わたしは慌てて右手を上げる。
鏡のわたしが右足を上げた。
わたしは急いで左足を上げる。
鏡のわたしが後ろを向いた。
わたしがこれからどうすればいいか、道標はもはやない。
罪を犯した人間は、罰を受けるべきだと思う。他の誰が否定したとしても、少なくともわたしはそう思う。
『罰』とは分かりやすい案内板なのだ。人を殺したから何十年刑務所に入る、万引きをしたから刑事裁判を受ける。そういう『罰』をもってして、外れてしまった人は元の道に戻れる。周囲の人は罪を償ったのだからと許しを与える。『罰』とは許すための分かりやすい指標なのだ。無論、それがすべてではないけれども。
しかし、『罰』を最も必要としているのは犯罪者本人だとわたしは思う。だって『罰』は……道標だ。人を殺したとして、どう償えばいいかなど分かるはずがない。そも、失われた命が戻らない以上償いようがないのだ。……けれど、赦す。……赦すために我慢する。もしも与えられる『罰』の基準がなければ……、わたし達はきっと……永遠に赦せないだろう。
自分自身が前に進むためにも必要なのだ。『罪』に対する『罰』は。
「二人とも遅いな……」
「そう、だね。……もうそろそろ、……二十五時になる」
だけど。
けれど。
もしも『罪』に基準がないのならば下されるべき『罰』はどう決まるのだろうか。決めればいいのだろうか。
わたしが犯した罪は六法全書にすら載っていない大罪だ。外患誘致よりもさらに重い、魂に対する殺人。罪刑法定主義に則って審判が下されないというのならば、まさか無罪判決?
いいや、そんなことは赦されない。
許されるべきではない、と思う。
(……とっくの昔に、本当は)
話すべきだったこと。明かすべきだったこと。『瑞希』と……『奏』の、……こと。陪審員を務めるのは一人でもいいし三人でもいい。ただ、思う。それが『逃げ』だと知っていてもなお。
(誰かが、話してくれればよかったのに)
なんて、他責思考。二人の秘密を、関係性を、第三者が分かるはずもないのに。本当は、本当は、本当は──ずっと、このままがよかったなんて。
変わらないモノなんてない。諸行無常。時は流れ、季節は移ろい、人は育っていく。関係性も……ずっとなんてない。今は永遠だと信じられる関係性ですら。家族、恋人、一卵性双生児。……『絶対』なんて『絶対』に言えない。
それでも、過去が虹色だった。過去こそが幸福だった。家族は……幸せにはしてくれなかった。家族とは……分かり合えなかった。お母さんは若くして病に倒れ死に、お父さんはわたしが『殺した』。二人とも……『宵崎奏』を、……認めてはくれなかった。当たり前の、こと。でも。
仲良くしたかった。『家族』でありたかった。それはできなかった。不可能だった。だって、『宵崎奏』は、わたしは、本当は。
だから『ニーゴ』が唯一の居場所だった。家は『奏』を苦しめるだけだった。何もかもを得ようとして、何もかもを失った。二度目の失敗。二度目の……。
猿猴月を取る。あまりの美しさに魅了されたわたしは──不可能を掬い取りたかった。
そして。またしばらくの時間が経って。
黄金の粒子が二人分、『セカイ』に降り立つ。
「瑞希っ!」
「………………」
東雲絵名と朝比奈まふゆ。才能に悩む少女と母の呪縛に悩む少女。わたしとは違う二人。わたしとは違って今もまだ抗っている二人。わたしとは……違う、二人の。
仲間はずれが独り。『ニーゴ』でわたしだけ……足りない、覚悟。
「二人とも、来てくれたんだ」
瑞希が微笑んだ。淡い、まるで
それを美しいと思ってしまうのは罪だろうか。それすらも、罪なのだろうか。
(やっぱり、……『好き』だなぁ)
資格はなく。意味もない。違う感情。『愛情』。それなのに、もう一緒に居られないなんて。『恋人』じゃなきゃ、ダメですか? 『愛』していないと、ダメですか。
女の人を愛するということ。わたしにはその覚悟はなくて。あなたと添い遂げる覚悟なんてなくて。
その意味と、違い。……瑞希が『奏』に向けた感情と、わたしが瑞希に向けた感情。それが一致していないと、ダメですか。何度も自問して、何度も自答した。──あなたがわたしを愛するほどに、あなたはわたしから離れていく。その距離を埋めるための努力は……不義だ。
あなたが愛したわたしの姿は、わたしが愛したわたしの姿だったのだから。
「……どうしたの、瑞希。こんな急に」
そしてまふゆが問いかけた。『今から会えない?』と、そんなメッセージを送ってきた瑞希のことを心配しているのだろう。表情には出なくても、言葉がわずかに温かい……。
変わってきているのだ。母親との確執を経て少しずつ。
そんなまふゆを……わたしは深く尊敬する。たぶんそれはわたしが千年経ったってできないことだから。
「聞いてほしいことがあるんだ。みんなに。……今のボクのことを」
「瑞希、の…………?」
戸惑ったような絵名の声。……でも、きっと絵名は受け入れるのだろう。根本的に優しい絵名は……どんな『嘘』でも最後にはきっと。
それが哀しい。それが寂しい。
わたしのついた『嘘』は。……そんな簡単に赦されるほど軽いモノでは決してないから。
価値がほしかった。願えば叶う理由がほしかった。わたしのことを、わたしはただ……。
「絵名、まふゆ、奏」
顔を伏せる。
どんな表情をすればいいのか分からない。告発を受けて何を言えばいいのかシミュレーションできない。それでもできることは。それでもわかることは。それでもわたしは。
(……どうしたかな)
もしも。いつか。わたしは。
だから。もう。これで。
(あぁ)
終わりか。
終わり。
終わりだ。
逃げ続けてきた過去に追いつかれた。
でも、それでよかったのかもしれない。それが良かったのかもしれない。
だって、本当は、わたしは──────
(ごめんね、──────)
(奏)
お母さんはわたしは産まなかった。お父さんはわたしを育てなかった。わたしは本当は存在しなかった子供。存在を許されなかった子供。
殺したのはわたしだ。
宵崎奏を殺して、その存在を乗っ取った。
わたしが殺して、わたしが奪った。
それでも、居場所が欲しかった。だから、懸命に『ふり』をした。『宵崎奏』のふり。『カノジョ』のふり。
瑞希は…………、奏が、…………好きだったんだろう。『わたし』じゃなくて、『宵崎奏』のことが。……わたしが殺した……、奏のことを。
だから拒絶された。そんな当たり前のことを、
「あのね、……ボクさ」
放たれる言葉はわたしを追い込む弓矢。吐いてしまった嘘は贖いきれない剣。一度だけ交わってしまった二人の道は……三次元的平行線。
できなかったこと。するべきだったこと。わたしと、瑞希が……隠したかったこと。
彼女がレズビアンだったということと。
わたしが──彼女の知る『宵崎奏』ではないということ。
それを言われたら、わたしには何もなくなる。あの、遊園地で、曝け出してしまった『己』を……後悔はしていなくても。それでも。
絵名もまふゆも受け入れてくれたとしても。『今まで』通りでは……いられない。
『わたしは、本当は』
『なんで、なんでっ! そんなのってないよ‼』
『………………ごめん』
なのに。
なのに。
なのに。
「
「…………は?」
「ぇ…………」
今、瑞希はなんて言った?
「今のボクには……ここに数年くらいの記憶が……断片的にないんだ」
困ったように笑う瑞希を。
嘘みたいなことを言う瑞希を。
恐がるようにまっすぐ前を見つめる瑞希を。
わたしは。
ただ。
「だから、ね。…………ボク」
つまり。
だから。
それは。
「『ニーゴ』で過ごした
瑞希がわたしと付き合っていたことを忘れているという。
わたしにとってはあまりにも都合がいい展開だった。
鏡は九割の現実を映す虚構。
残りの一割はどこにいってしまうのでしょうか。
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