百之丞は──息絶えていた。
百之丞だけではない。妻子から従者に至るまで屋敷にいる全ての者が息絶えていた。脈を確認するまでもなく東仙がその確信を持てたのは、肉体を構成していた霊子が解けて尸魂界の大地へ還っていく特有の苦い香りがその鼻腔を抜けたためである。そのような状態であったにも関わらず、どの肉塊が百之丞であるかを判断できたのは、ある一人を護るように一列になって絶えた従者と思しき三つの遺体と、庇護下にあったその者の遺体の更に奥に、連れ添うようにして大小二つの肉の山が並んでいたことからの推察であった。肉塊の側には細切れになった肉片が散乱しており、例え肉親であったとしても身体的特徴からそれらの肉塊を家族の一人だと断言することは不可能に近かった。
百之丞と思われる肉塊の周囲には、遠目でも分かるほどに奢侈な着物の切れ端が散らばっていたが、東仙の盲いた瞳がそれらを捉えることは無い。しかし、その切れ端から燻る白檀の香りには確かに百之丞の面影が残っていた。
屋敷門の上で歌っていた三羽の雀の記憶を塗り潰すかのように、死肉を求めて群がる異常な数の烏の鳴き声と羽音が庭先に満ちる。見るに耐えない凄惨な光景を明瞭に物語るその音は五感を削がれた東仙の感覚器に深く作用し、不治の病のように着実に蝕んでいった。
執拗に斬り刻まれ、とうに命を潰えた肉塊から発せられた悲痛な叫びが景色を塗り替える。褐色の耳朶を揺らした百之丞たちの哀願は無論空耳ではあったが、他の者よりも聴覚に長けた東仙がそうした幻聴を聞くほどにその声には真に迫るものがあった。
魂を劈く旧友の肉声を前に東仙は息を飲み、一呼吸置いてから、こちらに背を向けたまま庭の中央に佇む男に声をかけた。
「…………丙暖壬……シスイだな」
東仙はある巡り合わせによって〈その男〉とも面識があったが、こうして声を掛けて確認しなければ確信が持てないほどに、その気配は以前受けた印象と全く異なっていた。
東仙の呼び掛けに反応して振り返った男は声を発する事こそなかったが、睨め付けるような鋭い眼差しは、言葉以上に明瞭な声を返していた。頬からは血涙を思わせる返り血が垂れ、かつての精悍さも見る影を失っていた。その表情は怒りや恨みというよりも〈嘆き〉に近い様相をしており、それはさながら激情に身を焦がす獣のようであった。
過去
その屋敷は〈朱御稜家別邸〉という顔の他に〈旧丙暖壬邸〉というもうひとつの顔を持ち併せていた。
丙暖壬家は繁華街の一番地に軒を連ねる老舗の呉服屋──〈丙壬屋〉を営む名家であり、〈朱錦〉基朱御稜家と共に業界を牽引してきた呉服屋のひとつであった。
老若男女に向けて良いものを確かな値段で届ける〈丙壬屋〉と、貴族を対象に品質・価格共に最高級の逸品を販売する〈朱錦〉は顧客層こそ違ったものの、切磋琢磨し合える良き商売敵として長らく良好な関係を築いていた。しかし、ある日を境にその関係に修復不可能な亀裂が入ることとなる。新当主──丙暖壬シスイの台頭である。
先代が没したことで当主が変わった朱御稜家とは異なり、丙暖壬家先代当主のゲンジはまだ存命ではあったが、跡取りであるシスイの力量と素質を見込み、先を見据えて早い段階での当主の座を明け渡す道を選んでいた。百之丞とほぼ同時期に代替わりしたこともあり、周囲の貴族たちは次第に両者を比較するようになっていった。先の流行を見抜き、限られた期間の中で仕入れた品を余すことなく売り捌く類い稀な〈商才〉を持つ百之丞に対し、シスイは先染めした糸を織って絵柄を出す〈織物職人〉としての才に溢れており、シスイが生み出すそれまでに無かった斬新な絵柄は口伝てに広がりを見せ、結果として貴賤や老若男女を問わず広く受け入れられることとなった。
先述の通り、百之丞の采配によって〈朱錦〉の家業はこれまでに無い大きな繁栄を見せてはいたものの、こと呉服屋の分野においては〈丙壬屋〉に大幅な遅れをとる形となっていた。利益だけを見れば〈丙壬屋〉を大きく突き放していたが、顧客層の違いもあり、実際に住人の大多数から支持を受けていたのは間違いなく丙壬屋の方であった。
それから十年の歳月が流れた頃、熟れきった果実が実を落とすように抑制の効かない沸き立つ野心が百之丞を唆した。
十年間、ただの一度も勝てなかったという覆しようの無い事実が、自身の存在自体を否定されていると捉えるようになったのがある種の運の尽きだったのかもしれない。金や名声といった得る喜びで満ちていた百之丞の魂はいつからかその色を変え、築き上げた権威が瓦解するかもしれないという失う悲しみに染まりきっていた。
百之丞のかつて才腕は権謀術数へと姿を変え、シスイを貶める罠を仕掛けた。呉服業界の発展について諮るための会を開き、自らの邸宅へシスイを招いた百之丞は、『家宝である宝剣を窃取しようとした』という事実無根の疑いをシスイへと掛けたのである。それだけに飽きたらず、四十六室の裁定が下される前日に議事堂に赴き、事前に用意していたシスイの指紋が付着した毒入りの小袋を殺害容疑の証拠として提出するという凶行に出た。会合の場に先代のゲンジらも同席していたことも不利に働き、一族ぐるみの計画的犯行だと看做され、丙暖壬家を始めとして、シスイが当主の座に就いてから丙暖壬家と懇意の仲となった貴族の当主達も皆等しく死罪となった。
ただ一人、疑いを掛けられた〈丙暖壬シスイ〉を除いて──。
百之丞はシスイに〈死〉という一瞬の苦しみ程度では逃れることのできない永い苦しみを与えたかったのだ。嘆願の名目を借りた気晴らしによってシスイは生かされ、〈黒縄〉の名を冠する牢獄へと投獄された。光の届かぬ絶望の底でシスイは運命を呪い、二度と幸せを奪われぬように幾度となく殺し続けた。
現在
「人は皆、同じ大地に立っている」
シスイが発した言葉は先の問いに対する答えではなかったが、東仙は口を挟むことなく独白の続きを待った。血に塗れた丙暖壬の手には一族が滅びる原因となった朱御稜家に伝わる〈宝剣〉が握られていたが、絢爛豪華な黄金色の装飾は見る影もなく、鋒から柄頭に至るまで刀の全てがどす黒い赤に染まっていた。
斬魄刀同様に見事なまでに赤く染まった武骨な指とその手に握られた刀から燻る鉄の香りが東仙の記憶を呼び起こす。今から六年ほど前に配信された瀞霊廷通信の新作着物特集の目玉として企画された老舗呉服屋当主の独占インタビューの枠組みに当初充てられていたのは他ならぬ丙暖壬シスイその人であった。職人気質で口下手なシスイが東仙の打診を断り、その役が百之丞へと回ったことで、暗礁に乗り上げたかに見えた肝煎りの企画は、多少色は変わったものの実現を果たしたのだ。
忌まわしき過去を斬り捨てるかのように腕を振るって刀に付いた血を払い、シスイが二の句を告げる。
「ならば貴族が犯した罪科への罰も皆平等に下されるべきだとは思わないか?」
貴族と罪。斬っても斬れぬ二つの言葉の羅列が、痛々しく膿んだ決して癒えることの無い東仙の過去を斬り開く。
五大貴族の一角に生を享け、東仙の親友であった歌匡の元夫でありながら、疑念燻る動機によって彼女を死に至らしめた邪悪の権化──綱彌代時灘。五大貴族の威光の前には東仙の瞳を照らした美しい光でさえも無力に等しく、真実はいとも容易く捻じ曲げられ、結果として高みから降り注ぐ薄汚れた光によって歌匡は闇の中で潰えることとなった。
自身が掲げた正義と酷似した〈もう一つの正義〉によって引き起こされた〈凶行〉という事実を知り、東仙の中にある覚悟が微かな揺らぎを見せる。
朱御稜家に纏わる黒い噂を東仙が耳にしたのは、藍染と関係を持って暫くが経った頃であった。丙暖壬家の没落が仕組まれたものだとは露知らず、無辜の人々を貶めた大罪人と酒を酌み交わしていた事実が東仙の胸を静かに焼いた。
東仙にとって真実を知っていたかどうかは其れほど重要ではなかった。〈悪〉を見過ごしたという後ろめたさが呵責の念となり、罪人を捕らえる鎖のように東仙の身体をきつく締め上げていた。
「……その言論に異を唱えはしない……。だが、『罰』は『罪』に対してのみ下されるべきだ。無関係の者にまで手に掛けた君の所業は『正義』などとは程遠い、愉悦に身を堕とした獣の『殺戮』に他ならない」
「獣か……
眼が視えぬ代わりに、騙るのは随分と巧いな」
微塵の敬意も無く、暗い嘲りの色に満ちた言葉が東仙に牙を立てる。不器用で人付き合いを不得手としながらも、芯の部分では義理と人情に厚く、客の笑顔こそが自身の財産だと語っていたかつての丙暖壬シスイはもう何処にも居ないのだと東仙は思った。
「人の道を外れ、畜生道に堕ち、獣に成り果てようとも、復讐を果たせるのならばそんなものは取るに足らぬ些事に過ぎない」
シスイが語る〈大義〉には揺るぎ無い〈覚悟〉があった。百之丞の毒牙に掛かった者たちに一切の瑕疵は無い。敢えて問題点を挙げるとするならば、それは百之丞と関わりを持ってしまったというただ一点のみであろう。
すっかり青ずんだ空を二つの雲が浮ぐ。何者にも縛られることなく、互いに寄り添って空を泳ぐその雲は、世界の在り方について語らいながら夜明けを待つ東仙と歌匡のようであった。
あの日とは大きく異なる血腥い空の下、歌匡の遺した姿無き声が東仙の脳内を駆ける。見渡す限りの暗闇の中に希望が光る夜空を世界に例え、その光を覆い隠す雲を取り払う人になりたいと呟く透き通った綺麗な声。雲を払い、平和を創りたいと願った彼女がもしこの場に居たならば、どのような言葉をシスイにかけただろうか。風切り音がしきりに叫ぶ中、東仙は記憶の中の歌匡に問いかけてみたが、二人の間に立ち込めた厚い雲に遮られて、答えが返ってくることはなかった。
「拵えろ 『綾蝶』」
歌匡との対話を試みる東仙を現実に呼び戻すかのようにシスイが斬魄刀の名を呼ぶ。権力を象徴するかのような黄金色の柄が特徴的な小太刀の刀身に青みがかった鱗粉が浮かび上がり、波打ち際を思わせる涼やかな刃文を色濃く塗り潰していく。
その者の〈魂の精髄〉が映し取られた斬魄刀を他者が解放することは不可能である。神官の職を担う伊勢家の家長に代々継承される宝剣──〈八鏡剣〉のように、特定の主を持たない特殊な斬魄刀も何振りかは存在していたが、それらも〈血筋〉を魂の代わりとすることで解放を可能としていた。
「(運命とは儘ならぬものだな……)」
東仙は全てを察し、自身の斬魄刀を握り締めた。解放された〈綾蝶〉から滴る血が刻む物悲しい音色に呼応するかのように、東仙の斬魄刀の鍔に付いた小さな輪が澄んだ音色を響かせる。
「鳴け 『清虫』」
始解と共に〈清虫〉から音波が迸り、周囲に立ち込めていた腥風を吹き飛ばす。常人であれば身動きを封じられるほどの霊圧を受けても尚、シスイの目から怨嗟の念が消えることはなかった。
解放した〈清虫〉を構えつつ、〈綾蝶〉が放つ霊圧に耳を澄ませる。歌匡が没した後、彼女の斬魄刀を受け継いで、両者の〈魂の精髄〉が混在した状態で上書きした自身とシスイは似たような境遇にあるのだと思った。僅かな掛け違いで道を違えただけで、百之丞とシスイの本質は共に同じ色をしており、本来であれば強く結ばれる筈だったのだと経験則がそれを語っていた。
牽制のために絶えず鳴き続ける〈清虫〉の音波を否定するかのようにシスイが刀を薙いで音を斬り裂く。その動きによって振るい落とされた鱗粉が音波を浴びて宙に舞い、刻一刻と黒ずんでいく赤い飛沫の中に新たな色彩を加えていく。鱗粉が付着した瓦礫や従者が持っていた刀が鱗粉の能力によって宙に浮かび上がり、東仙に向けて敵意を放つ。
「東仙要。貴様は私の行いを『悪』だと思うか?」
〈綾蝶〉の動きに合わせて繰り出される障害物を白打と鬼道であしらいつつ、悪の定義を問う声をその身で受け止める。
「私はそれを『悪』だとは思わない」
自身の行い、つまりは仇討ちを是とする旨の返答にシスイは思わず攻撃の手を止めた。予期せぬ言葉を受けて困惑と疑心が入り交じった表情を見せるシスイに対し、最後の瓦礫を打ち砕いた東仙が更に続ける。
「悪とは──……亡き者の無念も晴らさず安寧の内に生き永らえる事だ」
東仙にとって歌匡という存在は、自身の魂の精髄を形作る核そのものと言っても過言ではなく、その思いは彼女の死後更に強まり、魂を動かす〈原動力〉へと昇華していた。そうした背景を抱えているからこそ、他の者同様に軽率にシスイを拒絶するのではなく、受容した上でその行く末を見届けることこそが自身に課せられた使命なのだと東仙は思った。
「私もひとつ訊こう。丙暖壬シスイ、君にとっての『正義』とは何だ?」
同一の行動理念を持つことを識った上で投げ掛けた端的な問いが場を制す。自身の内面を形成する指針のひとつであり、〈断ずべき悪〉の対となる〈貫くべき正義〉の認識を問い質すことで、東仙はシスイの魂の色を見定めようとしていた。
返答如何によって己の去就が決する、謂わば生殺与奪の権を握られている状態にも関わらず、シスイの声には一切の躊躇いが無かった。
「裁きを逃れた悪を討ち斃す──
それこそが『正義』だ!」
その答えは東仙が求めたものではなかったが、束の間の休戦を挟んで再び向けられた刃が『議論の余地など無い』というシスイの主張を暗に告げていた。愛した者の想いを貫くことこそが正義だと信じる東仙の考えを真っ向から拒絶するかのようなその言葉は、東仙にとって〈悪〉以外の何物でもなかった。
機能を失った司法に対する義憤の念が再び熱を帯び、シスイの導火線に火を点ける。鱗粉を帯びた瓦礫の山が巨大な蝶のような姿へと変化し、土石流さながらに殺意の籠った礫を撃ち放つ。
「清虫七式 『蠱独奏』」
護廷十三隊の隊士であれど、怖れから半歩退がってしまうほどの巨大な瓦礫の怪物を前にしても東仙は一歩も身を退くことはなく、音波の渦に相手を閉じ込めて押し潰す技によってシスイが放った攻撃を難なく防いで見せた。〈清虫〉から解き放たれた幾重にも連なった音波によって怪物の身体を構成する無数の瓦礫が徐々に砕け散り、自然の摂理に晒された蝶のようにその翅を失っていく。
「どうやら私達は相容れ定めのようだ」
『清虫零式 霄壤剣』音さえも置き去りにする神速の一閃が瓦礫蝶ごとシスイを突き飛ばす。その技名が示すように二人の間には雲泥の力量差があったが、復讐の鬼と化したシスイの薄緑色の双眸に降伏の二文字が浮かぶことはなかった。