チョコレートに溶ける心 作:kame
寮へ戻ったのは昼下がりだった。曇り空はさらに暗くなり、今にも雨が降り出しそうだ。清夏ちゃんは「ちょっと自主練をしてくるね」と言い、荷物を置くと部屋を出て行ってしまう。疲れているはずなのに、そこに迷いは感じられない。
私は部屋に取り残され、床に座り込む。テーブルの上には、今日作ったミニタルトと型抜きチョコ。今にも崩れそうな不安定なタルトの側面を見ていると、自分自身が壊れかけの積み木のように思えてくる。
(どうして私は、あんな聞き方をしてしまったんだろう。もっと自然に話せばよかったのに……)
後悔しても遅い。清夏ちゃんはたぶん“何か”を感じ取っている。私が彼女の日記を読んだことまでは気づいていないかもしれないが、少なくとも私が彼女の知識や経験を妙に気にしていることは伝わったはずだ。そう思うと、いっそう惨めになった。
冷めてしまったタルトを一口、噛んでみる。甘いけれど、何だか粉っぽいような口当たり。不味くはない。きっと初心者なら「おいしくできた!」と喜べるレベルだろう。でも、私はそれ以上の感想を抱くことができない。
(……好きで始めたはずのお菓子作りなのに、なんでこんなに苦しいんだろう)
心の中で問いかけても、答えは出てこない。ただ、あのノートを見てしまった瞬間から、私の気持ちは瓦解し始めたのだ。楽しさと恥ずかしさがないまぜになり、混乱と劣等感が積み重なり、いつしか心が摩耗していった。
(清夏ちゃんはいつまで黙っているんだろう。──それとも、本当は何も隠していないつもりなのか? 私が知らないだけで、彼女にとっては大した秘密でもなかったのかもしれない。)
すべては私の“盗み見”が生んだ歪みだ。彼女は私が知らないうちに、いろんな努力や経験を積んでいる。バレエもそう、お菓子作りだってそう。明るい笑顔の裏には、計り知れない情熱や苦労があるのだろう。私はその“一端”をノートで勝手に知ってしまっただけ。彼女は隠そうなんて思っていなかったかもしれないのに、私が卑屈になって隠してしまっている。
「……もう、どうしたらいいんだろう……」
壁にかけられた時計の針が静かに進んでいく。ベッドに横になっても眠れそうにない。私は薄暗い天井を見つめながら、どうにも晴れない心を持て余していた。
結局、清夏ちゃんが戻ってきたのは夜遅くなってからだった。自主練のあと、外で夕飯を済ませてきたのかもしれない。私が声をかける前に、彼女は静かに「ただいま」と言ってシャワーを浴びに行ってしまう。
シャワーの音を聞きながら、私はまたしてもベッドに潜り込み、何もできないまま時間が過ぎていくのを感じるしかない。部屋の端には今日作ったチョコとタルトが放置されたまま。その甘い匂いが、私の罪悪感を呼び起こすような気がして、いたたまれない。
(本当にこのままでいいの? 清夏ちゃんとの間に、こんな冷たい壁を作ったまま……? でも、謝るって何を? “ノートを見た”なんて、言い出せない……)
頭の中は堂々巡りだ。全身が重たく、疲れ果てているのに眠気は来ない。今日はせっかくお菓子教室に行ったのに、成果と言えるものは何一つ掴めなかった。むしろ「楽しむ」から遠のいてしまったように感じる。
シャワーから上がった清夏ちゃんは、何も言わずにタオルで髪を拭きながら、そのままベッドに入った。おやすみ、とひとこと告げる声もどこか疲れた響きが混じっている。私は小さく「おやすみ」と返し、暗がりに沈んでいく部屋の天井を見上げた。
その夜、私はうつろな意識の中で、もう一度清夏ちゃんのノートを思い出す。そこにはチョコレートの結晶図や工程の詳細、バレエのメモと並んで「リーリヤ」の名前が躍っていた。そのページが頭から離れない。
あのノートが私の心をざわつかせたように、私が勝手に見てしまった事実は、きっと清夏ちゃんとの関係を静かに蝕んでいく。もう限界が近いような気さえしていた。今の私は、次にどう行動すればいいのか、見えないまま闇の中に沈んでいる。
いつしか外はぽつりぽつりと雨が降り始めたようだ。窓ガラスを伝う雨粒が街の街灯を滲ませ、ぼんやりと光る。私は布団を肩までかけ、じっと目を閉じる。瞼の裏に焼きつくのは、どこかで歪んでしまった私の“お菓子作り”の時間。あんなに幸せだったのに、どうしてこんな苦しみを抱えてしまったのか。
静かな夜の寮の廊下には、しんとした気配が漂っている。私は明日こそ、清夏ちゃんと何か話せるのだろうか。それとも、もう少しだけ先延ばしにしてしまうのだろうか。答えは見えない。ただ一つ言えるのは、私の心はもう限界ぎりぎりまで追い詰められている、ということだけだった。
やがて、私はいつの間にか浅い眠りに落ちていった。頭の中には、半端に固まったチョコレートの欠片のイメージが浮かんでは消える。形はあるのに、中身は不安定。まるで私の心のように──。