チョコレートに溶ける心 作:kame
電車に乗り換え、郊外の学園から街中へ向かう。日曜日の午前中だからか、人通りはそこまで多くない。駅前のビル群の合間に、広い歩道が続いている。少し曇った空が、いつ雨が降り出してもおかしくない色をしていた。
「ここだって。」
清夏ちゃんが指さした先には、ベージュ色の建物が立っている。中に入ると受付カウンターがあり、いくつかの教室の案内ポスターが貼られていた。初心者向けヨガや陶芸、語学教室まで、さまざまな催し物がある。
その中に「親子で作ろう! 手作りチョコレート体験」「基礎から学べる製菓教室」といったポスターが並んでおり、私たちは事前に申し込んであるクラスへと向かう。
「受付、すごく混んでる……」
「ね……」
どうやら同じ時間帯に複数の講座が重なっているようだ。列に並び、受付の係員に予約名を伝えると、「では奥の部屋へどうぞ」と案内された。そこは調理実習用の大きなキッチンがあり、作業台がいくつか並んでいる。参加者の多くは、私たちより少し大人っぽい人もいれば、小学生の親子連れもいるようだった。
(子ども向けの体験教室なのかな……いや、でも高校生以上を対象とするクラスも混在しているのかも……)
少し戸惑いつつも、清夏ちゃんと並んで空いている作業台を確保する。そろそろ時間になるのか、エプロン姿の先生が前に立って一声かけた。
「皆さん、本日はようこそ。今日のテーマは『チョコレートで作る簡単スイーツ』です。初めての方でも楽しめるように、カンタンな手順から始めていきましょう!」
ほがらかな先生の挨拶に、参加者は一斉に拍手や笑顔で応じる。ここはアットホームな雰囲気らしく、難しい講義をするような場所ではないようだ。少しホッとする気持ちが湧くと同時に、私は複雑な想いにもとらわれる。
(清夏ちゃんにとっては“今さら”の内容かもしれない。テンパリングもちゃんと学べるのかな……)
そのとき、横に立っている清夏ちゃんの顔をちらりと見た。彼女は落ち着いた表情で、でも楽しげな雰囲気をまとっている。私と目が合うと、にこっと笑いかけてくれた。
「ね、ワクワクするね」
そう言ってくれる声音は優しくて、私は無理にでも笑みを返した。ほんの一瞬、私の胸にチクリとした痛みが走る。
(どうして私はこんなに身構えているんだろう。清夏ちゃんは一緒に楽しもうって言っているだけなのに……)
けれど、後ろめたさや劣等感は簡単には消えてくれない。私は震えそうになる手をぎゅっと握りしめ、先生の説明に耳を傾け始めた。
簡単なチョコ細工
今回のメニューは、チョコソースを使ったミニタルトと、型抜きチョコのデコレーションらしい。チョコレートを刻んで湯せんし、バターや砂糖を加え、少しずつ練っていく。さらに生地を薄く敷いたタルト生地に流し込み、オーブンで焼いて軽く仕上げる──そんな手順だ。
「まずはカカオ分の異なるチョコを味わってみましょう。手元にある小皿にカカオ60%、70%、80%のチョコが用意されているので、一口ずつ食べ比べてください」
先生の指示で、私たちはチョコレートのかけらを口に含んでみる。参加者たちからは「苦い!」「でも深みがあるね」など、あちこちで感想が飛び交う。私は慣れない人混みに少しだけ緊張しながらも、確かに味わいの違いを感じていた。
「リーリヤ、これ美味しいね」
「うん、香りがすごく濃厚……」
清夏ちゃんと会話するなかで、私の頭にはどうしても「ノートに書かれていた専門知識」がよぎる。カカオ分の違いだけでなく、カカオバターの質やらテンパリングの話、結晶構造……。彼女は私よりずっと詳しいはず。実際にこうやって「初心者向け」の教室で「チョコを味わってみましょう」と言われるのは、退屈なのかもしれない。
先生が次のステップを説明し始めた。
「では、チョコを刻んで湯せんにかけます。こまめにヘラで混ぜながら、温度計でおよそ40~45℃あたりを目安にしてください。完全に溶けきったら火を止めて、少し温度を下げますね……」
私は自分の作業台で包丁を握り、チョコをカットしてボウルに入れていく。清夏ちゃんも同じように刻んでいるようだけれど、その手際は私が思う以上にスムーズだ。音もほとんど立てずに、シャッシャッと刻まれていくチョコレートの断面。それを見た瞬間、私の胸がぎゅっと締めつけられた。
(うまい……。いつもはもっと大雑把だった気がするのに、もしかして私に合わせてくれてたのかな……?)
こういう場面では、彼女は自然に“慣れ”が出てしまうのかもしれない。ひょっとしたら本当にプロ並みではないにしろ、やはり私とは経験が違うのだろう。
──そう考えると、私はまたしても自意識が暴走しそうになる。こんなところで卑屈になってどうするの、と分かってはいるのに、私の心には常にあのノートの一節がちらついていた。
「リーリヤ、ボウル貸して」
「あ、うん……」
清夏ちゃんの声には焦りも驚きもなく、ごく自然な落ち着きがある。私はおずおずとボウルを渡すと、彼女は刻んだチョコをするすると移し、湯せん用のお湯にそっと入れた。
「焦がさないように……って言っても、そこまで高温じゃないから大丈夫だね」
「そ、そうだね……」
私はギクシャクと返事をしながら、ヘラを手にして混ぜ始める。でも、一緒に参加しているほかの親子連れが「わあ、やっぱりすぐ溶けるね」「甘い匂いだ~」と楽しげにやりとりしている声を耳にするたび、まるで自分だけが違う重圧を感じているように思えてきた。
(本当なら、こんなふうに素直に「わあ、溶けてる!」なんて喜んでいいのかもしれないのに……。どうして私は、こんなに息苦しいんだろう)
手元の温度計がじわじわと上がっていくのを見つめながら、私は心のどこかで自身を責める。手先は震えていないのに、胸の奥がいつまでも落ち着かない。
思わぬスイッチ
その後、タルト生地を軽く伸ばし、溶かしたチョコを混ぜ込んだクリームを流し込んで焼く工程へと進んだ。オーブンを使うあいだは空き時間ができるため、先生は「せっかくなので、型抜きチョコも作ってみましょう」と促してくれる。
「こちらにハロウィンの型や、ハート型、星型などいろいろあります。好きな形を選んでチョコを流し込んでください。温度管理は大変なので、きっちりしなくて大丈夫。固まったらお好みでデコペンなんかを使って描いてみてくださいね」
さらに、先生はこう続けた。
「本格的にやろうと思うとテンパリングなども必要ですが、今日は初歩編なので省略します。とりあえずは楽しんで作ることが大事ですから」
そこに、清夏ちゃんが思わず反応してしまった。いつも控えめにしている彼女が、「テンパリング……」と、小声でつぶやいたのだ。私はドキッとして、その横顔を見る。
「清夏ちゃん、どうしたの……?」
「……ううん、なんでもない。ごめんね」
すぐに彼女は目を伏せたが、その瞳にはわずかな戸惑いが映っていたように見えた。たぶん「本格的な工程」をあっさり省略してしまうのを、自分でもどう受けとめればいいのか分からなかったのかもしれない。
私は何かを言いかけて、声が出なかった。ここで「本当は詳しいんだよね?」と持ちかけるのは、あまりにも唐突だし、彼女が隠してきたことを踏みにじるような気がした。けれど、その素振りは私にも伝染してしまい、何となくぎこちない空気が作業台に漂う。
「……じゃあ、好きな型を選ぼうか」
言葉少なにそうつぶやいて、私は小さな星型と丸型のシリコンを手に取った。清夏ちゃんはハート型と細長いバータイプの型を選んでいる。さっき湯せんにかけて少し余っていたチョコを流してみるけれど、粘度が中途半端で流し込みづらい。
「もっとサラサラしてたら綺麗に入るんだけど……」
私が思わずそうこぼすと、隣で作業中の親子連れが「ですね~」と相槌を打ってくれた。だが、清夏ちゃんはどこか考え込むように黙っている。その姿をちらっと見やりながら、私は自分の胸をさらにえぐられる気がした。――きっと今の清夏ちゃんは「本当はちゃんと温度を落としてから流し込むといいのにな」と思っているんじゃないか、と。
(でも、それを彼女は言わない。私に合わせてくれてる……? それとも、ここでは何も言わない方がいいと判断してる……?)
そんな疑念がぐるぐる回るうちに、作業は進み、型に流し込んだチョコを冷蔵スペースへと運ぶ。私たちのタルトも焼きあがってきたようで、オーブンがチンと鳴る。先生が「各テーブル、オーブンを開けますよ~」と声をかけ、ミニタルトを取り出してくれた。表面がさくっと焼きあがり、ほんのり甘い香りが広がる。
「おお、いい匂い……」
「ほんとだ、すごく美味しそう!」
周囲は喜びに沸いている。でも、私は素直に笑えない自分がもどかしい。ここにいるみんなが“楽しむこと”を目的としているのに、私の頭にはテンパリングやら結晶構造やら、そういった専門めいた言葉がこびりついていて、素直に「わあ、美味しそう!」とだけ言えなくなってしまった。それは自業自得だ。――あの日、清夏ちゃんの日記を盗み見なければ、私はもっと幸せに感じられたはずなのに。
「リーリヤ、ちょっと熱いよ。気をつけて」
「あ、うん。ありがとう……」
彼女の気遣いにも、申し訳ない思いばかりが募る。触れてはいけない話題を抱えたまま、私たちの“お菓子作り”の時間は、心とは裏腹に和やかなまま過ぎていった。