チョコレートに溶ける心 作:kame
その夜、部屋に戻っても清夏ちゃんの姿はなかった。レッスンが長引くらしい。帰りは遅くなるだろう。私は気持ちを落ち着けるために軽くシャワーを浴び、部屋の隅にある私物のボウルと温度計を取り出してみる。
(調理実習室ほど環境は整わないけど……ちょっとだけ練習しよう)
そう決めて、お湯を沸かし始める。寮のミニキッチンじゃ本格的な道具は無理だけど、簡易的なタブリールまがいならできるかもしれない。今日の経験を思い出しながら、チョコレートを刻み、45℃まで温度を上げる。次に、部屋のテーブルにアルミ製の大きなトレーを広げ、そこに一部の溶けたチョコを流してヘラで練る。
しかし、そもそも狭い部屋でやるには無理がある。温度計がうまく動かないし、チョコがテーブルに飛び散る。焦りすぎて一気に温度が下がりすぎ……結局、なかなか綺麗にまとまらない。
「……もう、だめだ……」
思わず手を止めたとき、不意に扉が開いた。清夏ちゃんが、足音も立てずに入ってきたのだ。私はチョコを握ったまま固まってしまう。
「リーリヤ……? 何してるの?」
彼女の声には驚きが混じっている。当然だろう。私は半分慌てて立ち上がり、チョコまみれの手を隠すように身をひねった。
「え……えっと、ちょっと練習というか……ゴメン、汚しちゃって……」
「いや、別に怒ってるわけじゃないよ。びっくりしただけ……。でも、なんか大変そうだね」
確かに部屋は酷い有様だ。狭いテーブルの上に飛び散ったチョコのかけら、レシピ本は床に転がっている。こんな状態を見られたら、普通は呆れられると思う。だけど清夏ちゃんはそこまで険しい表情をしていない。ただ、戸惑いと心配が混じった目で私を見ている。
私はその視線に耐えきれず、とうとう重い口を開いた。
「ごめん、清夏ちゃん……。私、もう隠しておけないことがあるの……」
彼女は目を瞬かせる。私は自分の胸に手をあて、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をした。喉がカラカラに渇いているのが分かる。でも、言わなきゃいけない。ここで逃げたら、私は一生後悔するだろう。
「……実は、前に……清夏ちゃんの日記……見ちゃったの……。本当にごめんなさい……」
清夏ちゃんが息を呑む音が聞こえる。私は視線を下に落としたまま、続ける。
「勝手にページ開いちゃって……すぐ閉じようと思ったんだけど、いろいろ書いてあって……チョコの結晶構造とか、テンパリングのこととか、すごく詳しくて……。それで、私……どうしたらいいか分からなくて……」
自分の言葉が震えている。ひょっとしたら、これが決定的な裏切りになるかもしれない。清夏ちゃんが「最低だね」と顔をしかめて、部屋を出て行ってしまうかもしれない。だけど、私はもう耐えられない。謝らずに、このまま嘘をつき続けるなんてできない。
短い沈黙が走る。清夏ちゃんは俯いたまま、何を考えているのか分からない。私は手の中のチョコが溶けていくのを感じながら、動けずにいた。
ようやく彼女が口を開いたのは、数秒が何分にも感じられるほど長かった後のことだった。
「……そっか……。見ちゃったんだ、あれ……」
その声は震えてはいなかった。むしろ、少し困ったような苦笑が混じっているように思えた。
「ごめんね、私こそ。あのノート、一応隠してるつもりはなかったけど……ちゃんと説明してなかった。リーリヤがあんなに一生懸命にお菓子作ってるの見て、変に水を差すのも嫌だなと思ってたんだ」
え……? 私は思わず顔を上げる。清夏ちゃんは、私が想像していたより穏やかな表情で、だけど寂しそうでもある。
「私、スウェーデンに短期滞在したとき、バレエの先生の紹介でチョコレート職人さんの工房を見学する機会があって……すごく面白くて、ノートにメモしてたんだ。日本に戻ってからも、いつか本格的に学びたいなって思って、いろいろ書き足してただけ……。でも、今は全然実践できてないの」
そこで、彼女は苦笑混じりに言葉を続ける。
「リーリヤがお菓子作りしてるの知ったとき、本当は少しだけ羨ましかったんだ。楽しそうに見えて。でも、下手に口出ししたら、リーリヤが萎縮しちゃうかもしれないから……“私なんかが口出すことじゃないよね”って、ずっと黙ってた。結果的に、逆に気を遣わせちゃったね……」
私はその告白に呆然となった。ずっと「見下されるかもしれない」なんて疑っていたのは、私の勝手な思い込みだった。彼女は私に合わせてくれていたのではなく、むしろ「自分は未熟だから口を挟む資格はない」と思っていたらしい。
「ち、違うの……清夏ちゃんは、私なんかよりずっとすごい知識を持ってて……きっと、私の作るチョコなんて見ても退屈なんじゃないかとか、勝手に思い込んで……ごめん、本当にごめん……」
しゃくりあげるように声がこぼれる。涙が頬を伝いそうになる。私は必死に堪えようとするが、どうにも止まらない。
「退屈なわけないよ。私、リーリヤが作るお菓子、美味しかったもん。形がいびつでも、白っぽくなってても……それでも味わいがあって、温かみがあって、すごく好きだった。だから、いつも『美味しい』って言ってたんだよ」
清夏ちゃんの声が優しくて、思わず私は目をぎゅっと瞑る。ああ、なんて私は馬鹿だったんだろう。結局、彼女はずっと私を肯定してくれていた。私が勝手に「裏切られた」と思い込んでいただけだ。
「それに、日記を見られたのは……正直、びっくりした。でも、リーリヤが謝ってくれたから、私はそれでいいよ。まだ整理しきれないけど、嫌いにはならないよ……」
少し冗談交じりにそう告げられて、私はまた涙が出そうになる。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し呟きながら、清夏ちゃんが持ってきたタオルを受け取る。部屋はチョコまみれで、今にも笑ってしまいそうな惨状だ。
「ありがとう……清夏ちゃん。私……ずっと苦しかった。いつ言えばいいのか分からなくて。言わなきゃって分かってても、怖くて……」
「あはは。私もさ、ずっと『いつ話そうかな』って思ってたよ。チョコのこと、ちゃんとリーリヤにも話したかった。でも言えなかったのは、私も同じ……だね」
そう言い合って、ようやく私は安心した。隠していたものが全部流れ出て、肩の力が抜けるような感覚がある。部屋にはほんのりチョコの甘い香りが漂い、私と清夏ちゃんの涙まじりの笑い声がかすかに響く。