ゼンレスゾーンゼロ 零落者のゆく先   作:柿本人麻呂

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前回:新しい術法の修行をしている最中に、エーテリアスの力の残滓で倒れ込んでしまった


不吉の兆

 深い湖の中に居た。柊は水を掻いてもがいたが、雲であるかのように何も感じられない。いや、感じるのは途方もない空白だった。

 ぱっと、少し離れた正面に黒い気配を纏った、無形の「何か」が姿を現す。

 炎のように揺らめくその気配は、やがて向こう側を真黒に染め、柊の水中世界と「何か」の暗闇だけが残る。

 柊は胸の奥底が針を落とされたように痛んだ。

「何か」が動いた。その瞬間に胸の痛みは張り裂けんばかりに広がり、首が捻れるように締め上げられる。

 

「ぐっ」

 

 体がいうことを聞かない。この感覚は儀玄に精神世界に連れていってもらって以来だ。あそこで現れた化け物は、柊の動きを完全に封じた。

 次の瞬間、目と鼻の先に「何か」が現れた。柊は脚を上げようと試みるが、代わりに意識の消えいるような痛みが神経からの応えだった。柊の太ももに数本の、大きな黒い針が貫通していた。

「何か」が腕らしきものを伸ばした。

 柊は無力の内にそれを眺めるしかなかった。

 その腕の先から、黒い気配が湖を侵食するように滲み出している。

 腕はふと、やにわに振り下げられた。

 

 斬られた気がした。それだけだった。

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 痛い、と思ったかもしれないが、憶えていない。

 

 目を開けると、見えるのは朝露に黒く湿りきった石畳だった。

 そうか……儀玄に助けを請おうと思ったまま、我はここに倒れたんだったな。

 柊は倒れる寸前に聞いた不気味な声と、今見た気味悪い夢を回想した。身体の節々が痛むので、起き上がる気にはなれず、なんとか仰向けになっただけだった。雲のない青空が目に飛び込む。今しがた夢で見た湖中の光景と似ていた。

 彼女がまだ救出されていないのは、今が早朝であることを意味していた。皆は眠っている。

 じっとしていると、猫が可愛らしく鳴き声を上げて寄ってきた。

 

「早起きなことだ」

 

 猫は柊の頬を舐めた。くすぐったいという感覚すら、疲労の果てには利かなかった。やがて眼球を舐めようとしてきたので、さすがにまぶたは閉じた。

 猫は柊の胸の上にドッカと座り込んだ。太った猫だったので、思った以上に圧迫感があった。

 我の体で暖を取るか。

 柊はふふっと笑おうとしたが、無理だった。

 猫は彼女の胸に耳を当てて寝ようとしたが、その内に突然「シャーッ!」と鳴き出して居なくなった。

 急激に、柊を強い眠気が襲った。儀玄に助けを求めようとしていたことなどすっかり忘れて、なんとか立ち上がって自分の部屋に入ると、床にぶっ倒れて、ベッドを尻目に眠り込んだ。

 

 

 目が覚める。床の硬質な肌触りに体は凝り固まっている。

 だが幸い、疲労は無くなっていた。胸の中の痛みも無い。

 今は何時だ──午前十一時か。

 柊はのっそりと立ち上がり、風呂に入ることに決めた。一晩中、石畳の上に突っ伏していたので、柊の真っ白な髪も汚れが目立つ。

 風呂を上がったら、儀玄へ自分の中に残ったエーテリアスの危険を伝えることにしよう。

 湯を沸かし、体を洗って風呂に入る。

 

「ふう」

 

 という声が室内にこだました。体が安らいでいく。じっと天井を見つめていると、外で儀玄とフーフーが話をしているのが聞こえる。他愛のない話だったが、やがてその声音が低くなる。

 それというのも、パンがどしどしと、その巨体に見合わないほどの急ぎ足で走ってくるのが聞こえて、一大事を話し始めたからだ。

 

「師匠〜!」

 

 低くゆったりしたいつもの話ぶりだが、今回のそれには彼が持つ深い懸念が含まれている。

 

「どうしたパン」

 

 それに儀玄も気がついて、わざわざ一歩前に出てパンを迎えた。その場に立ち止まっているフーフーも少し肩を落として二人を見ている。

 

「ラマニアンホロウにH.A.N.D.の執行官が出張調査に行ったのは聞いたか?」

 

 執行官と聞いて、柊は肩を上げた。

 

「ああ。なんでも新技術をどうたらとか聞いたな」

「そいつらが……エーテリアスに襲撃されているって連絡してから連絡が途切れたんだ」

「なに……執行官が下手を打ったか」

「いや、長く居座ることも考えて安全確認はバッチリだったって聞いたぞ……」

「そうか。それでH.A.N.D.の到着には時間がかかるから、『雲嶽山』が見てこいとな」

 

 儀玄は「全く……」とでも言いたげに腰に手を置いたが、ホロウの恐ろしさを誰よりもよく知っている彼女の琥珀色の瞳には、ひとつの決意が宿っている。

 

「──わかった。フーフー、パン、今空いてるな?」

 

 二人は各々なりに決意を固めて──フーフーはぐんと背伸びをし、パンは柔軟体操をして──答えた。

 

「はい!」

「お安い御用で!」

 

 フーフーが「あ」と声を出した。

 

「お弟子ちゃんは連れて行かないんですか? 元執行官だったんですよね?」

 

 儀玄は首をゆっくりと左右に振って、

 

「確かに司は戦力になるが、状況が状況だからな。あやつは今エーテリアスやホロウに繊細になっている。

 ……それに」

 

 儀玄は声を更に低くして、

 

「ホロウのプロたちが失念したんだぞ。そこに人為的な『何か』が加えられた可能性もある。対人を想定すると、今のうちは大人数だとバレる可能性が大きくなるからな」

 

 その時、儀玄の声を聞きながら、柊はそれに相反する決断をしていた。

 儀玄たちは急ぎ足でラマニアンホロウに向かってしまった。

 呼び止めて自分も共に──とはしなかった。止められるに決まっているからだ。

 確かに儀玄の心配は正しい。現に昨晩、今までになくエーテリアスの力の残滓を身近に体験したのだから。

 だが柊にはやるべきことがある。

 柊家の名に於いて、義父への恩義として、世を守る。

 ──我は我のすべきことを成す。

 風呂に溜まった湯を見て、さっきの夢を想う。

 

「エーテリアス……」

 

 柊は風呂を上がって、綺麗な雲嶽山の道服を着ると、端が焼け焦げた黒いローブを肩に掛けた。

 苗刀を手に取って、切っ先を視線で撫でる。

 

「不吉の兆がする……」

 

 柊の胸の中で、警鐘が強く鳴っている。

 

「我が身は委ねたぞ。無銘の剣よ」

 

 最後に包帯を巻き直した右手を握り、適当観を後にした。

 

 

 

 

   不吉の兆・了──




次回から舞台はラマニアンホロウ内に移ります
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