3年間を駆け抜けたマチカネタンホイザ。練習中の怪我をきっかけに、心の内へ生まれた得も言われぬ感情に翻弄される。新しい気持ちに気づいて、少しだけ成長していく、物語のその先にある『普通な』日常。

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第1話

 曇天が世界に蓋をしてしまったようだ。

 それに気が付いたのは、薄暗さが私との境界線を曖昧にしていく頃だったかもしれない。

 

 濃灰色で均した空が低く学園を覆う。いつもはこれでもかと言わんばかりに外の明かりを飲み込んでくる廊下の大窓たちも、今日はひどく意気消沈な様子。

 その代わりにはなり得ていない、等間隔に吊り下げられた昼白色の照明が、温もりのあるブラウン系でまとめられた廊下の隅々まで寒々しく照らしているのだった。

 

 嫌でも、感傷的になってしまう。目に入ってくる光景は、私の心を映しだす鏡なのだろうか。

 

「……はあ」

 

 大窓に反射した自分の顔から眼を背けるように、視線を下に落とした。

 言わずもがな、そこには私の脚がある。私の身体を支える脚。私を動かす、脚。三年間、トレーナーと駆け抜けた、脚。

 

 私が、私――マチカネタンホイザであると、そう言える、脚。

 

 でも…今は、自由の利かない、脚。

 

 練習中の転倒。最初は軽い怪我と見ていたが、血相を変えたトレーナーに精密検査に連れていかれた結果、しばらくの安静と継続治療を命じられた。そこからは走るのは勿論、負荷をかけてのトレーニングも禁止。三年という節目を迎え終え、再スタートと意気込んでいた私の心に、大きな穴を作っていったのだ。

 右膝のサポーターをさする。それは見た目以上の重さを伴って脚に、からっぽの心にのしかかる。

 

 ――悔しい。

 

 走れない現状のもどかしさ。今の状況に陥った自分の不甲斐なさ。ジャパンカップの時に抱いた気持ちをまた味わうことになるなんて、思いもしていなかった。

 

「……ほんと、なんで」

 

 誰に向けられた言葉だっただろう。ふわりと浮いて、溶けるように消える。

 ここには誰もいない。トレーナーも、ネイチャも、イクノも、ターボもいない。それが余計に悲しくて、苦しかった。

 視界が滲む。締め付けられた胸から感情が溢れだしそうになるのを隠しながら、私は一人になれる場所へと逃げるように歩みを進めるのだった。

 

 

 

 

 一人になれる場所。それは、今まさに出張中のトレーナーの仕事部屋であり、私たちの三年間が詰まっている――トレーナー室。

 倒れこむようにして入ってきた私は、電気の一つも点けず、そのままテーブルに突っ伏すようにしてぼろぼろと涙を流した。とても人に見せられない、嗚咽交じりの感情の吐露は、私の気持ちを軽くするには恐らく、十分な効果があったと。思える。

 今は泣き疲れからくる脱力感に身を任せ、パイプ椅子にもたれ掛かっていた。

 

 いつの間にか、外は夕刻めいた顔を隠していた。向かいの棟の明かりが、開けっ放しのカーテンから遠慮がちに部屋へと入り込む。

 

「……いろいろ、あったなぁ」

 

 いやにすっきりした頭で、薄暗い部屋を見回す。トレーナーの机。資料がぎっしり詰まっている本棚。小さなテレビ。目標を沢山書き込んだホワイトボード。

 

 トレーナー、いつも机の上散らかしてたな。トレーニング計画とか、レースの対策とか、いっつも私のためにいっぱい考えてくれていたっけ。レースが近づくと、机と資料棚を行ったり来たりだったな。

 小さいテレビだったけど、私とトレーナー、二人で食い入るようにレース映像見返したなぁ。いっぱい話して、いっぱい考えたよね。

 目標が決まると、トレーナーがホワイトボードにおっきく書いてくれてたな。トレーニング前とかにそれを見て、私も気合い入れてたっけか。

 

 どこを見ても、まるで昨日のことのように思い出せる。この三年間は、それほどに濃密で、私にとっては何事にも代えがたい、大切な思い出。

 

 そう。「思い出」なんだ。

 

 ウマ娘にとって大事な最初の三年間であり、一生に一度しかない三年間を、私は走り切った。

 でもトレーナーは違う。トレーナーには、また新しい娘との三年間がある。それが終わったら、また次の三年。そしてまた次と。そうやってトレーナーとして実績を重ねていくのだろう。

 

 その先に、きっと私はいない。私自身も、トレーナーの「思い出」になっていく。ゆっくり、ゆっくりと。枯れ葉が朽ちていくように。トレーナーの中から私が、少しずつ、消えていく。

 

「……そっか」

 

 ずきり。疼いたのは、右膝か、心か。はたまた。

 

 再び感情がぐにゃりと音を立て始めた。鼻の奥がつんと鳴る。視界の端が、揺らぐ。

 

 ――次の瞬間、引き戸の開く音に遅れて、部屋の吊り下げ照明が一斉に灯った。

 

「……あ~~つっかれたぁ、ってうおぁ!? た、タンホイザ……?」

 

 スーツ姿の男性は、部屋に入ってくるやいなや、私の姿を見て飛び上がった。

 目を丸くした彼と、振り向いた私の視線がぶつかる。

 

「……トレーナー」

 

 トレーナー。その投げかけた言葉には一つの誤りなどない。

 ひょんなことから知り合い、専属の契約を結び、ここまで私の背中を支え続けてくれた、私の大切なトレーナー。大切な、人。

 

 そんなトレーナーは私の姿に驚き、見知った姿と分かると安堵の表情を浮かべる。しかし次の瞬間には、私の顔を見て、顔をみるみる青くさせていった。

 転がしていたキャリーバッグを投げ捨て、転がり込むように私の近くまで駆け寄ってくる。

 

「タンホイザ!」

 

 叫びあげるようなトレーナーの声に、怒りのような感情はない。部屋に反響するほどの声に似つかわしくない、優しさ。焦り。

 

「い、痛むのか! 腫れは!? 熱は出ているか!?」

 

 さっきまで突っ伏していた机を強引に押しのけ、私の脚の前に跪く。そして右膝を、その大きな掌で。それはまるで、ガラス細工に触れるように。

 トレーナーは額に大玉の汗を滲ませていた。膝に巻かれたサポーターを外し、外見の状態を入念に確認すると、不安に苛まれる瞳で私の顔を見上げる。

 

 酷い勘違いをさせている。

 

 あまりにも突然の出来事に面を食らっていた私も、ようやくこの状況を飲み込めてきた。

 トレーナーの誤解を解くために、乾き始めた喉に力を込める。

 

「ち、違うんですトレーナー……! 痛みとかはなくて、その…」

 

 歯切れの悪い言葉を、選び、紡ぐ。

 痛みはないこと。泣いてしまっていたこと。そのせいで目が赤く腫れていたこと。その姿が膝の痛みに悶えているように誤解させてしまったこと。

 こういった状況説明は、少し恥ずかしい気持ちもある。でも、トレーナーに、これ以上無用な心配をかけたくないから。

 ぽつり、ぽつりと、私の口から言葉を手渡ししていくと、自然とトレーナーの強張った表情も解けていく。その間も、トレーナーの大きな手は、私の右膝をあたたかく包み込んでいた。

 

「…ごめんなさい」

「いや、タンホイザは何も謝ることはないよ」

 

 安堵の表情を浮かべたトレーナーは、そっと私の膝から手を離した。代わりに巻かれたサポーターの冷たさが、今しがたの温もりを名残惜しくさせる。

 慣れた手つきで正しく巻かれたサポーター。「キツすぎない?」という問いに、私は小さく頷いてみせる。

 

「俺のほうこそ、悪かった。いきなり大声出したりして」

 

 立ち上がったトレーナーは机を直しながら苦笑してみせた。

 

 ――心配、してくれた。

 

 自分の中で、卑しい感情が沸き上がるのを感じた。

 心配をかけてしまった後ろめたさと、まだ私を見てくれているという安心感。

 そんな二つのちぐはぐな感情が、私の頭を埋め尽くしていく。

 

「…そうだ。何か飲む? ここにあるものでよければ」

 

 穏やかに微笑んで、トレーナーは私に問いかけた。

 私は邪念で靄がかる思考を辛うじて繋ぎ止め、温かいココアを注文する。

 トレーナーはそれ以上何か問うわけでもなく、詮索するでもなく、了承の意の微笑みを返すと、私に背を向けた。

 

 再び、静寂が訪れる。

 

 それが、なんだか意外で、気が付いたら私は口を開いていた。

 

「……聞かないんですか」

 

 ――なんで泣いていたか。聞かないんですか。

 

 分かっていた。それはトレーナーの優しさだって。

 三年間、私を粘り強く見守って、支えてくれたトレーナーはそういう人だって。

 でも今は、その優しさに距離を感じる。

 

「タンホイザ」

 

 両手にマグカップを持ったトレーナーに促され、私は席を立つ。

 

 向かい合うようにしてローテーブルに置かれたマグカップ。対面に鎮座する二人掛けのアームソファへ、マグカップに倣うようにしてお互い腰掛ける。

 沈黙を破ったのは、トレーナーからだった。

 

「……なんで泣いていたか。かな」

 

 一口。トレーナーは湯気立つカップを傾け、一息入れる。

 

「たしかに、トレーナーとして、担当ウマ娘のメンタルサポートも重要な役割だろうな。まして、君は療養中でストレスや、フラストレーションが溜まっている不安定な状態だ。ヒアリングやトレセン直属の専門機関に手配して、君が抱えた問題を解消してあげることが、トレーナーとして、本来あるべき姿だろう」

「……じゃあ」

「マニュアル通り、ならな」

 

 トレーナーは、私を真っすぐ見つめていた。

 

「一緒に歩いていくって決めたから」

 

 心臓が、跳ねた。

 

「だから、自分の憶測だけで君の今抱いている苦しみや葛藤を決めつけたくないんだ。それは、君の口から聞かせてほしい」

「……」

「勿論、言いたくなければ言わなくていい。うまく言えなければそれでもいい」

 

 幾度となく見てきたトレーナーの目が、私を映した。

 

「私……わた、し……」

 

 ほろほろと、雁字搦めになった心が解れていくような、そんな気がした。

 体裁が整っていなくてもいい。自分が信じられなくなっても、私を信じてくれたトレーナーに、私の気持ちを、言葉を、手渡ししていく。

 

「怖い、んです……このまま、走れなくなったら……どうしよう、って……」

 

 前を向かなきゃ。トレーナーの目を見て言わなきゃ。

 そう思っていても、涙の重さで私の視界は浮き沈みを繰り返す。その間も、トレーナーは優しい表情のまま瞼で相槌を打っていてくれた。

 

 枷を外された感情は、大粒の涙とともに流れ落ちていく。

 

「私が……私が、走れなく、なったら…………っ! トレーナーは、いなくなっちゃうから……!」

 

 怖かった。走れなくなることが。それ以上に、トレーナーが私の前から、いなくなってしまうことが。

 

「わがままだって、分かっています……! でも、でも……ッ! わたし……トレーナーの、思い出には、なりたくない……っ! なりたくないよぉ……!」

 

 いつかは来てしまう現実なのに。受け入れたくなくて、子供みたいな我儘を言って。

 でも、特別な人だから。大切な人だから。

 そんな我儘も、押し通したく、なってしまう。

 

「……タンホイザ」

 

 いたたまれないといった表情のトレーナーは立ち上がり、私の左隣へと腰を下ろす。

 そして、背中に回された大きな手が、そっと、私に触れた。

 

 それはどんな言葉より、優しくて、あたたかくて、切なくて。

 

「……とれ……なぁ……! うぐっ……うぅぅあああああああああっ……!!」

 

 気が付けば、私はトレーナーの胸に顔をうずめていた。

 

 大声で泣いた。離したくなくて、トレーナーにしがみつくようにして。

 

 溢れ出る涙と一緒に、一本ずつ、絡まった想いを取り出す。

 

 そして、最後に底に残ったものを掬い上げてみた。

 

 それはきっと、私の知らない、気持ちだった。

 

 

 

 

 心地の良い喪失感に、寄りかかっている。

 小さな子供のように泣きじゃくった。他人の目なんて気にしない、独りよがりな感情のぶつけ方。

 

 それでもトレーナーは、何も言わずにそばに居てくれた。疲れ切った私の頭を肩に預けても。

 

「……落ち着いた?」

 

 力なく頷いて返して見せる。「そっか」とトレーナーが軽く微笑んだのは、見ずとも口調で察して取れた。

 今はただ、穏やかな時間だけが流れている。まるで、二人だけの世界にいるみたいに。

 

「……ごめんなさい、トレーナー。変なこと……言っちゃいましたね」

「いや、変なことだなんて、微塵も思っていないよ。……君の気持ちが知れてよかった。ありがとう」

「……ふふっ。どうしてトレーナーが、ありがとうって言うんですか」

 

 トレーナーは何も返してくれない。不思議と、沈黙そのものが自分の返答だと言われている気がして、私はそれ以上聞き返したりはしなかった。

 

 暫くの、静寂。心臓の鼓動すら、煩くなる。

 

 すっと息を吸った音が聞こえた。

 

「これだけは約束する。俺は君のことを絶対に見捨てない」

「……ッ!」

 

 まっすぐな、言葉だった。

 

「約束したじゃないか『一緒に歩いていく』って。君が立ち止まった時には、俺も一緒に立ち止まろう。そしてまた歩き出すときには、君の背中を押してあげるさ。走れなくなったから見捨てる? 大事な担当置いていなくなるトレーナーなんているもんか。……思い出になんかさせない。君の走りがもっとたくさんの人の、ウマ娘の力になって、勇気を与えるところを……俺は見ていたいんだ」

 

 ありがとう。ごめんなさい。…違う。知らない。こういうとき、トレーナーに返してあげられる言葉を、私は知らない。

 この気持ちの、伝え方が……わからない。

 

「――これで、答えになっているかな……。…………。……タンホイザ?」

「ぁ……」

 

 お互いの息が交わる距離で、視線がぶつかった。

 

「え……あ、うぅ」

 

 熱い。顔が、焼けるように熱い。口の中が乾く。心臓が痛いくらいに脈打つ。

 きっと、私の顔は夕焼けみたいに真っ赤になっている。目を丸くして私を見つめるトレーナーが、何よりの証拠だ。

 

「……ああ、えっと……。…………そうか……」

 

 ぽりぽりと、トレーナーはばつが悪そうに頭を掻いた。なんとなく頬が赤く見えたのは、多分私の見間違い、かな。

 わざとらしくそっぽを向いていたトレーナー。何か意を決したように、私に向き直る。

 

「タンホイザ。一つ、俺のお願いを聞いてくれないか」

「お願い、ですか。……もちろん、トレーナーのお願いなら」

 

 やっぱり、トレーナーの頬が赤い。私と、おんなじなんだ。

 どうしよう。心臓が、苦しい。

 千切れそうなくらい、切ない。

 

「ありがとう」

 

 そうして、何度目か分からない笑顔を見せる。

 

 トレーナーが笑うと、嬉しいはずなのに。

 なのになんで、こんなに胸が締め付けられるんだろう。

 

「……タンホイザ、君は今、自分の気持ちや感情に戸惑っているんじゃないか」

「……はい」

「もやもやするよな。どうしようもなく苦しいよな。自分の中にあるのに、手に取れないのは、不安だよな」

「…………はい」

「その気持ち、今はまだ、忘れずに持っていてほしいんだ」

 

 まるでレース直前の控室で見せるような真剣な眼差し。

 

「これから君はどんどん大人になっていく。多くの人と関わって、沢山のレースを走って、俺の知らない君を、君の知らない君を見つけていくだろう。その中で、今抱え込んだ想いがなんなのか、わかるときはきっとくる。そのとき、君の気持ちが、もし俺に向いているのだとしたら……その答えを教えてほしい」

「気持ちの……答え……」

「ああ。でも焦る必要はない。ゆっくり見つけていけばいい」

 

 不安だった。

 怪我で走れないこと。忘れられていくこと。

 私の中に、知らない感情が芽生えたこと。

 知らないから、不安になる。知ろうと藻掻くから、焦る。

 

「……待ってて、くれますか」

「待つも待たせるもない。併せるよ。君の隣にいる」

 

 でもその不安を紐解いていけば、あたたかいものだけが残った。

 陽だまりのような、あたたかい気持ちだけが。

 

 ぽかぽかして、ときどき胸をきゅうとさせる。

 これが何かは、今の私には分からない。けれど、不思議と怖くはない。

 きっとこれは、大切な、大切な大切なものだって、そう思えたから。

 

 だから、今は私の中にしまって持っていく。

 私の大切な人と一緒に、持っていく。

 

 

 …………。

 

 ……。

 

 ……ぐぅ。

 

 

 「あ」という声が重なった。

 

「……うへへ、なんか安心したらおなか空いちゃいました」

 

 ぐふっ。という音とともにトレーナーは失笑した。

 同時に、先ほどまでの神妙な面持ちはどこかへ飛んで行ってしまったようだ。時たま見せる悪戯っぽい表情をしたトレーナーは「よしっ」と言うやいなや、立ち上がる。

 

「なんか食べに行こうか」

「ぬぉあっ!? 聞き捨てならない提案! じゃあですねえ……今日は、ラーメン! ラーメンを所望しますっ!」

「OK。今日は特別にチャーハンと餃子もつけようじゃないか」

「ぃやったあー! あ、ココア飲んでから行かなきゃ」

 

 すっかり冷めてしまったココアを一気に飲み干す。

 その後、そそくさと準備をし、外へ出るころにはあれだけ重く広がっていた曇り空はどこへやら。大きな月が浮かび、ささやかに星々を散りばめた晴夜が、頭上に高く広がっていた。

 

「ささ、行きましょ、トレーナー!」

「そんな急がんでも、ラーメンは逃げないぞ」

 

 綺麗な月が、私たち二人を明るく照らす。

 伸びた影はいつもより少しだけ、近づいたようにも見えた。

 

 

 

 

 中京レース場。地下バ道。

 そこに私は立っていた。

 自分の脚で。サポーターの取れた脚で。

 もちろん、隣にはトレーナーもいる。

 

「復帰戦、だな」

 

 感慨深そうに、トレーナーは呟いた。

 視線は地下バ道の先。私も、トレーナーも、同じ景色を見ている。

 

「トレーナー、ありがとうございます。私をまたターフに戻してくれて」

「それを言うなら、俺からも礼をさせてほしい。今日ここに俺が立っているのは、君が頑張ったからに他ならない」

 

 今日まで、辛抱の連続だった。

 病院での治療と走りたい気持ちの毎日。それを乗り越えた先からは、落ち切った体力を取り戻すトレーニングの日々。しかしそれも無理はできなかった。一度戦線から離れた身体に、故障前と同等の負荷は禁物。私の限界一歩手前を突くトレーナーの慧眼と、私自身のセルフケアを掛け合わせて仕上げていく。その結果、想定よりも早くレースに戻ってくることができたのだ。

 トレーナーだって、言葉や表情には出さないけど、相当辛かったはずだ。最早休んでいるのかどうかすら怪しいレベルで付きっ切りにさせてしまった。

 

 申し訳ないという気持ちはもちろんある。でも今私がトレーナーに捧げるのは謝罪の言葉ではないはずだ。

 

「……勝ってきます。2000m先の一番を、必ずトレーナーに」

 

 それがトレーナーに対しての、そして、応援してくれるみんなに対する最大の感謝の伝え方であり、誰かに勇気を、誰かの背中を押せる、一番の方法なんだ。

 

「ああ、君ならできる。……いってらっしゃい」

「はい、いってきます」

 

 背中を押され、私はターフへと向け歩みだした。

 ここから先は、私の戦いだ。私だけの戦い。

 ……私だけ。ターフに立てば私は一人だ。

 一人……違う。今は――。

 

「…タンホイザ! マチカネタンホイザ!!」

 

 大きな声に呼び止められ、私は後ろを振り向いた。

 そこには、力強く右の拳を突き出したトレーナーが、まるで少年のような、キラキラとした眼差しを私に向けている。希望に満ちたその瞳は、まぎれもなく私を、しっかりと映していた。

 

「今日は! 『俺たち』が主人公だ!」

 

「っ!」

 

 トレーナーの歩みと、私の歩みは同じもの。同じ歩幅で、同じペースで進んでいく。一緒に歩んでいくと決めた日から、ずっとそうだった。

 疼いて震える拳を強く、強く握りしめ、同じように前へと突き出す。

 

 

「必ず!! なります!! っくぅう~~~~~~…………むんっ!!」

 

 

 一人じゃない。

 

 

 ――今は、二人で走るんだ。

 


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