あー面倒くさい。銃を向けてくる男を見て、エレンは思った。
相手は帯刀していた。トイレの中ではそんな様子はなかったから、隠してあったのだろう。
トイレの換気扇がぼーっと音を立てている。
状況はまずいが、このまま膠着状態が続くなら都合がいい。
「撃たないでよ」
「死ぬか、寝ててもらうかのどっちかだ。前者が嫌なら武器を捨てて、膝をつけ」
カリンはうつむき加減で少しも口を利かない。耳が真っ赤なことだけがわかる。
エレンが膝をつく。その時、陶器の破片が刺さらないように慎重に姿勢を低くした。タイツが破れたまま召使いはできない。
カリンもバットを脇に置いて同じくやった。
その時、男の視線が移った。後方の壁を見やるようにしている。そしてすぐに、尻尾を巻いて逃げ出した。
「チッ、またシリオンかよ」敵はそう言って、方向転換した。
きた────!
ここぞとばかりにエレンが飛び出した。破片を踏んづけて、奴の背中を追う。
「エレン! 下がって!」ライカンの声。いつもの敬語がないことから、その緊急性が伺えた。
男の逃げる方向の奥に、別なる敵が見えていた。またも銃を構えている。
足を止める。相手がトリガーを引くか注視したが、果たしてそうなることはなかった。
二人の敵が奥に消えていく。
「追いましょうか?」
後ろからリナの声がする。
「いえ、相手は銃を持っています。今追うことは合理的ではありません。
──そして、エレン、カリン? 何があったか、安全な場で聞かせていただきます」
場所を移して事の顛末を伝える。SPの女の要求は接触するなというものだが、この件では接触は致し方ないものと言えた。
「なるほど。相手が銃を持っていて、かつ危害を加えてきたとなると、いよいよ治安局の案件です」
ライカンは携帯を取り出し、最初に治安局、次に女に連絡した。
女は治安局に連絡したことを聞いて口調を少し乱したが、すぐに『まあ、いいか』と気を取り直した。
『そいつらはどこに行った』
「VIPルームの奥に行きました」
『わかった。報酬は送金しておく』
「いえ、お気になさらず。今回の件は治安に関するものですので」
「お前は一旦メームの部屋に向かえ。私がここを見る」
赤く紅の塗られた唇が柊に耳打ちして、柊はそれに従った。
「ヘプタ、今からメームの部屋に向かう」
『そうか、機会がありそうなら無線をノックしておくれ』
廊下を抜けていく。VIPの扉を開けて、中を見渡した。
さっきまでがら空きだった空間に人が散開して、それぞれで談笑している。
バーの方を覗いてみたが、ヘプタの姿はなかった。代わりにスタッフがカウンターの床を拭いているのが見えた。何かを溢したらしい。
そんなことはどうでもいい。メームの部屋に向かう。
絨毯の沈み込むような床を踏みながら進んでいく。
目標の部屋の前に来た。SPの男たちは居ない。
柊は訝しんだ。部屋の前に一人くらい配置してもいいだろうに。
中に入る。宮殿の一室のように相変わらず豪華な部屋だ。
最初に目についたのは、二人の男の体が横たわっている様だった。
絶命している、そう気づく少し前に、ノックするような感覚が体を巡った。
扉をノックしたのか──と、後ろを振り向こうとするが、体は言うことを利かない。それどころか、部屋が横倒しになって、絨毯が近づいてくる。
自分の体が倒れていることに気づくことはできなかった。動かないといけないことは本能的にわかったが、相変わらず体は無反応だ。
絨毯に飛び込むようにして転がったところで、意識が途切れた。
「起きろ」
声がして、目が覚めた。銃を向けた男が前に立っている。その男は腰に刀を携えていた。
周囲を見渡す。見渡すというよりかは、周辺視野で察知するに近いものだが。場所は変わっていない。メームのルームのソファに腰掛けていた。
拘束はされていないが、動いたら殺される。
頭が痛い。柊が思った。いくらの値打ちかもわからないバニラ色のソファに、赤黒く装飾がある。これが血で、加えて自分から出ているものであることに気づくのに、3秒かかった。
自分の白い髪に泥々とした血がこびりついている。
「メームはどこだ」
柊が聞きたいことだった。隊長がここに来るように指示したからには、メームが居るはずだった。
「知ら……ない」頭が痛くて、呂律が回らない。そのせいで、相手に嘘をついたのではないかと無駄な誤解を生ませた。
「……やれ」
目の前の男が視界から退いた。代わりに奥から、大柄な男が浮き上がってくる。
太ももに傷を負っている。ここでやっと、さっき柊が打ち倒した暴漢であることがわかった。
彼は右足を庇うように歩み寄ってき、ポケットからいかめしい物体を取り出した。
バチチチチ──。
と、音を発している。
変な音を出す機械だなと、柊が思った。だが、聴き覚えのある音でもある。
その機械が自分の首筋にあてがわれるところで、それが何かやっと理解した。スタンガンだ。
「っ──!」
痛い。痛いことは間違いなかった。
バチバチときりきりまいするような痛々しい音が首元で鳴っている。
体が動かない。頭が痛いせいで声も出せない。体の芯から振動するように痛んでいく。
「あっああ」やっと、喉から声が出た。
スタンガンが一度離されて、左の帯刀した男がもう一度問いただす。
「メームはどこにいる」
「……知らない」
知らないとしか言いようがない。嘘をついて居場所を伝えたら『用済みだ』なんて言われてほぼ確実に殺される。
「やれ」
スタンガンの不快な駆動音が鳴る。
やめてくれ。切実に、柊は思った。