母と子(前)
私はあの日薬草を採りに行っていました
麓にいる孫が熱を出したと便りがきたので、見舞いに持っていこうと思ったんです
長年狩りをやってきた私にとって、あの山は獣は多く出れど庭のようなものです
こんな老いた婆が、と意外に思われますか?
これでもつい3年前までは元気に山を駆け回っていたものです
話を戻しましょう
さて十分な量の薬草も採り終わり、麓に降りる準備をするため家に帰ろうとした時です
私の家とは逆の方向から煙が上がっているのが見えました
そこは獣だけでなく魔獣も出ることがあるので、私はここ20年ほど行くことはありませんでしたが、お婆さんが一人そこに住んでいたことは知っていました
私が初めて見掛けたのはあの山に移り住んですぐの頃、ちょうど40歳の時だったと思います
私が移り住んだのは30年ほど前ですが、お婆さんはそのずっと前から住んでいたみたいで山の暮らしにとても慣れていました
話したことはありませんが、とても芯の強い人に見えたことを覚えています
煙が上がったのもそのお婆さんの家のあたりでしたので、早く麓の役人方に伝えようと山を降りようとした時、大きな音がなりました
振り返ると背後の地面がなくなっていました
抉れていた、と言う方が正確かもしれません
そして見たんです、抉れた地面の真ん中で立つあの"何か“を
確かに姿形は人そのものでしたが、
目を見て分かったのです、これは人や獣という言葉に収まりきるほどのものではない、と
しかし予想に反して、あれは全く動きませんでした
気のせいかもしれませんが、あれは私の姿を見て動揺したように見えました
そのあと一回鳴き声をあげ、どこかに去っていきました
私があの日経験したことはこれで全てです
「2,9,3 っと。お疲れ様でした、べリーヌさん。これで聞き取りは終了です。本日はわざわざ御足労頂きありがとうございました」
感謝の意を告げると、目の前の老女、べリーヌさんは穏やかに微笑む
「いえいえ、それにしてもこのコーヒーはあなたが入れたの?」
どうやら聞き取りの際に出したコーヒーがお気に召したらしい
「はい、昔から母はコーヒーの味に煩くて。何度もやり直させられる内に嫌でも上達してしまいました」
そう僕が言うと、良いことじゃない、と言って再び微笑んだ
「このコーヒーの為なら、いくらでも聞き取りに協力するわ」
そう言いながら、べリーヌさんは席を立ち出口へと向かう
腰は曲がっているものの、しっかりとした足取りで歩いている
ドアノブに手をかけたところで、何かを思い出したかのように宙を見上げ、こちらに振り返った
「私は30年ほど狩りを続けてきたわ。多くの獣を見てきて、多くの声を聞いてきたのよ」
目の前の老婆は在りし日の戦いを懐かしむように話す
ドアノブにかける手に刻まれた皺はその戦いの傷跡なのかと思わせられるほどに、実感のこもった口ぶりだ
「その中でも、
一息つく、そして、少し悲しげな表情で言った
「あれほど悲しい哭き声を聞いたこともなかったの」
イデリーナ・ツェーダーの朝は早い
まず起きてすぐ二時間ほど鍛錬をし、朝食の準備をし、息子を起こす
息子と共に朝食を済ませれば、二時間ほど息子に特訓(地獄)をお見舞いし、その後自分は本格的に家事を始める及び昼食を準備し、息子にはお使い、具体的には麓の町への買い出しや狩り、山菜の採取を任せる
それがイデリーナ家の毎朝である
今日もいつものように息子の鍛錬を終えた後、イデリーナは家の清掃や洗濯、昼食の準備を済ませ、山菜採取と狩りに出掛けさせた息子、血は繋がっていないので正確には違うかもしれないが、を待っていた。
(それにしても今日は随分と遅いね。今度はどこぞをほっつき歩いているんだかねぇ)
すでに時計は十三時を回っていたが、まだ彼女の息子は戻ってこなかった
しかしこれは特別ではなく、むしろよくあることで、遅く戻ってきた息子を懲らしめるまでがワンセットとなっていた
(でも今日に限っては正解かもねぇ。朝からどうにも・・・胸騒ぎがする)
そんな不安というには程遠い気持ちを紛らわせようと、コーヒーを淹れようとし、手が止まる
「8、いや10ってところかい。しかも、一人強そうな奴がいるね。全く老後穏やかに暮らそうってのに邪魔するなんて、無粋な奴らだね」
カップを置き、代わりに壁に掛けてある黒のロングコートを手に取る
思い出を、忌まわしい過去を取り戻すように袖を通す
扉の先に迫っているものたちがどんな輩かは、すでに見当がついていた
「それにしてもとうとうバレるなんてね。よほど勘のいい奴がいるもんだ。まぁ、私の認識が変わったってのが大きいだろうけど」
ようやくあの子と家族になれたのかねぇ、と老婆は嬉しそうに言う
自分が死ぬまでは隠し通すつもりだった
でも、こんな結果も悪くない
ドアに手をかける
開けば過去の自分に戻るしかなくなる
(嫌なのかい?)
「あぁ、嫌なこったい。・・・でも、なっちまったもんは仕方ない。さぁ、久しぶりの
クックッ、と笑いながら扉を開ける
バカ息子は今どこにいるんだろうか、そんなことを考えながら
「もう少しだな」
そう言って、俺、イーデリナ・イェークは上を見上げた
今日も今日とてババアの地獄のシゴキを乗り越え、山菜の採集、鹿の狩りを終えた後、俺はお気に入りの場所、この山の頂上へと向かっていた
「それにしても、毎度のことながらババアの筋肉はどうなってんだ。腹筋500、腕立て500、背筋500、指立て逆立ち30分、その後約一時間組手やって息を切らしてねぇの、人間じゃねぇだろ」
まぁ、それになんとか喰らいつけるようになった(改造された)俺も少し人間から外れているような気がするが・・・
しかし、それでも感謝はしている。確かに訓練は厳しいし、喧嘩も沢山した。だが、ババアは捨て子だった俺をここまで育ててくれた。一度も俺を蔑ろにすることはなかった。どんだけ俺と喧嘩した日でも、俺が訓練についていけなくとも、俺の世話をしてくれた。それは、俺がババアを母親のように思うのに十分なことだった
「まぁ、こんなこと絶対にババアには言えないけど」
それにしてもこの世界、本当に元の世界に似ている
元の世界というのは、
そう俺はラノベでよくある転生者なのである
俺は前世では、今のように筋肉が程よくついた肉体ではなく、痩せてはいないが太ってはいない要するにぽっちゃり体型だった
また社会から孤立しているわけでもないが、かといって友達が多いわけでもなく、死因も自動車に轢かれるというよくある(?)ものだった
唯一違ったのは転生したということ
しかも、結構というよりかなり厳しいこの世界に
まず、この世界(帝国は特にらしいが)貧富の差が激しすぎる
中間層も一定数は存在しているが、身売り、捨て子、口減しは当たり前
窃盗や強盗、殺人などは日常茶飯事で起きる
次に、魔法と異能力の存在だ
魔法自体は誰でも使えるのだがいかんせん魔力量は生まれた時点で決まっているため、生まれた時点でその後の人生がほぼ決まる
自分の子供が異能力持ちの証である痣を持って生まれてきた日なんかには、一家総出、いや村総出でお祭り騒ぎだ
まぁ、その後大した異能力じゃないことが分かって落胆するまでがワンセットらしいが
ちなみに俺は魔力量平均並の無能力者
えっ、女神特典?
今から会える女神様っているんですか?
「死んだと思ったら、気づけば赤ちゃんとして生まれてきてたんだよなぁ」
まぁ、両親の顔も覚えられないほどすぐに捨てられたんですが
よほど生活に余裕がなかったのだろう
俺を産んだときも、なんか重苦しい空気だったし
山に捨てられて、はい俺のセカンドライフ終了って思ってたら、ババアに拾われて今に至る
「あーあ、俺もババアみたいに高魔力持ち、異能力者だったらなぁ。それにしてもババアは、本当になんでこんな山奥に住んでるんだ?あれぐらいハイスペックだったら、相当な地位にいるはずだろうに」
ババアに聞いてもなんとなしにはぐらかされるしなぁ
どんな異能力なのかも教えてもらってないし
「っと、考え事してるうちについたな。いやぁ、ここの眺めはいつ来てもいいもんだなぁ」
ここがこの山の山頂、標高952メートル地点である
といっても、俺たちの家は800メートル付近に立っているため、1時間もかからず登れてしまうのだが
ここからは王国、帝国両国の麓の村が見える
空気は澄んでいるし、景色も良いしで、気が少しでも向けばここに来るのが日課となっていた
「しかし、もう14時近くになるか。ちょっと今日は狩りに時間がかかっちまったからな。
はぁ、またババアに怒られるぜ」
さて家に帰るかぁ
そう思ってふと家の方向に目を向けると
「は?」
森が、燃えていた
・
・
「はぁ、はぁ」
そんなわけないと思いながら走る
ババアが火事を起こすなんてヘマを起こすはずがない、たまたま家の方向の森が燃えていただけだ
そう自分に納得させるように走る
しかし、近づく熱気がそれを否定する
この森を抜ければいつものように家が立っている、そんな期待もしくは希望のこもった気持ちで森を抜け
悪い予感が当たっていた
燃え盛る家
その前に倒れる老婆、複数人の兵士、そして
それを見下ろす軍服の男
「おやぁ?今からこのご婦人に尋問でもかけようと思っていましたが、これは手間が省けました」
目の前の長身の男がそう言う
自分自身何が起こっているか何も分からない
しかし、かろうじて声が出た
「だ、誰なんだよお前!ババアに何してんだよ!」
俺がそういうと、目の前の男が少し不機嫌そうに顔を歪ませる
「お前とは失礼ですね・・・まぁ、良いです。勝手に訪れたのはこちら側。ここは大目に見ましょう。申し遅れました、私は帝国近衛騎士団第4部隊団長、リステアード・エドモンドと申します。この度は」
そこまで言って、一息溜める
「あなたを帝国にお迎えするために参上しました」
そう言って、邪悪に笑った
扉を開ければ、兵士が九人、そして軍服を纏う、明らかに風格が違う男が一人
「おやおや、これは帝国軍の方々ではありませんか。どうしました?こんな山奥まで。ここには生憎このババア一人しか住んでいませんが」
来客者たちに向かってイデリーナが丁寧にそう言うと、軍服の男が前に出でくる
「これはこれはご婦人。私は帝国近衛騎士団第4部隊隊長のリステアード・エドモンドと申します。どうぞエドモンとお呼び下さい。私たちは人捜しをしているのですが、先日ここにその捜し人がいる可能性が浮上しまして、今回こうして訪ねさせて貰った次第です」
「そうでしたか。申し遅れましたね、私はイデリーナ・ツェーダーと申します。ところでエドモンさん、ここには先ほども言った通りこのしわがれたババア一人しか住んでいません。まさかこの老婆が目的の人物ってわけでもないでしょうし、見当違いをなされているのではありませんか?」
すると、エドモンドはクツクツと笑った
「いえいえ、イデリーナさん。確かに透明の暗殺者といわれたあなたにも興味はありますが、あなたには息子さんがいるでしょう?そちらが今回の我々の目的でして」
透明の暗殺者、その言葉を聞きイデリーナの手が少し動く
(全く本当に帝国軍には優秀な人物がいるようだねぇ。それにしても、やっぱり目的はあのバカ息子の方かい)
「透明の暗殺者?何のことですか?それに、確かに私には一人バカ息子がいますが、あの子は魔力量は平均的、異能力も持ってない。とても帝国の力になれるとは思いません。やはり、人違いではないでしょうか」
「それを判断するのは皇帝陛下ですので。我々はただ与えられた使命をこなすのみですよ。さぁ、息子さんを引き渡して貰いましょうか」
ここまでの問答でイデリーナは悟った
もはや交渉の余地はないのだと
(全く嫌な勘だけは当たるもんだねぇ。まぁ、あのバカがここにいないだけでも、まだ良い方かね?)
「もし断ったら?」
イデリーナは意味のない質問を投げかける
それを聞いたエドモンドは心底嬉しそうに笑いながら言った
「それは帝国への反逆罪として即刻処刑ですよ。あぁ、よかった。私もあなたと一度戦ってみたかったんです。今や、伝説なっているあなたと!今一度聞いておきます。息子さんをこちらに引き渡してくださいませんか?」
イデリーナはその申し出を聞き、意地悪く笑う
「あれはバカだが、いなきゃいないで淋しくなっちまう。老人の数少ない楽しみ奪うんじゃあないよ!」
そう叫んで・・・姿を消した
その光景を見て周りの兵士たちがざわめく
「落ち着きなさい!十中八九彼女の異能力です。姿が消えることは事前に共有していたでしょう。慌てず最大限警戒していなさい」
(そして彼女の異能力を少しでも解析できるよう、せいぜい頑張ってください)
その瞬間は急に訪れた
「がふっ!」
突然一人の兵士の喉が裂け、倒れ込む
それを見たエドモンドが指示を出す
「その兵士ごと、複数人で切り掛かりなさい!」
命令され兵士たちは急いで切り掛かる
しかし、剣は空をきるだけで、後に残ったのは味方に斬りかかられた兵士の死体と、イデリーナのコートの切れ端と思われる黒い革だけだった
すると、誰もいないはずの場所から声が聞こえてくる
「ひっひっひ、怖いねぇ。まさか味方ごと斬るなんて。でも、そんなことで私を捉えられると思ってんのかい」
その言葉を聞き兵士たの背筋が震える
次は自分の番ではないだろうか
そんな恐怖が顔を出してくる
一方、エドモンドは内心舌打ちをしていた
(ちっ、切り掛かる時に一瞬躊躇しましたか。本当に使えない駒たちですね。一体何分持つのやら)
エドモンドがそう考えているうちにも、一人また一人と兵士たちは殺されていく
先ほどと同様に殺された味方ごと切り掛かっているが、イデリーナのギアが上がったのか、その痕跡すら掴むことができていない
「エドモンド団長!このままではっ」
そう助けを求めた兵士も、最後まで言い終わらずに頸動脈を掻き切られる
カラクリも解らぬまま戦闘開始から3分も経てば、もはや兵士は一人しか残っていなかった
「何で・・何でこうなっちまったんだよ!ガキ一人連れ帰るだけの簡単な任務だったはずだろ!伝説の暗殺者っても、もう90は超えてるはずで・・・う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
唯一の兵士は錯乱したかのように、剣も放り出して逃げ出す。しかし・・・・
「何を逃げようとしているんですか?貴方は兵士です。戦うことが使命でしょう?」
ニコリ、と笑いながらエドモンドが行手を遮る
「だ、団長!ここはもう撤退しましょう!あの化け物相手には流石の団長でも、ひぃ!」
「流石の私でも、何ですか?」
兵士の言葉を聞き、雰囲気を変えるエドモンド
変化を感じ取り、兵士の顔が引き攣る
「まぁ、いいでしょう。逃げたいのなら、逃げなさい。私はあのご婦人と少し遊んでいくので」
しかしすぐに雰囲気は弛緩し、兵士は安心する
すみません団長、申し訳なさそうにそう言いながら、兵士はエドモンドの脇を通り抜けていく
「いえいえ、謝る必要はありません。ただ、まぁ、ゴミ掃除はしておきませんとね。私、潔癖症なんです」
エドモンドがそう言い、指をパチンと鳴らすと、後ろの兵士が燃え出した
兵士は悲鳴を上げようするが、既に喉は焼け声を出せない
だんだんと肉も燃えてゆき、暫くのたうちまわっていたが、ついには骨だけが残った
「さて、お待ちしました。それでは、始めましょうか。おっと!」
エドモンドが顔を横に傾ける
その直後、後ろの木に何かが突き刺さったような音がした
「思った以上に血気盛んな人だ。それにしても・・せめて5分は持つと思っていました。これでも、私の団では選りすぐりの駒だったのですがねぇ」
「あぁ、案外やる子たちだったさ。恐怖に怯えながらも、連携はしっかり取っていたしねぇ。ただ、実戦経験不足だった。誰しも戦場では恐怖に怯える、いや、正常な奴は怯えないといけないよ。それでも、動きは鈍くしちゃあいけないのさ。そういう心構えは、戦場でしか培われないからね」
「まぁ、最近は王国との戦争も起こってませんしねぇ。こういうことになるから、小規模でもいいので戦争をしましょう、と進言してはいるのですが、あの忌まわしい王子と聖女のせいで中々許可が降りませんし」
やれやれ、と言いエドモンドは本当に苛立たしげにため息を吐く
そんなエドモンドに、確信を持ちつつもイデリーナは質問をする
「そういえば、あんた、私のこと見えてるんだろう?」
その質問にエドモンドは驚くこともなく答える
「やっぱり気づいていましたか」
「あの避け方は勘によるもんじゃなかったしね。それに、さっきの戦闘中も何回か私に目を向けていただろう。あれで気付けない方が可笑しいさ」
(まぁ、完全には見えていないようだけど。これで、私の異能力を無効化したのは三人目かい。攻撃タイプの異能力じゃないっぽいのが意外だねぇ。体も特別鍛えているようには見えない、となると)
「さて、おしゃべりはこの辺りにしまして、今度こそ始めましょうか」
エドモンドがスラリ、と腰の細剣を抜く
同時に、周りに火の玉が数個現れる
「やっぱり高魔力持ち、魔法主体の戦闘スタイルかい!」
向かってくる火の玉を器用に避ける
後ろにあった木が先ほどの兵士のように一瞬で燃やし尽くされる
「おっと、危ないねぇ!」
がきん、と互いの得物がぶつかる音がする
避けたイデリーナとの間を、エドモンドが一瞬で詰めてきたのだ
(肉体強化も半端じゃあない!しかも、完全には見えていない私に突っ込む胆力。これは一筋縄ではいかないねぇ)
エドモンドの細剣に応戦するが、真っ向から斬り合えば不利と判断し、足払いを狙う
すかさず距離をとったエドモンドが、再び火球を向かわせる
「同じ手かい!そんなもの避けてしまえばどうってことないんだよ!」
イデリーナは向かってくる火球を避ける姿勢をとる
しかし、火球は先ほどとは違いイデリーナの前方へと落ちる
落ちた地点から、もくもくと黒い煙が上がる
(これは、煙幕材?さっき距離を取る時に落としといたのかい)
隙を逃さず、後ろから煙を掻き分けエドモンドの細剣が迫る
完全に死角からの攻撃。仕留めるまではいかずとも、勝負が決まるであろう怪我を負わせれる刺突
剣先がイデリーナの首筋へとまっすぐと向かって
エドモンドの視界が歪む
ふと前を見れば、先ほどまで目の前にいたイデリーナがいつの間にか距離をとっている
鼻に違和感を感じ、拭ってみれば手袋に血が付着していた
そこでようやく自分が攻撃されたということに気づく
(あの攻撃を避けられた?それだけでなくカウンターも?彼女の異能力?いや、カウンタータイプの異能力ならこの程度で済まないだろう)
驚愕、疑問が心中を占める。そして、次に込み上がったのは怒りであった
高貴な自分の顔が傷つけられた。しかも、もう戦線を離れて久しいあんな老耄に!
そんなエドモンドを挑発するかのように、イデリーナが声をかける
「おやおや、済まないねぇ、折角の顔を傷つけちまって。煙幕なんて姑息な手を使う奴なんか久しぶりで、つい体が動いちまった。あんた、自分に自信があるようだけれど、あんたレベルのやつなんかあの頃はザラだったさ。さぁ、本当の戦闘ってやつを教えてあげるから、かかってきな!」
「あまり調子に乗るなよ、老耄が!」
エドモンドが先ほどよりも多くの火球を浮かせる。対して、イデリーナは腰を低くし、いつでも動けるように身構える。
より熾烈な戦闘が、始まろうとしていた
イデリーナ・ツェーグ
かつて帝国で実験的に配置された異能力者だけの軍団、帝国天狼騎士団、通称”天狼”元団長
最強の軍団として、王国、ギルド両陣営から恐れられるが、一つの部隊に戦力を集中させすぎていること、イデリーナの所在が不明となったことなど、さまざまな理由から解体されることになった
しかし、短い期間ながらも多大な戦果を上げたこと、そして団長であるイデリーナが多数の首級を挙げたことから、今もなお伝説として語り継がれている
イデリーナの異能力は、”自分が所有していると認識しているものを、他者から不可視にする”というものである。これだけ聞けば、自分の体を不可視にできる強い異能力だと思うだろう
しかし、所有しているとはどんな状況だろうか。ただ持っているだけで、所有したことになるだろうか。自分のものであるという認識だけで足りるだろうか
否、否、否
自分の思い通りに動かすことができると確信している、そのような状況のみにこそ、所有という言葉は相応しい
それでは、人間は自分の体全てを思い通りに動かせると言えるだろうか?爪の先から、髪の毛先まで、思い通りに?歩いている時、自分の足の指がどのように動いているか常に想像している者はいるだろうか?呼吸する時、自分の体はどのように動いているのかイメージできるだろうか?
常人であれば、それらすべての動きをイメージして動くことはできない。況してや、戦闘中などはもってのほかである
だが、イデリーナは天性の体性感覚、そして長年の鍛錬によってそれを可能にした。自分の体の隅々まで、どう動かせばどう動き、今どのように動いているのかを理解することが可能になった
自身の体を操る才能、それが開花した時、イデリーナは”透明の暗殺者”と成るに至ったのだ
(何故こんなにも避けられる!)
エドモンドは内心焦っていた
イデリーナの攻撃は、苛烈でありながらも防げないことはない。これは、予想の範囲内であった
しかし、予想外だったのは、彼女のその高い回避性だ
仕留めたと思う瞬間があっても、いつの間にか避けられており、何度かはカウンターを入れられる始末
(そして、もう一つ厄介なのが・・・)
イデリーナがナイフを両手に距離を詰めてくる
左から斬りつけてくるナイフを細剣で受け止めるが、イデリーナは右手のナイフを手放しそのまま顔を目掛けてストレートを放ってくる
それを避け、細剣で胴を突くが、イデリーナは左手のナイフを手放しながら体を反転させて、最初に手放したナイフを右手で逆手にキャッチし、反転の勢いのまま頸動脈を狙ってくる
「ふっ!」
エドモンドはそれも辛うじて避けるが、イデリーナはすかさず先ほど左手で手放したナイフの柄を、左足で蹴り飛ばす
飛んできたナイフがエドモンドの首筋を掠める
(この奇天烈な動き!こちらが思いつかない攻撃を、最小限の動作で組み合わせてくる!)
イデリーナは人体のスペシャリストである。自分の体がどう動くかを完全に把握している彼女をもってすれば、回避においても攻撃においても最小限で最適な動きをすることが出来る
(これでは、彼女の姿が完全に見えていても全く意味がない!クソ、透明化さえ無効化できれば後は楽勝だと思っていたのですが!)
エドモンドのそんな内心を見透かすように、イデリーナが語りかけてくる
「どうせ異能力さえ無効化できれば、90越えの老耄なんぞどうとでもなると思っていたんだろう?残念だったねぇ。私の異能力はおまけみたいなもんでね。あんたの
(ちっ、やはり気づいていましたか)
「完全に異能力を無効化できるまで30分ってところかい。さっきから私の姿を完全に捉えているような目線だったからね。まぁ、さっき言ったみたいにあまり意味はないんだけどねぇ。さぁ、行くよ!」
イデリーナがコートの中からナイフを一本出し、再び両手にナイフを携えて向かってくる
エドモンドも魔法の中では最速である光魔法を放つが、イデリーナには当たらない
接近され先程と同様、細剣での応戦を強いられる。
キン、キン、と鍔迫り合いをしながら、エドモンドは魔法による氷の槍でイデリーナの右を狙う
イデリーナはそれを屈むことで躱し、それと同時にエドモンドの右足の踵を蹴飛ばす
エドモンドの体が宙を浮き背中側から倒れこんでいくのに合わせ、イデリーナが追撃する
「舐めるなぁ!」
エドモンドはそう叫び、左手を地面につき、細剣を振り上げる
思わぬ攻撃に一瞬驚くイデリーナだったが、顔を横に向けることで間一髪避けることに成功する
しかし、細剣の剣先が頬を掠めていた
「へぇ、やるじゃないか。ようやく私の動きに慣れ始めたんだねぇ」
頬から流れる血を触りながらイデリーナはそう言う
一方、エドモンドは自分の劣勢を悟っていた
(しかし、成果も出せずまま帝国に逃げ帰るわけには・・・)
再度距離を詰めてくるイデリーナ。エドモンドは顔を険しくしながら、細剣を構える
・
・
右、左、上、下。さまざまな方向から襲い来る攻撃に対し、エドモンドは辛うじて対処していた
しかし、その瞬間は突然訪れる。一瞬の隙をついた卍蹴りがエドモンドの右側頭部を捉えたのだ。
「がっ!」
思わずエドモンドがよろける
(良いのが入ったねぇ!このまま押し切るよ!)
イデリーナの攻撃がさらに苛烈になる
そして
「そこっ!」
刺突を繰り出してきたエドモンドの細剣を、上段蹴りで弾き飛ばすことに成功する
「さぁ、これでチェックメイトだよ!」
武器を失ったエドモンドに、ナイフを振りかぶる
エドモンドは苦し紛れかのように火球を浮かす
(何を今更!)
イデリーナはそれを見て、避けられるかつエドモンドの首を取れる体勢を取る
この火球さえ避けてしまえば、イデリーナの勝利は確実となった
しかしエドモンドはニヤリと笑った
「良いんですか?避けても。あなたのバカ息子さんがどうなるか分かりませんよ」
その言葉を聞き、イデリーナの顔が驚愕に変わる
思わず後ろを見る。見てしまう
それは、戦場においては決定的な隙であった
「ぐぅ!」
背中に火球が直撃する。背中の皮膚が焼ける感触が、気絶しそうになる程の痛みが、体を襲う
しかし、息子に早くここから離れるよう必死に伝えようとし、顔を上げると
(は?)
息子の姿はそこにはなかった
「まだ意識はありますよね?あなたには聞きたいことがあるので、威力は抑えめにしましたから。例えば、そうですねぇ・・・
エドモンドがツカツカ、とこちらに近づいてくる
「いやぁ、それにしても伝説の暗殺者に私の
エドモンドの異能力を聞き、イデリーナは困惑する
(こいつの異能力は無効化じゃない?いや、それなら私の姿が見えてたことの説明がつかない・・・)
「さて、それでは色々と吐いてもらいましょうか」
体をなんとか動かそうとするも、エドモンドに背中を踏まれる
激痛が走る。意識を失いそうになる
今出来ることは、息子がここに帰ってこないよう神に祈るだけである
しかし
「おやぁ?」
神は微笑まない
「俺を帝国に?」
魔力も平均並、異能力も持たない俺を?なんの為に?
困惑、困惑、困惑
そもそもババアが倒れていることや家が燃えていることなども処理できていないのに、急に帝国に連れて行くと言われても理解できるはずがない
その時
「はぁ、はぁ、このバカ息子。なんで帰ってきたんだい。いいや、それよりも絶対に帝国に行くんじゃあないよ!早くここから逃げな!」
倒れているババアがこちらに顔を向け、今までに見たことがない剣幕で叫ぶ
「あぁ、忘れていました。こうして目的が自分からやってきてくれた以上、あなたは用済みなんですよねぇ」
ババアの声を聞き、思い出したかのようにエドモンドと名乗った男はババアの方に振り返る
そして、手に持っていた細剣の剣先を右肩あたりに当てる
「お、おい。待て。まさか!」
「それでは、これは先ほどのお返しです」
そう言って、エドモンドはババアの右肩に突き刺す
「ぐぅぅぅぅ!」
ババアがくぐもった叫び声を上げる
俺はその光景を非現実かのように見ることしか出来ない
「あなたが私と共に帝国に来ることを了承すれば、終わるかもしれませんよぉ」
エドモンドにそう言葉をかけられ、ハッとする
「私のことは良い!早くここから離れな!」
ババアが叫ぶ声が聞こえる
「うるさいですよ。今私は彼と話しているんです」
エドモンドが次は左肩に突き刺す
再びババアが叫び声を上げるのが聞こえる
エドモンドの声も、ババアの声も、全てが遠く聞こえる
俺が呆然としている間も、エドモンドはババアのことを痛めつけていく
「いっそ殺してしまって、心を折った方がいいんですかねぇ?」
エドモンドがそう言って、今度は頭に剣先を当てる
「ま、ま、待って」
俺は情けない声で歯止めをかける
しかし
「遅いですよ♪」
エドモンドはババアの頭に細剣を突き刺す
プチっ
その光景を見た瞬間、俺の意識が途絶えた
イデリーナの頭に剣を突き刺した瞬間、エドモンドは威圧感を感じた
無力と侮っていた、目の前の少年から
(何ですか、この威圧感は!しかも、彼の髪の色が変化している?)
イェークの髪色が黒から白へと変化していく
それだけではない、風がイェークの周りへと集まっていく
エドモンドは目を開けていられない
(風が止んだ?)
エドモンドは目を開ける
イェークの方を見る
その瞬間、冷や汗が流れた
イェークの目、その翡翠の目がギラリと光り、エドモンドを捉えていた
「これで会うのは二回目だね!」