「これは⋯⋯」
柊は思わず呟いた。
怯え顔の船頭に礼を言い、ホロウの強大な力に堕ちたラマニアンの地を踏んだ。もともとここは工業やマンションで溢れた都市だったので、ホロウ内は静かながらも壮観だった。
「やっぱりおかしいですよ」
船頭も言った。
「『やっぱり』⋯⋯とな?」
「えっ⋯⋯」船頭は肩を飛び上がらせて言った。「あ、ああ⋯⋯今朝もある集団をここに運びましてね⋯⋯そのときからここはおかしかったです⋯⋯」
「ホロウレイダーも足のはやいことだな」
柊は呆れ顔で言った。男は「あなたもホロウレイダーでしょうに」と言いがかったがやめた。
船頭と別れ、一人で足を進める。工業施設が立ち並んだこの場所は、異常なほどの邪気以外に変わったことはない。
「H.A.N.D.は何を悠長にしている⋯⋯この感覚は管制レベル2だ」
そう独り言を言いながらも、ホロウのベールを見上げた。上空へせり上がった黒い壁面が、じっとその場でエネルギーを脈動させている。
「ホロウの拡大はなし⋯⋯妙だが、幸いと取るべきか⋯⋯?」
柊はフードを深く被って、胸に手を当てる。
「落ち着いているな」
心臓の鼓動音が静かに聞こえてきた。妙な感覚など得られず、痛みも、あの邪悪な『声』もない。
このままであってくれ、と柊は思った。
シャッターが閉ざされた大きめの建物を見つけた。目を引くのは、そのシャッターの真ん中部分がひしゃげて大穴が空いているところだ。
有象無象のエーテリアスではここまでの傷をつけることはできぬはずだが。
柊は静かに駆け寄って、苗刀の柄を握りながら穴をくぐった。眼前に広がったのは、整然と工業機械が並んだ構内の様子だが、その整った様子にヒビを入れるように中央の床を走っていたのが、エーテル物質の痕跡だ。シャッターの大穴を開けた主と、この痕跡を残した輩が一致していることは明らかだった。
「新しいな」
柊はそう呟いた。
──空から生ぬるい液体が降ってきた。
彼女は工場の高々とした天蓋を覗いた。
「この場所もすでに侵されていたか」
びっしりと、天蓋を薔薇のつぼみのようなエーテル誘導体が覆っていた。
そのつぼみの数々がむずむずと蠢き、天井が揺れているかと見紛うほどだった。その中から突然、エーテリアスの顔面が覗いた。
ラマニアンホロウに特徴は自然を基調とした外見だが、それでいて、かくも生命を冒してみせるか。
雨あられのように降ってくるエーテリアス全てを、床へ到達する前に切った。
剣に付着した液体をふるい落とすと、声が聞こえてきた。鼓膜を低く打ち鳴らす、鈍重な声だ。
柊はすかさず自身の胸に意識を集中するが、違う。
「助け⋯⋯て⋯⋯」
今しがた切り落としたエーテリアスの一体が発した声だった。
柊ははっとして、そのそばへしゃがみ込む。
人間が媒体のエーテリアスか。ここまで身体を侵されて、なぜまだ意識を──?
その時、後方の壁が倒壊した。
「ひっ」意識を持ったままのエーテリアスが震え声を発した。
柊は後ろを向いた。化物の大群が、それぞれ牙を見せつけて立っている。
「この量⋯⋯我の見立てに狂いはなかった。確実に管制レベル2に達している」
立ち上がり、前へと足を踏む──その途中で、硬質なカラダが柊の足首を掴んだ。
「⋯⋯おいて⋯⋯行かないでくれぇ⋯⋯」
エーテリアスの言葉に、柊の胸がどきんと打ち震えた。
「大丈夫だ、お主は助かる」
その言葉をかけることが、柊にできる最大限の慈しみだった。彼の孤独で悲痛な死に、一筋の希望を残して──。
柊はエーテリアスの大群へ駆け出した。背後に残した死にゆく彼に、言葉を残した。
「許せ⋯⋯」
彼女は群れの中を駆け回り、切れるものはすべて切った。漆黒のローブが激しくはためき、その中でも返り血は浴びなかった。
すべてが終わった。緑の血が死骸から漏れ出て、地面を染め上げた。
「まだ我に凝雲の術は使えぬか」
剣の先でうつ伏せの死骸をひっくり返し、観察する。
「これは⋯⋯皆人間か⋯⋯!」
彼女は確信する。そして、なぜ管制レベル2相当のホロウ災害の中でホロウ拡大が観測されないかも理解した。
何者かがエーテリアスをつくり出し、解放している。
「ぐっ」
突然、裂けるような胸の痛みを催した。物陰に隠れ、倒れ込む。あの声が、ブツブツブツブツと問いかけてくる。
柊は全てを諦めたくなるような倦怠感に襲われる。いっそのこと、この力の残滓に見を任せてみたいとさえ思った。そして、そう思ってしまった自分を嫌悪する。
「む⋯⋯無茶を⋯⋯したか⋯⋯」
◇◇◇◇
コアをずたずたに破壊されたエーテリアスたちは死滅した。
「随分と足腰のしっかりした荒くれ者だったな」
術法を指でかき消しながら、儀玄はフーフーたちの走っていった方を見やった。
「やられたか」
「フーフー、パン! そっちはどうだ!」
儀玄は
ラマニアンの荒廃した様は美しく、それが風に乗って後ろに流れる。
その中にいて、儀玄は脈打つような低い音を聞いた。
「やられたか」
その時には既に遅かった。眼の前にホロウの裂け目ができている。
青溟鳥が黒い帳のような羽をバタバタと空高く引き上げるが、儀玄は慣性力のまま突っ込んだ。
取り残された青溟鳥も、彼女の後を追う。
「私が……裂け目の存在に気づけなかったか」
どうやらそうでもないらしいな、と儀玄は前を向いた。
「出てこい。日向」
「日向じゃない。安日と呼んで」
儀玄はラマニアンホロウ内で最も高い建物の屋上に居た。下界を見渡すと真っ白なホロウ内の様子がある。
安日の刀には炎が宿っていた。瞳にその炎を映し、彼女の決意を暗示していた。
「儀玄、あなたを殺す」
管制レベル2・了──