補習授業部の合宿が決定したその日の夜、ティーパーティーのテラスに五条は呼び出されていた。扉を開けると、ナギサ一人が静かに待っていた。
「あら、先生。お疲れ様です」
「こんな遅くまで残ってるの?ナギサも大変だね」
「ええ、ティーパーティーのホストとしてやることが多くて大変です。さて、補習授業部の方はいかがですか?」
ナギサが尋ねると、五条は肩をすかして答える。
「もう散々。ナギサの耳にも届いているでしょ」
「はい。どうやら最初の試験は上手くいかなかったようですね。ですがまだ、あと2回残っていますので……」
優しく励ますナギサの手元に置いてあるチェスに目を向ける。それに気づいたナギサがくびを傾げながら聞いてきた。
「……おそらく、見慣れないタイプですよね?」
「そうだね」
「黒はキングとクイーン、後は全てポーンだけ。白はキング、ルーク、ビショップ、ナイトがそれぞれ3~4個ずつ……ああまり見ない形でしょう」
「これ、一人でやってんの?」
「今は私一人で。昔はミカさんとセイアさんの3人でよくやってました」
一瞬だけどこか遠い昔を思い出すナギサだったが、すぐに五条の方に向き直る。
「今日は先生に、お伝えしたいことがあったのですが……それよりも先に、先生の方から何か言いたげなことがあるように見受けられますよね」
「今回の特別試験、全部不合格になるとどうなる?」
五条の質問に、ナギサは少し沈黙する。そして、小さく息を吐いた。
「小耳に挟まれたのでしょうか?出処は……ヒフミさん、ですかね。彼女は、そういうところがありますからね。まあそれが、ヒフミさんの良いところでもあるのですが……。さて、質問にお答えしますと、簡単なお話です。落第を逃れられそうにない、助け合うこともできない……だとすれば皆さん一緒に、退学していただくしかありません」
「……やっぱりそうか」
ナギサの答えに五条は驚きもせず、背もたれに寄り掛かった。
ヒフミの様子から何となく予想はできていたので、こうして聞いたところで驚きもなかった。そんな五条の様子を察したナギサは小さく頷いた。
「その様子では薄々感づいていたようですね。ええもちろん、ここトリニティにも校則があり、それを破れば落第、停学、退学になります。ただ、手続きは長くて面倒でして、たくさんの確認と議論を経なければなりません。ゲヘナと違って、我々は手続きを受容ししますので」
「うわー、めんどくさ」
「ですが今回急造された補習授業部は、このような校則を無視できるように調整してあります。シャーレの権限を少し組み込ませていただいたこともあり、このような措置が可能となっているのです。そもそも、補習授業部は……」
突然黙り込んだナギサに、五条は「ん?」と首を傾げていた。その後ナギサは静かにこう告げた。
「――生徒を退学させるために、作ったものですから」
「――どういうこと?」
問いかける五条の声が少し低くなる。その問いにナギサは静かに答える。
「あの中に、トリニティの裏切り者がいるからです」
「裏切り者?」
ナギサは黙ったまま頷く。
「その裏切り者の狙いは、エデン条約締結の阻止。この言葉が持つ重さを理解していただくには……『エデン条約』とは何か、という説明が必要ですね」
エデン条約、それはトリニティとゲヘナの間に結ばれる不可侵条約である。その核心は、ゲヘナとトリニティの中心メンバーが全員出席する、中立的な機構を設立することにある。
「
そして、ナギサは神妙な面持ちで五条の顔へと向き直る。
「……先生。トリニティとゲヘナの長きにわたる敵対関係は、お互いに大きな重荷になっています。エデン条約はその無意味な消耗を防ぐための、恐らくは唯一の方法であり、キヴォトスにおける力のバランスを保つための方法でもあります。これは、連邦生徒会長が提示した解決策でもありました。彼女が行方不明になってしまい、一度は空中分解しかけたものを、私の元でそうにかここまで立て直したのです。そしてこの念願の条約が締結される直前まで来た、このタイミングで……これを妨害しようとする者たちがいるという情報を耳にしてしまいました 。まだ、それが誰なのか分かりません。特定には至りませんでした。そこで、次善の策として……その可能性がある容疑者を一か所に集めたのです」
「それが、あの子たちってことかい?」
ナギサは黙って頷いた。
「裏切り者はそこにいます。ですが、誰なのかは分かりません。であれば、一つの箱にまとめてしまいましょう……いざという時、まとめて捨ててしまいやすいように。それが『補習授業部』です。先生には、その『箱』の制作にご協力いただきました」
ナギサは五条に対して深く頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。
「――ごめんなさい。こんな、血生臭いことに先生を巻き込んでしまいました。私のことは、罵っていただいても構いません」
頭を下げるナギサに五条は少し気だるげに口を開いた。
「……でもさ、本当に僕を利用する気なら、本当のこと話さないでしょ」
「……流石、理解が速いですね。言っても信じてもらえるかなと思っていましたが、仰る通りです。こうなったらお話は早いですね。先生、補習授業部にいる裏切り者を、探していただけませんか?」
ナギサの頼みに五条は何も言わない。そんな五条を説得するようにナギサの言葉は続く。
「先生を、トリニティを騙そうとしている者がいます。平和を破壊しようとするテロリストです。私たちだけではなく、キヴォトス全体の平和を、自分たちの利益と天秤にかけようとしているのです。裏切り者を探し出すことが、キヴォトスの平和に直結します。いかがでしょう、連邦捜査部シャーレとしてご理解いただけますと幸いなのですが――」
「断る」
「……はい?」
五条の短い返答にナギサは笑顔のまま静かに固まった。五条は机に脚を乗せる尊大な態度で、こう告げた。
「キヴォトスの平和だか何だか知らないけど、僕は僕のやり方でやらせてもらうよ」
その言葉に、ナギサは嘆息を吐いた。
「……そうですか、分かりました。ですが、先生。ゴミを細かく分別して捨てるのが難しいときは、箱ごと捨てるというのも手段の一つ……そうは思いませんか?」
ナギサは先ほどと同様に笑顔を絶やさないが、放たれる言葉は先ほどよりもどこか棘があるように感じられた。
「まあその言葉には同意するけど、あの子たちはゴミじゃない。僕の大切な生徒さ」
不敵な笑みを浮かべる五条に、笑顔のまま額に筋を浮かべるナギサは、笑ったまま告げる。
「……そうですか。それではもう一点……試験については基本的に、私たちの掌の上にあります。例えば『急に試験の範囲が変わる』ですとか、『試験会場が変わる』ですとか、『難易度が変わる』ですとか……。そういったことが起きないことを祈っていますが……失礼しました、良くない物の言い方でしたね。それではこれからも、引き続き補習授業部をよろしくお願いします、先生。私たちの方から、先生に対して不利益や損害を与えることはありません……と、言いたいところなのですが……」
「ハッキリ言いなよ。邪魔するなら邪魔するってさ」
二人とも笑っているが、空気はどんどん重く険悪になっていく。ここに二人以外誰もいないことが幸いだということは誰も知らない。
仮にヒフミがいたなら、あまりのプレッシャーで気を失いかねないのかもしれない。
「さあ、何のことやら。ですが、だからといって、先生が生徒たちを放っておくような方ではないと思っておりますので……これからの展開は私にも予測しきれておりません。どうかこの結末が……できるだけ、苦痛を伴わないものであることを願うだけです」
「よく言うよ」
「ああ、ですが一つだけお伝えしておきますと……1次試験において、私たちの方ではいかなる操作も行っておりません。この部分については、誓って嘘ではないことをお約束します」
「そりゃ、親切にどうも」
「先生なりのやり方……それが、トリニティに利するものであることを願っていますね。それでは、また」
「うん、またね」
こうして、五条とナギサのおしゃべりは終わる。
そして合宿の日がやって来る。様々な思いが交わる補習授業部の特別学力試験、残すところあと2回。
「……や、やっと着いた……」
次の日、五条に引率され、補習授業部は合宿所であるトリニティの別館にやってきた。
ここは、今はもう使われていない旧校舎で誰も使っていないということで、合宿所として決定したのだとヒフミが説明する。
本校舎からは歩いて来れるとはいえ、それでも一週間分の荷物を持ってくるには疲れる。ここまで来るのに、コハルはヘトヘトになっており、ヒフミとハナコも疲れが見えていた。一方でアズサは特に疲れも見せていない様子で、周囲を警戒するかのようにキョロキョロと辺りを見渡していた。
そしてこの男もいつものように元気すぎるハイテンションでいた。
「ちょっとちょっとだらしないなー、みんな。アズサを見なよ。元気ピンピンだよ」
「そ、そう言われましても……荷物持って歩くのは疲れますぅ……」
「私もこういった運動は苦手で、別の運動なら得意なんですけど……♡」
ポッと頬を染めるハナコに、ヘトヘトになりながらもコハルがツッコんだ。
「――な、何……言ってん……のよ……エッチなのはダメ……死刑……」
「コハルー、正義実現委員会のエリートなんでしょー!これくらいで音を上げないよねー!」
「も……もちろん……私は、正義実現委員会の、エリートなんだから……」
ゼーゼー息を上げるコハルを心配そうにヒフミがそっと水筒を差し出す。
「コハルちゃん、これを飲んでください」
ヒフミの水筒を受け取り、ゴクゴクと飲んだコハルは息を整える。
ようやく補習授業部全員が落ち着いたところで、五条は合宿所の入り口に手を掛ける。
「さてそれじゃあ……オープン!」
勢い良く開けた先に待ち受けていたのは、とても綺麗で歴史を感じる校舎――、
「「「「……」」」」
ではなく、埃まみれでかび臭さも匂うただの古臭いだけの校舎であった。
この校舎が使われなくなって幾年、誰も寄らず掃除もせずに放置だけされていたので、埃も溜まっているし、扉と窓も全てずっと施錠されているので、空気も埃とカビで澱んでいた。
こんな状態ならまずやることはただ一つ。それは――、
「大掃除だー!!」
五条が大きな声でそう叫ぶ。
合宿所の溜まった埃を見て、ハナコは眉をひそめる。
「やっぱり長い間使われていなかったこともあって、埃も多いですね。ここでしばらく生活するのですから、やっぱり綺麗にして気持ちの良い環境で勉強を始めたいですね」
「そ、そうですね。まずは身の回りの整理整頓から始めるのは定石ですし、これは流石に掃除しないといけませんよね……」
「うん、衛生面は大切。実際、戦場でもすごく士気に関わりやすい部分だ」
ハナコの言葉にヒフミとアズサも頷く。コハルはどうすればいいのか分からないのか、3人の顔をキョロキョロと見まわしていた。
「お、お掃除……?えっと、まあ、普通の掃除なら……」
そんな心配そうにしているコハルの手をヒフミが優しく握って、声を掛ける。
「はい。ハナコちゃんの言う通りかもしれません。こんな状況で勉強しても上達しませんですし……。私たちがするのは一夜漬けではなく、きちんと用意された期間の中での試験勉強……つまりは長距離走のように、順番やペース、作戦も考えないとです」
「わ、分かった……」
コハルは少し恥ずかしそうに小さく頷く。そんな彼女たちを見た五条は、大きな声で号令をかける。
「よし!それじゃあ汚れてもいい服に着替えてから、10分後に集合ね。遅刻しちゃダメだよ」
「分かった」
「はい♪」
「よ、汚れてもいい服……た、体操服でいい……?」
「遅刻するのは先生なんじゃ……」
アズサ、ハナコ、コハルの順で中の更衣室に入っていく。最後にヒフミが小さくツッコミながら入っていった。
そして10分が経過した。
「先生、お待たせしました!」
「お、ヒフミが一番か!」
建物前に待つ五条の元へ体操服に着替えたヒフミが小走りでやってきた。次にコハルもやってきた。
「あっ、コハルちゃん速かったですね」
「べ、別に普通だし……それよりも!先生が言ったんでしょ、汚れてもいい服だって!着替えてないじゃない!」
コハルが指さして指摘したように、五条は一切着替えていない。いつもの服装のままの五条にヒフミが恐る恐る尋ねた。
「あのー……先生は掃除しないんですか……?」
「うん?ちょっとちょっと、2人共その目は何?まさか僕が愛する生徒に掃除を任せる鬼畜教師に見える!?」
「「見える(見えます)」」
即答する2人に少し心を痛める五条。しかし、すぐに立ち直り胸を張って言う。
「僕の術式は汚れとかも遮断するから、そもそも着替える必要ないんだよね!どう、羨ましい!?」
「ほう……先生はすごいんだな。羨ましい」
五条のドヤ顔の自慢にアズサが真面目な顔で答えながらやってきた。ヒフミは最初はやってきたアズサに笑顔で手を振っていたが、彼女の背中のあるものに目が行く。
「あ、アズサちゃん……って、どうして銃を……?」
「肌身離さず持っていないと、銃の意味がない。襲撃はいつ来るか分からないものだ」
背中の銃について聞かれたアズサは何当たり前のことを聞いてるんだと言わんばかりの顔で答える。その真っ直ぐな目で見つめられたヒフミは狼狽えてしまう。
「いえ、それはその、何て言いますか、その通りかもしれませんが……」
「何で言い負かされてんのよ」
「相変わらずレスバクソ雑魚だねー、ヒフミは――」
「うぅ……すみません……」
コハルと五条にも言い負かされたヒフミはガックリと項垂れた。
「残るはハナコちゃんですね」
「遅いな」
残るハナコが未だに来ていないことにヒフミとアズサが心配そうに声に出す。そんな中、コハルは別の意味で心配していた。
「大丈夫なんでしょうね」
「何がですか?」
「アイツのことよ。また変な服で来るんじゃないの」
「あはは、いくらハナコちゃんでもそんなことは――」
「お待たせしました。みなさん早かったですね?」
そうヒフミが笑っていると、後ろからハナコの声が聞こえる。
全員がそちらに振り返る。そして――、
「アウトーーーーーーー!!」
コハルの魂の叫びが木霊した。
「あら……?」
ハナコが突然の叫びに首を傾げていると、コハルが猛ダッシュで近づいて思い切り罵声を浴びせる。
「何で掃除するのに水着なの!?バカなの!?バカなんでしょ!?バーカ!!」
「ですが動きやすいですし、何かで汚されても大丈夫ですし、洗い流すのも簡単で――」
「そういう問題じゃないでしょ!?水着はプールで着るものなの!っていうか、だっ、誰かに見られたらどうするの!?」
「誰かも何も、ここには私たち以外いませんよ……?」
「と、とにかくダメ!アウトったらアウト!あんたはもう水着の着用禁止!」
「あら、それはそれで……まあ……」
ポッと照れながら嬉しそうにするハナコにまたコハルが怒る。ヒフミは相変わらず「あうぅ……」と困惑しているので、仕方なく五条が手を叩きながら2人の間に入って声を掛ける。
「はいはーい、話が進まないからコントはそこまでねー。ハナコ-着替えておいでー」
「あら、先生が言うなら……は~い♡」
「誰がコントよ!」
結局ハナコは体操服に着替えたことで、あらためて大掃除を始めるのだった。
「それではまず、建物周辺の雑草から抜いていきましょう!」
ヒフミが言う通り、校舎の周りは伸びきった雑草で埋め尽くされていた。ここが一番広いエリアなので、全員で行うことにした。
そしてヒフミから大事な注意点が一つ――、
「今日は日差しも強いので、熱中症に気を付けてくださいね」
「は~い♪」
※熱中症は大変危険なので、みなさんも外での作業をするときは、こまめに水分補給と適度な休憩を心がけましょう。
こうして草むしりが開始された。全員で合宿所の入り口前の草むしりを終えた後、それぞれが各自の場所のお掃除をしていったことで、合宿所周辺の雑草を一通り抜き取り、放置されていたガラクタなどを片付けた。
途中で遊ぶ五条をヒフミとコハルが注意したりもしたが、何とか外の掃除が終わり、次に合宿所の中の掃除が始まった。
合宿所の廊下でヒフミはアズサと一緒に掃除の仕方を確認していた。
「ここはまずは箒で埃を掃いて、その後にモップが良さそうですね。埃の溜まりやすいところなので一度では終わらないかもしれませんが……」
「大丈夫、問題ない」
「アズサちゃんにはこの廊下が終わったら、シャワー室とお手洗いの辺りをお願いしても良いですか?」
「うん。了解、任せて」
こうしてヒフミとアズサは二人で廊下の掃除を終わらせていく。廊下が終わり、アズサにあとはお願いしたヒフミは、コハルと五条が担当しているロビーに向かう。
そのロビーでは――、
「けほっ、けほっ……!何ここすごい埃……」
長いこと溜まった埃が舞い上がって咳込むコハルを横に、五条は笑いながら言う。
「うわー、大変そー」
「そんな適当な同情が一番ムカつくんだけど!」
無下限呪術の不可侵で舞い上がる埃やカビも遮断する五条にとって、涙目で咳込むコハルのことも対岸の火事のように同情するのである。
それにコハルがまた怒るのだが、ヒフミがそれを止める。
「コハルちゃん、ここで騒ぐと余計に埃が舞い上がるから――。しかし本当に埃が多いですね。家具が多いからでしょうか……えっと、ではここも埃を掃いて――」
「やっ、やり方くらい知ってる!正義実現委員会でずっとやってるし!マスクを着けて埃を払ってから、水拭きをすればいいんでしょ!バカにしないで!」
「ば、バカにしたつもりはないですよ……?では、ここはコハルちゃんにお任せしますね!」
怒らせるつもりはなかったのだが、コハルが大きな声を出して威嚇するのに驚いたヒフミは、彼女を刺激しないようにこの場を後にしようとする。
「任せたよ、コハル!」
「先生もちゃんと掃除してくださいね」
親指を立てて後ろの方に下がる五条を捕まえてしっかりと掃除に参加させる。ヒフミもこの短い間で、五条の扱い方も慣れてきたのであった。
次にヒフミが訪れたのはベッドルーム、つまり寝室である。自分たちがここで寝泊まりする大事な部屋であるが、ここも例外なく汚れていた。部屋の埃はもちろん言うまでもなく、ベッドのシーツも放置されっぱなしなので汚いし、マットレスもダメになっている物も多い。ここはどうしようか考えているヒフミに、ハナコが声を掛ける。
「えっと、ここは――」
「ヒフミちゃん、ここは私に任せてください」
「ハナコちゃん、でも――」
ここは特に掃除が必要な部屋。それをハナコ一人に任せていい訳がないと思ったヒフミが手伝うと言おうとしたその口をハナコは人差し指でそっと触れて、ヒフミの口を止める。
「これからいろいろとお世話になる場所ですし、キチンとお掃除しておかないとですよね。寝具類は今洗って干しておけば、午後には乾くでしょうし……。他の部屋にもマットレスがあったので、古そうなものは交換して……あとは換気を……」
掃除の手順を完璧に口にするハナコに、ヒフミは素直に感心する。
「すごい、詳しいですね!ではお願いしますね、ハナコちゃん」
「うふふ、はい♡」
こうして五条とヒフミたち補習授業部は、次々に掃除を進めていき、合宿所はすっかり綺麗な姿を取り戻したのだった。
「みんなー、お疲れサマンサー!」
五条がスポーツ飲料のペットボトルを配っていく。みんなキャップを開けて口に運ぶ。喉を通る飲み物が全身に染み渡っていく気持ちよさを感じる。
「ずいぶん綺麗になった気がする。うん、気持ちいい」
「……うん、悪くない」
「そうですね、お疲れさまでした!」
「あ、まだ一か所だけ残ってますよ?」
掃除が終わる雰囲気になっていたところを、ハナコが呼び止める。ハナコの言葉にヒフミが首を傾げる。
「あれ、そうでしたっけ……?」
「はい、屋外プールが♡」
「「「……え?」」」
ハナコに言われて屋外プールにやってきた一行が目にしたものは、とても立派な屋外プールだった。しかし――、
「これは……」
「だいぶ大きいな、どこから取り掛かればよいのか……いやそもそも、補習授業に水泳の科目は無かったはずだけど?」
「試験に関係無いなら、別にこのままでもいいじゃん。掃除する必要ある?」
コハルの言葉にヒフミとアズサも言葉に出さないが、内心で同意していた。確かにコハルの言う通り、今回の合宿に関係のないプールを掃除する必要はない。
そんなコハルの言葉に、ハナコは真面目な顔で話す。
「いえいえ、よく考えてみてください、コハルちゃん。キラキラと輝く水で満たされたプール、楽しい合宿、はしゃぎまわる生徒たち……楽しくなってきませんか?」
その言葉に衝撃を受けるみんな(主に五条)。
「――!?え、何!?分かんない、何か私に高度な話をしてる!?」
「ですが確かに、こうして放置されてしまったプールを見ていると……なんだか寂しい気持ちになりますね」
「このサイズだったし、昔はきっと使われていた時期もあったんだろう。元々は、賑やかな声が響き渡っていた場所なのかもしれない。それでも、こんな風に変わってしまう。『vanitas vanitatum』……それが、この世界の真実」
アズサの言葉に一つ知らない単語が入っていたことに、コハルはポカンと呆けており、ヒフミはよく分からずに思わず聞き返す。
「えっと……?」
「古代の言葉ですね、『
ハナコはどこか寂し気な目をするアズサを見て、少し考える。そしてある提案を持ちかけるのだった。
「……アズサちゃん、ヒフミちゃん、コハルちゃん!今から遊びましょう!」
「え、えぇっ!?」
突然の提案にヒフミが驚愕する。ハナコは笑って答える。
「今から掃除して、プールに水を入れて、みんなで飛び込んだりしましょう!明日からは頑張ってお勉強し続けないといけませんし、となると今日が最後のチャンスかもしれないじゃないですか。今のうちにここで楽しく遊んでおかないと!途中からはまた別のことで、色々と疲れてしますかもしれませんし……!先生もそう思いませんか……?」
ハナコがそう尋ねると、五条は最高の笑顔で親指を立てて答える。
「いいよ、好きなだけやっちゃいな!」
「先生もこう仰っているので……さあさあ、早く濡れてもいい格好に着替えてください!プール掃除を始めましょう!」
アズサは最初驚いたように目を開いていたが、すぐに小さく笑って頷いた。
「……うん。たとえ全てが虚しいだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない。問題ない、ちゃんと水着も持ってきてる。待ってて」
「あ、アズサちゃん!?早っ……!?」
猛ダッシュで水着を取りに行ったアズサを呼び止めようと手を伸ばすが、アズサはすぐに見えなくなった。置いて行かれたヒフミの肩に手を置くハナコが優しく語り掛ける。
「さあヒフミちゃんも!コハルちゃんも早く水着……いえ、何でもいいので濡れてもいい格好に!」
ヒフミの肩を掴んで笑顔のままグイグイ来るハナコの圧に、ヒフミも迷いを断つのだった。
「うーん、でも確かにここだけ掃除しないのも何だか気持ち悪いですし……私も、着替えてきます!」
「え、えぇっ!?補習授業とは全然関係ないじゃん……うぅ、なんで……」
ヒフミも水着を取りに行ったのを見たコハルは一人残ったことに戸惑っていると、ハナコが笑ったままゆっくりと近づいてくる。
「ふふっ、コハルちゃん♡」
「わっ、分かった!分かったから!!無言で近寄らないで!」
こうしてコハルも水着を取りに行き、ハナコも着替えに行ったのだった。
そしてまた10分後、プールにトリニティのスクール水着に着替えたヒフミ、アズサ、コハルの三人と制服に着替え直したハナコが五条の前に集合した。
「さあ、これでびしょびしょになっても構わないということですね♡」
「うん、問題ない」
「ま、まあ一応……」
「よし、それじゃプール掃除を始めようか!」
「待て待て待てっ!!」
何事もなく開始の合図を始めた五条を止めるように、コハルが腕を大きく振って前に出て声を荒げた。
五条とハナコが純粋な目でコハルに尋ねる。
「コハル、どうしたの?」
「コハルちゃん?どうかしましたか?」
「あんた掃除の時は水着でどうして今度は制服なの!?本当に馬鹿なの!?『濡れてもいい服』ってあんたが言ったんじゃん!?」
制服姿のハナコを指さし、コハルが指摘する。それに対してハナコは軽く首を傾げて答える。
「これが『濡れてもいい恰好』ですよ?」
「もうあんたが何言ってるか分かんない!制服が濡れてもいいの!?」
「コハルちゃん、これは各々の美学の問題かもしれませんが……」
「え、美学……?」
ハナコの真面目な様子に戸惑うコハル。そんなコハルにハナコは尋ねる。
「水着と制服、どちらの方が濡れた時に『良い感じ』になると思いますか?」
「は、はぁっ!?『良い感じ』って何よ!?何の話!?」
「フフッ、まあ半分は冗談ですよ。ほら、実は中に着てるんです。お小遣いで買ったビキニの水着♡」
「え、えっ……?」
制服のペロッと捲ると制服の下に可愛らしいビキニがチラッと見えた。
「先ほどコハルちゃんに『水着の着用禁止』と言われてしまいましたし、確かに学校ではスクール水着の方が鉄板ですが……今日はこれで許していただけませんか?スクール水着は今洗濯中でして、これがダメだとすると私、下に何も――」
「な、なんで私に判断を託すのさ……!べっ、別に勝手にすればいいじゃん……!?」
「うふふ、ではそういうことで♪あらためて、お掃除始めましょうか!」
こうしてプール掃除を開始した。ハナコがホースの口をつまんで水を拡散するように撒いていく。
「見てください、虹ですよ!虹!」
「ひゃっ!?ちょっ、ハナコちゃん冷たいですよぉ!」
「ふふっ、トリニティの湖から引っ張ってきている水みたいですので、そのまま口を開けて飲んでも大丈夫ですよ?」
ヒフミとハナコが楽しく水のかけあいっこしている横で、コハルは恥ずかしそうにもじもじとしていた。
「ど、どうしてこんなことに……」
「こちらのブロックは完遂した。続けて速やかにそちらへ向かう」
アズサがブラシを素早い身のこなしで次々とプールの掃除を終えていく。そうして色々と水のかけっこやブラシで競争など遊びながら楽しく掃除をやっていく。そんな楽しく眩い青春を、五条は離れて見て小さく笑った。そこに映し出されるのは、かつて同級生と後輩たちでプール掃除をした。自分たちの青春に面影をかんじたのかもしれない。
結局、掃除を終えてプールに水を入れたのだが、水を入れるのに時間がかかりプールいっぱいになった時には、すでに日が暮れてしまった。すっかり夜になったので、水着を着替えた補習授業部は、いっぱいになったプールを眺めていた。誰よりも真っ先に水着に着替えていたアズサは夜のプールを前に静かに沈黙していた。
「……」
「結局、実際プールに入って遊ぶことはできませんでしたね……」
「そういえば、水を入れるのは結構時間がかかるものでしたね……ごめんなさい、失念していました」
アズサに謝るハナコに、アズサは微笑みで返す。
「いや、謝ることはない。十分楽しかった」
コハルも夜のプールが月の光でキラキラと輝くのを見て、思わず呟いた。
「……綺麗」
「そうですね。真夜中のプールなんて、なかなか見られない景色で――」
ヒフミがそう言いながらコハルの方に目を遣ると、コハルが眠そうに舟を漕ごうとしていた。
「あら、コハルちゃんおねむですか?」
「そ、そんなことないもん……でも、ちょっとつかれた……」
「確かに、今日は朝から大掃除でバタバタでしたもんね。では、そろそろお部屋に戻って休むとしましょうか?明日から本格的に勉強合宿が始まってしまいますし……そろそろ寝ないと明日に支障が出てしまうかもしれません」
ヒフミがそう言うとアズサとハナコも頷いた。
「うん」
「そうですね、では今日はこれくらいで」
合宿所に戻って、五条が作ったカレー(レトルト)を食べたヒフミたちは、シャワーを浴びて寝巻用のジャージに着替える。
ちなみに五条も朝からそれなりに動いていたはずなのに、夕食時も元気だったことにヒフミたちは少し引いていた。
綺麗になったベッドで横になり、眠りにつく。
「それでは、お疲れさまでした」
「お疲れ様」
「は、ではまた明日」
「……お疲れ様」
「それじゃあ僕は向かいの部屋にいるから、おやすみ~」
「「「「おやすみなさい」」」」
そう言って五条は寝室の電気を消して、自分の部屋へと戻るのであった。
部屋に戻った五条は椅子に腰かけて、背もたれにもたれかかり天井を仰ぎ見る。
「さて……」
落ち着いた五条はナギサの言葉を思い出す。
『そもそも、補習授業部は……生徒を退学させるために、作ったものですから』
(さてと、ナギサは一体何を考えているのやら――)
ナギサが言う「トリニティの裏切り者」、エデン条約の締結を妨害するのが目的と言ってたが、誰が、何のために、どうやって妨害するのかを考える。しかも、その裏切り者がこの補習授業部にいると彼女は言っていたが――、
「……あぁ、めんどくせー」
思わず素の口ぶりが零れ出る。いかんいかんと自分を正すために頬を軽く叩くと、扉がノックされる。
「入っていいよ」
そう答えると、「あ、えと、失礼します……」と小さな声で部屋に入ってきたのは、ヒフミだった。
「その、夜中にすみません……」
「ヒフミ?どうしたの?まさか……!?夜這い!?」
「ち、違います!」
いやーんと言いながら胸元を隠す仕草を取る五条に、ヒフミが慌てて否定する。まあそんなことはないと分かってる上でからかっただけなのだが、本当にこういうからかいがいがあるところが、好きなのであるとしみじみ思ってしまう。
そんな五条に変なことを言われないように、ヒフミは軽く咳払いをして改めて口を開く。
「その、なんだか眠れないと言いますか……。あれこれかんがえていたら、その……あうぅ……」
またいつものようにもじもじしながら小さくなっていくヒフミに、五条は
「ヒフミはさ、ナギサにどこまで聞いてるの?」
「……え?」
「今回の学力特別試験、全て不合格なら退学のこと……それから、『トリニティの裏切り者』についてのこと」
「――っ!?」
ヒフミは五条からその言葉が出たことに驚きを露わにしていた。その反応を見て、五条はヒフミが「トリニティの裏切り者」についても知っていることを理解した。
「……やっぱり、先生も知っていたんですね。まだ誰にも言っていませんが、そもそも言って良いことなのかどうかも分からなくて……。学力試験なのに、どうしてこういう『全員一斉』みたいな評価システムなのかよく分かっていませんし、私たちの試験のためだけにこんな合宿施設まで提供してもらえるなんて……。それに……」
「『トリニティの裏切り者』を見つけてほしい、って言われたんでしょ?」
五条の言葉に、ヒフミは黙って頷く。
「……はい、ナギサ様とお話をしていた時に――」
ヒフミは語った。ナギサから直々に呼び出され、お茶会をしていた時に神妙な面持ちをする彼女の口から「補習授業部にいる裏切り者を、探してほしい」と、頼まれた。最初は困惑するヒフミだったが、ナギサからは全員が退学になる前に、いち早く「裏切者」を探し出してナギサの元へ連れてくるようにしてほしいと言われた。ヒフミはそんな大役をどうして自分がと尋ねたところ、ヒフミが「シャーレの先生」である五条と繋がっていること、最強である「シャーレの先生」の五条が一緒にいる限り、「裏切り者」は無闇に動くことはできないこと。以上のことからヒフミがやるしかない、もしやらなければヒフミも同じように退学になってしまうということをナギサから突きつけられたヒフミは、首を縦に振るしかなかった。
それを聞いた五条は、あの夜のナギサとの会話との違和感に気づく。
(ナギサは、ヒフミを使って「裏切り者」を探そうとしていた。でもそれだと、あの夜のナギサが言った――)
『先生。ゴミを細かく分別して捨てるのが難しいときは、箱ごと捨てるというのも手段の一つ……そうは思いませんか?』
(これが彼女の本音だとするなら、ナギサがヒフミにお願いすることに矛盾が出てくる。彼女は真意は一体――)
「あの、先生……!」
ヒフミが自分を呼ぶ声に反応した五条は思考を中断する。
「わ、私はその、裏切り者だなんて、そんな話……信じられません……。みんな、同じ学校の生徒じゃないですか……今日だって、みんなでお掃除をして、一緒にご飯を食べて……。これで、誰が裏切り者なのかを探れだなんて、そんな、そんなこと……。そんなこと、私には……」
これ以上の言葉が言えなくなって顔を俯かせるヒフミの頭に手を置く。
「なるほど、ヒフミの言いたいことは分かった。後はこの僕に任せなさい!」
「せ、先生……?」
「もちろんヒフミは、ヒフミにできることを頑張ってもらうけどね」
「私に、できること……はい!分かりました!あ、その、私に何ができるのかは、まだ分かりませんが……ちょっと考えてみようと思います!」
顔を上げるヒフミの顔は、先ほどの暗いものではなくなっていた。そして、明るい笑顔で五条に礼を言う。
「先生、ありがとうございます!何だか心が軽くなりました……!」
「そう、それはよかった」
五条も思わず笑みがこぼれる。ヒフミのこういう真っ直ぐなところは、彼女の長所だ。それをあらためて自覚できたのだった。
一方、五条とヒフミが話をしている同時刻、合宿所のロビーでは、ハナコが一人ソファーに腰かけて窓の外の月を眺めていた。
「……」
ただ黙ってじっとしているハナコの後ろから、アズサが声を掛ける。
「ハナコ?こんなところで何を?」
「あらっ、アズサちゃん。まだ起きてたんですか?それに、制服で……?」
ハナコの言う通り、アズサの服は寝る前の寝巻ではなく、制服に着替え右手には彼女の愛銃が握られていた。
「もうある程度寝た。だから見張りでもしておこうかと」
「見張り……?いえ、それよりもアズサちゃん……もしかして実は、全然寝られていないんじゃないんですか?しっかり寝たようなお顔には見えませんよ……?」
「……慣れない場所だと、あんまり寝られなくて」
どこかバツが悪そうな顔で答えるアズサを、ハナコは心配していた。明日から本格的に補習授業が始まるのに、眠れていないのは良くないからである。そんなハナコの気持ちを察したアズサは、フッと笑ってこう告げた。
「心配しないでもいい。夜通し動くための訓練もちゃんと受けてるから、5日間ぐらいなら寝なくても問題ない」
「いえ……そういうお話ではなく……」
「ハナコも散歩?どうやらヒフミも、どこか散歩に行ったみたいだし、みんな慣れないところで不安だと思うから、それもあって、見張りでもした方が良いのかもしれないと思って」
アズサは銃を構えて振り返る。
「そういうことだから、気にしないで大丈夫」
「……アズサちゃん、あまり無理をしないでくださいね」
アズサはコクンと頷くと、その場を去って行った。一人残されたハナコは再び月を見上げる。
こうして合宿初日の夜は更けていった。
次回もお楽しみに