「もう遅い」
柊はレバーを下げて、会場内部を暗闇にした。
「クッ!」
銃を構えた警備2人も、この中で無闇に発砲はできない。ゆっくりと距離を取る靴の音と、腰につけた懐中電灯をまさぐる音だけが響く。
カチッ──。
その音ともに、前方が照らされる。
だがそこに、司の姿はない。
「どこにッ、ッハアッ‼︎」
柊は蛇のように警備の首に絡みつき、重心を下げて頭を叩き落す。
警備の腰についたナイフを抜き出すと、もう1人の足の甲へ突き刺した。
後は殴り飛ばして昏睡させた。
制御室を抜けて、元来た道を引き返していく。懐中電灯を奪い取ってもよかったが、光を出せば発覚するまでの時間を短くするだけだったのでしていない。
目は暗闇に慣れた。柊がH.A.N.D.時代に身につけた特技だ。
警備の屈強な男たちがぞろぞろと会場に向かっていく。暗闇の中で、柊はその背中を追った。
時間はない。何しろ制御室とは別の非常用電源が、あと1分も経たずに点灯する。
(この後やるべきことは──)
『予定が変わった。屋上に来てくれ』
ヒューゴの声がした。その声は、急な作戦変更を告げていた。
「急に変えられても困る」
『そうしたいところだが、何しろ時間がないのだ』
柊がブレーカーを落とす少し前、会場では裕福な者たちが『ブラックダイヤモンド』を狙って競い合っていた。
高値を叫んでは「どうだ、してやったぞ」と自慢気な顔をするが、値段はさらに釣り上がり際限がない。
そんな会場に1人の女性が居た。くるくると巻いた長い紫髪に、赤い眼。派手な服装ではあるものの、それを覆い隠して余りある気品。
美人でいて誰とも交流せずただ1人会場を眺め、優雅に赤ワインを嗜んでいる。が、任務中なのでこれはトマトジュースだ。
「10億でどうかね」
誰かがそう叫び、ブラックダイヤモンドの価値も10億の大台に乗った。
驚嘆の声や悔しがる声が響き、沈黙が訪れる。
叫だ男はしめた、とでも言うかのような顔をするが、その顔もすぐに打ち破られた。
「1000兆、でお願いしますわ」
紫の女子、その名をビビアン。彼女はその言葉一つで会場を支配した。
「せ、1000兆だと! 冗談を言うのは大概にしろ!」
誰ともなく、聴衆の中の金持ち男爵が怒りの声を上げる。
ビビアンはワイングラスを置き、立てかけた傘を持つと足を3歩踏み出して皆の前に出た。スカートが揺れた。真上の天窓に三日月が覗く。
「もちろん、冗談を言ったわけでも、ここが冗談を言う場であると勘違いしているわけでもありませんわ」
彼女は言った。聴衆は呆けたように口を開いたまま彼女を見つめている。
「確かに、ここは冗談を言うような場所ではない。けれど、嘘をつくことを誰も咎めはしない。だって、誰もそのことに気づかないもの。嘘と冗談は違うことなんて、知っておいででして?
──私は確かに1000兆ディニーを払うつもりはない。これは
彼女は傘の先端を上に持ってくると、それを開いてみせた。
「なにを言ッ────!」
バン‼︎ と音がして、照明が消えた。男たちの低いうめきと、女たちの高い悲鳴が響く。
だが、それ以上に彼らを驚かせたのは、その次のことだ。
電気が消えても、天窓がある。そこから漏れる月の光のおかげで、彼らには辺りが辛うじて見えた。
その天窓が、今度は粉砕されたのだ。
ガラスの破片が散り、今は月からしか差し込まない光が無数に反射する。
続いてその天窓から男が入ってきた。
その場の人々は悲鳴をするのも忘れ、その男に魅入る。すらっと背の高い、金髪の男。白く美しい顔の奥で光るオッドアイの目は、人々の記憶に深く刻まれる。
「ご機嫌いかがかな? 皆の衆」彼は言った。
彼は空中を歩いていた。どんな奇術なのか、どんな欺瞞がそこにあるのかは彼らには見抜けようもなかった。彼は螺旋階段を降りるように空中を踏み締めて一歩一歩降りてきている。
この時になって、警備員がぞろぞろと会場内に突入する。警備員の一人が皆に横へ掃けるように指示し、そうして会場の中央に広い空白ができる。
そこで男も、見えない階段を降り立った。
ビビアンが傘で受け止めたガラスの破片を振りはらき、傘を閉じる。
「銃など向けたところで意味などありはしないのだがね。月明かりだけでは、私の
ここで非常電源が付き、照明が再び点灯する。
「これでショーもよく映えるというものだ。だが、生憎時間が足りていないものでね。少し切り上げてやって見せよう。貴公たちにはその引き金を引いてもらおうかな?」
だが、警備員たちはそれに応えず、ただ硬直して彼を睨みつけるばかりだ。それももちろんことで、周りに人がいる中で安易に引き金は引けない。
「……あまり遊んではいられないようですわ」
ビビアンが言った。ヒューゴが彼女を振り向いて目線の先を追うと、そこは二階ギャラリーで、非常灯を背に受けた黒服の男がいる。
「なるほど。およそ俺たちを狙う怪人といったところかな」
ヒューゴはマントをひらりと舞わせ、警備員たちの視界を覆った。
「何をしている! 止まれ‼︎」彼らは銃口をマントの方向に定める。
「一体どこを眺めているのかな?」
そのヒューゴの声は天井の方から聞こえた。驚かされたままに上を見ると、そこには誰もいない。あの不思議な男について、彼らは一生分の怪奇を記憶に焼き入れたのである。
柊は走っていた。ここは会場の一つ上の階で、この廊下の先の階段を2つ登れば屋上につながる。
非常灯はまだ点灯していないが、柊の体内時計によればそれはあと3秒で点く。
廊下には誰もいない。無事に辿り着けそうだ。柊はそう思っていた。
3──2──1…………。
柊の感覚が時を告げ、電気が点く。
そこで彼女は立ち止まる。
「な……」
廊下の奥に男が立っていた。全身に黒を纏ったスーツ姿の男で、こちらに向かって歩いてきている。距離にして30メートル。足が悪く、杖をついている。
(我があの輩の存在を見落とした?)
暗かったとはいえ、柊の目はフクロウのように聡い。そこに彼が居れば気づいたはずである。
敵というには早計が過ぎるが、ただし柊の勘は危険信号を強く送っている。
「……柊司、だな?」
彼はそう言って杖の中間部分を押さえた。そのまま持ち手を引っ張って、中から刃が覗く。
(鞘になっているのか)
「斬らせてもらう」
彼はその場で姿勢を下げ、刀身を後ろに構える。
(この距離間であのような姿勢を──!)
ダッ、と音がした。それだけだった。
それだけで、刃が柊の身体に到達していた。
Vivian’s Supremacy・了──