混乱の色が残る隊士たちの霊圧を見届け、東仙は再び地面を踏み込んだ。左右には白塗りの土塀が続き、その足元には景観に色彩を持たせるために西梢局より取り寄せた草木が壺に植えられて一定の間隔を保って並んでいる。宵闇から輪郭を取り戻したそれらが視界の端に向かうにつれて再び輪郭を失っていく様は、時が加速して見ず知らずの世界へ運ばれているかのような浮遊感を東仙に覚えさせると共に、言い知れぬ不穏な気配となってその胸をざわつかせた。今この瞬間、足を止めてしまえば、時の潮流に呑み込まれて、そのまま息耐えてしまうのではないかと錯覚するほどにその気配は重く、東仙の全身を瞬く間に支配していった。モノの形を目ではなく霊子で捉えている東仙からすれば昼夜のモノの見え方に然程違いは無かったが、もし瞳が生きていれば、その感覚は一入であっただろう。
「…………」
草履が土を弾く音がやけに煩く思えた。その音とは対照的に沈黙に伏した双眸が大通りの右側に現れた〈中央地下議事堂〉を感じとる。禁踏区である敷地内に繋がる大扉の前には、あの日と同じ様に二人の守衛が六尺棒を構えて立っていたが、彼らの瞳に侮蔑の色は無く、代わりに〈護廷十三隊〉に対する敬意が宿っていた。
職務中に飲酒しただけに飽き足らず、些細な口論から武器を用いた殴り合いの喧嘩を引き起こし、議会の円滑な進行を妨げたとして、若かりし東仙を門前払いした当時の守衛たちがその後どうなったかについては東仙の知るところではない。
まだ純朴さの残る若い二人を前に、世界の〈変化〉の片鱗を僅かに感じた東仙であったが、それは世界そのものが変化しているわけではなく、自身の身分が変化したことによる〈錯覚〉であることに気付き、一瞬でもこの世界を受け入れようとした己を恥じた。
敬意と不安が入り交じった神妙な面持ちで頭を下げる守衛たちの横を過ぎながら、階級によって定められる〈命の重さ〉を感じつつ東仙は胸の中で独りごちた。今この瞬間、あの日と同じ様に四十六室が下した裁決に異議を唱える流魂街の住人が現れて『四十六室にお目通りを!!』と叫んだとして、この官吏たちはその者の願いを聞き入れるのだろうか。答えは否。〈公平無私〉の名を借りた〈六尺棒〉によって、持たざる者は容赦なく打ちのめされるであろう。かつて私がそうなる運命にあったように。世界の〈根源〉を変えなければ再び悲劇が生まれるのだ。
官庁街を抜けて地区が変わり、貴族街へ入った頃には暗く青みがかった空が温もりを帯び始めていた。遠くから微かに聴こえる警護対象者基友人のものと思われる蚊の鳴くような叫び声とその側に立つ微弱ながらも禍々しい霊圧を頼りに東仙は先を急いだ。
瀞霊廷 貴族街
流魂街を発ち、霊術院卒業を経て、中央四十六室の配下である各実行部隊の席官に任命されるほどの栄達を果たしたとしても、尚も掴むことは叶わぬ華やいだ世界──貴族街。その貴族街でも指折りの名家が立ち並ぶ大通りにその別邸は建っていた。
朱御稜家。瀞霊廷内にその名を知らぬ者はいないと言われる老舗の呉服屋──〈朱錦〉を代々営む名家であり、華冑界との繋がりは言わずもがな、護廷十三隊の根幹とも言える真央霊術院に制服を卸すなどその繋がりは多岐に渡っていた。
十年前に当時の家長であった朱御稜弼が没し、嫡男である百之丞に当主の座が明け渡されたのを機にその勢力は更なる広がりを見せた。呉服屋以外の分野にも裾野を広げ、止まる所を知らないその勢いは資金力のみで五大貴族に並び立つとも噂され、護廷十三隊隊士たちの間で話題となることも少なくなかった。
話の種としてその名が挙げられる一方で、関係各所との会談や接待などで多忙を極め、滅多なことがなければ店頭に立つこともなかった百之丞と交遊を持つ隊士は皆無に等しく、五大貴族や京楽家といった一部の上級貴族を除けば片手で数えるほどしかいなかった。そうした前提がある中で、旭日昇天の勢いで名実共に華冑界の頂点へと足を踏み入れ、他の貴族からも一目置かれる存在となった百之丞と一介の死神である東仙を結びつけたのはやはり呉服であった。
東仙は護廷十三隊隊士としてではなく、〈瀞霊廷通信編集長〉というもうひとつの顔で百之丞に面会を申し入れた。女性死神向けの新作着物特集を組むにあたり、創業以来呉服業界を席巻し続ける〈朱錦〉の十一代目当主──朱御稜百之丞の独占インタビューを盛り込むことで新たな読者を獲得したい東仙の思惑と廷内において確かな影響力を持つ瀞霊廷通信に記載ることで手付かずだった販路の開拓を図りたい百之丞双方の利害は見事に合致し、『多忙を理由に断られても已む無し』と半ば諦めの境地にいた東仙の考えに反して早々に実現することとなった。
対談の中で話が脇道に逸れた際、料理が趣味だという互いの共通点が判明し、それがきっかけとなって東仙は朱御稜邸へ招かれることとなった。互いに自慢の料理に腕を振るい、彼の妻子も交えて開かれた宴が昨日の出来事のように甦る。百之丞が好んで使っていた白檀の香を扱う香木店で選んだ新作の香を手土産として渡した際の嬉々とした彼の無邪気な霊圧はまるで少年のようであり、同い年ということさえ忘れさせるほどだった。
過去を見せていた振り子が振れ戻り、再び現在を映し出す。静かに消滅していく霊圧に呼応するかのように、土塀の瓦に付いた朝露が連なって出来た雫がぽつりと垂れ、地面を僅かに抉り取る。長らく続いた塀の上で朝の訪れを歌う三羽の雀を他所に、胸騒ぎに引かれる形で東仙は門扉に手を掛けた。