「儀玄、あなたを殺す」
そう言った彼女の刀には業火がめらめらと燃え盛っている。床が空高くまで首を伸ばしたこの場所で、その炎は強風に吹かれて火の粉を散らしていた。
儀玄は表情に変化をもたらさなかった。が、彼女の心の内はそればかりではない。
安日が床面を蹴った。炎も遅れてそれに続いた。
その稲妻のようなスピードに、儀玄は安日の多大な成長を感じる。そして、その感情には悲しみも混ざっている。
空気のちぎれる音とともに、儀玄は炎の熱を首筋に感じる。
「なぜ、避けない⋯⋯」
儀玄の顔を真っ直ぐ捉える安日の瞳には、少なからず怒気が含まれている。
儀玄は肩をすくめた。
「まだ私が、あなたを斬れないとでも⋯⋯!」
「そうだ。今のお前さんの剣には殺意がこもっとらん。悪に手を染めるには、お前さんは優しすぎる」
「何を言うかと思えば⋯⋯! 看過できない挑発だ! 私はあれからというもの、主様のご命令に従い標的を皆殺しにしてきた。私のことをなにも理解していないお前に──」
「挑発だと? やれやれ⋯⋯」
儀玄はその言葉に、安日の炎よりさらに大きな感情──それは、単に「怒り」と呼ぶには複雑すぎた──を込めた。
「目を醒ませ!」
彼女の怒号を聞くのは、安日には
◇◇◇◇
ボロボロの軍服を汚れと血で染めた姿が、儀玄が初めて見た
衛非地区の街並みに明らかに浮いた格好の彼女を、儀玄は箱につめられたおみくじの棒を何度も何度も引き出しながら眺めていた。
大吉、大吉、大吉、大吉。
このくじには大吉しか入っていない。
日向は横顔を儀玄へ向けながら、よろよろと人混みを縫うように進んでいた。儀玄は目が離せない。あの姿は幼少期の姉と重なる。浮浪者として一日一日をやっとで生きていた頃だ。日向の銀髪と琥珀のような瞳が、さらに姉の姿を助長した。
彼女は十代後半の女性のような初々しさで、薄汚れた中に清廉さを含ませていた。
周りの人も、彼女を避けるように動きつつ、その顔を見て目を丸くした。なぜこんな可愛らしい子が──と。
日向はやがて、適当観の前で足を止めた。門を見上げ、目を輝かせる。
儀玄は耐えかねて、パイプ椅子を立った。日向の肩に手をおいた。
「困りごとか」
日向は全身を板のように固くして、ゆっくりと彼女を振り返る。
「あっ⋯⋯あの、ここは『適当観』⋯⋯ですか⋯⋯?」
「そうだ」
日向はもじもじと軍服の袖口をいじり、儀玄を上目遣いで見た。
「あの、弟子にしてください!」
一瞬、儀玄も今しがたの日向のように固まった。
のびきった白い髪が地面に接触するほど、彼女は深くお辞儀をしていた。地面をじっと眺め、儀玄の返事がすぐ返ってこないので、喉がからからになるような思いで目をつぶった。
「単刀直入だな。名前を聞いてもないんだぞ」
「あっ」
日向は顔を紅潮させて、焦燥の中に必死に自分の名前を考えた。
「えっと⋯⋯日向です⋯⋯」
儀玄は微笑んで言う。
「顔を上げろ。雲嶽の門戸を叩くからには、俗世の礼儀作法などは麓においていけ」
一瞬、儀玄の言い回しに戸惑うも、すぐに理解した日向は、喜びで跳び上がるように顔を上げた。
姉の姿を重ね、気づけば儀玄自ら術を教えるようになっていた。
日向の動きは最初から洗練され尽くしたものだった。
「はっ! せいっ!」
彼女が白髮を舞わせて剣を振る姿を見て、その動きが防衛軍のものだとすぐにわかった。
軍服を着てやってきたのだから当たり前のことでもあったが、ならば一体何が彼女をここまで没落させたのか、儀玄には見当もつかない。軍人が、衛非地区をぼろぼろの風体で徘徊していた──この事実は一見しただけでも、違和感どころのものではない。
防衛軍に問い合わせて日向のことを言ったが、そのような名前は無いと返ってきただけだった。
日向自身はそれについてダンマリを決め込んでいる。これを聞くと日向は顔を(儀玄にはみえないように)すこしうつむかせ、物思いにふける。
彼女が物思いにふけるときはいつも、目が潤む。儀玄にもお見通しだった。
日向は剣を握ったり、術法を使ったりすると口調が変わった。
ある日、儀玄が修行中の日向を労るためパンのチャーハン料理を持っていったとき、
「うあああああああ!」
と言う叫び声が聞こえた。それが日向のものだと気づいてすぐに駆けつけると、そこで剣を握る日向の背中が見えた。
なにも異常はなかった。日向を襲う敵がいるわけでもない。ただ彼女は遥か彼方の雲を切るように剣を無我夢中で振り回し、叫び続けている。
表情は見えなかったが、地面の乾いた砂利の上に、涙がぽつと落ちたのが見えた。
剣は防衛軍の「それ」ではなくなっていた。ただ本能的に相手を切りつけるだけの、技術の「ぎ」の字もない狂気の剣さばきだった。
彼女はさらにうわ言を叫び続けた。
「どうしてぇっ! 私は
⋯⋯だから⋯⋯そうだ⋯⋯私が、私の方から、あの者たちを、殺してしま──!」
日向は自意識を失っているかのように半狂乱で剣を振った。
声が聞こえて、ふと意識を戻す。
「やめろ⋯⋯やめろ⋯⋯やめろ!」
「⋯⋯師匠⋯⋯」
日向は儀玄が叫ぶのを始めて聞いた。それだけに、日向は涙が溢れ出し、止まらなくなった。
儀玄は彼女を座らせ、彼女が泣き止むのを静かに待った。
「何かを思い出したんだな。話せとは言わん。ただ、誰かの肩を借りるくらいはしたほうが楽だとおもうぞ」
日向は顔をうつむかせ、しばらく呼吸を整えた。
「師匠⋯⋯ごめんなさい」
彼女は話し始めた。
「本当は私、日向っていう名前じゃないの⋯⋯ただ誰にも、本当の名前を言えないだけなの⋯⋯言おうとすると、体が強く震えて、立ってられなくなる⋯⋯私の過去のことだって、言おうとするとそうなる」
「そうか。私はお前さんの過去に対して口出しはできん。
が、言っておくことがあるとすれば──今の自分を創るのが過去だが、未来の自分を創るのは、今の自分──だということだ」
日向は少し間をおいて、聞いた。
「師匠は⋯⋯復讐をするのって、どう思う?」
儀玄は彼女の背中をじっと見つめて、
「難しい質問だな。復讐というものをしたことがないからわからんが、お前には似合わんということだ。お前さんは優しすぎる」
優しい⋯⋯日向はその言葉を何度も頭の中で反芻する。
私が…⋯優しい? でも、私は⋯⋯。
彼女は文字通り血反吐を吐くほど修行をした。彼女の目には決意があった。
「飯だぞ〜」
「はいはーい今行くよ〜──ほら、お弟子ちゃん、行きますよ」
「修行は身になっているようだな」
そのときはいつも、適当観の友が脳裏に浮かんでいる。
日向が凝雲の術を習得したのが、修行を始めてから半年以上先のことだった。
「フゥ──!」
木の葉が渦巻いて、眼の前には黒く大きな球ができる。
そのときばかりは儀玄も「おっ」と呟いた。
日向の背中が、あの時よりも大きく見えた。
「やっと⋯⋯やっとだ⋯⋯!」
「よくやったな」
儀玄のことばを背に、全てが固まった時だった。
「大切なものを守るためには、あなたはなんだってできますか」
彼は沈みきった太陽の残像でも眺めているかのように、海の奥にあるホロウを眺めていた。
「大切なもの⋯⋯私はなんでもしようとして、何一つ
彼女は肩がぶるっと震えるのを感じた。
「そうですか。ですが──」
「でも、これからは違うつもり──あ、話を遮っちゃった、ごめん」
「いえ、わかりました。あなたと私は、ひどく似ているようですね」
彼の決意は固まっているようだった。なにを「決意」したか、日向にはわからないが、彼の目に、日向もまた同じものを見た。
ある夜、手に巻物を持って、日向は儀玄に言葉を残した。
「私は雲嶽を出る」
去りゆく安日の背にぶつけた、言葉。
「待て! 日向、お前さんが迷っているのは、最近の様子を見ればわかる。だが──一人でかかえこむことは⋯⋯なかろう」
儀玄には、ここで彼女を説得できなければ、彼女が道を踏み外してしまうことはわかっていた。彼女が儀玄に過去を話すことはなかったが、儀玄は誰よりも彼女を理解している。彼女は優しすぎる。そして、脆すぎる。
「不可能だ⋯⋯私にはやることがある」
儀玄はここで、彼女が過去に突き動かされていることを確信した。誰かを
それを理解した上で、儀玄は叫んだ。
「目を醒ませ!」
その次、最後にみた日向の姿は、累々と重ねられた人間の骸の上にあった。刀が血にまみれている。
◇◇◇◇
「お前さんを止められなかった。あの夜、お前さんを力でねじ伏せ、抑えることもできなかった。お前さんを傷つけたくないあまりに⋯⋯これは私の『罪』だ」
首筋に立てられた日向の刀が震えている。彼女はまだ、儀玄の言葉を飲み込めていないようだった。
「いや⋯⋯私は、あなたを殺す。殺せる!」
「やれるものならな」
儀玄の手に墨が走る。
「ここからは容赦はせん。目を醒ますには、強い灸が必要だ」
「それでいい……教えておく、私の名前は安日」
「初めましての挨拶か?」
つづく