チョコレートに溶ける心   作:kame

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第8話 思いがけない誘い

 そんな私の迷走を、ある出来事がさらに揺さぶることになる。

 

 その日は放課後すぐに寮へ戻るつもりだったのに、清夏ちゃんは私を捕まえてこう言った。

 

「リーリヤ、今度の日曜、お菓子教室に行かない?」

 

 突然の誘いだった。普段なら私が立案するようなイベント――専門店へ買いに行くとか、部屋で作るとか――はあったけれど、彼女が主導して「行こうよ!」と言うのは珍しい。

 

「お菓子教室……?」

「うん。街中のカルチャーセンターで、学生が参加できる体験教室があるんだって。ちょっと前にポスターを見かけて、気になってたんだ」

「……でも、清夏ちゃんはレッスンが忙しいんじゃ……」

「確かに忙しいけど、日曜の午前中だけなら大丈夫だから。リーリヤと一緒に行けたら楽しそうだなって思って」

 

 私は一瞬、どう返事していいか分からなかった。行きたい気持ちがないわけではない。むしろ、“基礎を教わる”というのは私が今まさに必要としていることかもしれない。自分の自己流を見直し、テンパリングの確実な方法を学べるかもしれない。

 

 でも、その教室に清夏ちゃんと一緒に参加するのが、なぜだか胸を締めつける。彼女は既にノートであれだけ理論をまとめている。もしかすると、体験教室レベルなどは軽々こなしてしまうかもしれない。そしたら私はどうなる? 「こんな簡単なことも分からないの?」と見下される……いや、清夏ちゃんはそんな態度をとる子ではない。それは分かっているけれど、私の中の小さなプライドと大きな劣等感がぶつかり合って、素直に「行く」とは言いづらかった。

 

「……ごめん、日曜はちょっと用事があるかもしれない。まだ分からないけど……」

 

 曖昧にそう答えると、清夏ちゃんは少し残念そうな顔になった。

 

「そうなんだ……。でも、もし予定がなかったら一緒に行きたいなって思ってる。無理なら一人でも行ってみようかな」

 

 彼女はそう呟いて、シューズを抱えながらレッスンへ向かってしまった。引き留める間もなく、私は廊下に一人取り残される。

 

 (行けばいいのに、と心のどこかで思っている。行かなきゃだめだ。でも……どうして素直に頷けないの、私)

 

 廊下の窓から見えるグラウンドでは、運動部の生徒が声を張り上げていた。うだるような夏が終わり、秋の風が少し冷たく頬をかすめる。私はその冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、次の行動を決めかねたまま、足を動かせなかった。

 

堂々巡りと決心

 部屋に戻ってからも、心は千々に乱れたままだ。清夏ちゃんは部活が終わるとまた別の自主練をするだろうし、今日も帰りは遅いのかもしれない。私は机に向かい、あの専門書を開いては閉じる作業を何度も繰り返す。

 

 (このままじゃだめだ。彼女との関係がぎくしゃくしてしまう……。)

 

 分かっている。私は正直に言うべきなのかもしれない。「ごめんね、あなたの日記を見てしまった」って。でも、それを言ったら彼女が傷つくかもしれない。あるいは怒るかもしれない。そうなったら、今の寮生活はどうなるの? 彼女との友情はどうなってしまうの?

 

 そんな不安にがんじがらめになっているうちに、いつの間にか夜は更けていく。清夏ちゃんはだいぶ遅くに部屋へ戻ってきた。私がベッドに横になったまま「おかえり」と声をかけると、「ごめん、ただいま。遅くなっちゃった」と控えめな返事が返ってきた。やっぱりどこかぎこちない。

 

 このままではよくない。そう思いながら、私は夜中、布団の中で決意する。――お菓子教室に行こう。 そしてきちんとした「基礎」を学ぼう。私が清夏ちゃんのレベルに追いつかなくても、少なくとも自己流のままで終わるよりはいいはずだ。堂々と「私も知りたいの」と言って、彼女の知識を素直に教えてもらう。それが一番前向きな選択だろう。

 

 問題は、あのノートを見たことをどうするか……だが、今はそれを打ち明ける勇気がない。まずは行動して、自分なりに知識を深めて、それでも気持ちが収まらないようなら……そのときにまた考えよう。

 

 ――こうして私は、やっと「清夏ちゃんとお菓子教室に行く」という決心を固めた。朝になったら彼女にそう伝えてみよう。少しでも、素直に向き合えるきっかけにしたい。




 けれど私の胸には、まだ重い石のようなものが残っていた。それは「彼女の日記を覗き見た」という、どうしようもなく後ろ暗い罪悪感だ。清夏ちゃんがいなければ、私はこんなにお菓子作りを楽しむこともなかったのに。彼女の明るさや優しさに引き上げられるようにして、少しだけ自信が芽生えたのに。

 そのいっぽうで、私はその裏にある彼女の“本当の姿”を勝手に覗き見てしまった。そこにあったのは、私よりもはるかに深いチョコレートへの理解。どうしていままで黙っていたのか、本当のところは分からない。でも、その事実は私のプライドを揺さぶり、劣等感を刺激するのに十分だった。

 いびつな形のチョコを「すごいね」と褒めてくれたのは――私への気遣い? それとも、ただの優しさ? そのどちらも正しいのかもしれない。でも、「本当はもっと綺麗に作れるのに……」と内心思われていたらどうしよう。そんな不安が、私の心から離れない。

 日曜日のお菓子教室に行けば、このモヤモヤは晴れるのか。それともいっそう濃くなるのか。どちらに転がるかは分からない。ただ一つだけ確かなのは、私はもう後戻りできないところまで来てしまっている、ということだ。

 ――私はこの先、“本当の恥”と向き合わなければならない。私が勝手に抱えてしまった秘密。そして清夏ちゃんとの間に生じてしまった小さな嘘。もしかすると、それが私を大きく成長させるきっかけになるのかもしれない。

 朝の光が部屋を照らしはじめる。まだ私の隣で眠る清夏ちゃんの寝息が、静かに聞こえる。私は胸に手を当て、そっと目を閉じた。日曜日に向けた私の“決意”は、これからどんな風に揺らぐのだろう。

 それでも、私はその日が来るのを待つしかない。
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