チョコレートに溶ける心 作:kame
翌日の放課後、私は部活がない日を狙って再び調理実習室を訪れた。顧問の先生が先に待っていてくれて、部室の奥からチョコレートやら道具やらをどっさり取り出してくれる。
「ちゃんとした大理石の台は学校にはないから、これで代用するね。金属のプレートでもそこそこ冷却できるし……」
そう言って、作業台に並べられたのはそこそこ本格的な道具たち。家庭科の授業で見たことはあるが、ちゃんと使うのは初めてだ。
私はまず、チョコレートを均一に刻み、湯せんで45℃付近まで加熱する。そこで一度火を止め、ボウルの底を冷水に浸しながら28℃前後まで下げる──これが想像以上に難しく、時間と集中力が必要だった。
「一気に下がりすぎちゃうと固まりやすいし、まだらになっちゃうから、ある程度は手早く混ぜるのがコツだよ」
先生のアドバイスを受けながら、私は必死にヘラでチョコをかき回す。温度計を覗くたびに「え、もう26℃まで落ちちゃった……」と焦って、また湯せんで少し上げ、手を抜く隙がない。
「これ、大変ですね……」
「そうね。家庭でやるにはハードル高いと言われるけど、慣れればそんなに難しくないよ。筋トレみたいなものかな?」
先生は笑っているが、私の額にはうっすら汗がにじむ。こうして実際にやってみると、教本の文字や図だけではイメージできなかった感覚がわかる。チョコレートがどのタイミングで粘性を変えるのか、ヘラの重みや匂いの変化……すべてが新鮮で、心が引き締まる思いだ。
最終的に30~31℃あたりまで温度を戻し、金属プレートの上でチョコを伸ばしたりすくいあげたりを繰り返す。何度か失敗しつつ、ようやく「まあまあいい感じ」の状態まで持っていったところで、先生が「型に流し込んでみようか」と言ってくれた。
「……すごい。見た目が滑らかになりました」
私が感嘆の声を上げると、先生は「テンパリングがちゃんと決まると、冷えたときのツヤも変わるよ」とにこりと微笑む。
型に流し込んでしばらく待つと、固まったチョコがパキッときれいに外れる。ツヤがあり、白く粉を吹く(ファットブルーム)も起きていない。まるで市販のチョコレートのような仕上がりだ。私は思わず小さく声を上げた。
「わ……きれい……。こんなふうにできるんですね」
「おめでとう、初・本格チョコだね。味見してみようよ」
私は恐る恐る一片をかじる。すると、パリッとした軽い音がして、その後に滑らかな口どけが広がった。甘さは同じチョコレートのはずなのに、いつもの“適当に溶かしただけ”の味とは全然違う。口当たりがワンランク上品なものになっているのだ。
(すごい……これが、本当のテンパリング……)
その瞬間、私は胸の奥が熱くなった。難しくて敷居が高いと思っていた世界が、こうして自分の手の中に少しだけ形を与えられている。もっと勉強すれば、もっと上手になれるかもしれない。
だけど、次の瞬間に頭をよぎったのは「清夏ちゃんは、この手順をもう既に知っているんだろうな」という想いだった。彼女なら、私よりずっとスムーズにこなすだろう。彼女に見せられたら、どんな反応をするだろうか……?
そう考えると、胸が締めつけられる。彼女に私の成長した姿を見てほしい気持ちと、まだ日記の件を言えない罪悪感とがぶつかり合う。両方の思いが渦巻き、私はやり場のない感情に苛まれた。
「……なにか悩んでる?」
先生がふと声をかけてくる。料理の先生というより、人生相談をしてくれる大人のような柔らかい口調だった。
「い、いえ……ちょっと、いろいろあって……」
「そっか。でも、これだけ言えるのはね――チョコレートは嘘をつかないよ。温度管理をちゃんとすれば、それに応えてくれる。反対に、隠しごとやごまかしをすれば、きちんと仕上がらない。ある意味、正直者のお菓子なんだよ」
“隠しごとやごまかしをすれば、きちんと仕上がらない。”
その言葉が不思議なくらい私の胸に突き刺さる。隠しごと──日記を盗み見た秘密、言えずにいる嘘。それを抱えたままでは、いつまでも綺麗な形を作れないのかもしれない。自分が高い技術を身につけても、心が追いついていないなら、チョコと同じで歪んでしまうのだろう。
私は小さく息をつき、「ありがとうございました。またお願いします」と頭を下げた。放課後の誰もいない調理実習室を後にするとき、心の中ではほんの少しだけ、ある決心が芽生えはじめていた。