チョコレートに溶ける心 作:kame
その夜、部屋に戻った私が最初に目にしたのは、机の上に置かれた清夏ちゃんの日記……ではなく、その“表紙カバー”だった。中身のノートだけが抜き取られている。どうやら、彼女はノートを持ち出しているらしい。最近はあまり部屋に置かなくなっているようで、ますます私には読むチャンスなどなかった(もう十分すぎるほど覗き見してしまったけれど……)。
私は鞄を下ろしながら、そっとそのカバーを手に取る。ピンク色の可愛いデザイン。ここに日記が入っていたとき、自分はどういう気持ちで盗み見たのだろう……。今思い返すと、背筋が凍るような罪悪感が押し寄せてきた。
(謝るなら、今しかないんじゃないか……)
胸にちらりと湧いたその思いを、私はぎゅっと握りしめる。清夏ちゃんがこの部屋に帰ってきたら、「大事な話がある」と切り出そう。いくら怖くても、もう隠し通すのは無理だ。息苦しさが限界を超えそうだし、このままでは彼女まで追い詰めてしまうかもしれない。
――そう決心した矢先、廊下から「ただいま」とかすかな声が聞こえた。ドアが開き、清夏ちゃんが入ってくる。私は思わずカバーを放り出して、彼女の顔を見た。
「清夏ちゃん……」
「リーリヤ、起きてたんだね。今日も疲れちゃってさ……シャワー先に浴びていい?」
彼女は相当疲れているらしく、声にも覇気がない。たぶんトレーナーからきついメニューを課せられたのだろう。足取りも重そうだ。──こんなタイミングで、“日記を見ました”なんて言うのは酷だろうか。
(でも、私はこのままじゃだめだ……)
私は意を決して口を開きかける。ところが、その直後に清夏ちゃんのスマホが鳴った。軽快な着信音。画面にはバレエ仲間らしき名前が表示されている。彼女は「ごめん、ちょっと出るね」と言って廊下へ出て行った。
見送りながら、またしても私の告白は宙ぶらりんになる。タイミングを逃してしまった私は、全身から力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
――結局、その日の夜も私は言い出せなかった。清夏ちゃんは電話を切ったあと、シャワーを浴びてさっさと布団に潜り込み、「おやすみ」とだけ言ってすぐ寝息を立てはじめた。彼女の疲れた横顔を見ていると、私の罪が余計に重たくのしかかってくる。
チョコレートの現実
あっという間に数日が過ぎた。私はいつもどおり授業を受け、帰ってきてはノートや本に目を通してみるが、頭には入らない。清夏ちゃんとの会話は、最低限の日常的なやりとりだけ。少しずつ、私たちの部屋は冷え込んでいくように感じられた。
そんなある昼休みのこと。私はふと思い立って、再び学園の図書館を訪れた。以前借りた専門書はもう返却期限が近い。中身もほとんど理解できないままだが、何となくもう一度見ておきたかった。
カウンターで本を広げていると、司書の先生が近づいてきた。
「あら、またその本を。難しいんじゃない? ほとんどの生徒は持ち帰っても読む前に返却しちゃうわね」
「そ、そうですよね……私もあまり進んでないんですけど……」
苦笑まじりに答えると、先生は続けてこう言った。
「でもね、調理実習室にいる料理部の顧問の先生に聞けば、もう少し分かりやすく教えてもらえるかもしれないわよ。そちらでテンパリングの講習をしたこともあるって聞いたし」
その言葉に、はっとする。私が勝手に“難しい世界”だと決めつけていたテンパリングの話を、学内の誰かがわかりやすく教えてくれるかもしれない。──もしかしたら、それが一つの突破口になるかもしれないと思った。
(でも……私ひとりで行ってもいいのかな?)
清夏ちゃんはどうする? 彼女も連れて行けばいいだろうか。でも彼女はレッスンで忙しく、しかも既にノウハウは知っている。それに、まだ日記の件を打ち明けていない私は、まともに誘う自信がない。
……迷いながらも、私は昼休みの時間がまだ少し残っていたので、料理部のある調理実習室をこっそり覗いてみることにした。そこには顧問の先生と、料理部の生徒が何人か立ち話をしている。思いきって近づくと、先生が気さくに声をかけてくれた。
「何か用かな? どうしたの?」
「あ、あの……すみません。私、お菓子作りのことで、ちょっと相談したいことがあって……」
声が震えそうになるのを必死でこらえながら説明すると、先生は目を丸くして笑った。
「お菓子作り? いいよ、何でも聞いてみて。今ちょうど昼休みだし、時間はあるから」
私は恥ずかしさを押し殺し、持っていた専門書を取り出して「テンパリングとか、結晶構造とか、そういうのを勉強したいんですけど……」と切り出した。先生は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに納得した表情になる。
「ああ、確かにそれは奥が深いよね。最初は難しく感じるけど、慣れればさほどでもないよ。一度、実際にやってみると早いかも」
「実際に……?」
「うん。昼休みの短い時間じゃ難しいから、放課後にここで練習してみる? 私も部活がない日は手が空いてるし、やりたければ付き合うよ」
思いがけない申し出に、私は戸惑いつつも嬉しさが湧き上がった。もしこれで私が「本物のテンパリング」に少しでも近づけたら、清夏ちゃんの前で堂々と向き合えるかもしれない。少なくとも、“ただの自己流”からは卒業できる。
だけど、その一方で頭の片隅には「清夏ちゃんには言わなくていいの?」という声があった。これまで、いろいろ教わるなら彼女に相談すればよかったのだ。けれど、日記の件を隠している以上、いまさら自分から「教えて」なんて言えない。――私はその声を必死に振り払って、「お願いします、先生」と深く頭を下げた。