自室のベッドに横たわり、奏は腕で目を隠しながら天井の方を向く。あまりの予想外に唇の端が吊り上がることを抑えられなかった。
こんなことがあるのか、と思った。
こんなことがあってもいいのか、と嗤った。
「全部、……なかったことになった」
瑞希の言ったことを一から百まで信じるのならば、今の瑞希は記憶喪失らしい。数日数週間のような短い期間ではなく、断片的にここ数年の記憶を喪ってしまったらしい。……都合がいいことに。
『ニーゴ』として活動してきた記憶はある。けれど、どんな曲を作ってきたかとかみんなで何を話したかとかの細かいところは覚えていない。
個々人が抱えていた問題は漠然と記憶している。奏の父親絡みのこととか、まふゆの母親絡みのこととか、絵名の才能に関することとか。けれど、それらが今どんな経過を辿ってどういう展開になっているかは覚えていない。
一緒に行ったミステリーツアー。泣き叫んだ絵名を慰めたこと。カーネーションの花壇を見つけてくれたこと。全部、忘れているとのことだった。
なんて、
「はは」
想い出が消え去った。辛く、悲しく、痛く、なかったことにしたいと願った──────本当に大切な想い出が。
もう、覚えてないんだって。
瑞希は覚えてないんだって。
「あ、はは」
どこまで忘れているのだろうか。何を覚えているのだろうか。あれも、あれも、あの時のことも。全部、忘れてしまったのだろうか。
そんな資格はないのに、止められない。冷たい涙が。滝のように。頬を。
「ひ、ひひっ……っ」
拭う。拭う。拭う。
初めて『セカイ』で会った時のこと。別に一目惚れなんかじゃない。でも、可愛いなと思った。服も、化粧も、容姿も。単純に美しいと奏は思った。
ミステリーツアーに行った時のこと。出不精の奏が外に出ようと思ったのは瑞希の企画だったからだ。その時には惹かれていた? もう、『愛』してしまっていたのだろうか。手を引いてくれる瑞希のことがたぶん、奏は好きだった。
思い出の花壇を見つけてくれた時のこと。父親を『殺した』奏にとって家族とは過去だった。けれど、もしも許されるのならば紡いでいきたいと思った。そう、この時に自覚したんだ。強く、強く、強く。焦がれ求めて手に入らないと諦めた『嘘』。奏の『本当の想い』。──────
『大丈夫、奏?』
瑞希のどこが好きなのかと問われれば軽く百を答えることができる。それこそ顔、スタイルの良さ、可愛さ、努力家なところ、優しいところ、気を使ってくれるところ、動画作りが上手いところ、奏の無茶な要望を叶えてくれるところ、奏を外に連れ出してくれるところ……。いくらでも『好き』を上げられる。
けれど、奏がいつ瑞希のことを好きになったのかと問われれば……。それは、分からなかった。
「あ、はっ、はははっ! あははははははははははははっ‼ はっ、ははっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッ‼‼‼‼‼」
殴りつける。壁を、ベッドを、自分自身を。──分かっていた。分かっていた。分かっていた! 瑞希のことも、その眼も。奏を見る瑞希の眼は……敬愛よりもなお濃い……、情欲に濡れていたと。
それを知っていて、利用した。だって、ずっと傍に居たくて。居てくれるって。
分かっている。知っている。一番の罪人が誰なのかを。
『わたしも、瑞希のことが好きだよ』
嘘を吐いた。『好き』の種類が違うと、純粋無垢な子供のようなバレバレの嘘を。騙されてくれたのは本当だった? わざとだった? それすらも本当はどうでもよくて。押し付けた『愛』。言い捨てた『恋』。欠片すらも逃さないように、奏はそれを小瓶に詰めて、流した。
「なんで、言えないんだ」
都合が良いと、都合良く思ってしまった。今の瑞希がどれだけの苦悩を抱えているかなんてまるで考えず、ただ奏にとっての都合だけを。
優しい言葉をかけた。甘い言葉を吐いた。慰めて、『大丈夫だよ』なんて口にした。『瑞希は瑞希だよ』なんて、過去と同じことを。『それ』が瑞希を追い詰めた。それが遊園地の悲劇を生んだ。それを分かっていてなお。
やり直せるかもしれないと思った。まだ続けられるかもしれないと思った。自己本位な、クズの思考。他人の痛みをまるで考えない人間のクズの思考回路。
今が永遠であればよかった。ただそれだけを願った。
時間は戻らないからこそ、人生はやり直しがきかないからこそ。
努力に価値が生まれる。歩んできた道に自負を持てる。転んでも……立ち上がれる。
それなのに、……それなのに。
「言えばよかった──言えばよかった‼」
『宵崎奏は暁山瑞希と付き合っていた』と。『二人は恋人同士だった』と。まふゆもいたけれど、絵名もいたけれど! それでも誠意をもって言うべきだった! 『奏』が恋した『カノジョ』がいないんだとしても、もう会えないんだとしても! だからこそ誠実であるべきだった!
『嘘』を吐いたことを謝るべきだった。『真実』を告白するべきだった。遊園地の悲劇を……言うべきだった。
本当は、分かっていた。全部奏が悪いんだって。
奏が背負った『宿命』が、すべてを台無しにしたんだって。瑞希を……レズビアンに
「わたしがっ、ほんとうはっ」
憎しみが全身を巡る。この身のすべてが大嫌いだった。あぁ、どうしてだ? どうして、瑞希は『宵崎奏』を好きになった? 愛してしまった? それさえなければ、正しい形での両想いでさえなければ、奏と瑞希はもっと、ずっと、ふたりは、きっと。
両片思いであれば我慢できた。告白さえなければ我慢できた。瑞希を瑞希たらしめた瑞希らしさ。膨らんだ胸も、華奢な肉体も、伸ばした髪も、施された化粧も! すべてが!
自分を美しく魅せるための──────
それに惹かれて、轢かれた。……奏が何よりも欲しかったモノだから、それを誇れる瑞希のことが羨ましくて、妬ましくて、憬れて。思い続けて、ずっと想い続けて。
それが、いつの間にか『恋』になった。本当は抱いていけない感情だったのに『愛』してしまった。
彼女のことを抱きたいと。彼女と共に歩み続けたいと。彼女を……自分のモノにしたい……、と。
「──────だって、言えば」
変わらないかもしれなかった。『嘘』を告白しても……、何も変わらないかもしれなかった。まふゆも、絵名も、瑞希だって。『嘘つきっ‼』と言われたけれど、それは予想外に動揺していただけ。冷静になって、話し合って、膝を突き合わせれば……分かり合えるなんて分かっている。
瑞希はそんなに弱くない。希望的観測? いいや……。
そう、奏が勝手に恐れているだけ……。ありもしない枯れ尾花。奏の事情も、瑞希の事情も……。様々な困難を乗り越えてきた『ニーゴ』にとってはきっと、……ハマグリの吐いた息のような幻想で。
「わたしの──────いままでは」
『それ』が呆気なく受け入れられてしまうのであれば、奏の今まではいったい何なんだろうか。母親は死んだ。奏が殺した。父親は死んだ。奏が殺した。祖父も、祖母も、奏が殺したようなモノだ。何よりも『宵崎奏』のことを、『本物』の『宵崎奏』を……奏は殺してしまって。
『本当にごめんなさい、宵崎さん。…………私はもう、ここには来られません』
『ぁ、……うん。──────今まで、ありがとう。…………望月さん』
誰も彼もが奏の傍から離れていく。それが『正しい』。いつだって悪いのは奏で、奏だけだ。嘘をついてしまいました。どうしようもない……嘘を。彼女は正しい、間違っていない。だからこそ悲しかった。あるがままを受け入れられない自分と世界が、奏には哀しかった。
それが罪だというのならば、どうすればよかったのか。どうしようもなかったというのならば、どうすればよかったのか。最初から決まっていた訣別。最後まで決まっていた離散。そのための踏み台だとすれのならば、……とてもではないが割り切れない。
「そんな簡単に、…………納得できるモノなんかじゃない……!」
当たり前のように受け入れて欲しくて。──────だって、いつまでも一緒に居たい。
当たり前のように受け入れられることは怖くて。──────だって、過去の苦悩は否定されたくない。
進むも戻るも地獄なら、その場にとどまっていたかった。最愛の彼女の傍にいれるだけで、奏は満足だった。
愛してない。愛していない。愛してなんかいない。奏は、瑞希を、全然好きなんかじゃない。
でも、だけど、瑞希は。可愛くて、美しくて、強くて。
それで、そして、加えて。
「──────
『恋』に特別な切っ掛けは必要だろうか。『愛』に絶対的な理由が必要だろうか。
ただ、傍にいるだけで救われた。事情を話すこともなく、ずっと隣で支えてくれたから好きになった。積み重ねた日々こそが奏が瑞希を愛してしまった理由だとするならば。
そんなの、不誠実だ。
代わりなんていくらでもいる。
瑞希でなければいけない理由なんてない。まふゆでも、絵名でも、よかった。わざわざレズビアンである瑞希を選ぶ必要性はない。ただ傍にいれくれたから愛したというのであれば、誰でもよかったではないか。
なんて。……もっと普通の恋をできるはずだと。もっと当然の愛を抱けるはずだと。
だから、涙が止まらない。間違った恋をしてしまった。共に傷つけあうだけの関係性になってしまった。それが哀しくてたまらない。ハリネズミのように。
「でも、もう会えないんだ」
記憶を喪った瑞希。その理由はもう分かっている。忘れたかったのだろう。なかったことにしたかったのだろう。……会いたくも、ないのだろう。
奏が、『あの』暁山瑞希に会うことは二度とない。
もう、あり得ない。
だから涙が止まらない。愛した『人』は……もう死んでしまったのだから。もう戻ってこないのだから。
「会え、ないんだ」
もう別人。もう違う人。もう……、初めまして。
ああ、だからこそこれは罰。逃げて、逃げ続けて、追い詰められた奏への……罰。
人でなしが人を愛してしまったことに対する、当たり前の審判だった。
これにて問題提起は終了です。
今回の大命題は二つ。
暁山瑞希は何をしたのか?
宵崎奏は何をしてしまったのか?
償えないこと、贖えないこと。
あなたは気付けますか?
天人五衰:天人の死の間際に現れる五つの兆候のこと。
腋下汗出:天人五衰の肆。腋の下から汗が流れ出る。
Q.究極の問い:すべての根源に至るための問い。『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』。存在論を構成する二つの『なぜ?』の一つ。
Twitter:@LAST_LOST_LIGHT