チョコレートに溶ける心 作:kame
その夜、清夏ちゃんは遅めに帰寮してきた。
「ただいま~。ごめんね、遅くなっちゃって」
「お、おかえり……」
私はなるべく素っ気なくならないように声をかける。けれど、意識してしまうあまり顔を合わせることができず、すぐに目線をそらした。
「リーリヤ、今日も何か作ってた? すごくいい匂いがしたけど」
「う、ううん……ちょっと失敗しちゃって、捨てちゃった」
「え、そうなの? もったいない……どこが失敗だったの? 食べてみたかったなあ」
彼女は残念そうな表情を浮かべる。それを見ても、私はどうにも息苦しかった。今までは「失敗したんだね」程度で片づくことでも、今は頭の中でこんな声が響く――。
(本当は知ってるんだろうな、もっと上手に作る方法……)
しかも私が勝手にその“知識”を知ってしまっていることを、彼女は知らない。どうして今まで隠していたんだろう? なぜ「実は私もチョコレートを本格的に勉強してみたいんだ」って言わなかったの? それともあえて黙っていたのか? 私の稚拙なチョコ作りを見て、どう思っていたのか? そんな疑問が次々と胸をよぎる。
私は自分で自分が嫌になるほど、今まで気づかなかった清夏ちゃんの“違う顔”を意識し始めていた。それは疑念ではなく、畏怖に近いものだ。――彼女は私なんかよりずっと上のレベルにいる。私が「すごいでしょ」とちょっと得意になっていたのは、とんだ見当違いの恥ずかしさだったのかもしれない。
「えっと……もう寝るね。ごめん」
そう言って私は布団を敷き、背中を向けた。清夏ちゃんは「うん、おやすみ」と返してくれたが、少し寂しそうな声だったように思う。部屋の明かりを落としてからも、私の胸の鼓動はずっと早いまま。布団の中で何度も寝返りを打ち、夜はとても長く感じられた。
図書館での敗北感
翌日から私は、清夏ちゃんとの間に妙な緊張を抱え込むようになった。いつもと同じように、彼女は朝起きると「おはよう、リーリヤ」と挨拶をしてくれる。私も「おはよう、清夏ちゃん」と返す。でも、そのやりとりの中にふとした違和感を覚えてしまうのだ。
本音を言えば、「あのノートを見たよ」と言ってしまえれば、何かが動くかもしれない。それが本来なら誠実な態度なのかもしれない。でも、そんなこと口が裂けても言えない。だってそれは、彼女のプライベートを覗き見た盗み読みにほかならないのだ。ましてや内容に踏み込んでしまったとあれば、どんな顔で彼女を見ればいいのか分からない。
だから私は、その負い目を隠すために、口数が減っていった。レシピ本を広げる手も鈍る。清夏ちゃんと目を合わせることも少なくなり、彼女のレッスンの話を「うん……」と聞き流すことが増えてしまった。――せっかく仲良くなってきたのに、私が自ら距離を置いてしまっているようだった。
そんな日が数日続いた頃、私は放課後、学園の図書館へと足を運んだ。清夏ちゃんのノートに書かれていた“専門知識”というものがどれほどのレベルなのか、私なりに確かめたかったのだ。
初星学園の図書館はかなり大きく、一般書から専門書まで揃っている。特に調理・製菓の本もそこそこあると聞いたことがあった。私は司書の先生に声をかけ、製菓関連の書棚を案内してもらった。すると、そこにはプロ向けの分厚い本や、大学の研究資料のようなタイトルの文献までぎっしり並んでいる。
「製菓理論のコーナーはちょっと難しいかもしれないけれど、貸し出しもできるから、読んでみたい本があればどうぞ」
「は、はい……ありがとうございます……」
私はお礼を言い、背表紙を片っ端から眺めてみる。「チョコレートの科学」「チョコレートの化学と技術」……いかにも難しそうなタイトルがならんでいる。中にはカラフルな写真入りの実用書もあるけれど、目に付くのは専門用語のオンパレード。
――清夏ちゃんのノートにあった“カカオバターの結晶化”や“テンパリング”という言葉。私はそのあたりの解説が載った本を探し始めた。やがて一冊の専門書を開き、そこにあったページを読んでみる。
「チョコレートの安定結晶(Ⅴ型)を形成するためには、温度管理が極めて重要である。まず45~50℃程度で完全に溶かした後、26~28℃まで下げ、再度31~32℃程度まで上げることで……」
――うう、頭が痛い。数字ばかりで目が滑っていく。しかも図解まで細かく書かれていて、その横には「結晶多形」なんて言葉が。確かに、レシピ本にも「温度を下げてから上げるのがコツ」とは書いてあったけれど、ここまで理論的に踏み込んでいると、私にはまるで化学の問題集を読んでいるみたいに感じられた。
他のページをめくっても、専門的な化学式やら測定機器の紹介やらが続く。私はすぐに頭がくらくらして、しおりを挟んで閉じてしまった。――やっぱり難しすぎる。
(こんなの、私が手を出す領域じゃないのかも……)
しょんぼりしながらも、私はもう一冊に目を通してみる。でもそちらも似たり寄ったり。チョコレートが実は高度な技術と理論に支えられていることが、ひしひしと伝わってくる。
――じゃあ、清夏ちゃんのノートはどうだった? そこに書かれていたことは、この本に近いものだったけれど、もっと分かりやすく簡潔だった。それでも、そこには私が読んでも分からない単語や工程があった。つまり、私よりずっと踏み込んだ世界を清夏ちゃんは持っているのだ。
図書館の窓から、秋の夕暮れが差し込みはじめる。私は何も成果を得られないまま、その本を返却カウンターに持っていき、「すみません、これは借りられますか……?」と聞いた。司書の先生に「もちろん、返却期限は2週間後です」と言われてほっとするが、果たしてこれを読んで理解できるのか、自信はまるでない。
それでも私は、清夏ちゃんのノートの内容が、まったくのデタラメでもないことを確認したかった。それが「彼女は本当に凄いんだ」という現実を裏付けることだとしても。重たい専門書を抱えて図書館を出るとき、私はひとつ溜め息をついた。
(どうしよう。ますます……彼女に話しかけづらくなった。)