼かと黒服に声をかけた。

 

 「さて……すまなかったな今日は。いきなり呼びつけて」

 「いえいえ、私としても貴重なお話をきけましたので良い会談となりました」

 「そうか……では、もうそろそろお開きにするか」

 「えぇ。先生はこの後どうされるので?」

 

 尋ねたところで支度を整え床に就くであろうことは分かっているのだが、そんな分かり切ったことを聞くのは単にこういったくだらない何の実りもない会話が人付き合いにおいては重要なことだと理解した黒服の人間臭さの表れなのだろう。

 

 っと、その予定だったのだが。

 

 「オレか?少し書類作業を済ませてから寝るかの」

 「おや?まだ終わらせてなかったので?」

 「あぁ。いやなに、見通しが甘くてな。それだけの話ぞ」

 

 そう言われれば確かに机の上には未だ書類の束が残っており、軽くそれを手に取った柱間はすぐさま仕事にとりかかってしまう。キヴォトスに来た当初よりは中々様にはなってきたものの、やはり酒を入れたことによるデバフが思考を曇らせ、いつもより筆の進みが遅い。

 

 「クックック、業務中に飲酒ですか。感心致しませんね」

 「まぁそう堅い事を言うな、今は生徒もおらんしな」

 「そうですか」

 

 「……どうした?もう帰ってよいぞ、まさか見送りが必要などと子供のような事を言い出すわけではあるまい」

 

 立ったまま自身を見下ろす黒服が何も言わずに立ち尽くすものだから不思議に思った柱間が尋ねると、小さくため息を吐く彼がいつも生徒の活用している対面の椅子に腰を下ろす。いったいどうしたのか、まだ話したりないことでもあったのかと眉を顰めると、思いがけない言葉が彼から放たれた。

 

 「お手伝い致しますよ。と言っても流石に生徒の皆さんに見つかったら話がこじれそうなので、適当なタイミングで去りますが」

 「……ハ!…そうか、感謝しよう。なら……っと、これだけ頼めるか?」

 「分かりました」

 

 深夜のシャーレにて、カリカリとペンを走らせる音が静かに鳴り響く。その心地よいリズムをバックに二人の雑談は続いていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「…ふふ……!」

 

 便利屋所属、平社員。伊草ハルカ。

 いつも引っ込み思案で落ち着きのない彼女が珍しく微笑みながら彼女の秘密の菜園に先日芽吹いたばかりの、新たな新緑に目を奪われていた。

 

 「…………」

 

 口を閉ざしてただただ見つめ続けていると、この青葉が芽吹いた───否、託された瞬間を思い出す。

 引っ越すからと、別れ際に上納品として誠心誠意を込めて育てた、一つの雑草を手渡し感謝を述べるだけのはずであった。

 

 

────ハルカよ、空いている鉢はあるか?オレからも、引っ越し祝いぞ。

 

 

 「……ふふふ!」

 

 あまり手を加えるべきではないことはわかっているものの、その小さい芽の吹いた小ぶりの鉢を日当たりなどを考慮してしきりに動かすハルカが嬉しそうに笑みをこぼす。一瞬手で覆っただけの、土しか入っていない鉢にどんな手品を使ったのかは不明だが───ただ一つ言えることは、これは紛れもなく尊敬する人から託された世界に一つだけの名も無き雑草だということ。

 

 

 「…あ、いかなきゃ……」

 

 

 時計を確認したハルカが立ち上がりその場を後にする。

 吹き抜けとなった扉から出ようとしたハルカが少し名残惜しそうな顔を見せながらも───穏やかな笑顔で、その雑草に軽く頭を下げ呟いた。

 

 

 「───行ってきます、先生…!」

 

 

 廃墟の廊下から、コンクリートを蹴る軽快な足音が響き渡る。

 

 誰も知らない、彼女だけの庭園にて───小さな青葉が、力強く芽吹いていた。

 

 

 

 

 

 




ご清覧ありがとうございます!
これにてアビドス編終了です!
ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました!
次回以降はまた数話幕間を挟んでからパヴァーヌ編に入りたいと思います! 
それではまた次回

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