水彩紙に向かって筆を走らせる時一つだけ心に决めている事がある。
自創る絵の内容以外を考えないようにする。それだけを守り、決して破らないと决めている。
何故かと言われれば際限がないからである。
こと芸術の方面に関して、何かについて考え続ける姿勢は創作物のクオリティ向上に繋がるとは思うのだが、それはアウトプットの上手い人に限るのだ。
人は自分のトラウマになるような記憶は深く刻まれやすく、なにか嬉しかったり楽しい記憶は忘れやすいのだそうだ。
そのトラウマを制御して自身の利に出来る性格の人を含めてアウトプットの上手い人と定義している。
なら、それの制御が出来ない者はどうすれば良いのか。飲まれてしまう者はどうすれば良いのか。
これが正しい答えなのか分からないが、考えないようにする事。それ以上の出来の良い答えは仁には浮かばなかった。
仁はある程度進んだ自身の絵を前にして筆は止まり、そんな自己正当化とも取れる考えを巡らせていた。
最初に完成形を脳内で細部まで作り上げ、後はそれに従ってただただ筆を持ち邁進するというやり方に疑問を持ったことはないのだが、如何せん不安感は存在していた。
何が間違いで何が正しいのか、その線引となるものが仁には無い。今までにその指標を得られ無かった。
絵を新たに描き始めるというのは本当に手探りという事になる。
仁の絵描き人としての考えはそういった不安感も含んだものであった。
「……今日はもう駄目かな」
仁は小さい独り言を漏らす。
一度考え始めてしまった以上思考を止めるのはまた難しい。
仕事疲れを抱えたまま作業に移ると余計な考えは浮かばないのだが、それも限度というものがある。
その時を以て頃合いとし作業を止めるのがルーティーンの一部となっていた。
鈍重なため息と共に筆を置くと、裏腹に腰は軽く易易と上がり、羽のように軽い足取りは括られている作業場を後にする。
体は酷く正直だと自嘲の思いであった。
机に置いたケイタイを拾い、開くと現在の時刻は16時37分。身の回りの事を済ませて少しの仮眠を取れば仕事の時間となる。
仁はもらった野菜の袋を持ち、2つ扉の簡素な冷蔵庫へ押し込めるとその足で風呂場へと向かう。
乱雑に服を脱ぎ籠へ放り、中のシャワーを手に取るとつまみを捻り冷えた水が変わるのをぼんやりと眺める。
水玉がタイルを叩きつける音を聞くと昔の嫌な記憶が想起する。
『お前は何のために生まれたんだ』
耳にタコが出来るほど聞かされたその言葉が脳裏を過ぎった時、シャワーヘッドで軽く額を小突いた。
そしてもう一度、二度と小突く。
「忘れろ。忘れろ。忘れろ」
呪詛の様に吐き出される言葉は繰り返され、何時しか湯気の立った水気に晒されると漸く治まりをみせる。
ヘッドの向きを変えて湯を顔で受ける。記憶ごと洗い流してくれる……という事はなく唯の錯覚でしか無い。
清涼感に絆されているだけだ。
仁はそのまま体を清めながら、治まらない過去の記憶の奔流が鮮明に瞼の裏に張り付いていた。
欠けたピースが嵌っていくように連鎖的に浮かび上がるその情景は酷く現実的であり、一つが過ぎ去っても次々に。片隅にあるものでさえ呼び起こされる。
そして一番古い物。冬場に浴びせられた肌を突き刺す程の氷水の痛みと、息も吸えない程に縮み上がった肺の苦しさを思い出した時、仁はシャワーを切った。
使い古して繊維が解けているタオルを取り出し髪から順に水気を切っていく。
覆水は盆に返らないように過去もまたどう足掻いた所で変わるべくもない。忘れて生きると言えば聞こえは良いがそれもまた自分を形作る一要因であるから、どうした所でトラウマとも言えるコレは離せるものでもないだろう。
もしもの話となるが、もしこの先絵描きとしての技術が上がりそれなりに食っていけるようになったとして、その今までを払拭し超える大きな喜びとなって心と記憶に刻み込まれるかどうか。
はっきりと分かる。それは否だ。
どれだけ幸せの渦中で身を任せようと、ふとした中で必ず思い出し同じく頭を叩き付けるだろう。
ならば、真に救われる日というのは何時訪れるのか。
上下のスウェットに身を包むと入る前とは打って変わって重い足取りに仁は最早は空笑いすら出なかった。
そしてふと、生ぬるい風が頬を過ぎった気がした。
窓を開けていただろうか?と思いながら自室に戻る仁は、背筋に冷たい水滴を入れられたかのように足が伸びて突然に止まる。
その視界には自身の書いた絵に向かって腕を組む、物腰の柔らかい灰白色のスーツに身を包んだ男が立っていた。
「……は?」
瞬間仁の頭を駆け巡ったのは泥棒の二文字。
浮き出た頬骨が特徴のその男は声に気づいたようで、仁の方へ顔を向けると口角を持ち上げた。
「
柔らかい静かな口調でそう言った。
「は……?」
もう一度そう繰り返した。
その男が口にした言葉はまるで両耳に別のイヤホンを付け、全く別のジャンルの音楽を流したかのように意味が合致しない。
しかし何故か仁にはその意味がしっかりと聞き取れた様に感じた。
まるで矛盾していてどうにも背筋に悪寒が奔る。
何か不味いという予感はありつつ、疑問に続く疑問からの少しばかりな恐怖心もあるのだが、それは足が強張り根が張るほどの大きくはない筈。
自分の考えとは裏腹な身体の挙動に対して、仁はこれは本能的なものだろうかと考えていた。
「いや、失敬。……まずは勝手に家に入った事を謝罪すべきかな」
淡々と答えたその声色は隙間風の如く卑しく仁の認識へと入り込む。
意識的に警戒した上での事なのに、その不気味なまでの違和感の無さが酷く恐ろしく感じていた。
震える舌に力を込める。
「謝罪も何も要らないです。今すぐ出て行くなら警察は呼びませんが」
「そう邪険にしないでくれ給え。たった今私は君の絵のファンになった第一号なのだから」
視線を仁の描いた作りかけの絵に移すと、男の腕は自然にそちらへ動く。
「触るな。それに、俺の絵を分かった気になるんじゃない」
思わずそう宣った仁は、自分がそんな言葉を吐くとはと驚きを心中で覚えていた。ただ理由は分かっていた。
この絵には、作品にはファンと呼ばれる盲目的な者は必要ない。そもそも原動力からして顔も見えない他者へ依存しているコレは作品と呼んでいいのかすら怪しいのだから。
描かなければ今までの人生全てが無意味になってしまう。だからこそ重苦しくも蛇足だが描き続けている。
そんな絵に怪しいこの男はファンと言った。不審者が逃げるための苦し紛れに言ったとも考えられるが、それにしてもその発言はあまりにも無遠慮に極まる。
詰まるところ仁は怒りを覚えたのだ。
男は静かに手を引いた。
「……過去は頼りなく、映る未来は全てがハリボテ。これはただ荒廃する今を生きる者の絵だ。ここで止まらせる、完結しているという意思をもすら感じる」
「だったら何だ? それが貴方に関係あるのか? したり顔で講釈を垂れるのも結構だが、自分の立場をもう少し鑑みたらどうだ」
一度付いた熱は仁の中から恐怖心や不安感といった感情を拭い去っていた。
「君の絵を買いたい。いくらでも出そう」
「これは売り物じゃない。金なんか要らない」
「なら……君に全てを与えよう」
「何を言ってるんだ?」
「文字通りそのままの意味だよ。君が絵を描くという事柄に対して考え得る全てのサポートを行う。そもそも作業の場がなければ提供するし、画材を買えないというのなら用意しよう。そういった煩わしさを取っ払って君が向き合うものを唯一つに絞らせて上げよう。そして絵という見返りを駄賃として私は貰い受ける。どうだい? 悪くない話だと思うが」
「…………」
仁はその言葉に押し黙った。
提案に心が揺れた訳ではなく思考を押しつぶす程の疑問感がそうさせたのだ。
この男は何故言葉もつっかえず、ひと目見ただけの絵とその作者に対してそんな提案を促せるのだろうかと。
「駄目かい?」
男はそう続ける。
「……そもそも何を俺は信頼出来ると言うんだ? そうだ、駄目だ。例えその提案が本物でも、貴方の立ち振舞から一挙手一投足に至るまで全てが不正確だし、唐突にそんな男が出した耳障りの良い甘言を信じられる程のお目出度い頭はしていない。帰ってくれ」
信用出来ないという一要素は十分にその提案を突っ返す程の意味を持つ。
仁は力の込めた足を玄関に運ばせ鍵を開けると、横に立ち出て行くように男へ促した。
「……理解した。なら今日はお暇しよう。……ここに私の名刺を置いておくから考えが変わったら何時でも連絡してきてくれ。私は何時でも待っている」
残念そうに眉を落とすと、懐から取り出した銀のケースの中から黒色の名刺を静かに机の隅に置き静かな足取りで仁の下へ近づいていく。
その一歩一歩の度に警戒する仁であったが、何事もなく横を通り過ぎ玄関の外へと出ると最後に会釈を向ける。
「失礼したね」という言葉と一つの笑みを残して男はその視界からゆっくりと消えていくのであった。
足音が遠く過ぎ去って、階段を降る音が聞こえた際に急いで扉を閉める。
力強く鍵をも締めると安心感からか大きなため息を吐く。そして同時に足が崩れる程の脱力感が襲ってきて玄関扉に項垂れた。
「全く……何だったんだよ本当……」
ここに来てどっと疲れが出たのか妙な冷や汗が掌と額に滲んでいて、緊張したせいか呼吸も少し早い。
入浴直後なのにまた入り直さなくてはいけない。これなら態々律儀に話す事はしないで、とっとと警察へ110を飛ばした方が良かった。
そんな反省の中もう一度薄い溜め息を吐いて呼吸を整えると、一つ生ぬるい微風が仁の肌を触った。
そう言えば窓、開けっ放しだったか。面倒だなと思いつつも重い腰を上げて自室に戻ると大きく開いたベランダ窓が目に飛び込む。
仁はふと疑問が浮かぶ。
風呂場と玄関は近い位置にある。いくら入浴中だからといって真正面から入ってきた者に気付かない訳はない。
まさかここから……。いやでも外には足場になるような物はなかったし、流石にそれはないか?。
ねっとりとへばり付く冷めやらぬ不安を仁はひしひしと自覚しながら、夕暮れに落ちる景色の下に窓を閉めたのだった。
☆★☆
幾時間経っただろうか。宙は暗闇に覆われ古い街灯が今にも命を落とさんと明滅を繰り返す。
その不安定に、定かと相対する下で灰色のスーツに身を包んだ男は背をもたれている。
表情は無貌と表すのが適切だろうか。そこには一滴の露程の感情すら無く、無感情、無表情と纏めてしまうのは些か疑問すら浮かぶ。
存在するのに存在しない。そんな二律背反とも言うべき不安定な風体であった。
街灯が落ちて作る不確かな者の細長い冥闇が波紋のように揺れる。
「
その影から怒気の含まれた声色で、まるで喉に溢れる血液をそのままに喋ったかのような粘りつく異音が放たれる。
男は目線だけそちらへ移した。
「或れの生む陰我は我々という存在に対して非常に有益なものとなる。器とするには些か贅沢すぎる代物だ」
淡々とそう述べると、影は一際大きく揺れを見せる。
「
「あぁ、分かっているとも。すまなかったよ。代りに君に合った一張羅を仕立てるから抑えてくれ」
宥める口ぶりを見せても尚、その表情に変化はなかった。
「
異音の主はそう言い残すと、街灯の一瞬の暗がりを挟んでその影と共に去っていった。
男はスーツの襟を正し視線を一つの家屋へと向ける。
「……全く、個人主義の俗悪め」
そう悪態を吐いた男の声色と表情には初めて感情らしい物が浮き出た様に思えた。
だがそれも瞬きの如くに霧散して元の能面とも見紛う顔付きへと返り、静かな足取りで歩みを始める。
先程の影に潜んだ何者かが暗闇に帰った様に、またこの男の行く先も一部の光もなく有るはずの道すら朧気にもならない。
「ほとほと人間とは常々都合の良い生き物だ。まるでお伽噺のような見え透いた罠であっても、運命、奇跡を笠に着た幻想が目の前に転がった時に無視はできない。何故なら、
誰に聴かせるでもない馬鹿にするような口調の独り言葉を最後に男はその場を立ち去る。
死に体であった街灯はそれを皮切りにして元の力強い光量に返り、また静寂であった家々も喧騒と生活音に塗れていく。
灰色スーツの男と暗がりの者の痕跡は、その営みの復活を以て希釈されるかの様に周囲へと霧散するのであった。